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act.92

 病室のドアを開け放ったのは、紛れもなくあのハドソン刑事だった。
 彼は一際難しい顔をして、マックスを睨む。
 マックスもマイクもその物々しい様子に思わず言葉を失って、ハドソンが次に何を言い出すのか、固唾を飲んで待つしかなかった。
 ハドソンがゆっくりとした足取りでベッドまで近づくと、側の丸イスに腰掛け、じっとマックスを睨んだ。
 さすがのマックスも生きた心地がしない。
 シーツの下にある両手は、冷たくなって小刻みに震えていた。
 奇妙な緊張感がしばらく続いた後、ふいにハドソン刑事が息を吐いた。
「いやぁ、ありがとうございます」
 ハドソンが言った言葉に、マックスもマイクも我が身を疑った。
 マックスはこれまでの状況も気にかける間なく、思わず「は?」と間抜けな声を上げた。
 ハドソンは、マックスに「野暮なことは言わなくていい」というように顔をオーバーに顰めてみせる。
「私はね、てっきりあなたが正気を取り戻した時、我々の前から姿を隠すものと思っていたのですよ。あなたが何かを隠していて、それでそういう芝居を装っていると」
 事実そうなので、マックスとしては肝がつぶれる思いだった。
 次にハドソンが何を言い出すか気が気でなかったが、ハドソンはそんなマックスの心中などお構いなしに、いたって普段の様子で言葉を続けた。
「まさか有力な証言をくださったばかりか、我々の立場まで庇っていただく形になり、感謝しています。でもま、演技などせず、できればもっと早くお聴きしたかったですな、有力な手がかりは」
 そのハドソンの言葉に、マックスは思わずマイクと目を見合わせる。
 全く何がなんだか分からない。
 昨夜から今朝にかけて、一体何が起こったのか・・・。
 マックスにはまったく想像ができなかった。


 その薄汚れたホテルの一室は、朝になっても全く日が射してこない。
 窓の外は、薄汚れた煉瓦の壁。となりの雑居ビルだった。
 ベッドのスプリングはすでにスプリングの役割を果たしておらず、シーツは受付でクリーニング代を徴収された割にはどことなく変色していて、およそ清潔とは言えない。
 だがウォレスの経験上、潜伏生活を続けるには、こういうホテルの方が向いていることを知っていた。現金を使い前金支払いさえすれば、後は余計な詮索をしてこない。大都会でなら、その気になれば幾らでも身分を隠して生活することは誰にだって可能だ。少しの知識と金さえあれば。
 ウォレスは、立て付けの悪いドアを閉め、チェーンをかけるとドアを背にして両手で顔を覆った。
 吐き出す息は、情けないほど震えていた。
 ウォレスはぎゅっと目を閉じて、顔をこする。
 すっかり伸びた無精ひげがゾリゾリと手のひらを刺激した。
 ウォレスは顔を洗おうと洗面所に向かったが、その足下はおぼつかなかった。
 今まで外にいて気が張っていたが、一人きりになると自然に恐怖がわき上がってきて、身体の自由さえ奪っていった。それほど、彼の心の傷は深かった。
 長年忘れた感覚だった。
 毎晩夢の中では慣れ親しんだ恐怖だったが、こんなに身につまされることは久しぶりだったからだ。思えば、ベルナルド・ミラーズに拾われるまでは、常にこのような恐怖に怯えていたことを思い出す。
 ウォレスは、うす汚れた洗面台の上の蛍光灯をつける。
 蛍光灯の光で更に青白く浮かび上がった顔が鏡に映った。
 一流企業の社長秘書をしていた頃の面影はなくなりつつある。
 乱れた真っ黒い髪。濃いクマに彩られた濃紺の瞳。青白い顔色。無精ひげ。
 ミラーズ社に勤めていた頃とは違う、闇の人間だけが持つことの許される暗い色気が漂っている。
 昨夜は、一睡もしていない。
 結局マローンの周囲を探り、彼が仕事を終える夜中までつきあい、彼の家も突き止めた。
 手作りの爆弾をまるで恋人のように肌身離さず持ち歩く青年は、真面目に仕事をこなすと作業着のまま家路についた。部屋の中まで様子を探ることはできなかったが、家に帰るとすぐに電気が消えたところを見ると、就寝したらしい。だが、ウォレスはその場から離れることが出来ず、アパートの入口とマローンの部屋の窓が伺える場所に立ち、一晩中様子を窺った。ひょっとすれば、あのジェイクが現れるかもしれないと思ったからだった。・・・いや、それよりも蘇ってくる恐怖と復讐心に足がすくんで動かなかったせいか。
 ウォレスは凍てつく水でバシャバシャと顔を洗い、水滴の滴る顔を再び鏡に映した。
 まるで死人のような顔つきだった。
 ウォレスは突如、狂ったかのように衣服を脱ぎ始めた。
 肌寒い空気の中に、逞しい上半身が露わになる。
 ウォレスは自分の背中を鏡に映すと、振り返って腰元の一番残忍な傷を見やった。
 『お前は俺のもの』
 ナイフで傷つけられた肌。呪わしい刻印。
 ウォレスは床に脱ぎ散らかした上着から飛び出しナイフを取り出すと、鋭く光るナイフの切っ先を腰に押し当てた。
 そして歯を食いしばり、そこを削る。
 直に鮮血がナイフの刃を染めた。
 これさえ消えれば、この恐怖も消える・・・。
 そんなことは気休めでしかない。そう分かっていたが、そう思いたかった。そうでもしないと、この恐怖に負けてしまうような気がしてならなかった。
 身体の痛みなど、大したことはない。
 心に受けた痛みの方が、もっと辛く苦しく根深い。
 自分はこの恐怖にうち勝つことができるだろうか。
 そして自らの戒めを解いて、再び人の命をこの手にかけることができるのか。
 できなくてもやるしかない。
 ウォレスはうめき声をかみ殺しながら、一心不乱にナイフを動かし続けた。
 
 「有力な手かがり? 警察を庇う・・・?」
 ハドソンがメモ帳を懐から取り出す様子をポカンと眺めながら、マイクが思わず呟いた。
 マックスはドキリとする。
 ハドソンがどういうつもりでここに来ているのかを推し量れない今は、余計なことは口にしない方がよかったが、マイクが呟いてしまったのはもう仕方がない。
 マックスは、腹を括ってこう切り出した。
「すみません、刑事さん。彼には詳しいことを説明していなくて。つまり、昨夜のことは・・・」
 マックスがそう言うと、ハドソンは表情を和らげた。
「ああ、主治医の先生ですね。もし構わなければ同席していただけますか。今回の一件で、ローズさんが精神を病んでいるふりをしなければならなくなった事情があります。病院側にご迷惑をかけた原因の一端は私達にもあるようですから、ぜひに事情を説明させてもらいたいのです」
 マイクは、今まで掴んでいたイスを、ベッドを挟んでハドソンの向かいに置くと、神妙な顔つきでイスに座り、「分かりました。続けてください」と被害にあった青年医師の顔つきをして見せた。
 思わず吹き出しそうになったマックスだが、ここで笑い出す訳にはいかない。
 精一杯顔を引き締めた。
「昨夜、私の部下から連絡がありましてね。偶然ローズさんの知り合いだった警察官なんですが」
 ハドソンはマイクに説明するように、ことの顛末を大まかに話し始めた。
「彼から、ローズさんの已むに已まれぬ事情を伺いまして。彼が偽った理由は、我々の警備上での失態を庇うこともあったのだと」
 ハドソンは派手に顔をしかめると、ハンカチを取り出して額の汗を拭った。
「何でも、あの有名な雑誌記者・・・ちくしょう、名前をど忘れしちまった・・・」
「ミゲルさんです」
「そうそう、そのミゲルとかいう記者が、度々この病院を訪れていたようですね」
 マイクは、ええと頷いた、事実そうだったからだ。
「彼は警察の警備体制をかなり批判していたとか。それで取材を申し込んでいたようですね」
 ミゲルが警察の警備体制を非難していたのも事実だった。だがミゲルはそれを雑誌で明るみにするほどの情報を得ていなかった。感情的に事態を推測して怒るのは誰でもできる。だが、マスコミで発表するとなると、それなりの裏打ちが必要になる。だからミゲルは執拗にマックスに取材を申し込んでいた・・・ということになっていた。
 マックスが爆弾魔の標的にされた時、警察はミラーズ本社のみ警備の人員を配し、ミラーズの有力な幹部社員はおろかミラーズ社の社長宅までも警備の手を回していなかった。確かにこのおそまつな警備状況は非難されて当然とも言える内容だった。
 確かにミゲルや他のマスコミはその事実を知らなかったし、ミラーズ社もそのことを明らかにしていなかった。
 ミラーズ社・・・つまりベルナルト・ミラーズもジムの身分にスポットライトが当たることをおそれ、余計な波風を立てたくないという考えがあったのだろう。
 ミラーズ社は大企業なだけにマスコミに対する対策も十分とれた。
 しかし、病院で入院しているマックスはそうもいかない。
 いくら病院側が取材を制限してくれるとはいえ、一入院患者でしかない身分であるから、限界がある。
 ようは、マックスが話せないふりをしたのは、そのような雑誌や新聞の記者達の取材を交わすための手段であり、その動機は、警察関係者・・・しかも今回の捜査本部に自分の友人・・・セス・ピーターズがいたので、警察の捜査陣を庇う気持ちになったというのが筋書きだ。
 そんな話、よく信じたな・・・と心の中でマックスはそう思ったが、次のハドソンの言葉に、マックスはまたもぎょっとした。
「今朝、その記者の方とも確認が取れましてね。確かにいやと言うほど取材攻勢をかけた、とのことで、逆に我々の腹を探られて、こっちもヒヤヒヤしましたが」
 ミゲルは少なくとも、この病院に来た時には一度も取材なんて言葉は口にしていない。
 しかし、ハドソンは更に続ける。
「社長さんにも、耳の痛い話をいただきました。あなたの心情を尊重して、マスコミに暴露しなかったと。もちろん、今朝からはミラーズ社の幹部の方々の家に警備の者を待機させることにしました」
 なんと、社長まで口裏を合わせている。
 全てセスの根回しなのだろうか・・・。
 マックスは目を見張った。
「それで・・・大変言いにくいんですが・・・。ミラーズ社の社員さんの中で、ストーカー行為を受けていた方がいるそうですね」
 ハドソンの声が濁る。マックスの手のひらに、脂汗がにじんだ。
「何でも、あなたに相談されていたとか。ストーカー行為について。確か・・・ジム・ウォレスさんでしたね。社長秘書の」
「え、ええ・・・」
 とりあえず、話が見えるまで、余計なことは口にしない方がいい・・・。
 再度マックスは心に誓うと、曖昧にハドソンの話しに相づちを打った。
「唯一彼が相談できたのは、社内であなただけだったと社長さんから聞きました。あなたは、多くの社員からよく相談されていたそうですね」
「ええ、そうです」
「こいつは、ここで医者していた頃からそうだったんですよ!」
 口裏を合わせるつもりなのだろう、ニコニコ笑いながら突然陽気な声を上げるマイクに、ハドソンが異様な目を向ける。マックスは、口から心臓が飛び出す思いだった。いったい大声でなにを言い始めるかと思いきや・・・。
 マイクが、こんな特別な状況下でこれほどまでに鈍くさい奇異なキャラクターに変貌してしまうとは正直思っていなかったが、ありがたいことにハドソンは、マイクの存在を無視するように腹を括ったらしい。
「そうだったんですか」
 と当たり障りのないコメントを残して、再びマックスに向き直った。
「ピーターズから報告を受けている内容としては、ウォレスさんがどういう訳かストーカー行為を受け始めて、悩んでいたと。それでよく、社外であなたとそのことについて相談する機会が多く、あなたが今回狙われたのは、そのストーカーを行っている人間がそのことを嫉妬してのことだったと、そういうことで間違いないですか?」
「はい・・・。ウォレスさんは、元々別の人間に付け狙われていたんです。証拠がないので定かではないのですが、彼の娘さんがひき逃げ事故にあった時、彼女を轢いた車が灰色のセダン車でした。それで、ミラーズ社の前で起きた二番目の爆弾事件で燃やされた車を見て、ウォレスさんは気がつかれたのでしょう。同じ灰色のセダン車でしたから」
 ハドソンが頷く。
「これは本当に有効な証言ですよ、ローズさん。会社で確認をさせてもらったところ、被害者のステッグマイヤー氏は、おたくの会社と取引上でもめ事があった。もっとも、ミラーズ社の方もステッグマイヤーが酷く乱暴な経歴の持ち主だということまでは知らなかったようですがね。ウォレスさんが、もしステッグマイヤーに脅されていたとして、ストーカーはそれを知り、ステッグマイヤーを消した、という筋書きになりますな。ということで、念のためウォレスさんのことについても調べさせていただいたんですがね。形式上、ステッグマイヤーに対して動機があると思われる方に対しては、それをするのがルールでして。そのストーカー人間を利用した、ということも考えられる訳ですから」
 一瞬マックスの息が止まった。
 次にハドソンの口から何が飛び出すか、それが恐ろしくて耳を塞いでしまいたかった。
 ええとと呟きながらハドソンがメモ帳を捲る。
 永遠にも近いような時間が流れた。
 ハドソンが顔を上げる。
「これといって不信なところはありませんでした。かなり優秀な方ですな。社会保険番号でもきちんと確認が取れましたし、何よりあのミラーズ社の社長に魅入られて雇われたという伝説の持ち主だ。社長室で一回お会いしましたが、まぁなんというか、ストーカーに付け狙われるほど魅力があるといってもおかしくない。・・・・や、これは少々失言ですが」
 身体中の力が抜ける思いがした。緊張感を保っていないといけないという理性のおかげで、涙は出てこなかった。
 大きな難関はとりあえず越えたようだ。
「本当は、とうのご本人さんに調書を取りたいところなんですがね・・・行方不明なんですよ。ミラーズ氏によると、安全な場所に隠したとかで。会社の方も連絡がつかない場所らしい」
 ここでウォレスが疑われてはまずい。
 マックスは、努めてさりげなくハドソンの台詞を取った。
「それは僕のせいです。・・・最後にこの病院でウォレスさんと逢った時、僕は事件に巻き込まれたショックから、警察の警備は信用できないと、そう思っていたので警察を頼らず身を隠してしまった方がいい、と強く薦めたのです。ハドソンさんには悪いのですが・・・」
 ハドソンは、難しい顔で「いや、お気持ちは分かります」と呟いた。彼も痛いところを突かれれば、そう答えるしかない。
 マックスはウォレスを擁護するために、更に続けた。
「警察に相談した方がいいというウォレスさんと口論になってしまって・・・。病院で騒ぎを起こしたことは、ハドソンさんもご存知ですよね」
「ええ。聞き及んでいます」
「結局、娘さんのこともあるからと娘さんのことを引き合いに出すと、彼は渋々了承してくれました。ただ・・・今でも彼は僕のことを責めているのかもしれません。ウォレスさんは、本当に誠実な人ですから」
 内容は偽ったものであったが、ウォレスは確かに誠実な人である。そこには嘘はない。例え、過去に何をしてきたにしても、彼は誠実にマックスを偽ることなく自分の身の上を話してくれたのだから。
 その彼のためなら、嘘だって言える。偽証罪で訴えられても構わない。自分を犠牲にしてまでも愛していると胸を張って言えるほどの気持ちに出会えたことに、今は誇りを持っている・・・。
 思わずマックスは涙ぐみ、鼻を鳴らした。涙を拭いながら苦笑いを浮かべる。
「すみません・・・。今では酷く後悔しています。もっと早くあなた方警察に事情を話すべきでした。本当にすみません・・・」
 ハドソンが、ハンカチを差し出す。
「いえ、我々にも原因があることです。とにかく、話して下さってよかった。これを糸口に、捜査の方針も絞り込めます。ミラーズ社の方でも、ウォレスさんと連絡がとれた際にはこちらに知らせていただけることになっています。今度こそは、新たな被害者が出ないように、我々も人力を尽くします。ですから、もし取材の依頼がきた場合は・・・」
「分かっています」
 マックスがそう答えると、ハドソンはほっとしたように初めて笑顔を見せた。
「無理な取材攻勢なら、一声かけていただければ、警備の者で押さえることもできますので、遠慮なく声をかけてください」
 結局最後は、ハドソンと握手までして別れた。
 警察関係者が病棟を出て行くまでマイクが見送り、彼が病室に帰ってきて病室に鍵をかけた途端、一気にマックスはベッドに突っ伏した。
 マイクも緊張の糸が緩んだのか、その場で蹲る。
 互いに、一言も言葉を交わせないほどの疲労感を感じたと同時に、このようにお膳立てしてくれたセスに心から感謝したのだった。

 

Amazing grace act.92 end.

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編集後記

今日もぎりぎり更新だ!!わはは!!
難関を強引に突破したマックスですが、つきつめて言っちゃうと、本当に難関を乗り越えたのはこの国沢自身です(笑)。すみません、力業で。書いてる本人が一番スリリングです。
先週書いた時点で、その先をなぁ~んも考えていないというのが怖いでしょ?
まさにスリルとサスペンスの大車輪だ!(←国沢的に)
ウォレスの人生も綱渡りなら、国沢の人生も綱渡りです・・・・。

[国沢]

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