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nothing to lose title

act.103

 ジェイコブの標的は、間違いなくマックス・ローズだった。
 マックス・・・。私の愛する人。
 ジェイコブが、信号待ちしているデリバリー業者の若者に声をかけたのを見た時から、嫌な予感はしていた。
 もうワンブロック先に行けば、そこはウォレスにも馴染みのあるマックスの叔母の家だったからだ。
 ウォレスは、午後のニュースでマックスが退院したことを知っていた。そしてジェイコブ自身もそのことを知っていた。おまけに、マックスが退院後どこへ向かったかもニュースで報じられたため、益々ジェイコブを煽ることになった。
 ジェイコブは、幾度かマックスが入院している病院に爆弾を仕掛ける素振りをみせていた。ウォレスはその様子もじっと見ていたが、見張りの警官が多いことにジェイコブはついぞ爆弾をしかけることができなかった。
 ウォレスが見た限り、ジェイコブがポケットに隠し持っている爆弾の大きさでは、仕掛ける場所をよく考えないと、彼の目標に達する効果は得られない。
 ジェイコブはマックスがどこの病室にいるかも分かっていたし、彼が日中どこで過ごすかも分かっていた。
 しかし警察にもメンツがあるせいか、病院は一際警備が厳しかった。おかげで、ジェイコブが近づく隙も伺えない。
 ジェイコブは早々に断念したようだ。
 爆弾をしかけるのを諦めたジェイコブの背中を見送りながら、ウォレスは建物の向こう側に小さく見えるマックスの姿を目に焼き付けた。
 ベンチに佇むマックスの隣には、あのハンサムな雑誌記者が寄り添っていた。
 これでいいんだ。これで。
 例えマックスが次に選んだ人間がミゲルだったとしても。
 それでもウォレスに悔いはなかった。
 ミゲルが彼を本気で愛してくれて、彼を幸せにしてくれるのならばいい。
 いやミゲルなら、マックスを間違いなく幸せにしてくれるだろう・・・・。
 ウォレスは、夜のさめざめしい空気を顔に感じながら、頭の中からその思いを押し出した。
 今は、目の前の男のすることに集中しなければならない。
 一見するとジェイコブは、ありきたりな青年である。街の片隅の日陰にひっそりと生活していそうな、存在感のない青年。
 その彼が、今はデリバリーの少年をいきなり木製のハンマーで殴りつけていた。
 ジェイコブは自分が犯した罪に興奮した様子で、バイクに突っ伏して気絶した少年の頭を掴み、奇声を上げた。頬は赤く上気している。
 こういうタイプの人間は、犯罪を犯す罪悪感よりも、力のなかった自分が突然持った力に興奮して何も見えなくなる傾向にある。そしてどんどん犯罪という魔物に魅入られていくのだ。
 こういう人間は、大抵警察署の取調室で正気に戻るか、突然の訪れる死を前にして「こんな筈じゃなかった」と呟くことになるのだ。
 目の前の青年に引導を渡すのは、間違いなくウォレスの役目だと思っていた。
 それ以上ハート家・・・いやマックスに近づいてみろ。
 その喉をかっ捌いてやる・・・!
 ウォレスの目には暗い光が浮かんでいた。
 リーナの死に出会い、ジェイクの元から逃げ延びてきた時から、もう二度と人を殺めることはしないとリーナの魂に誓ってきた。そしてその誓いがどんなに大切なことかをベルナルドとシンシアに教わった。
 しかしその誓いもマックスを守るためなら・・・・。
 誓いの背き、また元の苦しい世界に戻ることなど少しも怖くなかった。
 あの翡翠色をした瞳の優しい青年がこの世に生きていると実感できるだけで、ウォレスの魂は十分救われた。
 その為に刑務所で一生過ごさなくてはならなくても、例え死の淵に追いやられても、ちっとも苦痛ではなかった。
 それほどまでに、私は彼を愛している・・・。
 自分の魂を救ってくれた人。
 自分の全てを受け入れようとしてくれた人。
 かつて自分のことを、これほどまでに『守ろう』としてくれた人はいただろうか。
 リーナは同志だった。
 共に苦しみを分かち合い、身を寄せ合ったが、リーナに対するウォレスの気持ちは、今のマックスに対する気持ちとは少し違っていた。
 誰にも、私の天使に手を出させたりはしない。


 ジェイコブは少年の身体からデリバリー・ショップの制服を身ぐるみ剥がすと、自身の服の上からそれを着込んだ。少しサイズが大きいようだ。
 ジェイコブは少年の身体を道ばたの大きなゴミ箱に投げ込むと、路肩に止めてあるバイクに乗っている注文品を丁寧に開封し、懐から取り出した何かを混ぜ込んでいるようだった。
 おぼつかない運転でバイクを走らせたジェイコブは、真っ直ぐハート家に向かった。
 ウォレスが走って追いかけると、丁度ジェイコブは、ハート家の前に停車するパトカーの窓に毒入り商品を押し込むところだった。
 睡眠薬か何かが入った食事を、警察官は気づかずに食べるのだろうか・・・。
 商品を渡し終えたジェイコブは、バイクで走り去る振りをしてハート家を見渡せる場所に身を寄せた。ウォレスも、ジェイコブに見られないように木陰に身を寄せる。
 しばらくすると、パトカー内の動きが騒がしくなった。
 ジェイコブが入れたのは下剤だったらしい。
 警官達は次々とパトカーを飛び出すと、ハート家の玄関ドアを叩いた。
 警官達がハート家の中に消えると、いよいよジェイコブが動き始めた。
 ジェイコブはハート家の周りを急ぎ足でくるくると回ると、突如地面に腰を下ろした。
 表通りとは裏手に当たる裏庭。
 ウォレスはハート家の中に入ったことはなかったので、ハート家の間取りは分からなかったが、家の外壁を這っている配管や電線の様子から推測して、そこがキッチン付近であることは間違いない。ジェイコブは、ガス管を利用して爆弾を爆発させる気だ。
 もはやウォレスに躊躇いはなかった。
 彼を泳がせることで、彼のバックにいるはずのジェイクの存在に近づけるかもしれない。ジェイコブの口から、手がかりが聞けるかも知れない。
 そんな可能性は、ウォレスの頭から完全に消えていた。
 マックスの生命を再び危険に晒そうとしているこの男を、これ以上生かしておけるはずがない。
 意を決したウォレスの動きは早かった。
 闇に完全に紛れ込む真っ黒い上下に身を包んだウォレスは、今やアレクシス・コナーズと呼ばれていた頃の感を取り戻し、完全に気配を消していた。
 ジェイコブにどんどん近づいていくが、ジェイコブは一向に気づかない。
 腕のいい殺し屋ほど、ターゲットに近づいて仕事をすることができる。
 ウォレスは、腰のポケットから飛び出しナイフを取り出すと、手のひらに握り込んだ。
 ジェイコブが、裏庭の草がガサリとなる音に顔を上げた瞬間。
 ウォレスはジェイコブの背後を取った。
 あっという間にジェイコブの両手を背後で締め上げ、もう片方の腕をジェイコブの首に回す。
 ジェイコブが驚いて背後を顧みた。
 ジェイコブはそこに蒼く輝くミッドナイトブルーの瞳を見て、目をぐらつかせた。
 ウォレスは、ジェイコブの目の前に、飛び出しナイフを翳した。小気味よい音がして、鋭く光る刃が飛び出る。
「ひっ!」
 とジェイコブの喉が鳴った。
 額から汗がだらだらと流れ落ちる。
「お前の命もこれまでだ」
 ウォレスが低い声でそう呟くと、ジェイコブが「俺はボスの為を思って・・・!」とひっくり返った声を上げた。
「黙れ」
 ジェイコブの声を遮ってウォレスがナイフを振り上げた時。
 その腕を白い手がやんわりと掴んだ。
 ウォレスの身体がビクリと震える。
 ウォレスの耳元で優しげな声がこう囁いた。
「今のあなたに、これはもう相応しくない」
 ウォレスは両目を見開いた。
「大丈夫。俺を信じて、これを渡して」
 ウォレスの腕をゆっくりと辿り、ナイフの根本をやんわりと掴む。
 もう片方の手ですっとナイフを持つ手を握られ、ウォレスの手から力が抜けた。
 ジェイコブが、「うわぁ!」と怯えた声を上げながら、前に四つん這いで這いずっていく。そのジェイコブの頭が突如グワンと鳴って、ジェイコブはそこに突っ伏した。
 ジェイコブの前には、フライパンを両手で持ったレイチェルが立っていた。そして大リーグのバッターがするようにフライパンをぶらぶらと振り、地面に唾を吐いた。
 ウォレスの手に触れたまま、白い手の主がウォレスの前に回り込んでくる。
 すぐに、あの翡翠色のたまらなく澄んで美しい瞳と出会った。
 ウォレスと目が合うと、その瞳は微笑んで見せた。
「よかった・・・!」
 マックスがウォレスの身体を抱きしめる。
 ウォレスの身体が、ずるずると地面に崩れ落ちていった。
 ウォレスの無精ひげだらけの顔を、マックスの手が優しく撫でていく。
 涙を浮かべた彼の瞳に、呆然とした自分が映っていた。
「本当に良かった。あなたが人を傷つける前に間にあって・・・」
 吐息を付くようにマックスが囁く。
「へい! よう! 早く重い腰上げて、こいつを締め上げちゃってよ!」
 トイレに面する壁をドンドンと叩きながら、レイチェルが怒鳴る。
「もう大丈夫・・・。大丈夫だから」
 マックスのその声は、ウォレスにとって正しく天使の声に違いなかった。
「・・・マックス・・・」
 ついにウォレスの口から彼の名前が零れ出る。
 正気にもどったかのようにウォレスは瞬きを2回すると、その瞳から大粒の涙を零した。
「ジム!」
 マックスが、感極まってウォレスに熱い口づけをする。
 あの日、病院で別れた時と同じ、涙味のキス。
 だがこのキスは、決して悲しみに捕らわれていない・・・。
 キスを交わす二人の足下には、仕掛けられることのなかった爆弾と、飛び出しナイフが静かに転がっていた。

 

Amazing grace act.103 end.

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編集後記

皆様、お待たせしました!
やっとやっとで二人のツーショットでございます!
片方は髪の毛が短くなり、片方は無精ひげ面という、なんとも随分様変わりしてしまいましたが、それでもやっと熱い抱擁をかわすことが出来ました!
う~~~、長かったよう。お母さんもしんどかったです。
来週は、ウォレス髭そって髪も散髪して、もとのウォレスになんなきゃね。これじゃ逆プリティーウーマンだ(笑)。わはは。
(↑ちょっと壊れ気味?)

[国沢]

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