窓辺の下に、黒いコート姿の男が車に乗り込むのが見える。
　彼の娘を車に乗せた後、彼は後ろ髪を引かれるように、少し家の方をかえりみた。
　マックスは、咄嗟にカーテンの陰に顔を隠した。そして、そんな自分に嫌気が差す。なにも、隠れる必要なんてないじゃないか・・・。
　いくら気持ちに踏ん切りをつけるとは言っても、やはり愛しい人の立ち姿に違いなかった。カーテン越し、2階の窓からこうして遠くに姿を眺めるだけでも胸が痛い。
　車の発進音がする。マックスは手で両耳を塞いだ。やがて長い溜息をつく。
　結局、ウォレスには直接会えなかった。実は、挨拶ぐらいはできるだろうと自分でもたかを括ってはいたものの、もう一人の自分が言うことを聞いてくれなかった。
　シンシアとは何のわだかまりもなく自然に話すことができた。気立ては強いが、優しい少女である。マックスの顔の傷も殆ど治りつつあったし、二人で映画を見に行った。
　新年初めの映画館はとても込んでいて、席に座るのもやっとという状態だったが、なかなか楽しい時間を過ごせた。ロマンスの映画を見ようと強請られるかと思いきや、歯切れのいいアクション映画を見ようと言われたので意外に思ったが、その方が気楽に楽しめたのでありがたかった。シンシアが、マックスに気を使ってくれたのかもしれない。
　映画館を出た後は、近所のダイナーで軽い食事をした。
　シンシアはストロベリー・パンケーキを頼み、マックスはピザを頼んだ。
　まるでお決まりのデートコースだったが、マックスにしてみれば可愛い妹との休日という感じで、リラックスした時間を過ごすことができた。
　こうしてシンシアと一緒にいると、シンシアはあまりウォレスには似ていないことがよく判る。性格や気性もそうだが、顔の形や癖もあまりウォレスを連想させない。そのことが返ってマックスの心を安らげた。
　シンシアは憧れのマックスとのデートとあってはしゃいでいたが、マックスが今度の事件以外にも何か問題を抱えているということに気づいているようだった。
　女という生き物は、男よりも俄然直観力が逞しい。やがてシンシアがジンジャーエールの入ったグラスの氷をストローで突っつきながら言った。
「マックス、何を悩んでいるの」
「え？」
　マックスは顔をシンシアに向ける。そうして初めて、自分が窓の外をぼんやり眺めていることに気がついた。
「ああ、ごめん。なんだっけ」
　変に焦って謝るマックスに、シンシアは少し笑った。
「何かマックス、パパみたい」
　シンシアはそう言いながら、わざと眉間に皺を寄せて窓の外を眺め、口に右手を持っていった。どうやらウォレスの真似事のようである。
「パパもね、朝こういう感じだったの。ぼんやりして」
「そう・・・」
　恐らくウォレスは、自分の言ったことについて悩んでいるのだ。苦しい思いをさせているのだろう、自分は。
「マックスって、誰か好きな人がいるんでしょ」
　大きな瞳を瞬きさせながらシンシアがマックスの顔を覗き込む。
「マックスって、考えてることがすぐに判っちゃう。だって顔に出やすいんだもん」
「そ・・・、そんなことないよ」
　マックスはようやくそう言って、ピザを頬張った。ダイエット・ペプシでそれを乱暴に流し込む。
「残念ながら、その相手はシンシア・ウォレスじゃなさそうだけど」
　口を尖らせながらシンシアが言った。
「だから、そんなんじゃないって」
　ついきつい口調になってしまったが、シンシアはそんなこと気にしない。
「相手は誰だって訊いたって、そんな調子じゃ教えてくれないんだろうな・・・。ね、素敵な人？」
　シンシアが身体を乗り出す。
「それぐらい教えてくれたっていいでしょ？」
　あなたを元気にしてあげたお礼にと茶目っ気たっぷりの表情でシンシアが言う。
　マックスは観念する他ない。レイチェル同様、このお嬢さんも憎めないのだ。
　マックスは少し笑って、大きく息を吐き出すと、両手で顔を擦った。少し充血した瞳で、窓の外を見る。
「とても素敵な人だよ・・・。本当に、掛け替えのない人だ・・・」
　そう言ったことで、やはりマックスは自分の気持ちを改めて思い知らされることとなった。正直、シンシアの前だから何とか堪えることができたが、また涙が出てきてしまいそうだった。人を好きになることが、こんなに泣けることだったなんて。　だからシンシアを迎えにきたウォレスと顔を会わせる事ができなくなった。どうしても、会えない。会うと、また何を言い出してしまうか判らない。せっかく踏ん切りをつけようとしているのに、もうくじけそうになってしまう。
　なんでこんな風になってしまったのだろう。こんな風に人を想ったことは今までに経験したことがない・・・。
　２階の窓に背を向け、マックスはそのままズルズルと座り込んだ。息苦しさを感じて、胸を押える。
　人間とは、不思議な生き物だとおぼろげに思った。
　ただの電子信号に過ぎない「感情」というものが、身体のシステムをも麻痺させてしまう。人間は、恋をしすぎると死んでしまうかもしれない・・・なんて馬鹿げていてセンチメンタルなことも考えた。
「・・・しっかりしろよ、お前」
　蹲ったまま、目をつぶり溜息をつく。と、正面のドアが開いた。ウォレスとシンシアを送ったばかりのレイチェルだった。
「彼、帰ったわ」
「知ってる」
　レイチェルは、少し肩を竦めるとマックスの隣に同じように腰を下ろした。
「・・・彼・・・、いい人ね。あんたが言った通り」
　マックスがレイチェルを見た。レイチェルは少し困ったような表情を浮かべていた。
「あんたが好きになるの、判るわ。・・・彼も悩んでるようだった。あの人がどんな人生を歩んできたかは判らないけど、彼は誠意のある人よ。あんたが言ったことをきちんと受け止めて、考えて、悩んでる。・・・本当に、いい人。・・・ちゃんと、諦められるの？」
　手のひらに汗がしっとりと浮かんでくる。マックスはぐっと拳を握り締めた。
「できるよ。・・・できるさ」
　マックスは、強い口調でそう言った。


　セスがその酒場を訪れるのは、２年振りのことだった。
　新年の休み気分の抜け、世間がまた普通の生活に戻って行き始めた頃、セスは外国人街の外れにあるその酒場のドアを開けた。
「ハイ、ローレンス」
　相変わらず無骨な風情の店内に、様々な肌の色をした客が低い声でしゃべりながらグラスを傾けている。飴色に輝く一枚板のカウンターの奥に、白く豊かな髭を蓄えた老人が、ギネスビールを前にぼんやりと座っていた。
　日はまだ高い。やや閑散とした昼間のパブそのままの空気がそこにあった。
　セスのお目当ての人物は、カウンターの向こうで楊枝を口に咥えながら、テレビに映し出されたサッカーの試合を見つめていた。だが、新しい客が誰かを確認すると、渋い表情を見せた。セスがここに来た理由を既に察しているようだった。
「そんなに嫌そうな顔しなくても。久しぶりだなぐらいは言って欲しいね」
　笑い声をあげながらセスはカウンターに腰を落ち着けた。
　ローレンスは何も言わず、セスの前に小さなグラスを置くと、そこにテキーラを注いだ。
「お！　覚えていてくれて光栄だな」
　セスはそう言って一気にグラスの中の液体を喉に流し込んだ。
　来たなりにまずは一杯のテキーラを煽るのがセスの好みだった。
　２年前、ある爆弾事件の捜査協力要請のために、足しげくこのパブに通った。
　テキーラを煽ったのは、最初はローレンスを自分に引き込むためのハッタリに過ぎなかったが、やがてそれがセスのスタイルとなった。
「今度は何の用だ」
　大ぶりのグラスに国産のビールを注ぎながらローレンスは言う。
　この司祭のような風情のバーテンは、客に媚びるということがまったくない。よくこれで店に客が入るものだ。
「判ってる癖に」
　セスがそう言うと、ローレンスはちらりとセスを見てビールを出した。
　また新たな客が入ってきて、ビールを頼む。
「ちょっと待っていろ」
　ローレンスはそう言って、新たな客にビールを出しに行った。すぐに戻ってくる。
「今度もまたエドワーズの差し金か」
　グラスを拭きながらローレンスが言う。
　ロバート・エドワーズは、セスの所属する爆弾処理班のチーフで、セスにローレンスの存在を教えてくれたのがそのエドワーズだった。
　ローレンスは元ＩＲＡに所属していた革命家で、テロ活動にも荷担していた経歴の持ち主であった。あちらで刑務所に服役した後、アメリカに移住してきた。
　ローレンスがこの街に移り住んできた時、前科者ということで警察当局も彼の存在に敏感になった。だが、彼が彼の過去と完全に決別していることを知ると、今度は警察当局自身が彼に意見を求めるようになった。ローレンスの爆弾に関する知識は豊富で、エドワーズは数多くのことをローレンスから教わっていた。
　ローレンスは気難しい男だが、実直な男でもある。そこにセスも惹かれた。
　セスは店のマッチで煙草に火をつけると、美味そうにそれを吹かした。
「今回は俺の独断でここに来たのさ。チーフもあまりにやることが多すぎて、あんたのことまで頭に思い浮かばなかったらしい」
　ローレンスは再び顔を顰めた。だが今度の表情は、事件がそれほど難航していることに驚きを隠せないでいるというような感情が読み取れた。
「今回のミラーズ社の前で起こった事件。トレント橋の事件と同じ奴の仕業だと思うかい？」
　セスが上目使いでローレンスを見つめる。だが、ローレンスは顰め面のままで唸り声を上げるだけだった。その目の前に、例の配線図のスケッチをすっと差し出した。ローレンスの目つきが明らかに変る。その目は、何かを知っている目だ。
　さりげない身のこなしのセスだったが、やはり彼は抜け目のない警察官でもある。彼はローレンスをコントロールしつつあった。
　ローレンスが目だけをセスに向け、溜息をつく。
「確かに・・・・確かに、同じ犯人だ。さては先の事件の情報をその筋からわざと流したのは、お前か」
　セスは二ヤリと笑った。それを見てローレンスは、「道理でたやすく情報が手に入った訳だ」と悪態をついた。
「この配線図について、感じることはないかい？　いや、あんたは知っているんじゃないかな。心当たりがあるって顔をして見せた」
　景気よくビールを煽りつつ、セスが言う。ローレンスは肩を竦める。
「どうだかな」
「白を切っても無駄だよ。人が悪いなぁ。これは、IRA時代にあんたが作ってたものによく似ているんじゃないのかい？」
　しばし二人の間に沈黙が流れる。テレビから、騒がしい観客の歓声が沸き起こった。セスはちらりとそちらの方を見やって、新たな煙草に火をつけた。
「この俺が作ったとでも？」
「違うのかい？」
　そう言いながらもセスは、ローレンスが作った爆弾とは、ほんの少しも思っていなかった。だが、こう言う風に持っていくしか、この老バーテンの口は開けないということは判っていた。
「冗談じゃない。必死の思いでこの国に逃げてきて、今更そんな商売に手を汚すなんて、そんなバカなことする訳がない」
　確かにその通りだ。ローレンスは頭がいい男である。そのぐらいの分別はつけることができる男だ。
「だが、これはアンタが元いた国のスタイルだよ。あんたが作らないとして、他に誰がそんなことができる？　ジェイクか？　ユアンか？　それともリアム？　どの面子も今ひとつ説得力がない。この配線図には、あんたレベルの知性があるんだよ。ポリシーが感じられる。この街でこんなものを作るとしたら、アンタかアンタの手ほどきを受けた人間のはずだ。違うかい？」
　ローレンスは何も答えずにじっとセスを見つめた。そして身を乗り出してセスに顔を近づけると、こう言った。
「俺は爆弾なんて作らないし、誰にも教えたりしない。それはお前もよく知っているはずだ。・・・違うかい？」
　まるで噛み付くような老兵の瞳だった。

　

Amazing grace act.28 end.

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