act.76
シンシアは血相を変えながら病院に到着した。
シンシアがマックスの身に起きた悲劇を知ったのは、意外に遅い時間だった。
つい先ほどまで、父親は未だ出張先から帰ってきていないと思っていたし、彼女にはテレビのニュース番組や新聞を見る習慣がなかったからだ。シンシアはそんな自分のことが口惜しかった。何せマックスの事件は、昨夜のうちに起こっていることだったからだ。
ああ、何と言うことだろう。
呑気に学校へ行っていた自分がバカみたいだ。
シンシアは、着いたばかりの学校で、今朝父親が病院で倒れたことを知らせる電話連絡を受け取った。彼女はそこで初めて、父親が昨夜からこの街に戻ってきていることを知り、そしてその原因の事件を知った。
しかしなぜ・・・。なぜ父は昨夜のうちにそのことを知らせてくれなかったのだろう。父には、そうする時間がたくさんあったはずだ。それなのになぜ・・・。
電話では病院の職員から事の障りの部分しか聞くことができなかったが、同じ電話を自分の娘にさえできない父親の動揺ぶりが伺えた。
最愛の人が死んでもおかしくない状況に置かれ、きっと彼は娘に連絡することさえ忘れてしまうくらい気が動転してしまったのだ。そうでないと、説明がつかない・・・。
どんなことがあっても冷静な表情を崩さない日頃の父親の姿を思い浮かべながら、シンシアは胸に沸き起こる不安を押えることができなかった。
何か悪い予感がする・・・。
シンシアが病院前に到着したタクシーを飛び出すと、制服姿の彼女を皆が一様に怪訝そうな目をして見た。そして次の瞬間には、彼女の身の回りの人間に起きた不幸を予想して同情するような暗い表情を浮かべるのだった。
そんな同情めいた視線なんかに構っている暇なんかない。 シンシアはそんな大人の視線を交わしながら、病院に入っていった。
手近な看護士を捕まえて、救急の位置を確認すると、慌しく走った。
そして救急棟に入る入口のドアで、突然ふいに腕をぐいっと掴まれたのだった。
「!!」
シンシアは心臓が喉から飛び出しそうなほど驚いて、自分の腕を掴んだ相手を見上げた。
それが父親だと分かった時点で鋭く怒鳴りつけようとしたシンシアだったが、次の瞬間彼女はその言葉をぐっと飲み込んだ。
自分を見る父親の様子が明らかにいつもと違うことに気付いたからだ。
「・・・パパ・・・?」
シンシアはあからさまに顔を歪ませ、父を見上げた。
伸び放題の不精髭、乱れた前髪、そしてつい先ほどまで涙に濡れていたことが明らかに分かる充血した瞳・・・。
未だかつて、父親のそんな表情を彼女は見たことがなかった。ただの一回も。
まさか・・・まさかマックスは・・・。
父親のその表情が伝染したように、次の瞬間にシンシアは涙を零していた。
若く敏感な神経がシンシアの目から無意識のうちに涙を落とさせていた。
「パパ、マックスは・・・」
その言葉の先をとてもじゃないが繋ぐことができなかった。
とても怖くて仕方がない。震えが止まらない。
父親は娘が何を言いたいのか、何を訊きたいのか、察したらしい。
父親は少しだけ、ほんの少しだけ笑みを浮かべた。
だがそれも心の底からの笑みではなく、娘を安心させるためだけに浮かべたものだと推測できた。
「・・・マックスは大丈夫だ。意識も回復している。心配ない」
「本当に?」
シンシアは思わず聞き返した。
思わずそうせざるを得なかった。
父親の掠れた声は、とてもじゃないが、不安を脱ぐ去れるような声ではなかった。
どうしたというのだろう。こんな父は、まったく父らしくない・・・。
シンシアはマックスの病室に向おうとしたが、父親の手に阻まれた。
父親は彼女の腕を決して離そうとしなかった。
シンシアは再び怪訝そうに父親を見た。
今度は明らかに苛立ちの感情も含まれていた。
「どうしたの、パパ。手を離して」
だがウォレスはシンシアの腕を離さなかった。彼は娘の腕を掴んだまま、病院の出口に向って歩き始める。
「パパ!」
シンシアは辺り憚らない声で叫んだ。
「なんなの?! マックスに会いたいのよ! どうしてなの?!」
父は無言だった。
まるで鉄の仮面のような硬い表情を浮かべた横顔は、冷たい風に吹き晒されたような厳しさがあった。
ウォレスは、シンシアの腕を掴んだまま、自宅へと戻った。
娘は何度も何度も繰り返し父親を責めたてたが、父親の深い悲しみに支配された顔つきを見て、終いには降参したようだった。
険悪な空気のまま自宅に着き、ウォレスはシンシアに身の回りの必要なものを旅行鞄に詰めるように言った。
娘は益々顔を顰め、父親の腕を振り払った。
「一体どういうことなの? 説明してよ、パパ」
しばらくの間、親子で睨み合った。
やがて父が口を開く。
「危険が迫っているんだ、お前の身にも。マックスを狙った犯人が、お前も狙う可能性がある。ほとぼりが冷めるまで、安全なところに移った方がいい」
シンシアが息の飲む。
「どうして? どうして私やマックスが狙われるの? パパ、何があったの?」
もはやシンシアの顔からは怒りが消え、純粋な恐怖に支配されていた。
ウォレスは、不安に揺れるライトブルーの瞳を見つめ、本当のことを言おうとしたが、ついに言葉は口から出てくることはなかった。
マックスには言えたが、娘には語ることができなかった。
ウォレスはやっとのことでこう呟いた。
「犯人は、パパの大事なものをパパから奪おうとしている人なんだよ。その人は、パパが若い頃、彼を裏切ったとパパをずっと憎んでいる人なんだ。とても怖い人なんだよ。だからパパはマックスに別れを告げた。そして今はお前を守ろうとしている。・・・今はこれしか言えない。すまない・・・」
シンシアの瞳から新たな涙が零れる。
目に見えてシンシアの身体から力が抜けていった。
彼女はそのまま床に座り込むと、呆然とした顔でしばらく宙を見つめていた。
彼女なりに、自分の父親に辛い過去があることは感づいていた。だから彼女なりに母親についての質問はある時から一切しなくなったし、父親の体に残る傷について触れることはしてこなかった。シンシアはシンシアなりに、男手ひとつで自分を育ててくれた父親の恩を感じていた。そのことで父親が随分苦労したことも祖父代わりのベルナルド・ミラーズから聞いている。
今父親を責めることは酷なことだった。
あえて責めるのなら、それは『運命』に対して、だろうか。
「・・・シンシア・・・」
傷つき疲れ果てているくせにそれでも娘を気遣う父親の声を聞いて、シンシアはゴシゴシと顔を擦った。
シンシアはゆっくりと立ち上がり、階段を登って行った。
それとは入れ違いで、奥の方からメイドのデイビスが姿を見せた。
「ごめんなさい、洗濯物を干していて気付きませんでしたわ」
いつもの大らかな笑顔を見せた後で、彼女の顔が強張った。
「ミスター・ウォレス、どうかなされたんですか・・・?」
ウォレスの憔悴振りを見てのことだった。ウォレスは彼女に向き直ると言った。
「ちょっと急な事情ができてしまってね。しばらく家には戻れないことになってしまったんだ。随分お世話になった君に、突然こんなことを言って申し訳ないのだが・・・」
その一言だけで、勘のいい彼女は何かを察したらしい。
「そうなんですか・・・。残念だわ。でも、私のことは気になさらないでいいのよ。それより私はあなたの方が心配だわ。凄く顔色が悪いんですもの」
ウォレスより二回りも年上の彼女は、息子を見るような親愛の篭った目でウォレスを見ると、「すぐに出かけられるのですか? せめて温かいものを飲んで行ってください。それぐらいはいいでしょう」と言い、ウォレスをダイニングに誘った。
彼女は冷蔵庫にストックしてあるほうれん草のグリーンスープを取り出すと手早くそれを温め、バゲットを焼いた。
「ありがとう・・・」
デイビスの心遣いで、少し生き返ったような気がした。温かく滑らかなスープが、空っぽの胃袋ばかりか心にも染み渡った。
「本当に急で、申し訳ない・・・」
テーブルを見つめたまま、ウォレスは力なく何度もそう呟いた。デイビスは少し溜息をつくと、ウォレスの肩にそっと手を置いた。
「私はどうとでもなります。私がいかに優秀か、あなたが一番分かっているでしょ。心配なさらないで。今は自分のお体を大事になさってください。私は、あなたとシンシアのことの方が心配・・・」
デイビスがそう言い終わると同時に、ダイニングの入口にシンシアが姿を現した。制服姿のまま、大きな旅行鞄を抱きかかえていた。
「ミセス・デイビスともお別れなのね・・・」
シンシアはカバンを放り出してデイビスに抱きついた。
母と呼ぶには年齢が高かったが、ある意味母親の役目をしてくれていたのは、この温かく大きな身体を持つこの女性だった。
荒れていた時期は、八つ当たりもしたことがある。それでもいつも、温かな食事を用意してくれたミセス・デイビス。落ち込んだ日は、お日様をたっぷりと浴びたシーツと枕と取り替えて、シンシアが寝付くまで側にいてくれた。父がいない孤独な時間を埋めてくれたのは、彼女だったのだ。
別れがきて初めて、失うものの大きさを知る。
シンシアの目から、止め度なく涙が流れ落ちた。
流石のデイビスも、涙が抑えられない。
「お体に気をつけるんですよ。きちんと、人参も食べるようにして」
「分かったわ。食べるわ、きっと」
「いつか、本当のことをお話します。本当に、今までありがとう」
ウォレスがそう言うと、デイビスはエプロンで涙を拭いて微笑を浮かべた。
「家の後片付けは任せて置いてください。いつお帰りになってもいいように、段取りをしておきますわ」
「でもなるだけ早く、家を出てください。そしてどんな人間がここに訊ねてこようとも決してドアを開けないように。郵便や宅急便でもダメです」
ウォレスがそう言って初めて、デイビスは目の前の二人に危険が迫っていることに気がついた。
デイビスは元々ミラーズの屋敷にずっと仕えていたメイドだ。母親の愛情を知らないシンシアを不憫に思ったミラーズが、彼女ならと選んだ人間だった。
ウォレスが幼いシンシアを連れてミラーズの屋敷にきた頃には既に、デイビスはミラーズの屋敷にいた。詳しいことは分からないが、ただならぬ事情がこの親子にはあることを彼女なりに推察していた。
デイビスは頷く。
「分かったわ。そうします。安心して。さ、早く出た方がいいわね」
玄関口まで出て行って、デイビスは思いついた。
「ミスター・ウォレス、あなたのお荷物は・・・」
「私の荷物は・・・・」
自分のことなど、まるっきり考えていなかったのだろう。
少し困惑気味のウォレスの腕を摩って、ミセス・デイビスは言う。
「分かりました。私が適当に纏めて、後でご指定の場所にお送りするようにいたしますわ。それでよろしい?」
「ああ、十分だ。後で連絡をします」
「ええ、きっと」
親子二人は手を取り合って、慌しく家を後にした。
車に乗り際、ウォレスは家の方を振り返る。
安らかな『普通』の生活の象徴であったこの家。
ウォレスの仕事から考えれば、地味ともいえる質素な家だったが、穏やかな木漏れ日に溢れた日々をここで手に入れることができたのだ。
自分達でペンキを塗り直した壁。シンシアの背丈が伸びる度に印をつけた柱。もう何年も広げられることはなくなった簡易プール。シンシアが幼い頃カーペットに落としたチョコクリームの染み・・・・。
「パパ」
車の中から、心配そうにシンシアが呼んだ。
「ん・・・。行こう」
ウォレスは車に乗り込むと、何かを振り切るようにエンジンをスタートさせた。
Amazing grace act.76 end.
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編集後記
今回は親子鷹な内容になってしまいました。アメグレ。
背後に流れる曲もそこはかとなくマイナーな感じ・・・・。
それはそうと、国沢つい先日とうとう三十路の仲間入りを果たしました!(←精一杯明るい感じで)
現在彼氏もおらず(だから小説も書くある時間がある?!)、自宅生なので、当然誕生日は家族と過ごしました。身重でお産に控え実家に帰ってきている妹と両親。
誕生日は平日だったので、友達とも会えずに家でお祝い。(なんせ国沢、仕事終わるの遅いから・・・)
主役はあたしのはずなのに、妹に言われた言葉。
「おねえちゃん、ケーキ、自分で買ってきいや」
そして続けて、母からも一言。
「ケーキ、丸いのじゃなくていいから。ショートケーキで」
・・・・。
ママン、ショートケーキじゃロウソク三十本も立ちゃしないよ。
第一、自分でケーキ買いに行くって・・・・。
これってなんか、矛盾してねぇ?
社会の厳しさを、三十にもなって痛感した夏の終わりでした・・・・。
[国沢]
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