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nothing to lose title

act.07

 シンシア・ウォレスは、分かっていた。
 もう5分もしたら、彼女の父親がここに現れることを。しかも、あの憂い深いローマ法王のようなお得意の顔つきで来ることが。
 彼女の父親は頭がいい。メイドの証言を聞いただけで、自分の娘が学校をサボり、今どんな男と会っていて、どんなところにいるのかをあっと言う間に推理する。そしてそれは外れることがない。今日の場合も、もちろんそうだ。C市には射撃場が3カ所ほどあるが、彼女が遊び相手に選んだ男の名や今日が水曜日だということ(シンシアが今いる射撃場は水曜日がサービスデーになっている)などを考慮に入れて、今日のシンシアのデートコースを正確に割り出すだろう。
 シンシアは、彼女の父親に対して常に反抗的な態度をとっていたが、父親の聡明さや思慮深さ、そしてあの物憂げでストイックな表情が大好きだったし、密かにそれを誇りにしていた。会社でも重要な地位にいるらしく、決して授業参観にくるような父親ではなかったが(彼女の家には、彼女が物心ついた時から母親はいない)、それでもシンシアが学校で何か問題を起こす度、忙しい時間を割いて学校に来る父親の姿を嬉しく思っていた。少々おてんばが過ぎる彼女を目の前にして機嫌の悪かった教師も、一旦彼女の父親が来て一通り話をしていくと、大抵の教師が彼女の父親を尊敬の念を持って見送った。特に、女の教師の場合はその傾向が強く、酷い教師になると、シンシアに父親との仲を取り持って欲しいと持ちかける者まで現れた。彼女はその度に何とも言えない優越感を感じ、またあわよくば父親と交際しようと闘志を燃やす女達に嫉妬した。
 この広い世界中で、彼女の父親を縛り付けられる女は、自分をおいて他にはいない。彼女には、絶対の自信があった。
「しっかり腰を据えろ。腕は、真っ直ぐだ」
 シンシアの最近のボーイフレンドであるジャドは、先ほどの瓶ビールのせいで早くも少し呂律が回らなくなっている。アルコールに弱いくせに、見栄を張って3本も立て続けにがぶ飲みするからだ、とシンシアは心の中で思っていた。
「足を肩幅に開いて・・・」
 ジャドが、どさくさに紛れてシンシアの細くて白い太股を撫でる。シンシアは、それをさりげなく振り払いながら、「何て言ったの?!」と大声で聞き返した。
 サービスデーの射撃場は、いつもより客の入りがいい。各レンジはいずれも射撃狂いのマニアやシンシアのような冷やかし客などでいっぱいに詰まっていた。広い工場のような建物の中には、隙間なく銃弾の発射音が反響しており、誰もが大声で話さなければならなかった。
「だからぁ、足を開くんだよ! 肩幅に!」
 ジャドがムキになって叫ぶ。さっき、シンシアに手をはらわれたことが気に入らないのかもしれない。
 シンシアは、魅力的な少女だ。淡い黄金色に輝く細くて柔らかい髪は、父親のやや白髪の混じった黒髪とは似てもにつかない。瞳の色は明るいスカイブルー。同年代の少女よりもやや童顔に見えるが、その愛らしい顔からは、しっかりとした意志を感じさせる。ミルク色の真っ白くて柔らかい肌は、日に焼けてもすぐに色褪せるような肌だった。こんなシンシアを彼らが放っておくはずがない。
 ジャドとはまだセックスをしていなかった。ディープキスは1回したが、脂臭かった。
 シンシアは今年で18歳だが、もうヴァージンではない。初めての相手は、鼻が高くて黒髪で青い目をした大学生だった。濃くて甘いカクテルを2、3杯飲まされて、よれよれになっていたところを草むらに押し倒された。拒もうと思えば最初からそんな危険な振る舞いをしなかっただろうが、シンシアの中にもそうなって欲しいという願望がどこかにあった。そうなったことをシンシアは今も後悔していないし、その日のことは、いたって在り来たりのよくある初体験だった。有名大学の経済学部だったその大学生は、その後シンシアの父親の名前を知ると同時に脱兎のごとくシンシアの前から消え去った。余程何か気にかかることがあったらしい。
 そのからのシンシアの恋愛遍歴は、散々なものだ。頭のいい男と巡り会った試しがない。現にこのジャドがいい例だった。
「撃った後に反動がくるから、押さえといてやるよ」
 ジャドの腕が腰にかかる。耳元にビール臭い息を熱く吐きかけられ、シンシアは顔を歪めたが、その視界の隅にダークグレイの見慣れたスーツ姿が階段を上がってくるのが見えて、シンシアはジャドの絡み付く腕をそのままにして銃を構えた。
 父親が自分たちのいるレンジまでやってくる間に、シンシアはオートマチックのシグで3発撃った。だが、シンシアの構え方が悪いのか、ジャドの教え方が悪いのか、遠く離れた先の人型が印刷された紙は、ぴくりとも動かなかった。
「娘から、放れなさい」
 威厳のある声が、背後から聞こえてくる。シンシアはニコリとほくそ笑んだが、すぐにその笑みを消した。
「もう一度言う。娘の腰に回している手をどけてもらおう」
 ジャドは鈍感な人間だ。ジャドは物怖じせず、精いっぱいの虚勢を張って、後ろを振り返った。ジャドが、シンシアの父親を見るのは初めてだった。
「誰だ、おっさん」
 ジャドのその言いぐさに、シンシアの父親は皮肉めいた笑みを軽く浮かべた。
「シンシア、またバカな男とつき合っているのか」
 ええ、ええ。そうでしょうよ。パパに比べたら、世界中のどんな男だってバカな男よ。シンシアはそう思ったが、口には出さなかった。ジャドが父親に食ってかかったからだ。
「おっさん、何いきがってんだ」
 まるでテレビドラマの台詞のような言葉を吐きながら、ジャドが父親に向かって一歩踏み出す。
 少なくともジャドは、シンシアの父親より5センチ身長が高いし体格も大きい。アルマーニの上品なスーツに身を包んだ彼女の父親よりも、ミニタリールックに右腕の髑髏のタトゥーでキメたジャドの方が、明らかにケンカ慣れしているようだし、おまけにジャドはなかなか射撃が上手かった。この場では自分の方が有利であるとジャドは思っているようだった。
「娘のケツ追いかけ回してどうしようっていうんだ」
「父親が娘の心配をするのは当然の権利ではないかね? 特に、脳味噌が耳から垂れ流しになっているような男と一緒だと分かった時は」
 彼女の父親は、シンシアが関わることになるといつも以上に辛辣になる。
 ジャドも、この台詞には本気で頭に来たらしい。ジャドは、シンシアの手からシグを取ると、その銃口を彼女の父親に向けた。これには流石にシンシアも青くなった。
  「ジャド!」と彼女は叫び、ジャドの手から銃を奪おうとしたが、なんなく振り払われてしまった。
「今ここで殺してやってもいいんだぜ。俺は10メートル先の空き缶をバッチリ弾くことができる。おっさんが無様にここから逃げだそうとしても、俺は絶対にあんたを殺れるぜ」
 真っ赤に充血した目をして自分に銃口を向けるジャドを、シンシアの父親はその深い海底のような光を湛えた瞳で黙って見つめていた。
「お客さん、もめ事は他でやってくださいよ」
 ここの雇われ店長が、遠巻きに声をかけてくる。既にシンシアのレンジの回りには、好奇心旺盛のギャラリーができあがっていた。
「うるせぇ! 警察呼んだらただじゃおかねぇぞ!」
 ジャドは店長に向かって銃口を振り回す。回りのギャラリーが一斉にしゃがみ込んだ。ジャドは、すっかり上等のチンピラのつもりだったが、店長に銃口を一瞬でも向けたことが自分の隙になったことには気がつかなかった。次の瞬間にはシグを握る手の手首をものすごい力で捕まれ、捻られた。「痛い」と悲鳴を上げる頃には、彼の借り物のシグはシンシアの父親の手に渡っていた。ジャドもシンシアも一瞬何が起こったか分からずポカンとしていたが、自分を冷ややかな目で見つめるシンシアの父親に、ジャドは益々頭にきた。
「銃を取り上げたからっていい気になんなよ! へっぴり腰でろくに銃も撃ったことのない親父に、何ができるってんだ!」
 手首をさすりながらジャドが怒鳴る。シンシアの父親は、そんなジャドの怒鳴り声にまったくの無表情で答えた。いや、そうではない。シンシアの父親は、冷たい一瞥をジャドにくれると、オートマチックの弾倉をスライドさせて、中身を確認した。中身は全部で7発弾が残っていた。彼は弾倉を元に戻すと、それを右手に持ち代え、淀みのない動きで構えた。シンと静まり返った室内に、小気味よく連なった銃の発射音が一定の早さで響きわたった。弾倉が空になるまで、背筋がピンと伸びた一切無駄のない彼の構えが揺らぐことはなかった。
 射撃場中の視線が集まる中、シンシアの父親が壁のスイッチを押す。標的の紙が近づいてきて、結果が分かり出す頃には、室内は地響きのようなどよめきに包まれた。流石のジャドも、あんぐりと口を開けて標的の紙を見つめている。
 一見、標的には人型の胸の部分に1カ所穴が開いているように見えたが、よく見るとその穴はいびつな形をしていて、7つの穴からその一つの穴が形成されていることが分かった。銃の腕が確かな者ほど、この紙の標的を見て震え上がるだろう。銃社会とは一切縁のなさそうな、見るからにエリートといった風情の男が、1時間や2時間ずっと練習をしていた訳でもなく、さらりと構えて、何気なく撃って、寸分狂いなく標的の急所に7発もの弾を撃ち込んだのである。
 シンシアの父親はその紙を手に取ると、それをジャドに押しつけた。ジャドも、言葉なくそれをただ受け取るのみである。
「せいぜいその紙を背中に貼っておくんだな。・・・シンシア、帰るぞ」
 シンシアの父親は、シンシアの手を引いた。人垣をかき分け、すごい力でシンシアの手を引っ張っていく。シンシアは、後ろを振り返った。ジャドは、口を開けたまま顔を青くして、紙を見つめていた。
 有無を言わさずに濃紺のセダン車の助手席に頭を突っ込まれたシンシアは、素直にそれにしたがった。無言のまま、運転席に乗り込む父親の横顔を見つめ、シンシアはドキドキしていた。
 銃を撃つ父親の姿を見たのは、今日が初めてだった。あの無法者のジャドを振り切って自分の手を力強く引く父親は、シンシアにとってまさしくプリンセスを救いに来た騎士のようだった。銃を構える時の洗練された無駄のない姿勢。銃口を向けられた時でも物怖じしない静かな瞳。シンシアは、自分の父親が依然確実に銃口を向けられた経験を持っていることを確信していた。しかも、銃口を向けられても平然としていられるほどの回数だ。さらに、銃を撃つことに至っては、銃口を向けられた回数よりも遥かに多かったことは明らかだ。ずぶの素人のシンシアでさえ、偶然でもあんなことにならないことぐらい分かる。
「・・・パパ・・・、銃を撃ったことあるの?」
 眉間に深い皺を刻み込みつつ、黙々と車を家に向かって走らせる父親を彼女はじっと見つめた。彼女の父親は、チラリと紺碧色の大きな瞳をシンシアに向けたが、すぐに正面に視線を戻し、一回だけ咳払いした。
「あのタイプの銃は初めてだ」
 淡々とした声で父親は言った。家に帰るまで、それ以上の会話は2人の間で交わされなかった。


 その日の晩のハート家は、ちょっとしたホームパーティーが行われていた。ちょっとと言っても、規模はなかなか華やかで、招かれている人間もそれなりの身分の人物ばかりだった。
 そのパーティーの主旨は、本来ならばパトリシアの親友、キント夫妻の一人息子の婚約を祝うパーティーであったが、その目的がすり変わりつつあった。もっともそれは、先日キント夫妻の自宅で正式な婚約披露パーティーが行われたばかりで、少々ネタが尽きていたというせいもあり、参加者の誰もが新しい話題に飢えていたことと、パトリシアの密かな陰謀が絡んでいたせいだ。パーティー会場となった広い応接間での話題は、いつしかパトリシアの甥に集中していた。なんとこの背の高い美しい容姿をした若干27歳の青年は、医師の資格を持っており、なおかつ今日あのミラーズ社の専属社医として就職を決めたというおまけまでついていた。こんなうまい話を、社交界の女性方が見逃す筈がない。たとえ本人が、さも嫌々ながらにこのパーティーに出席させられたと分かる表情をしていても、それはマイナスの要素にはならなかった。老いも若きも、自分の恋人として、また自分の娘の恋人として、この前途有望な青年を獲得しようと躍起になった。叔母のパトリシアの企みは、ほぼ成功したと言える。
 人生において、いろんな意味で張り合ってきた親友バーバラ・キントの一人息子が30歳にしてようやく銀行の頭取の娘と結婚を決めたのだ。パトリシアも負けるわけにはいかない。なにせ、その容姿だけで言えば、パトリシアの甥っこはバーバラの一人息子を遥かに凌ぐ素晴らしい美しさを備えていたからだ。それは今日、初出社から帰ってきた甥のまるで生まれ変わったかのような姿を見て、パトリシアは更に自信を持った。あまりに美しく変身した甥を見て、パトリシアは思わずこう言ったぐらいだ。
「あなた、今日秘密で開くはずだったパーティーのこと、まさか知っていたの?」
 どうやらそれはまるで関係のない話だったようだが(なにせ甥のマックスは、その一言を聞いただけで外に逃げ出そうとした)、いずれにせよパトリシアには好都合だった。とにかくパトリシアは、少しでも気だてのよい美しい娘と甥のマックスを早く結婚させようと鼻息を荒くしていた。
 一方、人から人へ、家中を引っ張り回されたマックスにとってみれば、正しくそれは拷問に近かった。今回ばかりはレイチェルも助けにはならなかった。レイチェルは、パーティーも佳境に差し掛かり、マックスはがもうヘトヘトになった時点で現在恋人のセス・ピーターズと現れたのだ。
「ひどいぜ、レイチェル。今頃になって現れるなんて」
 多少ワインを飲み過ぎ、頬を赤くしているマックスが、キッチンカウンターで雇われバーテンから飲み物を受け取ったレイチェルを捕まえる。
「よう、マックス。元気か。・・・でもなさそうだな」
 ビーグル犬によく似た顔つきの大柄な体躯のセスは、市警の爆弾処理班に勤める男だ。レイチェルとは現場で知り合った仲で、マックスが知るレイチェルの恋愛遍歴の中でも比較的長く続いている方だ。レイチェルは、うまいこと警察からの情報を貰うためだけにつき合ってやってるのよと強気な発言をしているが、実の所案外この勝ち気な従姉妹が、おっとりしたセスに時として甘えさせてもらっていることをマックスは知っている。もちろん、鈍感なセスはそんなことに気づくこともなく、自分はあくまでレイチェルに尻にひかれているとばかり思っているようだが。マックスは、爆弾処理という過酷な仕事に携わりながらもおっとりとしている鈍感なセスを気に入っていた。
「あら、マックス。いやにおしゃれしてるじゃないの。昨日までのあんたとはまるで別人よ。ママも相当頑張ったようね。今日は何人の女を紹介されたの?」
 カウンターの近くのソファーに3人で腰掛ける。マックスは、レイチェルの発言を聞いた途端、感嘆の声を上げた。信じられないものでも見るかのように、レイチェルを見る。
「おい、ちょっと待てよ。ならなにか? レイチェルは知ってたのか? 今日のパーティーのこと。知ってて俺に黙ってたのか?」
 レイチェルは、心外なとばかりに顔をしかめた。
「あたしだって急に今日の午後知らされたのよ。今晩家でキント坊やの婚約お祝いパーティーをやるってね。それを聞かされた時は、本当にそれだけだって思ってたのよ。だからほら、キント坊やのためのプレゼントまで買ってきたってわけ」
 レイチェルは、そう言いながら銀色の包装紙に赤いリボンを掛けた包みをマックスの目の前に翳す。
「どうやら別に企みがありそうだと思ったのは、家の玄関を入ってから。あたしもまんまと騙されたくちよ。そうでなければ、もう少し頑張って早く帰ってきたのに」
 マックスは、脱力してソファーに深く身体を埋める。
「もう、いいよ。嵐は大体やり過ごしたから」
 マックスは、酔い冷ましのクラブソーダーに口を付けながら呟いた。
 確かに、マックスの言うとおり、客の半分以上はもう帰宅しており、今は最後まで残った酒を飲み尽くそうと企んでいる老人達と語っても語り終わることのないパトリシアの近しいお友達方が応接間に屯っていた。マックスに熱くて甘い視線を送っていたお嬢様方は、貞淑で夜遊びのしない誠実な女性が好きですと言い放ったマックスの期待に添えるようにと、今日は早々に退散をした。マックスの作戦は、おおよそ成功したわけだ。若干、ごく一部の例外を除いて。
「おい、マックス。さっきから変な合図してるおばさんがいるぞ」
 セスが、素直な意見を言ってくれる。マックスは、溜息をつくしかない。レイチェルが、ケタケタと少女のような声で笑った。
「バカねぇ、セス。あれはマックスを誘ってんのよ。熟女の魅力ってとこね。アレもママの選んだ花嫁候補なの?」
 マックスは首を横に振った。
「アレは多分、確実に計算外。歳聞いたら、39だせ。10歳以上も年上だなんて、恋愛対称になんかならないよ」
「そんなこと、分からないじゃないか。人間何が起こるか分からないから、人生は楽しいんだぜ」
「何よ、セス。気障なこと言っちゃって。さては誰かの受け売りね?」
 レイチェルが鋭く指摘すると、セスは頭を掻いて笑った。
「アハハ、バレたか。実は今日、うちの署に来たイギリスの大使館員が言ってたんだ。ただし、最後のところは楽しいじゃなくて悲しいって言ってたけどね。でも、楽しい方がいいに決まってるじゃないか。ねぇ?」
「あんたはお気楽でいいわね」
「で、なんでイギリス大使館員が来たんだい? 穏やかじゃないね」
 マックスが、なんとか話題を変えようと、セスに訊いた。レイチェルもそれに乗ってくる。セスは、バドワイザーを一気に喉に流し込むと、意気揚々と話し始めた。
「イギリスのヒースロー空港周辺の公衆便所で、アメリカに向けて出発する筈のビジネスマンの死体が上がったらしい。荷物も身ぐるみ矧がされて、顔も鈍器のようなもので潰されていたから身元確認に手間取ったらしいけど、詳しく調べてみると、男の名はデビッド・マットと言って、このC市までの航空券を購入していた。本来ならそのチケットは無駄になる筈だったが、念のため調べてみると、おかしなことにきちんと予定通りに搭乗者名簿にマットの名が記載されていた。死人の筈なのに、きちんとチェックインしていたというわけだ」
「つまり、マットを殺した犯人がまんまとマットに成り代わって、この街まで来たってこと?」
「その通り。その犯人は、なかなか頭がいい奴らしい。マットを殺す時も、マットの返り血を浴びた後ちゃんと着替えられるように、殺す前にマットを丸裸にしている。殺し方も実に鮮やかで、首をナイフでひと突き。その後にトイレの水タンクの蓋で顔を潰してご丁寧にマットの指紋も削いで行ってる。慣れた手際だ。しかもマットのパスポートを使って国外に脱出しているのだから、当然パスポートも偽造している。あれだけの短時間でパスポートの偽造までこなすんだから、用意周到だし手先も器用な奴だ」
「でも裏を返せば、人一人を殺さなければならないほど、焦っていたってことよね」
 レイチェルが、声を挟む。セスが、「ああ」と声を上げた。
「なるほど。そうとも言えるね」
「もう、しっかりしてよ」
 レイチェルが、セスの二の腕にパンチを浴びせかける。セスはその攻撃に慌てて身構えた。
「だって俺は爆弾処理班なんだぜ! 殺人課のことまでは面倒見切れないよ!」
「それにしちゃ、いやに詳しいじゃない」
「署内中この話題で持ちきりなんだよ。イギリスの殺人鬼がやってきたってね。もちろん、外交的な問題も絡んでいるから、皆裏でひそひそと騒いでるんだけど」
「ね、これ記事にしていい?」
「やめてくれよ! また怒られるだろ!」
「ええ? 警察署にはあたしとあんたの関係はバレてないでしょ? なんであんたが怒られるのよ」
「ネタばらしの犯人が判明してもしなくても、皆が怒られるんだよ。そういう時は」
 セスが、耳を垂らし切った犬のような顔つきをした。この様子だと、相当署長に油を搾られている入れた訳だ。マックスは、セスに同情した。と、レイチェルの矛先がそのマックスに移る。
「で、今日どうだったの? ウォレスに会えた?」
 レイチェルの爛々とした目の輝きに、マックスはうんざりした。
「会えたもなにも、今日俺がこんな格好になって帰ってきたのもそのウォレスのせいさ」
 マックスは、今日の顛末をレイチェルに話した。最後は、「会社のことしか考えてないようなヤな奴だ」とつけ加えて。それを聞き終わったレイチェルとセスは、2人ともきょとんとした顔でマックスを見つめていた。
「・・・あんた、本気でそんなこと言ったの?」
 レイチェルの顔色は、言っている側から青ざめていく。
「あんた、ひょっとしてクビの最短記録でも作るつもり?」
「なんでさ」
「バカねぇ。ウォレスは会社一個を電話一本で潰すような男よ。そんな男を怒らせといて、ただで済むと思ってんの?! もう、本当にあんたどうしたの? 今までのあんたは、そんなにバカじゃなかったでしょう。どうしてウォレスのことになると、そんなにバカになんのよ」
「うるさいなぁ、俺にだって分からないよ! ただ、あの人と話してると、何だか悔しくなるんだよ。負けたくないって言うか・・・」
「そりゃ、うまい具合にハッパかけられてるからさ」
「え?」
 レイチェルとマックスが、同時にセスを見た。セスは、照れたようにまた頭を掻いた。
「流石大企業を背負って立ってる人間は違うね。マックス、そりゃ君がうまく乗せられてんだよ。相手は君が例のあの一件で自信喪失していることを知っていて、そんな服を買うように仕向けたり、食ってかかってくるような言葉をかけたりしてるんだ。結局君は期待かけられてんじゃないか? 現に相手は、君の医師の実力を高く評価しているようだし、俺は向こうが一枚上手なんだと思うね」
「セス、あんた珍しくいいこと言うじゃないの。それもどこかの受け売りじゃないでしょうね」
「そんな訳ないだろ?」
「冗談よ。でも、それが本当だったったらどうする? 案外、いい奴かもしれないじゃん」
 マックスは暫く呆然としていたが、次の瞬間には顔をしかめていた。
「そんなバカな。俺が自信喪失してるってことが、あの人に分かっている訳がないじゃないか。そんなこと、あるはずがないよ」
 結局この議論は、マックスのその台詞で決着がついたのだった。

 

Amazing grace act.07 end.

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編集後記

ちょっとウォレスの私生活が見えた今回、いかがだったでしょうか? 実はこいつ、娘がいたんですねぇ~。指輪もしてるし。国沢、みょ~に結婚指輪してる男が漢(おとこ)の道に走るというのが好きらしい・・・。「nothing~」でもそうだったし。(あ、あれは少々特殊でしたが) あまり深く考えたくない深層心理ですね(笑)。そこらヘンは突っ込まないでください。

[国沢]

小説等についての感想は、本編最後にあるWEB拍手ボタンからもどうぞ!

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