act.62
早い時間に帰ってきた二人の姿を見るなり、ウォレスの顔は一気に不機嫌そのものの表情に変化した。
「私は確かに守ってほしいとは言ったが、怪我までしてこいとは言ったつもりはなかったのだが」
こんなにあからさまに感情を表に表しているウォレスを見るのも珍しい。それはマックスでなくシンシアも同じだったらしい。驚き顔で、マックスと顔を見合わせた。
「とにかく、手当てをするからリビングのソファーに」
声まで不機嫌そうなウォレスは、薬箱を取りに洗面所の戸棚を探りに行く。
リビングのソファーに座りながら、シンシアとマックスはひそひそと声を掛け合う。
「ごめんね、マックス。何だかパパ、凄く怒ってるみたい・・・」
「どうやらそうらしいね。正直、こんなことになるなんて・・・」
「言いたいことがあれば、はっきり言いなさい」
リビングの入口で大きな声がして、マックスとシンシアは思わず姿勢を正した。
ウォレスは、マックスの前に跪くとマックスの右腕に巻かれてあるハンカチを解いた。ジャケットごと裂けて、いまだ液体状の血がこびり付いている。
それを見てウォレスは重い溜息をついた。
「パパ、マックスは悪くないの。相手は凄く酔っていて、私を守ってくれたんだから」
ウォレスはちらりと娘を見る。
「そんなことは分かっているさ。だが、どうしてこんなことにまで・・・」
「すみません、ジム。相手の挑発にのってしまったんです。つい・・・」
ウォレスが今度はマックスを見た。下からマックスを見上げる目は、本当に恐い色を湛えていた。
「傷口から言って、相当大きな刃のついたナイフだろう。この程度で済んだ方がおかしい。酔っているからこそ、平気で人殺しができる人種だっているんだぞ。・・・ジャケットとシャツを脱ぎたまえ」
薬箱から消毒液とガーゼを取り出しながらウォレスが言う。
マックスはすっかり意気消沈した面持ちで、ジャケットとシャツに手をかける。
その様子を不安げに見詰めるシンシアは、父親の隣に座って父親の手伝いをしながら必死になって言った。
「パパ、怒らないであげて。元はと言えば、あんな男と付き合ってた私が悪いんだから」
「あんな男?」
「ジャドよ。ジャドなの」
ウォレスは少し遠くを見るように二人から視線を外した。すぐに思い当たったらしい。まるで身近にビール臭い息を吐きかけられたかのように、顔を顰めた。
「ああ、あの男か・・・」
「最初は、マックスだって冷静に対処しようとしてくれていたわ。だけど、あいつがパパに銃口を向けたことをぺらぺらしゃべったから、マックスが怒って・・・」
シンシアの声を聞いて、ウォレスは一瞬息を止めた。そのまま、マックスを見上げる。
怒りの消えたその瞳を受け止め、マックスは少しだけ自嘲気味の笑みを浮かべた。
「すみません。そんなこと聞いちゃったら、どうにもこうにも腹が立って・・・」
ウォレスは溜息をついて俯くと、左手をマックスの膝に置いてしばらくじっとしていた。
「ジム?」
ウォレスはマックスを見上げると、静かな声でこう言った。
「ありがとう・・・。君の気持ちは嬉しい。・・・だけど、あんまり怖い思いはさせないでほしい。誰だって、愛する者を失うことは耐えられないはずだ。もちろん、この私だって・・・」
一瞬マックスの向こうにリーナの儚げな面影が浮かび、ウォレスは奥歯を噛み締めた。
「パパ・・・?」
シンシアは、ウォレスが今にも泣き出してしまうのではないかと、再び驚きの声を上げる。
「すまない。少々、大げさになってしまったな・・・」
今度はウォレスの方が自嘲気味の笑みを浮かべる。そのウォレスを、ソファーから降りたマックスがグッと抱きしめた。
マックスは、正直、ウォレスをそこまで追い詰めるものがなんなのかは全く分からなかったが、自分の想像を越える哀しみがそこにあるのだと感じていた。自分は図らずもその傷口を開いてしまったのだ。
「ごめんなさい。・・・ごめんなさい」
しっかりとした口調で二度そう言った。
シンシアも何かを感じ取ったのだろう。ウォレスの膝に手を置いて、ぎゅっと力を込める。
「シンシア・・・」
ウォレスとマックスが顔を上げると、涙顔のシンシアがいた。
「私もごめんなさい。もう二度とパパには心配をかけたりしないわ」
ウォレスがシンシアを抱きしめ、腕を広げて同時にマックスを抱きしめた。
ロッカーのドアに空いた細い切れ込みから、清掃員の制服を着た男の姿が行き来するのが見える。
ドーソンは、浮かび上がる汗がダラダラと流れ落ちるのを感じながら、必死に息を殺した。
ドーソンが隠れているジェイコブ・マローンのロッカーのすぐ隣が開けられる。
清掃員の男は、隣のロッカーに人が隠れているのにも全く気づかす、私服に着替え、煙草に火をつけた。
ドアの切れ込みの間から煙が入ってきて、思わず咳き込みそうになる。
低血糖症で健康について敏感なドーソンは、煙草を吸わない。窮屈で息苦しいロッカーの中だから特に辛く感じる。ドーソンは鼻先と口を両手で被い、咳が洩れないように何とか堪えた。
そんなドーソンのことなど知る由もない男は、煙草を咥えたまま、どこかで拾ってきたいやらしい雑誌をペラペラと捲っている。
早くどこかに行けよ! 早くどこかに・・・。
無理やり息を殺しているせいなのか、段々眩暈がしてくる。
まずいと、ドーソンは思った。 なるべく音を立てないように、ポケットを探る。
ちくしょう! こんな時に、肝心な飴玉が入ってない・・・。
低血糖の症状がひどくなった時のための飴玉が、今日という日に限って入っていなかった。ここのところ、色々な衝撃的事実を追っているのに夢中で、補充するのを忘れていたためだ。
このままでは、気を失っちまう・・・。
冷や汗が睫に垂れ下がるのを感じながら、ドーソンはカッと目を見開いた。
思いが届けと言わんばかりに、ロッカーの中から男を睨みつける。
どうやら、人間死ぬ気になれば超能力をも発揮するものなのか、男は煙草を傍らの紙コップに投げ入れ、雑誌をゴミ箱に押し込むと、清掃員の事務所を出て行った。電気が消され、鍵が掛けられる音がする。今日は休日なのでシフトも変則なのか、さっきの男が最後の人間らしい。
ドーソンは激しく咳き込むと、ロッカーから転げ出て、まるで池の鯉のように口をパクパクとさせた。汚れた床を這いずって事務所内を探る。
職員が休憩で使っているらしい古びたソファーセットの上に、探しているものがあった。
チョコレートだ。
ドーソンは包み紙を取るのももどかしく、チョコバーを貪り食べた。
しばらくして、ようやく眩暈や冷や汗も納まってくる。
ドーソンは、長い長い溜息を吐いた。
駄目だ。気を取り直さなければ・・・。
さっきの騒ぎで本来の目的を忘れそうになってしまう。
ドーソンは暗い中をまたロッカーのところまで戻ると、開け放されたロッカーの周辺に目をやる。闇にもそろそろ目が慣れてきた。
ロッカーに隠れる前に掴んでいた紙袋が、無造作に床に転がっている。その中から、手の平より少し大きいサイズのノートが出てくる。
ドーソンは、額に浮かぶ汗を腕で拭いながら、ノートを手にとって開いた。
小さな字でびっしりと書かれた文字。時折、写真を切り抜いたものが貼り付けられている。暗がりで、文章内容がなんなのかは分からなかったが、その写真達を見て、ぎょっとなった。
おそらく、マローンの手で大事に大事に切り抜かれ貼り付けられたその写真には、あのジェームズ・ウォレスの姿が繰り返し繰り返し写し出されていたのだった。
風呂から上がったウォレスがバスローブ姿で自分の寝室に戻ると、ウォレスのパジャマを借りたマックスが大きなクローゼットから毛布を取り出しているところに出くわした。
「何をしてるんだい」
濡れた頭をタオルで拭きながらウォレスが訊くと、マックスは毛布を抱えたまま振り返った。
「今日は・・・下のソファーで寝ようと思って」
マックスはそう言って肩を竦める。
今夜は泊まっていけばいい、とウォレスとシンシア両方にそう言われたマックスは、先に手早くシャワーを済ませた後、ウォレスが用意してくれた寝間着に着替えたのだが、いざウォレスのベッドを目の前にして思わず考え込んでしまったのである。
隣はもちろん、シンシアの部屋だ。
ウォレスの部屋に入るマックスの姿を、本当に自然なことのように気にもとめないシンシアの様子が、返ってプレッシャーになってしまう。
ウォレスと同じベッドで眠りたいのは山々だが、今夜はそうもいかない。
「下の部屋で? 寒いぞ」
「毛布があれば、大丈夫ですから」
へへへと気弱な笑顔を浮かべるマックスを見つめ、ウォレスは少し笑う。
「気にしてるのか?」
ウォレスの視線が、シンシアの部屋と隣り合わせの壁を見る。
「そりゃぁ、気にしますよ」
「別にセックスをしなかったらいいだろう。今夜は我慢するよ」
タオルを首にかけ、魅力的な微笑を浮かべるウォレスに、マックスが天井を仰ぐ。
「俺の方が我慢できないんです」
「あ、なるほど」
「・・・おやすみなさい」
毛布を抱えながらマックスは廊下に出る。
「マックス、私が下で寝よう」
部屋から顔を出して言うウォレスに、「俺の方が若いんですよ」と嫌味をひとつ返してマックスは階段を下りた。
Amazing grace act.62 end.
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編集後記
今回も、更新おそくなっちゃってごめんなさい(汗)。
国沢、本日「ハリー・ポッター」デイでした。大阪行った時、嬉しがって買ったDVDです。
いや~、チビの三人の可愛かったこと。ちょっと背伸びしたいお年頃っていうのが実に可愛らしいです。「おしゃま」っていうのがぴったりの年頃ですよね。
国沢、実は原作は読んでいないのですが(今更本をレジに持っていくのが恥かしい気がするんですよね・・・)、夢溢れる作品でしたね。ブリテッシュ・イングリッシュだし!
国沢も英国訛りの英語は憧れます。「アイ カーント」と言ってみたい!!もっとも、英語自体ができないんですがね。ええ。
でも大体学校で教わる英語ってアメリカン・イングリッシュですよね。やっぱり、日本の歩んできた歴史が色濃く影響しているのでしょうか。
ちなみに高校の英語の先生で、イギリス大好きな老先生がいましたが。彼には英語を学べませんでした。今となっては惜しい気がします。
[国沢]
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