act.22
ミルク色の壁が、ムーディーな照明に照らし出されて、今やミラーズ社の吹き抜けのロビーは、趣味のいいダンスホールと様変わりしている。
小気味よく心地いいバンド演奏が、今またメロウな曲を演奏し始める。今度のチークタイムを積極的なご婦人方が逃すはずがない。
黒人のボーカリストが「when a men loves woman」とお決まりのフレーズをシャウトするのと同時に、会場の片隅で隠れていたマックスは強引にフロアに連れ出された。
気づけば、目にも鮮やかな深紅のドレスを着た美女がマックスの首に腕を回していた。ぐいぐいと豊満な胸を押し付けられ、マックスは目を白黒させる。
すぐにマックスはフロア上で取り合いになった。女性達の中でクルクルと回されながら、マックスの引き締まった腰や胸に女達の手が絡む。
「まるで、メスライオンに狙いをつけられたインパラだな」
ミラーズが楽しそうに目を細めて言うと、周囲にいた者達から笑いが起こった。
「かわいそうに、あれじゃゆっくり女の子を選んでいる暇もないわね」
醜い女達の争いに眉をひそめるミラーズ夫人の空いたグラスに、ウォレスがワインを注ぐ。
「ねぇ、ウォレス。あなたどう思って?」
「どうとは、どういう意味ですか?」
穏やかな微笑をミラーズ夫人に向けながら、ウォレスは手元のナプキンでディキャンタの口の汚れを拭った。
「ローズよ。どう思うの、あなた。あなたは主人より人を見る目があるから、ぜひ訊いておこうと思って」
「どうって・・・いい青年ですよ。裏表がなくて、直向で。そして優秀な医者です」
ミラーズ夫人は、ウォレスが軽軽しいお世辞を言うような男でないことは知っている。ミラーズ夫人は嬉しそうに微笑んで、両手を握り合わせた。
「そう、それは素晴らしいわ! なんだかあの子は、人様の子のような気がしなくて。主人から写真を見せてもらった時からずっとそう思っていたの。うちの姪のお婿さんにどうかしら? ウォレス、あなたどう思う?」
そう訊かれて、ウォレスは一瞬言葉に詰まってしまった。
フロア上の困惑した表情を浮かべ、女性とダンスしているマックスの顔を見つめ、ウォレスは何ともいえない気持ちになってしまった。
何か微笑ましいというか、心臓の奥がムズ痒いというか。
「ウォレス?」
ミラーズ夫人に顔を覗き込まれ、ウォレスはゴホンと咳払いをした。
「いや、確かイザベルさんは、ローズ君より幾分年上かと思いまして」
「あら、あなた案外古風なところがあるのねぇ。今時、年上のお嫁さんなんて当り前じゃないの!」
「どうした、何を騒いでいるのだね」
ミラーズが割って入ってくる。
「あなた。イザベルのお婿さんにどうかしらと思って。あの社医さん」
ミラーズが顔を顰める。
「イザベルの? それはローズ君も可哀想というものだろう。イザベルは気が強いし、第一出戻りで子持ちだぞ?」
「子持ちでもいいじゃないの! 私達にはもう後継ぎがいないんだし、親しい血縁ではイザベルしかいないんだから」
「お前はローズ君を何としても家の一族に加えたいのだろう? いい加減にしなさい。ローズ君をマイケルの身代わりにするのはよすんだ」
ミラーズが少々不機嫌になってきた。ここで夫婦喧嘩を始められたらたまらない。ウォレスは懐からミラーズの大好物であるキューバの葉巻を取り出すと、先をカットして火をつけた。二、三回ふかしてミラーズに渡す。
「お、すまんね」
一気にミラーズの顔色が明るくなった。憮然とした表情の夫人には、彼女がいつもつけている香水のプレゼントボックスを渡す。
「メリークリスマス、奥様。もう残りが少なくなったとおっしゃっていたでしょう」というウォレスに、夫人は微笑んで肩の力を抜く。
「まったく、ウォレスにかかっては、私達夫婦は形無しね。本当に嬉しいわ、ウォレス。この香水、手に入りにくいの」
どういたしましてとウォレスは答えながら、視線は何気なくダンスフロアを泳いだ。
あれ? とウォレスは思った。
いつの間にか、ダンスフロアからマックスの姿が消えていた。
遠くでけたたましい女性の笑い声がする。
マックスは大きな溜息をつきながら、次第に薄暗くなっていく3階の長い廊下を覚束ない足取りで歩いていた。
とにかく人のいないところに行きたかった。積極的な女性陣のセクハラまがいなダンスレッスンに付き合うのはもう懲り懲りだ。ああいう風にダンスをしていると不毛な気分になってしまう。
左手のガラス越しに見えるロビーは、今だ沢山のゲストが楽しそうにこの特別な夜を過ごしている。
人気のない廊下で、こうしてロビーの様子を見下ろしていると、まるで下の華やかな風景がブラウン管の向こうの世界に思える。
マックスは冷たいガラス窓に額を押し付け、瞳を閉じた。薄く溜息をつくと、ガラスが白く曇る。曇ったガラスを手で拭うと、その先にウォレスの姿があった。
ミラーズやご婦人方から暫し解放された様子で、彼もぼんやりとパーティー会場を見つめていた。
彼の存在が近くて遠い。今のこの距離感が、自分とウォレスの立場を表しているようで、切なかった。
「なんで、こんな気持ちになる・・・」
そう言って自分を責めても、ただ空しくなるばかりだった。こうして静かに佇んでいても、溢れ出す感情はマックスを翻弄し続けている。30を目前にして、今更自分がこんな感情に囚われるなんて。しかも、同性相手に。
メアリーは、暗にこのことを察していたのだろうか。かつての恋人が、男を愛していることを。だとしたら、どう思ったのだろう・・・。
マックスは両手の拳をガラスに叩きつけた。
自分には、勇気がない・・・。
認めてしまうのが怖かった。マックスは、ゲイの人々に対して偏見は持っていないとはっきり言える自信があったし、学生時代も同級生にゲイの友達はいた。性の趣向が、どの方向を向いていようと、それが個人の価値に直結するものではないと、今でも思っている。
だが、いざ自分がその立場に立たされてみると、最後の一歩を踏み出す勇気がない。他人からそう見られる怖さというより、ウォレスに拒絶されることの方が怖かった。
だが、どんな顔をして会えというのだろう。気のいい部下としてか。自分の感情を押し殺して、にこやかに彼と話せと?
どちらにしても、勇気がない。
彼に告白するのも。自分の感情を押さえ込むのも。
マックスがきつく瞳を閉じたその時。
「!」
背後から羽交い絞めにされた。
なに?!
呆気に囚われている間に、暗がりのオフィスに連れ込まれた。
背後で酒臭い男の息遣いが聞こえた。
「は、・・・放せ!!」
首に回された腕が、ぎりぎりとマックスを締め付けた。顔に血が昇るのが分かる。額に浮き上がった血管がドクドクと脈打つ。
「だっ・・・だれ、だ・・・っ!」
苦しい。このままでは気を失ってしまう。
マックスは、思い切り背後の男の足と思しき場所を思い切り踏みつけた。 「ぎゃぁ」と悲鳴が上がって、ふいに喉が解放された。マックスは激しく咳き込みながら、前方へ転がった。素早く振り返ると、廊下から差し込む薄明かりの中、血走った男の瞳が見えた。
「キングストン!」
そう叫んだつもりだが、喉がつぶれてうまく声が出なかった。
「今すぐ、この会社から出て行け」
唸るような声でキングストンが言った。
「お前のせいで、今期の俺の計画は台無しだ。どれぐらいの損失か、お前に分かるか? こっちは昇進がかかっていたんだ。どこの馬の骨かも判らんお前なんかに、俺の苦労が分かるか?!」
マックスは、なおも激しく咳き込みながら、ややかすみがちな目を擦った。
「何の苦労もしてませんってツラしやがって。お前ほど鼻につく新入社員はいないぜ」
「こんなことして、許されると思うのか」
声が思うように出ない。
キングストンが笑う。
「許す? そんな問題じゃないんだよ! 会社を辞めると言え。言わないと、こうだぞ」
キングストンが懐からナイフを出す。馬鹿げた話だと思ったが、キングストンの目は冗談ではなかった。
キングストンがナイフを振りかざす。酔っているとはいえ、キングストンのナイフ捌きは確かだった。やばいと思ったが、自然に身体が動いた。
次の瞬間には、見事ナイフを避け、右の拳がキングストンの顔面のすぐ前で止まっていた。「ひっ」とキングソトンが声を上げて身体を硬直させる。 自分でも信じられなかったが、学生時代、ボクシングで培った動きがマックスを救っていた。キングストンを殴らなかったのは、医者としての良心か。
キングストンが口を戦慄かせながらマックスの拳を見る。
「バカな真似はよしてください。今なら、酒のせいにもできる」
怯んだキングストンを見て、一瞬マックスが気を緩めた瞬間。
激しく後頭部を殴られ、髪の毛をつかまれ、床に額を打ち付けられた。
鼻の奥に温い感覚が広がった。直に鼻の穴から鉄臭い液体が流れ出てくる。
グイグイと顔を床に押し付けられ、押し倒された背中に馬乗りにされた。
「なるほど、聞いたとおりの育ちのいいお坊ちゃまだ」
キングソトンとは違う、明らかに悪意のこもった男の声だった。
「もう一人いることに気がつかないとはな・・・」
低く唸るマックスの顔の横に、男の顔が近づいてくる。見たことのない顔だった。上品そうなタキシードを身につけていたが、その目は決して上品ではなかった。
「キングストン、お前は確かにバカだよ」
男が、笑い声混じりにそう言う。
キングストンが、すぐ側にしゃがみこむのが気配で分かった。
「このお坊ちゃんを本気で追い出したけりゃ、もっと工夫をしなきゃ。ナイフで脅したって、仕方がない。もっと怖い目を見てもらわないとな。そう・・・、怖くて、しかも人に言えないようなことさ」
男が何を言っているか意味が分からず、マックスは歯を食いしばりながら男を睨んだ。
「人に言えないようなこと?」
キングストンも今ひとつよく分からなかったらしい。男はじれったそうに唸ると、マックスの髪を掴みなおし、後ろに引っ張った。血で汚れたマックスの顔が反り返る。髪を引っ張られる痛みに「うぅぅ・・・」とマックスは声を上げた。額も痛かったが、後頭部が割れるように痛かった。
「見ろよ。上玉だ。男にしとくのはもったいない。この勝気そうな瞳もチャーミングだ。この目が屈服するところをぜひ見たいね」
「そうか、お前、あっちの趣味があったよな」
事情を飲み込めたキングストンが、嫌な笑い声を上げる。
「男が男にレイプされたとなると、そりゃ言えるはずがないわな。お前もよく考えるよ」
「こいつを追い出したいのはお前だろう? お前もこの坊やの味を味わったら、テメエの女房なんか退屈で抱けやしなくなるぜ」
さすがにマックスは青くなった。
学生時代、その容姿のせいからこのようなトラブルがなかった訳ではない。だが、これまではそのボクシングの腕で切り抜けてきたし、マックスは友人が多かったから、意外にそんなトラブルは少なかった。友人達がそれとなく守ってくれていた感もある。
今自分を押さえつけている男は、こういうことをしなれている奴だ。マックスはそう思った。
男は、相手のどこを押えれば拘束できるか知っているし、何より余裕があった。キングストンとは友人関係にあるようだが、いずれにしてもろくな友人でないことは確かだ。
「少し大人しくしてもらおうかな」
男がそう言ったのと同時に、またも頭を床に打ち付けられた。
ダメだと思いつつ、意識が遠のいていった。
Amazing grace act.22 end.
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編集後記
くしくも、こんな場面で次回おあずけ(汗)。国沢、もう最悪です(汗汗)。狙った訳じゃないのに~~~!
毎週楽しみにしていただいている皆様には、ホントご迷惑をおかけします・・・。蛇の生殺し・・・。
皆様の絶叫が聞こえてきそうですが、その頃には国沢は、ネット世界と完全に決裂している土地へと揺られていきます。(ドナドナ)
題して、「怒涛の勤労週間・炎の野外キャンプ・イベント裏方作業従事者となる(地獄のテント生活付き)」。
なんてハードな会社なの・・・。合言葉は、「ホタルになって帰ってきます」。
皆さん、国沢の無事の生還を祈ってください・・・・。
[国沢]
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