真っ白い霧に包まれているようだった。
　音も色も全てが白く、それでいて酷く狭い空間。
　そうだ、ここは自分の部屋の前の廊下だ。
　さっきから、シーッという蛍光灯のノイズのような音が耳を劈いている。
　視界の先には、いつも茶目っ気たっぷりの笑顔を浮かべて駆けて行くウェイズリーの姿がある。
　そのウェイズリーに向って、勝手に自分の足が動く。
　ダメだ。ウェイズリーを呼んではいけない。 声をかけてはいけない。なぜなら・・・なぜなら・・・。
『こら！』
　自分の声が響く。
　自分のことなのに、どうして止められないんだ。どうして・・・。
『こら！』
　ウェイズリーが立ち上がる。手にした新聞の先には、細いワイヤーが部屋のドアの奥に繋がっている。
　そもそも、新聞になぜワイヤーなんか。
　ウェイズリーがこちらに顔を向ける。
　ソバカスだらけの顔。赤い頬。小さな青い瞳。
　彼はまるで動物園のライオンを見るかのように口をあけて、驚きの混じった表情でこちらを見ていた。
　その時、彼は一体何を考えていたのだろう。
　そして俺は・・・・。


　「ヒュー！！」
　ふいに喉が鳴った。
「ゴホゴホッ！　ゴホッ！！」
　ピーッとけたたましく計器が鳴った。
「意識が戻ったわ！　モーガン先生を呼んできて！！」
　見覚えがある看護婦が、マックスの口に酸素マスクを被せた。
「マックス？！　マックス！！」
　レイチェルの声が聞こえる。まるで悲鳴のような声だったが、なぜか篭って聞えた。
「看護婦さん、彼は大丈夫なの？！」
「ええ、ええ。安心してください。急に意識が戻って、身体がびっくりしているだけですわ。すぐに落ち着きます」
　皆の話し声がやけに遠い。身体の中で反響する咳のせいか。 涙を両の目に溜めたレイチェルの顔が見え、彼女の冷たい手がマックスの額を優しく撫でた。
「マックス！」
　すぐにマイクの緊迫した声が遠くから近づいてくる。
「よかった、意識が戻って・・・。心配させるなよ、まったく」
　マイクは少し鼻声交じりに悪態をつくと、素早くマックスの身体の状態をチェックした。
　発作のような身体の痙攣はすぐに治まったが、軽く咳き込む度に胸部が酷く痛む。
　思わず「痛い」とうめくと、マイクが「いたいのは当たり前だ。胸骨が２本イカれてる。ヒビが入ってるからな」とウィンクした。
　少し懐かしい、でも耳に良く馴染んだ同僚の声を聞きながら、マックスはやっと冷静さを取り戻すことができた。
　マイクがいるということは、ここはセントポール総合病院の救命救急室な訳だ・・・。
　一体自分の身体はどういう状態にあるんだろう。左腕も酷く痛んだが、その他の箇所は何も感じない。脚がなくなっているのかもしれない。
　鼻に突っ込まれたチューブやらなにやらのせいで動かすことのできない頭がもどかしい。思わず瞳だけギョロギョロと動かすと、マイクはその視線の意味を敏感に察した。
「五体満足だよ。どこも欠けちゃいない。胸骨の他は左腕の骨折に細かな裂傷。全身打撲。左耳の鼓膜も破けてるが、どれもすぐに良くなる。お前なら分かるだろう」
　なるほど、とマックスは思った。それで皆の声が小さく聞えるのか、と。
　マックスはマイクから自分の身体の状態を聞いて、本当の意味で落ち着いた。確かに、マイクと同じこの現場で働いていたマックスは、自分があの爆発の中でこの程度の怪我のみでここに運び込まれたことを幸運だと感じることができた。
　それに比べて、まともに爆弾の衝撃波が打ち付けられたウェイズリーは・・・。
「マスクを・・・マスクを外してくれ・・・」
　やけに重たい右手で酸素マスクを外そうとしたが無理だった。看護婦が外してくれる。
　マックスは大きく息を吸い込んだ。
　マイクがマックスの額に浮かんだ汗をタオルで拭き取ってくれる。マックスを見つめる皆の顔は一様に安堵の表情を浮かべていた。そんな人々の顔の合間から、一度ミラーズ社で見た刑事の顔が見えた。ひとりだけ無愛想な顔をして場違いな様子で立っている。
「あー、ローズさん。Ｃ市警のハドソンです。無事意識が回復されてよかったです。早速出申し訳ありませんが、お訊きしたいことがありまして」
「君、後にしたたまえ。今意識が回復したところなんだぞ」
　マイクが不快感を露にして言った。しかし刑事はそんなことぐらいで怯まない。 「取りあえず、ひとつだけお願いします。あなた部屋には爆弾が仕掛けられていました。それについて、お心当たりは？」
「おい、君！」
「ありません」
　マイクの声を遮って、マックスは答えた。
「まったく、ありません」
　荒い呼吸のまま答えるマックスをレイチェルが痛々しい表情で見つめ、彼女はマックスの右手を握り締めた。マックスは涙を浮かべるレイチェルを安心させるように少し微笑みかけると、毅然とした表情でハドソン刑事を見た。
「ひょっとしたら、以前会社の前に停車してあった車が爆発した時、被害者を救おうとした自分に犯人が腹を立てたのかもしれません。最近、それに関する記事が雑誌に掲載されたので」
「なるほど・・・そうですな。それからもうひとつ」
「まだ何か」
　マイクが再び声を荒げた。ハドソンはチラリとマイクを見て、肩を少し竦ませると、
「アパートが爆発した後、同じアパートの住人で一人行方不明になっている少年がいます。お心当たりはないですか」
　と訊いてきた。
　一瞬、マックスの目の前が白く霞んだように見えた。
　耳の奥で、シーッというあのノイズが聞えてくる。
　マックスが瞬きした先に、ウェイズリーが立っていた。
　ベッドの足先に新聞を持って立っている。そして不思議そうにマックスを見つめている・・・。
「ローズさん？　ローズさん？」
「マックス！」
　マイクに肩を揺り動かされた。ハッとする。
「彼は・・・ウェイズリーは・・・」
　言っている側から、涙が零れた。
　ボロボロと流れ落ちた。
　どうして彼が犠牲にならなければならなかったのか。
　本当なら、自分が彼のように吹き飛ぶ筈だったのに。
「どうしたんですか？　ローズさん。ウェイズリーはどうしたんです？」
「彼は・・・亡くなりました・・・。多分、自分の代りに・・・・。彼が新聞を引き抜いた途端に辺りが白くなって・・・。ウェイズリーはただ、いたずらをしようとしただけだった・・・！　それなのに、あんな、あんな・・・」
　その先は声にならなかった。
　とてもじゃないが、木っ端微塵に吹き飛んだとは言えなかった。
　今でも、彼の身体は瓦礫の中に埋もれている・・・。
「・・・神様・・・！！」
　マックスは右手で顔を覆った。
「もういいだろう！　後にしてくれ！　出てってくれ！」
　マックスの様子を見かねたマイクが、強引に刑事を病室の外まで追いやった。
「マックス・・・！　マックス！」
　レイチェルが同じように泣き声を上げながら両手でマックスの顔を覆った。
「大丈夫よ。ウェイズリーがそうなったのは、あなたのせいじゃない。悪いのは犯人よ。責められるべきなのは犯人なの。あなたじゃない・・・」
「レイチェル・・・！」
　マックスはレイチェルの手に取りすがって泣いた。
　身体の痛みよりも、心の痛みの方が酷く感じた。


　リンゴの清々しい香りがプンと立ち込めた。
　シャクッという音と共に皮を剥かれたリンゴが割れる。
　リンゴを切り分けていくレイチェルの手つきは意外にも様になっていた。
　マックスは、ぼんやりとその手を見つめている。
　マイクの配慮により、病室から見える範囲内から警官の姿は排除されていた。
　マックスは十分話ができる状態にあったが、それをするには余りにも辛かった。
　事件の早期解決には、自分の証言が不可欠であるとは分かっていたが、今度ばかりはマイクに甘えてしまった。今でもウェイズリーの青いつぶらな瞳が瞼の裏に焼きついている。
　病室内が穏やかな空気に包まれているのは、本当にありがたかった。
　今ここにジムさえいてくれれば、更に安心できただろうに、とマックスは思った。
　今頃、ジムはセントルイスで事件の一報を聞いていることだろう。きっと心配をかけている。せめて電話でだけでも、自分の無事を直接伝えたい・・・。
「レイチェル」
「ん？　何？」
「ジムに連絡が取りたいんだ。今、セントルイスに出張中なんだけど・・・」
「彼は昨夜のうちに帰ってきたわ」
「え？」
　意外な答えだった。
　マックスは驚きを隠しもせず、レイチェルを見た。
「セントルイスからどうやって帰ってきたかは私にも分からないけれど。確かに彼は帰ってきた。昨夜は一晩中そこのソファーにいたわ」
　レイチェルがガラス越しに見える廊下のカウチを見つめて言った。
　マックスも、そのカウチに目をやる。
　今は幼い少女と彼女の祖母と思われる老婦人がそのカウチに座っていた。
　マックスは戸惑ってレイチェルを見た。
　じゃ、どうして・・・という思いがあった。
　レイチェルは手元のリンゴに目を落としながら言う。
「彼、今朝過労で倒れた。朝早くにあのマーク・ミゲルがここに現れてね。激しく言い争っていたそうよ。もっとも、声を荒げていたのは、マーク・ミゲルだけだったらしいけど。その後、倒れたの。彼は誰よりも憔悴してたから・・・。今、別の病室で休んでいるわ。メアリーが付き添ってくれてる。直に娘さんも来てくれるそうよ。もちろん、マーク・ミゲルは私が追い出した。彼は心底あなたを心配してくれていたけど、今のあなたに会わせるには、エネルギーが強すぎる。返って疲れちゃうわ」
　また新たな涙がマックスの目に浮かんだ。
　ジムにそんな思いをさせたミゲルやそして自分にも腹が立った。
　あの強靭な精神力を持つジムが倒れるほどに自分はジムを追い込んでしまったのだ。
　今すぐジムに会いたい。
　この身体が自由に動ければ、這ってでも行くのに・・・！
　マックスは心の中で何度も、愛する人の名前を呼んだ。

　

Amazing grace act.74 end.

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