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nothing to lose title

act.17

 時刻はもう11時に近い。
 地下鉄への階段を駆け下りながら、マックスは舌打ちをした。
 マックスにとって、遅刻は厳禁だった。医者にとって、特に救急医療に携わっているものなら、特にそうだ。
 例え、普通の会社に勤め始めたといっても、マックスは自分が許せなかった。遅刻するなんて、本当に情けない。
 人生において、今まで一度も「遅刻」をしたことがない自分が、こんなことになっているだなんて、とても信じられなかった。それほど、自分が常軌を逸してるということか。
 会社へ向かう列車のチケットを購入して、マックスははたと正気に戻った。
 思わず自分の姿を見下ろす。
 チケット売り場の側にあるスチール製の壁に自分の姿を映してみる。
 顔が青くなった。
 こっ、こんな格好じゃ、会社に行けない・・・。
 寝乱れたままのボサボサの髪。一晩中ソファーに蹲っていたために皺々になったジャケットとチノパン。コンタクトレンズをつけっぱなしにしていたので、グリーンの瞳は赤く充血しているし、下瞼は真っ青だ。ブロンドなので目立たないが、無精ひげも伸びている。 まるで、ER時代に戻ったかのような様相に、マックスは頭を掻き毟った。ミセス・ロンソンのお叱りの言葉が耳元で聞こえたようで、身震いしてしまう。事実、コートなしでは寒かった。
 一度、家に戻らなきゃ・・・。
 ハート家に戻らなくてもいい分、いくらかはましだった。
 伯母さん、今頃怒り狂ってるだろうなぁ・・・。
 当分ハート家には近づきたくない。
 そういう訳にもいかないことは十分分かっていたが、思わず頭の中で愚痴を零すマックスだった。


 幸い、新しいマックスの家は交通の便がよいところにあったので、お昼過ぎには会社に到着することができた。
 案の定、サイズに目ざとく見つけられる。
「どうしたんだよ。顔色悪いぞ、先生」
 遅刻したことを責められるより、そうやって心配されることの方が、罪悪感を感じてしまう。
「遅刻してごめんなさい」
 思わず正直に口を突いて出た。サイズは、受付嬢と顔を見合わせて笑う。
「俺たちに謝ったって、仕方がないだろう! おかしなヤツだな、先生」
「だって、じゃぁ、誰に謝れば・・・」
 マックスには直接の上司というものはいないのだから、突き詰めて考えると社長ということになるのだが、態々社長室に謝りに行くことも馬鹿げてる。
「いいんじゃないの? 先生の場合。タイムカードに遅刻した証拠が残るだけさ。それにしても・・・」
 サイズが、マックスを下から上へ向かって眺める。
「あんたって本当に育ちがいいんだなぁ。感心するよ。男ながらに、可愛いね」
「バカか」
 マックスは顔を真っ赤にして、そっぽを向いた。その時、吹き抜けのロビーの上から、女子社員の声が響いた。
「ローズ先生!! いらしてたんですか!」
 サイズと共に見上げると、3階のフロアから、若い女子社員がマックスを見ていた。
「すみません! うちの課の者が、ついさっき倒れちゃって!! すぐに来てもらえますか!」
「大変だ」
 マックスは小さく呟いて、「すぐに行くよ!」と怒鳴り返した。
 大きく深呼吸をして、両頬をパンと1回強く叩く。ER時代、手術前によくしていた癖だ。
 現にマックスの顔つきが、医者独特の物静かでいて力強い表情に変った。
「じゃ、また」
 マックスは、タイミングよく1階についたエレベーターへと消えていった。
 サイズは、またもや受付嬢と顔を見合わせる。
「なんだか、お坊ちゃんなのか、そうじゃないのか、よく分からねぇキャラクターしてるな、あいつ」
 サイズは首を捻りながら、そう呟いたのだった。


 3階につくと、マックスを呼んだ女子社員がエレベーター前で待っていた。
「こちらです」
 3階は広報部が陣取っているエリアである。
 案内された場所は、第2商品広報課だった。
「よかったわ。先生がいらしてて」
「ごめん。遅刻してしまって・・・。倒れたのはいつ?」
「ついさっきです」
「よかった。待たせた訳じゃないんだね」
「ええ。本当に。グッド・タイミングですわ」
 マックスは課内に入るとまず真っ先に倒れた社員の元に走った。
 机と机の間の通路に倒れ込んでいる。中堅の女子社員だ。
 顔色が紙の色のようになっていて、冷や汗をかいてる。
「書類の詰まったダンボールを持ち上げようとして、急に・・・。大丈夫かな?」
 第2商品広報課課長のランドがマックスの顔を覗き込む。
 マックスは、まず倒れた女子社員の襟元を緩めて、脈を図った。
「・・・貧血ですね。大したことはありません。彼女は昼食をちゃんと取ったんでしょうか」
 課内に入った時の、雑然とした印象を思い浮かべながら、マックスは言った。
 恐らくマックスが推測するに、この課は新製品のマスコミ発表を間近に控えているのだろう。そういった空気を読むことに長けているマックスは、課全体が無理な労働体勢で動いているような感じを受けていた。
 事実、その推測は当っていたらしい。ランドは苦々しい表情を浮かべた。
 マックスは溜息をつく。
「睡眠の方も疎かにしてましたね。彼女を含めて、あなたも。他の人も」
 マックスは、顔色の悪い他の社員もぐるりと眺めながら言った。
「すまない、そこの書類の塊取ってくれる? 彼女の足の下に入れてくれるかな。・・・そう。ありがとう」
 マックスは、自分のジャケットを脱ぐと、倒れた女子社員の頭の下にそれを当てた。
「しばらく彼女が気がつくまでこうしていましょう。強引に動かすのは良くないですから。それから」
 マックスが立ち上がると、他の社員も立ち上がった。
 マックスはランドを見る。
「忙しいのは分かりますが、睡眠だけはきちんと取らせるようにしてください。最低でも、1時間半は。アイマスクをして、騒がしくないところで寝っ転がれば、1時間半でも十分な睡眠が得られます。人が深眠りを得る周期が大体1時間半ですから、かなり有効でしょう。でも、なるべくならば、もっときちんと寝てください。もちろん、食事も。会社には仮眠室もあるのですから、利用してください。課長、責任はあなたにあるんですよ。きついようだけど、社員は使い捨てではないのですから。仕事の量と人手が足りないなら、シフトを考えるべきです。他の課との交渉がきついのなら、僕が仲介に入ってもいい」
「すまない・・・。忙しくて、つい・・・」
 肩を落とすランドに、マックスはポンポンと2回肩を叩いた。
「お気持ちは分かります。偉そうなことを言いましたが、僕もそうだったんです。でも、医者が倒れる訳にはいかないでしょ?」
 マックスが笑みを浮かべると、その場の空気が和んだ。
「じゃ、彼女が気づいたら、医務室に連れてきてください。それまでに僕は、医務室を整えておきます。何かあったら、ポケベルを鳴らしてください。もし、人員のことで困ったことになった時でも、ぜひ。僕はどこの課にも属していない中立派ですから、多分話もしやすいし」
「ありがとう。本当にすまない」
「いえ。じゃ」
「あ、先生、ジャケット・・・」
 マックスを呼んだ女子社員が声をかける。
「あ、いいよ。そのままで」
「でも皺に・・・」
「いいから。後で医務室に届けてくれればいいから」
 マックスはそう言って課を出た。
 ガラス張りの廊下を歩いていてくしゃみをする。
 さすがにシャツ1枚じゃ、暖房きいてる社内でも寒いか。・・・早く白衣を着よう。
 急ぎ足で、1階の医務室に向かった。
 寒さに身震いしながらドアを開け、医務室の自分のデスク前まで来て「あっ」となった。
 黒のカシゴラのコートが置かれてあった。メモ書きに、『同じものは二ついらないから』と書かれてあった。
 コートを手に取る。
 ふと、自分の髪を撫でてくれたウォレスの温かい手を思い出して、なぜか鼻の奥がツンとなった。
 コートを着込むと、ふいにウォレスの香りがして、温かさが徹夜明けの身体に染みた。
「ダメだよ・・・、こんなの・・・」
 自分でも訳が分からないまま、マックスはそう呟いたのだった。


 その後、女子社員はすぐに気がついたが、一人で歩ける状態ではなかったので、再びマックスが呼ばれた。結局は、マックスが横抱きをして医務室まで運んだ。
 元々ER時代から、医者は体力勝負だということは身をもって経験してきたマックスとしては当たり前の行為だったが、女子社員は酷く緊張していた。しかし、いざ医務室につき、寝心地のいいベッドに寝かされると、安心したのか、彼女は穏やかな睡眠に落ちていった。
 念のため栄養剤を点滴し、しばらく様子を見ていたが、彼女の寝息は落ち着いていて、この深い眠りから醒めれば、回復するだろうとほっと一息をついた。そして、自分が昼食を取っていなかったことに気づく。
 カフェテリアって、まだやってたかな・・・。
 マックスは腕時計に目をやって、再びジャケットを手に取ろうとした。女子社員の枕にしたために皺になっていたが、黒のスーツだったので、さほど目立たない。ふと、その横にかけてあるコートに目が止まる。マックスはしばらくそのコートを見つめて、少しだけそれを撫でると、医務室を後にした。


 その日、公園のいつもの場所でミラーズ社を見つめていたジェイコブの視界の中に、目障りなあのグレイのセダン車が現れた。
 思えば、この車に乗っている男は、ウォレスの自宅にまで押しかけて、低俗ないたずらをしていた。
 ジェイコブはすべてお見通しだった。あのジェイコブを虜にしている男が「ウォレス」という名前で、ミラーズ社では社長秘書をしているということ。ウォレスの自宅の場所。ウォレスには一人娘がいるということ。妻はウォレスが今の自宅に引っ越す前から亡くなっていて、現在パートナーがいないこと。最近、逆恨みされて不愉快な男につけまわされていること。そしてその男が、ウォレスの娘をひき逃げした張本人であるということ。
 ジェイコブのここ数週間に渡る調査努力は、並大抵のことではない。昔憧れた探偵小説やスパイ映画のごとく息を潜めて、忍耐強く情報を収集した。それは本当にスリルのある刺激的な日々だった。こんなに何かに対して積極的に取り組んだのは、新聞の収集を始めて以来である。もっともウォレスという男を知ってから、新聞の趣味の方は少々疎かになっているので、まさにこれほど夢中になったことは過去にないと言い切っていい。
 質屋を巡ってあめ色の皮手袋を買い、母に隠れて貯めていた貯金も下ろしてアルマーニの高価な革ジャケットも購入した。店員には粗野に扱われた節があるが、そのジャケットはどうしても手に入れたかったのだ。
 最近では、あの内向的だった息子がよく鏡を見ているので、母も少々不気味がっている。
 ジェイコブにとって、「ウォレス」に関わることを考えている時が、唯一自分を解放できる時に他ならなかった。
 今までのシミッたれたジェイコブではない。ボスのためなら、いかなる手段も辞さない有能な右腕である。
 だからジェイコブは、車の男がウォレス家に仕掛けた剃刀の刃も、男が車で走り去った後にすべて取り外してやった。ジェイコブは、ボスと美しいボスのご令嬢を危機から救ってやったのだ。人知れず。
 その事実に、ジェイコブの身体は震えた。
 そのことを考えると、興奮が収まらなかった。
 自分は、男の中の男だ。ボスの行く手を阻むものは、何者も容赦しない。
 だからジェイコブは、車の男が許せなかった。
 ジェイコブがウォレスの娘のひき逃げ現場に遭遇したのはまったくの偶然だが(あの時に始めて車の男の存在を知った)、いずれにしても許しがたいことだった。
 ジェイコブは、車の男が愚か者であることは十分に知っている。
 ミラーズ社の前にいれば、この時間、男も現れることは予想していた。
 そして男が車から一切出ず、ウォレスが会社から出てくるまで、その位置に停車していることも。
 ジェイコブだけが存在を知っているタイマーは、今も男の車の下で順調にその時を刻んでいる。そう、もう間もなくだ。
 ジェイコブは、腕時計をチラリと見て、立ち上がった。
 あの量の火薬なら、もう少し離れていた方がいいだろう。
 ジェイコブは、ニタリと笑みを浮かべた。

 

Amazing grace act.17 end.

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編集後記

さらに乙女でしょ(笑)? 好きなこの体操服の匂い嗅いでにやけてる、みたいな(変態ジャン!)。でも次週のマックスは、更に乙女。自分の気持ちを収拾つけられなくなって、頭を掻き毟り、トイレで雄叫ぶという(笑)。まさに、「なんじゃこりゃ~」状態。皆さんの熱望されているスキンシップが訪れるのは、いつのことやら・・・。こうしてまた、読者がひとり、ふたりと倒れていくのね・・・。まさに、当初宣言していた「サバイバル小説(通常と全然ちがう意味で(笑))」の様相を訂してきました。
だいたい、こんなに長く書いてるのに、いまだにキスのひとつもないなんてホモネタサイトでも、異形ですよね(汗)。
「お色気なくて、どうもすみません」・・・地元でし判らんネタをかましてしまいました。

[国沢]

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