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act.98

 朗らかな笑顔を浮かべながら、その老人は、「やぁ、元気そうだ。よかった」と穏やかな声を上げた。
「ミルズさん!」
 老人は、マックスがこの病院を辞めるきっかけになった手術の患者であった少女の父親、ジョン・ミルズだった。
 少し黄色く濁った目をした褐色の老人。
 彼との間に起こったことを考えれば、彼がここを訪れることを誰が想像できただろう。
 マックスは驚きを隠せないまま、ミルズに椅子をすすめた。ミルズは少し曲がった腰を押さえながら、ベッド脇のパイプ椅子に腰掛けた。
 ここまで歩いてきたのだろうか。額にうっすらと浮かんだ汗をハンカチで拭いながら、はぁとため息を付いて背もたれに身を任せる。ハハハと照れ臭そうに笑う老人に、マックスはベッドサイドのフリーザーからミネラルウォーターを取り出すと、右手だけでキャップを外そうとするが上手くできない。
「おお、そんなに気を使っていただかなくても構わんよ、先生」
 ミルズ老人が、マックスの手からボトルを受け取った。
 ゆっくりとした動きだが、力強い手つきでボトルを開封する。長年重労働に従事してきた男の手だ。力仕事も多いが、繊細なメス使いが要求されるマックスの手とはまったく正反対の手。
「すみません・・・」
 マックスは苦笑いする。ミルズはフフフと笑いながら「このグラスは構わんかね?」と訊く。
「あ、そっちは汚れてるから・・・。こちらを使ってください」
 ミルズはグラスを取り、水を注ぐと、美味しそうに水を飲み干した。
「ああ、やっと一息ついた」
 そういってミルズはまた汗を拭う。
「大丈夫ですか? 体調が優れないのでは・・・・」
 心配げなマックスに、ミルズは手を一回振った。
「とんでもない。私のことより先生のことです。私はここにお見舞いにきたのだから」
「ミルズさん・・・」
「ニュースであなたの事件のことを知りまして。随分心配していたんです。そしたら、無事快復されて、もうすぐ退院だと聞いて。ぜひ一度お見舞いをと思っていたんです」
 マックスは、「ありがとうございます」といいながら、ミルズ老人と目を合わすことができなかった。
 彼の一人娘、アニーの生命を自分のミスで助けることができなかった口惜しさと後ろめたさ、そして今の自分の揺れる精神状態を見透かされるような気がして。
 ミルズ老人は、そんなマックスの様子を見て何を感じたのだろう。
 ミルズ老人は、ギブスで包まれたマックスの左手にそっと手を置いた。マックスがはっとして顔を上げる。
 優しげな瞳がそこにあった。
「あなたは、助かるべくして助かった。あなたが助かったと聞いた時、私は神に感謝をしました。神様はすべて分かっていらっしゃると」
 敬虔なキリスト教徒のミルズは、マックスの手に小さなロザリオを握らせた。
「これを是非、身につけていてください。きっと災難から守ってくださる」
 マックスの目から、思わず涙がこぼれ落ちた。
「そんなこと、しないでください! 俺は、あなたにそうしてもらうほどの価値などない男です」
 自由の利かない左手で、ミルズの手を押しやる。
 マックスは自らの罪悪感に苛まれながら、ヒステリックに叫んだ。
「だって俺は・・・俺は、あなたの娘さんの手術を失敗させて、娘さんを殺したんです! 俺が、殺したんです!!」
 一瞬、その場の空気が止まった。
 あの日、病院を辞めてからミルズのアパートメントを訪ね、ついに言えなかった言葉。
 ずっと胸に支えていた言葉だった。
 今、こんなにも苦しい思いをしているのは、ひょっとしたらアニーに対する罪を今償わされているのかも知れない・・・。マックスはそう思った。
 そうであるなら、苦しんで当然だと。もっとアニーは苦しく辛い思いをしたのだから、と思った。
 マックスの目からこぼれ落ちた涙が、パタパタとシーツの上に落ちて染みをつくる。
「俺は、驕り高ぶっていたんです・・・。どんな手術も成功させる自信があった。少なくとも、あの頃までは・・・。あの時、その奢りが、ほんの些細な、そして重要な傷を見逃していたんです。それさえ見逃さなかったら、彼女は、アニーは助かっていたのかも知れません。だから、俺が殺したも同じなんです。それをあろう事か病院も俺も、あなたに隠していました。正直に伝えなかった。俺は、あなたから訴えられこそすれ、そんなに優しくされる価値のない人間なんです。罵られて、当然なんだ・・・」
 マックスは、悔しさと情けなさで歯を食いしばった。
 こんな自分が、ジムを救おうだなんて・・・今更ながら恥ずかしくて、涙が出てくる・・・。
「すみません・・・・すみません・・・」
 マックスは涙に暮れながら何度も何度も謝った。
 弱々しく握りしめられた左手の拳が、ぶるぶると震える。
 ミルズが、その震える手に再びそっとロザリオを握らせた。
 マックスが、涙まみれの顔をミルズに向ける。ミルズは、今も変わらない穏やかな顔つきで一言言った。
「知っていたよ。そのことは」
 マックスが目を見開く。
 ミルズは、昔を思い起こすように目を細めた。
「あなたがあの時、私の部屋までやってきて、何か言おうとした時。私はアニーに何が起こったのか、全てを悟りました。私の一言であなたを傷つけてしまい、あなたが泣いて出て行った後、思い切ってこの病院を訪ねてみたのです。院長先生と救命救急の主任の先生・・・それから、アニーの手術に立ち会ったというあなたの同僚のお医者さんと婦長さんが私を迎えてくれました。お話の内容は、やはり私の思っていた通りでした」
 マックスが鼻を啜る。
 次に出る言葉は、間違いなく自分達を責める言葉がくるものとばかり思っていたのに、ミルズはそんな言葉を一言も口にしなかった。
「皆さん、アニーの為に尽力をつくしてくださった。暴漢に襲われ、あの場で死んでもおかしくなかったあの子を、最後はきれいな身体にしてくださった。アニーは神に選ばれて天に召されたのです。それがあの子に与えられた時間だった。アニーの最後に、あなたのような方が立ち会ってくださったことを、私は感謝しています」
 マックスの両目から、また新たな涙がこぼれ落ちる。ミルズ老人の顔が涙でゆがんで見えなくなるほど、マックスは泣き崩れた。
「あなたが手術室で、アニーの為に長いこと心臓マッサージをしてくれたことを知りました。そしてアニーの為に涙を流し、あなたは自分の人生さえ変えてしまった。私は、あなたがお医者さんを辞めてしまったことに、少し罪悪感を感じているのです。そしてあの時、あなたに酷いことを言ってしまったのだと、今も後悔しています」
 ミルズ老人は椅子から立ち上がると、ベッドに腰掛けてマックスの両手を握った。
 節くれ立った硬い手だったが、とても温かかった。
「あなたが心に傷を受けて苦しんでいることを知った時、私はいてもたってもいられなかった。あなたの優しさを私は知っていたから。そして少しでもあなたの心の重荷を軽くして上げられればと思って、今日ここに来ました」
 マックスはしゃくり上げながらミルズを見つめた。
 そしてゆっくりとだがしっかりと、ミルズから渡されたロザリオを握った。
「あなたは、赦してくださるというんですか・・・? この俺を?」
 マックスの翡翠色の瞳が、食い入るようにミルズを見た。
 ミルズが肩を竦める。
「赦すも何も。あなたには赦されるべき罪は、始めからない」
「ミルズさん・・・!」
 再び涙を零すマックスを、ミルズは抱きしめた。
 マックスは、しばらくミルズの胸元に顔を押しつけていたが、やがて身体を起こすと鼻を啜りながらミルズを見つめた。
「でも、言わせてください。すみませんでしたと。あなたの娘さんを救うことが出来なくて、本当に残念に思っています」
 ミルズは微笑んで頷く。
「あなたの心の重しは少しでも軽くなっただろうか」
 ミルズが訊いた。マックスは、少しだけ微笑む。
 そんなマックスを見つめ、ミルズは何かを思いついたようにこう口にした。
「もしよかったら・・・。この病院から出かけることができたら、君を連れていきたいと思うところがあるのだが・・・。それは可能かね?」
「連れていきたいところ・・・?」
 マックスはミルズの言ったことの先が想像できず、思わずそう呟き返していた。

 

Amazing grace act.98 end.

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編集後記

すみません。なんだか今週へなちょこ更新です(汗)。そして土曜日ぶっちぎりです(大汗)。 ごめんなさい。
あ~・・・。すっとスランプ気味ですね、国沢。ちなみに、今日のへなちょこ更新の原因は、「トム・ジョーンズ」のせいです。
今日のwowowでイギリス版のグラミー賞をやっていたのですが、最後の最後で「特別功労賞」とかいってトム・ジョーンズが出てきて。30分間もぶいぶいライブしちゃったりなんかしたりして・・・60過ぎのおじいちゃんでっせ?!!あの人?!!!なんなの??!あの脂ぎっしゅさは!!!あの胸毛!!あのマッチョさ加減!!あの人がイギリス人とはとても思えない~~~~~!!!
う~ん、日本で言うところの加山雄三ですかね、あの人。かつらなんでしょうか。(おっと、ちょっとピーいれなきゃ)
凄すぎです、あのパワー。小説書いてて、まったく集中できません。(じゃ、消せよって思うでしょ?テレビを。でも消せないの。肉食オーラが全開で)
パンクロックとか、モッズとか、ハウスとか、アシッドジャズとか、ブリテッシュロックとか、テクノとか、とにかく音楽シーンでもアメリカと並んでいつの時代も最先端を突っ走ってるイギリス音楽業界が、あんなにもトム・ジョーンズ崇拝に犯されている事実を知り、思わずカルチャーショックを受けてしまいました。
国沢の中でトム・ジョーンズは、ティム・バートンの史上最大のパロディー映画『マーズアタック』で最後まで生き残った、生き残っても全然役に立たない往年のスター歌手っていうイメージしか有りません。いまでも、鹿やリスを従えてトムが白い歯を輝かせて歌っていエンディングが目に焼き付いて離れません。ああ、世界は宇宙人に侵略され、めちゃくちゃに破壊されているというのに・・・。
彼の名前を知らない人でも、絶対にその歌声は知っているはずです。車の宣伝とかに使われてます。
よかったら、CD屋でチェックしてみてください。文句なく、ノーストレスのない素晴らしい世界に誘ってくれるはずです(笑)。

[国沢]

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