act.32
その日の午後、マックスは、社長室のあるフロアの会議室に呼ばれた。
電話をかけてきたのは開発部のエマ・ジャクソンで、その内容は、以前一度マックスの意見で発売延期された新製品の改訂試作品ができたから、ぜひ意見を聞かせて欲しいというものだった。
今回ミーティングをする場に選ばれた会議室は、社長室に一番近い位置にある会議室で、前回集まった時より幾分こじんまりとしていたが、よくある会議机が並んだような味気ない部屋ではなかった。
座り心地のいいソファーとローテーブル。壁にはピカソの晩年期の作品が掲げられ、部屋のあちこちに緑の鉢植えが置かれてあった。照明は柔らかな光の間接照明がセッティングされており、床には分厚い濃いベージュのカーペットが引かれている。
寛いだ雰囲気で自由な意見が出せるようにと、ミラーズ社長の希望で作られた部屋だった。
部屋には、簡単なカウンターが設けられ、軽い食事や時には気の利いたカクテルも出せるようになっている。
対外的にこういった部屋を作る会社はよくあるが、社員の会議用にこうした部屋を作るのは珍しいと言えた。この部屋は、きちんとした申し出があれば、平社員のグループでも使えるようになっている。ミラーズの会社に対する考え方が伺える部屋だ。事実、この部屋からヒット商品のアイデアや、画期的な新素材の開発計画が多く生まれてきた。
商品開発部としては、験のいい部屋で再度のチャレンジをしたいと考えたのだろう。
マックスが会議室の中に入ると、シューズのデザイン開発担当のナット・トーマスがマックスを出迎えた。
「今回は、君の足のサイズに合わせたサンプルも作らせたんだ。ぜひ履いてみて、意見を聞かせてくれ」
「ああ、もちろん。こんなズブの素人の意見でよければ、よろこんで」
マックスは、トーマスに案内されて、会議室の奥へ案内される。
会議室の中には、ミラーズ社の幹部がほとんど全員集まっていて、残るは社長のミラーズと広報部のキャサリン・グッテンバーグを残すのみというところであった。
マックスは思わずウォレスの姿を探してしまう。
いた。
部屋の一番奥の窓際。副社長のスミスと話し込んでいる。
大きな契約が近いと言うこともあってか、両者とも厳しい顔つきをしている。
そんなウォレスの横顔を見ていると、昨日自分と彼の間にあったことが夢だったかのように感じてしまう。今も、あの人が自分のものだなんてことが信じられない。冷静沈着で社内の絶対的な信頼と羨望の眼差しを寄せている完璧なビジネスマンの彼が、他の誰でもない、この自分の恋人だなんて・・・。
いや、昨日の出来事はやっぱり自分の都合のいい夢だったのではないだろうか・・・。
そんなことを思って急に不安になった。
できることなら、今すぐ彼に近づいていって抱きしめたい。昨日のことは夢ではなかったと証明したい・・・。
「ローズ先生! よかったわ、ここにいたのね!」
背後から肩を叩かれ、ビックリして振り返った。
広報部のキャサリンだった。キャサリンはそばにいたエマ・ジャクソンに「遅れてごめんなさい、彼を探していたの」と謝った。
「大丈夫よ。社長がまだなの」
「よかったわ。ローズ先生、ちょっとお話させてもらいたいの。ソファーにかけて話をさせてくれない? ・・・あら、顔色が悪いわよ? 大丈夫?」
「ええ。大丈夫です」
マックスはキャサリンと並んで腰掛けた。その際、ちらりとウォレスの方を伺う。
ウォレスは、スミスの身体越し、こちらの方を心配げに見ていた。例の事件以来、マックスが背後から人に近づかれることに敏感になっていることを危惧してのことだろう。ウォレスにそんな心配をさせてしまう自分が情けなく感じた。しっかりしなくてはと思う。
「あのね、USパワー誌からあなたの取材をさせてもらいたいって申し出があったのよ」
「え?」
ウォレスの視線に気を取られていたマックスは、キャサリンに向き直ってもう一度訊き返した。
「USパワー誌が、ミラーズ社のマックス・ローズを取材したいって言ってきたのよ!」
「凄いじゃない!」
側にいたエマが大きな声を上げたので、その周囲の者達が集まってきた。
だが、エマがそう叫んだのも無理はない。USパワー誌といえば、TIME誌等と並んで有力な月刊雑誌である。社会情勢から世界経済、果ては文芸から芸能に至るありとあらゆる分野をフォローしている。雑誌の方向性としては、強いアメリカを象徴する人物や題材をよく取り上げており、アメリカで話題となる人物をシリーズで紹介している記事の人気が高い。マックスは、まさにそのコーナーへの登場を切望されているのだ。
「でも、なんで・・・」
取材される心当たりが全くないマックスとしては、些か居心地の悪い話だった。
キャサリンはマックスがそう答えてくると予想していたのだろう。自分の抱えていたファイルから、数枚の写真を取り出した。
皆がそれを覗き込む。
血まみれのマックスの写真だった。
爆弾騒ぎの時のものである。
逃げ惑う群集を掻き分けるように、炎に向かって走るマックス。全身血まみれにしながらも、怪我人を抱え、炎から守ろうとする姿。必死に応急処置をする横顔。どの顔も鋭く、普段のマックスから考えられないほど厳しく精悍な表情である。生と死の狭間で、己の危険も顧みず怪我人を救おうとする姿は、確かに感動的であった。血なまぐさい現場写真の中で、マックスの一見ナイーブで端正な顔が血に染まっている姿は、余計にリアル感を増徴させていた。
「偶然現場近くを通りかかったUSパワー誌のカメラマンが撮影したらしいの。これを見て、編集長自らがこの英雄にインタビューしてこいって言ったらしいわ」
「でも僕は、彼を助けられた訳じゃない。彼は結局亡くなったんですよ。それなのに、英雄だなんて言われても・・・」
そう言って躊躇うマックスに、周囲のものが口々に「そんなことないさ」と言った。
「君はやはり英雄なんだよ。あの車が燃え盛る危険な現場の中、怪我人を助けに走ったのは、君だけなんだ」
「そうさ。誇りに思って当然さ。確かに助けることはできなかったけれど、あの現場に突っ込んでいったってこと自体に大きな意味があるんだから」
皆が口々に同意する。マックスは浮かない顔で肩を竦めた。
「でも僕は医者ですから。当然のことをしたまでなんですよ。おまけに助けることができなかった。それを英雄だなんて、気が引けます」
「医者だったとしても、誰もがあの物凄い炎に近づけたとは限らないわ」
マックスの座るソファーの肘掛に腰掛けたエマがピシャリと言う。
「自分も巻き込まれてしまうのではと思って、現場に近づけなかった医者がいたってことも耳にしている。医者であるかが問題ではなくて、やはり人間の問題なの。あなたは、やはりヒーローなのよ」
それにキャサリンが続けた。
「多かれ少なかれ、あの事件はミラーズ社にマイナスの影響を及ぼしているの。警察当局の発表で我が社はあの事件と関係がないとされていても、現に株価は下がってきているわ。いくら関係ないとこちらが言っても、不安なイメージは拭えないの。大切なケイゼル社との契約も控えているし、あなたが記事に取り上げられることで、非道な攻撃にも屈しないミラーズ社がアピールできる。あなたが取材を受けてくれれば、こちらの条件として、二週間後の契約時期にあわせて、次号のコーナーであなたの記事を差し替えてくれることも承知してくれたわ。これは異例中の異例のことよ。発売は契約日に間に合わないとしても、ゲラ刷りは間に合うかもしれない。印刷所はあなたの記事のページ印刷を、工場を空けて待っているの。純粋なあなたのような人から言わせれば、姑息な手段に聞こえるかもしれないけれど、会社にとっては非常に重要なことだわ。お願い」
マックスはなんと答えていい判らなかった。たまらず、ウォレスを見る。ウォレスは、マックスを励ますように少し微笑むと、二回頷いた。
たまらなく不安だったが、その優しげな瞳を見ただけで安心できた。彼の美しく蒼い瞳に見つめられただけで、全身抱きしめられた感覚を覚える。
「判りました。お受けします」
マックスがそう言うと、キャサリンは心底ホッとしたようで、ありがとうと何度も言い、「来週月曜にもお願いね」とマックスの手を握った。
「遅れてすまなかった、さぁ会議を始めよう」
社長のミラーズが秘書のエリザベス・カーター引き連れて入ってきたのは、丁度その時だった。
開発部のナット・トーマスからの商品プレゼンが終わり、室内は寛いだ雰囲気に包まれた。
「自由な意見を出してちょうだい」というエマの発言に、和やかだが意味のある意見交換がされた。
「とにかく、履き心地が命なんだ。前回の装甲車のようなシューズとは訳が違う」
トーマスらの開発グループが仕上げてきた試作品は、まさしく前回のシューズとは姿も形も中身も違ったもので、手直しをしたというよりは、新たな製品をデザインしてきたといってもおかしくはなかった。あれからほんの数ヶ月の間に、これほどのものを作り上げてくるのは、異例の速さと言える。
マックスは、いつかの「意外に我が開発部は打たれ強いのよ。私がそう教育してあるから」というエマの台詞を思い出していた。それはどうやら本当のことだったらしい。
「デザイン的には少々華やかさにかけるが、ランニングシューズの機能をとことん追求してある。マックス、履いてみてくれ」
トーマスに試作品のシューズが差し出される。グレイのそのシューズは薄手だが、ソウルは分厚い。クッション性がよさそうだ。持ってみると、底の厚さが嘘のように軽かった。
マックスがそのギャップに驚いた表情を見せたのを、エマが見逃さなかった。
「そうなの。ちょっとその軽さは驚きでしょ? この開発の為に適した素材を探し出すのに苦労したわ」
エマとトーマスが顔を見合わせて笑顔を浮かべる。互いの苦労を労う微笑みだった。
マックスは革靴を脱いで、そのシューズに履き替えた。
「どうだい?」
副社長のスミスが訊いてくる。
「・・・凄い・・・。信じられないほど足にフィットしてきます」
マックスは足踏みをしてみる。
「走ってみたい」
思わずそう口をついて出た。「その一言を待ってました!」とトーマスが言う。彼は、自分の開発チームの一員であるジャック・ローシュに目配せして、会議室内にフィットネスマシンを持ち込んできた。ルームランナーというやつだ。
「本気で走るの?」
きょとんとした顔でそう言うマックスに、会議室内が和やかな笑い声に包まれる。
マックスは照れくさくなって、会議室内を見渡した。
まるで自分の息子を見つめるがごとく、優しげな目でマックスを見る社長の隣で、相変わらず口元を右手で隠し、表情を読み取れないようにしているウォレスがいた。だが、その目を見れば、ウォレスも微笑んでいるのが分かる。その目を見て、益々気恥ずかしくなるマックスだったが、こんなことでモジモジしているのも情けない話だ。
「判りました! 走りましょう!」
拍手が沸き起こる。
マックスは、マロンブラウンのジャケットを脱いでトーマスに渡す。
マスタード・グリーンのYシャツを腕まくりし、濃いブラウンのネクタイを肩の後ろにかけると、マシンの上に上がり、自分でマシンの設定をした。
このマシン、偶然にも前に勤めていたERの医局の片隅に置かれていたやつと同じもので、よくマイクと一定距離をどれだけ早く走れるかという競争していた。
おもむろにマシンのスイッチを入れる。室内にマシンが動く独特の音と、マックスの軽快な足音が響いた。
実際に走ってみると、本当にこのシューズが優れていることが判った。まるで裸足で走っているような・・・いや、裸足で走るより足に優しい感覚である。体重を支えるクッションも申し分ない。
「いいね、凄く」
マシンを止めて、一息つきながらマックスはトーマスに言った。トーマスが、嬉しそうにガッツポーズを取る。
「どんな感じかい? 走ってみて」
キングストンが会社を去って、名実共に営業部の重要な担い手となったロッド・オースティンが興味深げに訊いてくる。
「凄く足に優しい感じです。僕は走る時、土踏まずの外側に体重をかけすぎる癖があって、靴と擦れて指や足の側面を痛めたりしてたんですが、それが全然ない。多分、足が地面に着く時に、シューズのクッションが足の癖を補正してくれているんじゃないかって思います」
「それは素晴らしい」
商品広報部の部長、テッド・ウエルズが感嘆の声を上げた。
「開発部もそこまで言ってもらえて鼻が高いな」
「ありがとうございます」
エマが芝居かかったお辞儀をしてみせた。室内にまた笑いが起こる。
「だが、靴下を履いているお陰じゃないか? そのせいでクッションがよくなっているってことは?」
冷静な声で企画管理部のバーンズが指差して言う。その意見に、マックスとトーマスは顔を見合わせた。まさか・・・・とマックスは思う。
「靴下、脱いでみてくれる?」
「え?」
と言いつつも、やっぱり・・・とマックスは思ってしまった。
「別に恥かしがるようなことじゃないだろ?」
「そうだけど・・・」
マックスはそう言いながら、内心穏やかではなかった。
確かに普通は、恥かしくもなんともないのだが、はっきりいって今は「普通じゃない」。
昨日、ウォレスはあの最中にマックスの足の指にも愛撫を加えた。足先にキスをしてくれたのだ。足の甲には、実はその跡がまだ残っている。右足に。
だが、皆が期待の目で自分を見ている。マックスはたまらずウォレスに目をやった。
ウォレスは、よもや昨日の自分の口付けが跡になって残っているとは思っていないのだろう。マックスの目線の意味が読み取れないような表情を浮かべていた。
最悪だ・・・。
マックスは額に冷や汗が浮かぶのを感じながら、とりあえず左足の靴下を脱いで試作品の靴を再度履く。
ちらりと横のトーマスを見ると、トーマスは次の行動を促すような目でマックスを見つめている。マックスは小さく溜息をつくと、右の靴下をさっと脱いで、さっと靴を履いた。
ほっと胸を撫で下ろす。誰も気づいていない。
履き心地を調べようと足踏みしかけた足をトーマスに止められた。
「靴下履いてる時と裸足の時じゃ、若干サイズが変ってくるから、紐をきつく締めなおさないと」
マックスの身体が強張った。そんなことが判る訳がないトーマスは、マックスの前にかがんで靴紐を解き、紐を靴に通し直そうとする。
「あれ? これ、靴に擦れた跡?」
その発言にマックスの顔が目に見えて真っ赤になった。その顔をトーマスが見上げて、事情を察する。
「あ~・・・。なるほど」
「なかなかお盛んなのね、マックス」
エマがなぜか残念そうな声を上げた。その声に、部屋中再び笑いが起こる。
「そんな熱烈な恋人はいるとは知らなかった。これではうちの姪御との話もやはり無理というものだな。君の足に熱烈な跡を残すそのお嬢さんに、ぜひともお会いしたいものだ」
ミラーズが笑い声交じりにそう言う。
マックスは、むしろ開き直った気持ちで、こう思った。
そのお嬢さんとやらは、何を隠そう、今あなたの隣に座っている、あなたもよくご存知の男なんですよ、と。
渦中のその「男」と言えば、やっとマックスの視線の意味が判ったらしい。一度は「ん?」という顔をしてみせたが、隣に座る社長の発言を聞いて、ギョッとし、次には何食わぬ顔をして見せて、今では明後日の方向を見ている。
「あの・・・、僕の彼女は情熱的なんですけど、かなり恥かしがり屋で・・・。社長に呼び出されたとなると、卒倒しちゃうんで勘弁してください・・・」
マックスがしどろもどろになってそう言うと、またもや会議室中爆笑の渦に包まれた。
Amazing grace act.32 end.
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編集後記
なんか、お遊びにたいな回になってしまいました(笑)。今回は、事件なんてきな臭い場面もなし。(ま、写真ではあったけど)
純粋にゆっくりとお楽しみいただけたか、な?と思います。
まるっきりラブ・コメディーを地で行っているうちのヒロインですが(汗)。
なかなかどうして、相手役のオジサンもすっとぼけた味を出してます(笑)。
来週はまた、ものものしい雰囲気に戻りそうですが・・・。でも来週もきちんと二人の会話シーンが出てきますから。
これもなかなか『甘甘』な仕上がりとなっておりまっせ。
『触覚』の二人が甘さあっさりの和菓子なら、『アメグレ』の二人は、コテコテの洋菓子ってか。
こんなに甘い話を書いている国沢。我ながら心がなんかブルーチーズです。(←意味わかんない(汗)。でもこんな感じ)
[国沢]
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