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nothing to lose title

act.83

 染み一つないベージュのカーペットの上に、もの凄い勢いでグラスが叩きつけられた。
 幸い分厚いカーペットのお陰でグラスは割れなかったが、その拍子に中のコーラと氷が辺りに飛び散った。高級なカーペットにコーラがみるみる染み込んでいく。
 グラスを投げつけた当人は、そんなことお構いなしに怒鳴り散らした。
「何で、どういうことなの?! パパがそんなこと言ったなんて、信じられない!」
 シンシアだった。
 会社で父親と別れて以来、エリザベス・カーターの案内でミラーズの私邸に連れてこられたシンシアは、不安な時間を過ごしていた。
 そして今、ようやく会社から帰宅したベルナルド・ミラーズから、父親が自分の元を去ったことを伝えられたのだった。
「シンシア、落ち着きなさい」
 ベルナルドの穏やかな声とは反比例して、お付きの者達はシンシアの荒れぶりに動揺し、慌てて彼女の足下にあるグラスと氷を拾い、カーペットの染みを拭おうと必死になる。
 そんな光景を見て、シンシアは益々ヒステリックになった。
 彼女は立ち上がると、ソファーの周りをぐるぐると歩き回った。
 ベージュ色のカーペットとペールピンクの壁に彩られたこの部屋は、以前シンシアが使っていた部屋だった。
 会社からはそう離れていない高級住宅街の中の一際広大な敷地に建っているミラーズ邸は、シンシアにとって馴染み深い家である。彼女が物心つく頃は既に、彼女はミラーズ邸で生活をしていた。
 ミラーズ邸では、たくさんの使用人が働き、その誰もが温かく自分の成長を見守ってくれた。・・・父以外は。
 今、父親が自分をミラーズに託して姿をくらました事実を知らされて、否が応でも昔の嫌な思い出がよみがえる。
 最初は、何も分からなかった。
 しかしやがて少しずつ大きくなるにつれて、自分の家庭が”普通ではない”ことに気づいていった。
 自分には『ママ』がいないこと。いつも優しい笑顔を見せてくれるベルナルドおじいちゃまとマーガレットおばあさまは、自分の本当のおじいちゃん・おばあちゃんではないということ。自分のパパはいつも、この広い屋敷の中で自らのことを恥じながら過ごしているということ。そして彼は、自分の娘のことを持て余しているということ・・・。
 シンシアの身の回りには、愛情がまったくなかった訳ではない。
 おじいちゃま、おばあさまはもちろんのこと、シンシアの面倒を見てくれたミセス・デイヴィス、庭師のハンクおじさん、ベルナルドおじいちゃんの運転手のテッド、ハウスシェフのニコライさん・・・数え上げればキリがないほど、シンシアを温かい愛情で包んでくれた。
 だけど・・・。
 自分の目の前で、父は決して笑わなかった。
 いつもピリピリしていて、ベルナルドが手配した教育係の授業に必死な様子だった。いつだって怖そうな顔をして、シンシアを抱きしめることすらしなかった。時には、大声で泣く娘に怯えたような表情さえ浮かべた。
 そんな父との関係が劇的に変わったのは、父に新しい『本物の』恋人が出来てからだ。
 いつまでもミラーズに甘えてばかりではいけないと独立し、娘と二人暮らしを初めてからのウォレスは、幾人もの女性を家に連れ込んだ。
 だが、どの女性に対してもウォレスは親愛の情を示すことはなく、娘に引き合わせるのが目的だった。
 確かに母親がいないことに対して寂しい思いをしたことはある。だが、父親のその行動は、娘を更に傷つけた。父親が連れてくる女性は、父親の持つステータスと美貌を目的に近づいているのはあきらかで、とてもシンシアが心を許せるような女はいなかった。そして心は離れながらも父親を愛していたシンシアは、父親が女達を本気で愛していないこともすぐに分かった。
 ミラーズ邸にいるころから、自分を犠牲にすることをいとわない態度をとることが多かったウォレス。
 シンシアは、冗談じゃないと思った。
 自分に母親がいないことをちょっとでも父親に泣きついたことがあっただろうか。
 そしてどんな女でもいいから、ママになってもらいたいと言ったことがあるか。
 そんなことで自分を犠牲にする父親が許せなかった。
 そんな形で愛情を示すのなら、もっと違う方法があるはずだ。
 そう、ただ黙って自分のことを抱きしめてくれるだけでいい。温かい微笑みを浮かべ、あの深いブルーの瞳で自分を見つめてくれるだけでいい。それだけでいいのに・・・。
 もう永遠に自分と父親は分かり合えることはないのだと思った。
 そしてシンシアは、悪い仲間とつきあうようになった。
 自分も父と同様に、異性にとって魅力的な人間であるということを知った。そして彼女はそれを利用した。
 そうすることで、父が困ればいい。
 シンシアはそう思った。
 愛情表現が不器用な父親は、それでも娘が危険な目に遭おうとするほど、まるで白馬の王子のように娘を救いに来た。
 相手がどんなに始末の悪い人間でも、彼は力でねじ伏せた。いつだってそうだ。
 娘を危険から救い出すことに関しては、父親はある意味『プロ』だった。娘のシンシアでも驚くほどの手際だった。そして父は、そういう手段でしか娘を救うことができない自分を悲しんでいるように思えた。
 父の身体に残る、無数の傷・・・。
 シンシアは、怖くて訊いたことはなかったが、父には重い過去があることを薄々感じていた。
 父の、身体の傷より更に深いだろう心の傷を癒すことは、誰にも出来ない。次々と現れる女性や、この自分でさえも・・。
 だが。
 その考えは間違いであった。
 父と自分の前に突然現れた『天使』。
 まるで本物の天使のように美しい瞳の色をした人・・・。
 初めてマックスを見た時、シンシアはてっきり自分が死んでいくのを迎えに来た『天使』なのだと思った。
 卑劣なひき逃げにあい、道路に倒れ込んだ自分を救ってくれたのは、正しく『天使』だったのだ。自分にとっても、そして、自分の父親にとっても。
 マックスのことを語る父の、あの幸せそうで穏やかな顔。
 父親の心が苦しみから解き放たれようとしていることが、手に取るように分かった。
 父の魂が、彼の存在によって癒されているのだと。
 そしてマックスは、私の心も癒してくれた・・・。
 ただのおませな女の子としてではなく、ひとりの人間として対等な扱いをしてくれたマックス。
 時に頼りなさげな表情を浮かべるのに、ある時は父をも凌ぐような力強さを見せる。
 そしてあの笑顔。
 彼の笑顔は、どんな人々にも幸福感を与える。
 彼は大した美貌の持ち主だが、決して冷たい印象はなく、その屈託のない人柄がにじみ出ていた。
 父の見立てで洗練されたスタイルをしていても、彼の等身大の人の良さは消えることはなかった。
 シンシアは恋をした。
 シンシアにとってもそれは、初めての本物の恋だったのかもしれない。
 でも直にその感情の本質は恋愛思想ではないということに気がついた。
 どちらかといえば、兄姉関係のような、無条件でしっかりとした信頼心なのかもしれない。安心して甘えられることができる存在。温かな笑顔。
 父が、そんな彼に愛情を抱いていると感じ始めた時、シンシアは正直戸惑った。
 まだ自分は、マックスに恋をしていると勘違いしていた時期だった。
 けれどそれは、父が娘に初めて見せる人間らしい表情だった。
 彼は必死に押し隠していたが、彼は確実にマックスと恋に落ちていったのである。
 父がマックスと自分の目の前でそれをはっきりと認めた時、シンシアは玄関ドアを出たところで密かに泣いた。
 自分の恋が破れた悲しみからくるものなのか、それとも幸せそうな笑顔を浮かべる父親の姿を嬉しく感じたのか、どういう理由で涙が出てきたかは今だに整理できないでいる。
 でも今では、本当に心の底からそうなってよかったと思える日々が訪れたというのに・・・。
 本物の幸せは、すぐ側まできていたのに。
 やっと父とのぎくしゃくした関係に終止符を打つことができ、そして愛するマックスを本当の家族として迎え入れる準備が整った矢先のことだった。
 マックスは、卑劣な爆弾魔の毒牙にかかり傷つけられ、父親はマックスが身体に受けた傷と同じぐらいの深い傷を心に背負った。
 父は、マックスがそういう目にあったのは自分のせいだと思っているし、それは暗くのし掛かる彼の過去のせいだと言っていた。
 あんなに悲しみに暮れる父を見るのは、初めてだ。あんなに余裕のない父の姿をみるのも。
 ああ、なんということだろう。
 父は、マックスはおろか自分でさえも置いて、どこかに行ってしまった。手の届かない、暗闇の彼方へ・・・。
 シンシアはぐるぐると歩き回る足を不意に止めた。
 大きなスカイブルーの瞳から、ボロボロと涙がこぼれ落ちた。
 シンシアは辺り憚らず、大声を上げて泣いた。
 ソファーにすがり、その場に蹲って泣いた。
 その震える両肩を、ベルナルドが温かく抱きしめた。シンシアは、いつだって優しかったベルナルドの腕にしがみついた。
「パパは私を捨てたの?! 足手まといだから、捨てて行っちゃったの?!」
 そう言いながら泣きじゃくるシンシアに、「いいや、それは違う」とベルナルドは返す。
「彼はシンシアのことが可愛くて、そうするしかなかったんだ。お前を守るために、彼はお前と自分が愛する人と距離を置く辛い決心をしたんだよ」
 いつだって落ち着いて超然としているベルナルドの瞳にも、涙が浮かんでいた。
「だからお前は、彼のことを酷く言ってはいけない。愛することをやめてはいけない。そうでないと、彼が帰る場所がなくなってしまう。彼はきっと帰ってくる。その日のために、私はお前を守る約束をしたんだよ。辛いのは、みんな同じだ。涙を流した後は、彼のことを思って祈ろう・・・」
 愛している。私はパパを愛しているわ。
 もう憎むことなんて出来ない。
 だって私のパパなんだもの。この世にたった一人、血を分けた人・・・。
 シンシアの目から涙が枯れることはなかった。


 明かりの落ちたリハビリ室の片隅。
 かすかな呻き声が響いた。
「この程度で悲鳴を上げるなんて、まだまだよ」
 作業療法士のケリーが静かな声で囁いたが、内容は相変わらず手厳しいものだった。
 全身打撲の後遺症で、体中が軋むように痛いところを、無理矢理捻られる。
 といってもケリーはプロだから、どれもが必要なプログラムだった。マックスが自力で元のように動けるぐらいまで早急に回復するためには。
 マックスが秘密の計画にマイクを巻き込んでから、3日が経っていた。
 昼間は相変わらず寝るかぼんやりしているかで、正常でない人の素振りを見せている。ビクシーには悪いが、身体がある程度動けるようになるまでは邪魔されたくない。
「ケリーを指名したこと、今更ながらに後悔してるんじゃないのか?」
 マックスの横たわるベンチシートの枕元に座り、マイク・モーガンがクスクスと笑った。
 マックスは、恨めしそうに友人を見上げる。
「後悔なんて言葉、当の昔に捨てちゃったよ」
 呻き声混じりにマックスは言う。
 そうだ、彼と禁断の恋に落ちた時から、後悔なんて言葉は自分の中から消えてなくなった。
「いい心がけよ」
 ケリーが笑いながらマックスの脚を掴み、胸元に向かってゆっくり折り曲げる。マックスは、再び唸り声を上げた。
 ケリーはセント・ポール総合病院で最も優秀な作業療法士だ。マックスが勤める前から病院に居て、作業療法士の立場からもよき友人としての立場からも、マックスに様々な助言を与えてきてくれた。
 彼女は、ライトブラウンのカーリーヘヤーでそばかすだらけの顔だったが、それだけに親しみやすく頼りがいのある女性だった。
 彼女のリハビリプログラムは、患者が恐れおののくほどハードなものだったが、それは患者のことを思い、決して甘えを許さないためであり、それは確実な効果を上げた。
 患者は、最初必ずと言っていいほど彼女のことを嫌うが、いざ退院する時には、最高の賛美の言葉を持ってして彼女に感謝をした。
 ケリーは、突然の事故や病気により身体の自由を失った患者の精神面を支える役目も果たせるプロ中のプロだった。
 だからこそ、マックスはケリーを選んだ。
 他の人間の目から隠れる様にして行うリハビリに対して、ケリーなら理解をしてくれると思ったからだ。
 事実、ケリーは喜んでマックスの申し出を受け入れてくれた。
 彼女もまた、マックスがあんな形で病院を去ったことを悔やんでいる人間だった。
 そして今、マックスが窮地に立たされ、そしてそれにもめげずに立ち直ろうとしている姿に心から喜んでいた。
 その喜びのお陰で、ケリーの手にも力が入る。マックスが危うく悲鳴を上げそうになるほどに。
「大丈夫よ、マックス。感触は悪くないわ。この分だと、回復も早いと思う。ただし、私のプログラムを、根を上げずに最後までこなすことができたら、だけど」
 その間にも、いてててて、とマックスが声を上げる。マイクはその様子がおかしくてたまらないようだ。
「レイチェルが持ってきてくれるスペシャルメニューのお陰で、骨のつきも良さそうだしな。胸骨のヒビは時間がかかるかも知れないが、それでも頑張れば、今月中に退院できるかもしれないぜ」
「今月・・・? それじゃ遅いよ」
「ほんと、相変わらず負けず嫌いね。マックス。こっちも張り合いがあるわ」
 違う脚をぐいっと折り曲げられ、マックスが呻き声を上げる。
 と、リハビリ室の外で人の気配がした。
 ベンチシートの周りに引いたカーテンを少し捲り、マイクが外の様子を窺う。
 一瞬その場が緊張の沈黙に包まれたが、すぐにマイクがマックスを振り返って囁く。
「レイチェルだよ」
 それを聞いて、ケリーは手を止めた。
「それじゃ今日はここまでにしましょう」
 筋肉を休めるマッサージをした後、ケリーは後かたづけをしてカーテンを少し開けた。
「ありがとう、ケリー」
「どういたしまして」
 ケリーと入れ違いに、レイチェルが入ってくる。
 レイチェルは紙袋を軽く持ち上げ、少し疲れた微笑みを浮かべる。
「また、明日な」
 マイクはレイチェルの表情から何かを感じ取ると、身体を起こしたマックスの肩を叩いてリハビリ室を出て行った。
 レイチェルは、そのマイクの後ろ姿を見送った後、マックスの方に向き直った。
 彼女は、マックスの傍らに紙袋を置いた。
 マックスはレイチェルの顔を見つめる。
「レイチェル、何か言いたいことがあるんじゃないの?」
 レイチェルは少しため息をついて、マックスを見た。
「そう・・・そうね。ちゃんと言っておいた方がいいかもしれない。今こうして頑張っているあなたには」
 レイチェルは、囁くようにそう言った。

 

Amazing grace act.83 end.

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編集後記

今週末の昼ドラ! 面白い展開になってきましたねぇ~。以前ちらりと書きましたが、現在国沢が唯一はまっているドラマです。
鬼畜な命令を下す社長に苦悩する秘書!! 社長への忠誠と良心の呵責の板挟みにあって、思わずゲロッちゃう安川ちゃんv
来週はいよいよ大詰めです。社長への愛に生きるか? それとも社長へ反旗を翻すか?!
いずれにしても泥沼そうです。(←泥沼好きの国沢です)

[国沢]

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