act.126
それからしばらく一見すると平穏な日々が続いた。
早朝マックスがトレーニングウェア姿のシンシアを車で学校まで送った後、家に帰って軽いジョギングをして、ウォレスと朝食を取る。それから二人で会社に出かけ、一日精力的に社内を飛び回る・・・。
マックスがERに復帰したいと考えていることについては、早々にベルナルドに伝えられた。ベルナルドは非常に残念そうな表情を見せたが、マックスの考えをしっかりと聞き、やがて納得をしたようである。ただし、後任者が決定しマックスが現在行っている業務を完全に引き継ぐまでは会社に止まってくれるようにと言われた。
現在マックスが行っていることは、社員に対する個別の健康相談やこまめなバイタルチェックなど、自発的に始めたことが数多くあった。どれもが社員の身体やこころの健康に気を配っているものが殆どで、ベルナルドはマックスのそんな仕事ぶりを高く評価していたのだ。以前の社医ほどスポーツ工学に関する仕事の能力については十分でなかったが、社員が健やかに笑顔で働ける職場作りにマックスは今や重要な役割を果たしていた。もしマックスがここを去っても、マックスが社に与えたよい影響をずっと維持していきたいとベルナルドは思っているようだった。
一方、ウォレスもまた、数多く襲いかかる仕事の波に飲み込まれることとなった。会社に復帰した当初は短期間に処理する仕事が多かったが、次第に副社長のビルから回されてくる仕事の中に長期のものも含まれてくるようになり、名実ともに昔のジム・ウォレスが復活したと言えた。ウォレス自身も会社の為に力を尽くせる喜びを肌で感じていた。
こうして表面上は穏やかな日々がしばらく続いた。
ジェイク・ニールソンの影に怯えることもなく、ごく普通の日常生活が続く毎日。そしてマックスやシンシア、ウォレスまでもリーナの指輪の一件を記憶の隅に起き始めた頃、それを現実に引き戻す出来事が彼らの知らないところで起きていた。
セス・ピーターズは、三週間にも及ぶ激務からようやく解放された。
先のパブ店主強盗殺害事件で、ハドソンがいない間にセスが殺人課に粉をかけていたことがハドソンの神経に触れたらしい。セスの所属する爆弾処理班のチーフであるデビット・オリバーにきつい嫌みでもお見舞いしたのだろうか。オリバーははっきりと言わなかったが限りなく機嫌は悪く、セスは二週間ほぼ缶詰状態で仕事を押しつけられた。有り難いことにホッブスという相棒と言う名の『監視員』つきだ。いつものセスなら多少手綱を締め付けられてものらりくらりと交わせるのだが、今回はオリバーも本気らしい。ホッブズが「お前のクビを飛ばさないためにも、班長は必死なんだぞ」と言われ、流石のセスも今回ばかりはおとなしくしているしかなかった。頭の片隅にあの指輪のことが気にかかっていながらも・・・。
そして今日、セスは久々に日が出ているうちに署を出ることができた。署を出際、オリバーから「今度何かをする時はハドソンのテリトリーに触れないように気を付けろよ」と低い声で囁かれたが、それがオリバーの優しさでもあった。
セスは署を出たその足で、消防署の火災原因調査員ハリー・フレドの元を訪れたのだった。
フレドは、セスが出向く現場には必ずと言っていいほど現れる男だ。セスより二周りも年上だったが馬が合い、時間が合えば飲みに行くこともある。
フレドのオフィスを訪れた時、フレドは火災現場から帰署したところだった。
「いや丁度よかった。さっき帰ってきたばかりでな」
汚れたシャツを新しいものに着替えながら、フレドは出っ張ってきたビール腹をベルトの向こうに押し込んだ。
「随分忙しそうですね」
すすめられた椅子にセスが腰掛けると、フレドは自分のデスク上の書類をデスク下の『処理済み』と書かれた段ボール箱にポイポイと投げ入れながら顔をしかめた。
「やっと爆弾魔が捕まったと思いきや、放火だなんだとお忙しさ。世の中本当に世知辛くなってきたもんだ」
フレドは自分の椅子に座ると、電話の内線を押して「おい! コーヒー持ってきてくれ!! 二つ!」とがなり声を上げた。
「いや、すみません。すぐ失礼しますよ」
セスがすぐにそう切り返したが、遠慮すんなとでも言わんばかりにフレドは手を振る。
「で、今日はなんで? 例の爆弾魔事件でさらにうちが提出しなけりゃならんものがあるのかね」
椅子の背もたれに寄りかかり、フレドが訊いてくる。セスは「その件ではないんですが・・・」と言葉を濁した。
「実は消防署の記録で調べたいことがありまして」
フレドがふん・・・と鼻を鳴らす。
「俺に言ってくるところを見ると、公式じゃないってことか」
セスは笑顔を浮かべ肩を竦める。フレドもニヤリと笑った。彼もセスの性分はよく知っている。
「聞くところによると、あのハドソンに楯突いてるそうじゃないか。お前さんもなかなかやるな。結局のところ、そこに関わってくる話か」
「ええ、まぁ」
フレドは頷いて「よし、分かった。で、何を調べたい?」と訊く。
「今月の頭頃の話なんですが、クラウン地区のパブで起きた強盗殺人事件の被害者をセントポールに搬送した救急チームが誰だったかを知りたいんです」
フレドは再びふんと鼻を鳴らして、
「問題ない。問題ないよ。市内の救急隊の出場記録は隣の救急管制センターで管理しているから直ぐに分かる。日付は分かっているんだろ?」
「ええ」
フレドはよしと呟き、「今一緒に行ってみるか」と腰を上げる。同時にニキビ面の若い消防署員がコーヒーカップののったトレイ片手にフレドのオフィスのドアを開けた。
「遅い!」
消防署員に一言そう言ってオフィスを出て行くフレドの後を追って、セスもオフィスを出ていった。後には、トレイを持ったまま、ぽかんと立ちつくす若い消防署員だけが取り残された。
フレドのお陰で、管制センターの担当者からスムーズに情報を得ることができた。
瀕死だったローレンスをセントポール総合病院のERに運んだチームはすぐに分かった。
セスはそのチームの所属分署と氏名をプリントアウトしてもらい、フレドに礼を告げた。
ウィリアム・コンラッド
ジェーン・ロック
そこにはクラウン地区にほど近い消防分署に所属している救命士の名前が印字されていた。
ウィリアム・コンラッドにジェーン・ロック・・・ジェーン・・・ジェーンか。
セスは何となくそこに何かがあるような匂いを感じて、すぐさま消防分署に向かった。
幸い、コンラッドにはすぐに会うことが出来た。
救急の職についてまだ二年目の熱血漢で、セスがC署の爆弾処理班に所属していることを知ると途端に緊張した顔をして見せたが、それは単なる気負いなだけで、およそ怪しいところはなかった。セスがローレンスを搬送した状況を訊くと、ハキハキとした大きな声で答えを返してきた。
結局のところ、コンラッドは運転をしていただけでローレンスに処置を図ったのは熟練の女性救命士ジェーンであるらしい。コンラッドが手を貸したのは現場でローレンスの身体をストレッチャーにのせる際手伝ったに止まり、ローレンスの指に指輪が填められていたかどうかもよく覚えていないと言う。怪我の状態が酷く全身血塗れだったローレンスの身体は、ストレッチャーにのせられた後周囲の野次馬から傷を隠すためにすぐジェーンがカバーを掛けたとのことで、おそらくコンラッドの記憶にも残る暇がなかったのだろう。それともやはり、最初から指輪なんてものは存在しなかったのか。
いずれにせよジェーンに訊くまでは真相は掴みきれなかった。
当のジェーンはその日長期休暇を取っており、実家に帰省しているとのことだった。だが翌日の午後にはシフトが組まれているから、会えるはずだと教えて貰ったので、結局セスは翌日の昼休みに出直すこととなった。
その日の晩、夕食の後かたづけをして帰宅するデイビスをマックスが車で送り、帰宅をするとシンシアとウォレスが仲良くソファーに並んで座ってマックスを見上げていた。
「え・・・? な、何?」
マックスは、思わず顔を赤面させながらテレ笑いを浮かべていた。
ソファーに座っている二人が、マックスの笑みに答えるようにニコ~と笑顔を浮かべる。
シンシアはともかく、ウォレスまでもまるでいたずらっ子になったかのような表情に、マックスは戸惑いの表情を浮かべた。
そんなマックスを余所に、シンシアがいそいそと立ち上がってマックスの手を引き向かいの一人掛けのソファーに腰掛けさせた。
「何ですか? え、ホント、何?」
マックスはきょときょとするしかない。シンシアは笑顔を浮かべたまま、二・三歩後ろに下がる。代わりにウォレスがマックスの前に跪いた。
彼の顔からは既に笑顔は消え、素晴らしく穏やかな表情が浮かんでいる。
彼はスラックスのポケットから小さな小箱を取り出すと、マックスの前に差し出した。
マックスは頭が真っ白になる。
口を戦慄かせるマックスの前で、小箱が開けられた。
シンプルなプラチナのリングだった。
「受け取ってくれるかい?」
マックスは箱の中のリングを見た後、ウォレスの左手に目をやった。
薬指にあった筈のゴールドの指輪は、今プラチナの輝きを放っていた。
「え・・・っ、ホントにこれ・・・い、いいんですか?」
マックスは戸惑うようにシンシアに目をやる。シンシアは何も言わず、笑顔を浮かべたまま、小さく手を叩いた。
「サイズは多分あっていると思うが・・・・」
ウォレスが小箱から指輪を取り出す。
そっとマックスの手を取り、その指に指輪をすっと通した。
ウォレスに触れられたところから火が噴いたようにカッカとする手に、ひんやりとしたプラチナのリングが余計印象的に感じる。
「君が私にとってどれだけかけがえのない人なのかを分かって欲しかった。君は世界で唯一の人だ。どうかこの指輪を受け取って欲しい」
恥ずかしいぐらいに左手がブルブルと震える。
マックスは食い入るように、自分の指に填められた指輪を見つめた。
「もし外でするのが恥ずかしかったら、この家の中だけでもいいんだ。だだ君に私の気持ちを持っていて欲しかった。だから・・・」
マックスは、指輪をそっと撫でる。
きっとウォレスは指輪の存在に一瞬でも拘ったマックスの気持ちに気づいていたのだ。だから彼なりに意を決して指輪を買ってくれた。そして自らの指に填められてあった指輪を取った・・・。
そう思った時、やはり涙が出るの押さえきれなくなった。
「ジム・・・!!」
顔をくしゃくしゃにして泣くマックスをウォレスがぎゅっと抱きしめる。そして耳元で囁いた。
「あの日、君が私を教会に連れていってくれた日、こうして私を抱きしめてくれたね。あの時、私は本当に肌で感じることが出来たんだよ。新しい人生を共に歩んでくれる人は、まさにこの人なんだということを」
マックスは抱きつき返しながら、だがまだ戸惑いを止められなかった。
「でも、でも、あの指輪は・・・」
マックスがそう訊くと、ウォレスの肩越しに見えるシンシアがブラウスの胸元を少し開いて、ゴールドのチェーンの先に光るあの指輪を見せた。
「おさがり、おねだりして貰っちゃった」
三人は顔を見合わせて笑った。そして三人でぎゅっと手を繋ぎあったのだった。
翌日の昼、セスは道々ハンバーガーを頬張りながら例の消防分署を訪れた。
署員にジェーン・ロックの居場所を訊くと、ガレージの奥で救急車に載せる備品のチェックを行っているという。
セスは受付にいた署員に礼を言ってガレージの奥に足を進めると、確かに女性の署員がスチール製のロッカーの中をごそごそと探っていた。
「ジェーン・ロックさん?」
セスが声を掛けると、栗毛色でそばかす顔の中年女性が振り返った。
「はい?」
そう答えながら身体を起こした彼女の左手人差し指に、ゴールドの指輪が輝いていた・・・。
Amazing grace act.126 end.
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編集後記
更新遅れちゃって、本当にごめんなさい。
過去初めての月曜更新になってしまいました。
そして本日国沢、胃カメラ決定とあいなりました(滝涙)。
ううううう~。いやだよぉ~。明日病院行くの・・・。
長年このポンコツ胃袋よ付き合って参りましたが、そいつと明日対面できます(大汗)。気分的には見たくないです。一体全体、中でどんなことになっているのだか・・・。笑顔でこんにちはvって挨拶できるような胃袋ならステキなんだけど、こればっかりは見てみないと分かりません。
ということで、ただいま断食中。うぉ~~ん。
皆々様には大変ご心配をおかけして申し訳ないです。いたわりメールありがとうございました(涙)。
[国沢]
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