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nothing to lose title

act.116

 ウォレスがドアを開けると、そこは主の帰りを待ちわびていたように、静かにウォレスを迎えた。そこはかつてウォレスが様々な書類に目を通し、様々な決断を下していた場所。主席社長秘書室は、ウォレスが去った時と何ら変わらぬ状態に保たれていた。
 ウォレスが驚いたように背後を振り返ると、エリザベス・カーターが「ここは昔も今もあなたの部屋だもの」と微笑んだ。秘書室にいるスタッフが我がボスの帰還を心から喜び、拍手をした。
 その日から、ウォレスは正式にミラーズ社の主席社長秘書として復職することになった。
 結局、端からベルナルド・ミラーズは、ウォレスの辞職願いを本気にするつもりはなかったらしい。そしてミラーズ社の誰もが、ベルナルドと同じ考えだった。
 ジェイク・ニールソンの影が今だちらついている状態で復職することに、ウォレスは難色を示した。再びミラーズ社に迷惑や危険をかけることになりえるかもしれないからだ。しかしベルナルドは引かなかった。
 ウォレスを説得するために、自分の私宅にウォレスを招いたベルナルドは、過去の恩を返して貰いたいと半ば強引な話題を持ち出すことまでして、ウォレスの復職を願った。
 もちろん、ウォレスもベルナルドが本気で「恩を返して欲しい」と言っている訳ではないことは知っていた。ベルナルド・ミラーズという男は、そんなに器が小さい男ではないし、そんな男であったなら今頃こんなに人望を集める人物ではなかったはずだ。
 ベルナルドは、ウォレスに対してわざと断れない状況を作り出したのだ。
 確かにウォレスには、ベルナルドに対して返して余りある恩がある。
 そして許されるなら、それを返したいと常に思ってきたし、再びミラーズ社でベルナルドのために自分の力を尽くせたら、と願ってきた。
 ベルナルドには全て分かっていたのだ。
 ウォレスのそんな気持ちを全部。
 事実、ウォレスが復職することでミラーズ社に与えられる恩恵は多大なものがある。
 ベルナルドにしてみれば、正に霧のように不確かなジェイク・ニールソンの影に翻弄されるなど、口惜しいのだろう。
 ベルナルドはきっぱりと言い放った。「まだ見えぬ影に怯えることはない。十分な備えと少しの勇気を持ち合わせていれば」、と。
 ウォレスが出勤する週明けには、ミラーズ社で新たな警備システムの導入が完了していた。
 社員にはすべてミラーズ社独自のIDカードを発行し、ロビーにはIDカードと指紋をチェックするゲートが取り付けられた。
 外部の者がミラーズ社を訪れる時は、社員同伴でゲートを潜るか厳しいボディーチェックを受けた上、外来者用のIDカードを手渡される仕組みになった。外部の者ももちろん指紋を登録されることになり、入社時には犯罪歴がないかどうか瞬時に照合された。社内のドアには、例外なくチェックボックスが設けられ、どういう人間がいつ室内に入り、いつ退社したのかを明確に記録できるシステムになっていた。
 このシステムを導入するにあたって賛否両論はあったが、ミラーズ社の社員の殆どは、自分たちの会社の目の前で起きた凄惨な爆発事故に少なからず脅威を感じており、商品開発部の連中にいたっては、貴重な商品データや開発データの漏洩の防止に役立つと喜んでいた。
 そしてベルナルドはこのシステム導入に際し、取引のある会社全てにベルナルドが直々に赴き、理解を求めた。ベルナルドが訪れた会社の数は膨大な量であり、先頃契約を結んだ大会社ケイゼル社から始まり、ビル清掃を委託している中小企業まで含まれた。
 どの会社もベルナルドが直々に訪れたことに驚きを隠さず、そして誠意ある対応に賛同してくれた。
 ベルナルドは、ウォレスが会社に戻って来やすいように、そこまでの布石を用意していたのである。もはや断ることはできなかった。
 ベルナルドのこの配慮は、社内にいる限りは少なくとも自宅にいるよりウォレスの身の安全が確保されたということを示していた。
 ウォレスは、そうまでして自分のために尽くしてくれるベルナルドに、またもや感謝しなくてはならなかった。


 ウォレスは、感慨深げに自分のオフィスに入ると、綺麗に磨き上げられた自分のデスクの上をそろりと撫でた。
 突如、社長室と繋がっているドアが開く。
 ファイルが詰め込まれたボックスを抱えて、ビル・スミスが入ってきた。
「ゆっくりと感慨に耽ってる場合じゃないぞ、ジム。君が休んでいる間に、君にして貰わなければならない仕事が山ほど堪っているんだ」
 彼は嬉しくて堪らないといった表情で、ジムの前に文字通りファイルの山を作った。
「現在進行中の企画書や計画書の中で、君の意見が欲しいものを選んで持ってきた。早々にチェックしてくれよ。どの部署のクルーも君の意見を心待ちにして、うずうずしているんだから」
 堆く積まれたファイルの山に少し溜息をついたウォレスは、ビルを見やって一言言った。
「リハビリの時間はなしってことだな」


 ビルが持ってきた仕事の山に、最初は恐れをなした表情を浮かべていたウォレスだったが、実際には、その仕事の殆どを昼前迄に済ましていた。
 ウォレスの情報処理能力は少しも衰えておらず、彼の出した答えや意見、見解はどれも鋭くて隙がなく、確かだった。
 ミラーズ社の誰もがウォレスの完全復活を認識し、そして喜んだ。
 社内を精力的に歩き回るウォレスの姿を見て、どの社員も男女の区別なく見とれ、深い喜びを味わった。そして誰もが彼の復帰した姿を見て、彼がいない間損失してきたものの大きさを思い知ったのだ。
 以前より少し物腰や柔らかくなったウォレスは、前にも増して魅力的であり、男としても上司としても申し分ない魅力を振りまいた。ウォレスが帰ってきたことで、社内のモチベーションは一気に高まり、以前のミラーズ社に満ちあふれてきたエネルギーが再び戻ってきた。
 ジム・ウォレスは、確かにベルナルドが大枚を叩いて警備システムを構築するに値する人材だった。


 ウォレスが、遅い昼食を取ったのは午後三時過ぎのことだった。
 以前は余り使うことのなかった社内のカフェテリアで食事をした。
 そこでウォレスは、思わぬ話を聞かされる。
 厨房の中にいたマリア・フェルナンデスというIDカードをぶら下げた中年の女性に、「マックス坊やはちゃんと元気にしていますか?」と訊かれた。
 マックスは以前からよくカフェテリアで食事を取っていたらしく、このマリアが甲斐甲斐しく面倒を見てくれていたらしい。
「厨房のみんなもね、本当に心配してるんですよ。それに、このカフェテリアに来る子もみんなそう。みんな本当にあなた方のことを心配していたんですよ。特にマックスのことは。無事なことはニュースで見て知ってますけどね。ちゃんと無事な姿を見てないから、気が気でないんですよ。でもあなたと一緒に住んでいるのなら安心ね。ウェディングケーキは作り損ねたけれど、あの子が幸せなら、それでいいのよ。ま、中には恋心が壊れ去って、ここで泣き出す子もいたけれど」
 最初は心穏やかに聞いていたウォレスだったが、最後のマリアの台詞にぎょっとなった。
 なぜ、ウォレスとマックスが同居していて、そして少なくともそれはただの同居でないことをマリアが知っているのだろう。
 ウォレスは勤めて表情は崩さなかったが、額にはうっすらと汗が滲んでくるのを感じた。
 どういう訳だかわからないが、もはやウォレスとマックスの仲は公然の秘密となっているらしい。厨房のおばさんが知っているんだ。もはや社内中が知っていても不思議ではない。
 思わずウォレスはう~んと唸った。
 それを見て、マリアが「あらやだ、あたしったら余計なおしゃべりをして!」と高笑いした。
「大丈夫ですよ、ミスター・ウォレス。誰もそのことを表だって口には出しませんから。ええ、もちろんです。皆、口にチャックしてますから」
 マリアは、口に引き結んでジッパーを引く仕草を見せる。
 例え口にチャックをしたとしても、『皆が』するんならやはり皆が知ってる訳だ。
 考えてみれば、マックスが事件に巻き込まれた夜、ケイゼル社の契約イベントをすっ飛ばしてジェットでとんぼ帰りしたんだから、もはや公然の秘密になってもおかしくないか。
 マックスが知ったら、どんな顔をするだろう・・・。
 取り敢えずマックスは元気にしていることを告げトレイを受け取ると、あまり目立たない席に座って食事を取る前に、先に煙草を銜えた。
 ウォレスとしてもマックスとの関係を恥じる訳では毛頭ないし、誰に知られても別に構わないと思っていたが、いざその場面に突き当たると思わず動揺してしまっていた。そんな自分を情けなく思う。
 道理で各部署を回っている最中に、女性社員の眼差しが痛いほど自分に突き刺さってくる訳だ。中にはマックスに本気の恋心を抱いていた女子社員もいるだろうから、ウォレスがその『王子様』を奪った形になる。
 ウォレスは一服しながらカリカリと額を掻いた。

 

Amazing grace act.116 end.

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編集後記

ちょっと気分的にほのぼのしたくって。先週の予告ブッちぎりの国沢です。
しかも、更新遅れに遅れてのアップ、ホント、ごめんなさい!!!
実は更新のお知らせでも書きましたが、国沢ただいま人生におけるビックウェーブの最中におりまして、ちょっぴしへこんでおりました。先週も鬼のように働いておりましたのですが、やはりメローな感じは否めず。
どうやら国沢、来年には小説がいっぱい書けるほどの有り余る時間を持てそうですv(←勤めて明るくいっているが、内容を突き詰めて考えると結構ヘビー(汗))
ビバ!無職生活!!
女三十を越え、軍隊のような会社に体力が付いて行かなくなりました・・・。いや、これ切実に。
ああ~、この不景気に無職生活だなんて大丈夫かしら?(大汗)
生まれてこの方『無職』なんて経験したことないから、ちょっぴしドキドキです。
なのに「なんとかなるさ」と妙に楽観的な自分がいるのもちょっと怖いです。何とかなるのか?!三十路女なのに??!
取り敢えず無職になるまでに少し時間があるので、あれこれ研究してみたいと思います。
ああ、なぜに寿退社といえないんだ!!!
ざぼ~ん。

[国沢]

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