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act.19

 少しぬるめの水滴が、マックスの身体に纏わりついた赤錆色の汚れを洗い流していく。
  マックスは、足元の排水溝に流れていく赤い液体をしばらく見つめていた。
  マックスの他には誰もいないシャワー室に、雨音にも似た水の滴る音がひたすら響いている。
  真新しい石鹸を手にとって、身体中に擦り付けた。
  死の臭いなんて、どれぐらいぶりだろう。そんなに月日は経っていない筈なのに、以前はこの独特の臭いとすぐ隣り合わせにいたんだと思うと、少し自分が信じられなかった。
  石鹸の爽やかな香りがそれをかき消していく。
  心地よいお湯の中に身を任せながら、マックスは思い返していた。
  自分の目の前で死んだ男のこと。燃え盛る車。逃げ惑う人々。そして何より、ウォレスのあの表情。
  血の気がなくなるとは、本当にああいうことを言うんだと思ってしまうほど、ウォレスは動揺していた。表情を失ったまま。 目の前で車が燃え、血みどろの人間が道路に倒れこんでいる様を見て、普通におれる方がおかしいとは思うが、あのウォレスがああいう表情を浮かべるということ自体が、何だか不自然に思えた。
  すぐに社内に取って返したウォレスの後を追おうとして、サイズに止められた。
「とにかく、そのひでぇ格好をどうにかした方がいい」
 そう言われて自分が全身男の血で汚れていることに、今更ながら気がついた。
 結局お節介サイズとその他の社員に勧められるままジムの隣にあるシャワールームに放り込まれた。
 12つのシャワーヘッドが6つ向かいあって並んでいる広いシャワー室の入口ドアが開く音がして、サイズの声が響いた。
「先生、タオル持ってないだろう」
 一番奥のシャワーで身体を洗っていたマックスが、お湯に打たれながら振り返ると、大きなタオルを抱えたサイズが入ってきた。
 マックスはシャワーを止める。サイズがタオルを投げてよこした。
「着替え、会社の在庫置き場にあったトレーニングウェアを失敬してきた。ロッカールームに置いてる」
「サンクス」
 サイズに背中を向けて、ゴシゴシ頭を拭く。
「ごめんよ、先生。パンツは見つけられなくて、サポーターしかなかった」
 マックスは、恨めしそうにサイズを振り返る。
 サイズは小さくホールドアップした。
「ないよりましだろ?」
 確かにそうだけど・・・。サポーターなんて、学生時代以来だぞ。
 マックスは軽く溜息をつきながら身体の水滴を拭い、タオルを腰に巻きつけた。
「あんたのヌード見たとなると、女子社員から大目玉食いそうだな」
 そうやってふざけるサイズの存在が、正直ありがたかった。
 久しぶりに「死」に直面し、力をなくした精神が復活してくるのが感じられる。
「先生、意外にいい身体してんだな。俺より腹筋がある! 信じられないね!」
 サイズは肥満という訳ではないが、見るからに肉付きがいい身体つきをしているので、 そんなサイズの発言に思わずマックスは吹き出した。
「なんだよ、先生。失礼だな」
 そういうサイズも笑っている。
「君もボクシングとかしたら、こんな腹筋になれるよ」
「ボクシング?! 先生ボクシングやってたのか?! 人は見かけによらないねぇ! でも俺は、賭ける方が断然いいね。殴り合ってまでスポーツする気にはなれねぇよ」
 共にロッカールームに向かう。すぐ目に付くところに、サイズの用意してくれた着替えが見えた。
 腰にタオルを巻いたまま、真新しいビニールパックからサポーターを取り出し、それを身に付けてすぐ、黒のトレーニングウェアのズボンを履いた。
「先生、上に警察の奴らが来てるぜ。先生にも話が訊きたいって言ってた。すぐいけるか?」
 白いTシャツを着て、トレーニングウェアの上着を羽織りながらマックスはサイズに訊いた。
「君はもう訊かれたの?」
「ああ。もう済んだ。社長の前だったから緊張したぜ。第3会議室に上がってくれって」
「分かった。着替え、ありがとう」
 タオルで濡れた頭を拭きながら廊下に出た。


  実際、こんな不安げな表情をミラーズ社社長が浮かべるのも珍しいことだろう。
 セス・ピーターズは、刑事課に所属する同僚と連れ立って、ミラーズ社を訪れていた。
 消防局の火災原因調査班の捜査員から警察署の方に、早々に打診があったのである。
 今回の車両火災は、爆発物が原因によるところが濃厚である、と。
 先ごろのトレント橋の事件もあったので、警察署も素早い対応を見せた。あのミラーズ社の目の前で起こったせいもある。
 こんな形でミラーズ社を訪れることになるなんてな・・・。
 セスは、同僚刑事・ハドソンとミラーズ社社長が話しているのを斜めの席から見つめながら、そう思った。
 そして、こんな形で噂の「ジム・ウォレス」と対面するとは。
 セスは、今社長の後ろに控えている漆黒色の男を初めて見た時から、彼がウォレスだということに気づいていた。
 なるほど、レイチェルが躍起になる気も分からないではない。この見晴らしのいい会議室で、一番控えめに存在しておきながら、セスには、彼の方がよっぽどミラーズ社社長より曲者だと映った。
「正直、不安なのですよ。ご存知かもしれませんが、もうすぐ大々的なパーティーが、この建物で行われる予定です。今年は招待客を厳選するつもりですが、著名な方も少なからず来られる。市長や州知事もプライベートという断りつきでだが、顔を見せると伺っていますし、あなた方のトップ・・・つまり警察署長も来ていただける予定だとお聞きしています。万が一、今回のことが我が社を狙ったことなのであれば・・・」
「その件についてはご安心ください。しばらくの間、貴社の周辺についてのパトロールを強化させることにいたしました。もちろんパーティーのある当日は、警備の者も出しますので」
 ハドソン刑事がそう言うと、ミラーズは複雑な表情を見せた。
「それはそれで、何だか上手く喜べんな。聖なる夜に、警備付きのパーティーなど・・・」
「しかし、何かが起きた後では遅いですから」
 ミラーズの後ろから、耳打ちするように社長秘書がそう言って、ミラーズは渋々頷いた。
「多分、この会社を狙ったんじゃないと思いますよ」
 セスがそう口を開くと、一斉に視線がセスに集まった。セスの呑気な声に、ミラーズと社長秘書は目を見張り、ハドソンは目くじらを立てている。なんてことを口にするんだ、と。思わず口を噤み、肩を竦めたセスに、ミラーズが話し掛ける。
「どうしてそう思うのだね?」
 セスがハドソンを見た。ハドソンは、俺は知らないぞと言わんばかりにセスから視線を外すと、腕組みをした。
「ぜひとも意見を聞かさせてくれ。たまには希望の持てる意見も聞きたいものだ」
 ミラーズにせっつかれ、セスは口を開く。
「まずは、会社に恐喝等の意思表示がされていないこと。それから、会社に恨みがある者なら、さっさと会社自体に爆薬を仕掛ける方が目的を達成できるだろうに、わざわざそれを行っていない点。今回の唯一の被害者・・・つまり車に乗っていた男性ですが、彼の命をかけた抗議だとすると、あんなに目立たない場所で行う意味が見出せないこと。そして最後に、あの車に仕掛けられていた爆弾は、あの車を爆破するためだけの火力しか備えていなかったということ。ようは、あの車だけ破壊したかったんです。言い換えれば、車に乗っている男を殺すことしか興味がなかった、ということです」
 会議室内にほーっと息を吐く音だけが響いた。セスはハドソンの顔色を盗み見ながら、「これはあくまで、俺の推測にしかすぎませんけど」と付け加えた。
  セスは爆弾処理班なので、本来なら事件の捜査には口を出さない。爆弾処理をするのが、まず主だった仕事で、その次に仕掛けられた爆弾に関する分析や、過去爆発物関係で罪を犯した犯罪者の情報提供、捜査する上でのアドバイス等を捜査課に行う程度である。一応は警官だが、犯人逮捕というようなことはあまり行わない。
 だがセスの洞察力は確かに鋭いところをついていた。ハドソンの満更ではなさそうな顔つきからしても分かる。
「だとすると、我が社の前で車が爆破されたのは、たまたまだったということか」
 ミラーズの顔の緊張が緩む。
「現在その可能性が高いというだけで、確証ではありません。トレント橋の事件もありませので、引き続き捜査は続けます。パーティーに警備をつけるのも、どうかご了承ください」
 ハドソンがあえて厳しい口調で言うのを、「う~ん」とミラーズは唸って答えた。
「せめて、警備に立つ人間も正装をしてもらいたいものだ。最初だけとはいえ、マスコミも取材に来るし、招待客を怯えさせたくない。ぜひともそのことを理解してもらいたいものだ」
 ハドソンとセスが顔を見合わせる。
「おそらく、署長も了解してくれると思うがね」
 ミラーズが、威厳のある声色で言う。有無を言わせない口調だ。そういう威圧感を漂わせる素振りを見せると、流石に大会社のボスという雰囲気がある。今までの人のよさそうな初老の男とは明らかに異なった。
 ハドソンが「分かりました」と言った時である。会議室のドアがノックされた。ミラーズの「入りたまえ」という声にドアが開くと、この場には少しそぐわない格好をした金髪の男がおずおずと顔を覗かせた。
「ああ。我が社の社医のローズ君だ」
 室内に入ってきた青年は、一瞬社長秘書の方に視線をやってから、セスの存在に気がついたのだった。
「セス!!」
 驚きが正直に口からついて出る。
「よぉ、マックス」
 セスがいつもの呑気な挨拶を返す。ハドソンに「知り合いか?」と訊かれ、「友達の従弟なんだ」と答えた。
 一方、マックスはセスの姿を見つけただけで、今回の騒ぎの大よそを感じ取ることになった。
 セスが来ているということは、事件性を持った爆発事故だったということだ。
 マックスは、数週間前のトレント橋での事件を思い出していた。
  今回も、同じ犯人なのだろうか?
 幾分顔を青ざめさせたマックスに、ハドソンが「お座りください」とミラーズの前の席を指し示した。
 躊躇いがちに座るマックスに、ミラーズが声をかける。 「今回は勇敢な働きをしてくれた。私としても、鼻が高い」と。
 ミラーズの励ましに、少し表情を緩ませたマックスは、ミラーズの背後に影のように佇むウォレスを見上げた。ウォレスは少し目を伏せたまま何の表情も浮かべていない。いつものウォレスがそこにいた。こうしているとまるで、マックスが見た蒼白のウォレスなど、夢だったように思える。
「大体の報告は、救急隊員と検屍官から訊いていますが、念のためローズさんの見た状況も教えていただきたくて、ご足労願いました」
 ハドソンに横から声をかけられ、マックスは正気に戻ったように瞬きをした。ハドソンの方に身体を向ける。
「彼は、一体何が致命傷で?」
 逆にマックスが訊くと、「複数の内臓が破裂していました」と返事が返ってきた。マックスの脳裏に、赤く染まったハンカチが思い浮かぶ。
 マックスは溜息をついた。
「僕には、彼が後ろからの衝撃で前に投げ出されたかのように思えました。背後からの圧力と火傷のせいで、椅子に座った姿勢のまま、道路上で硬直していました」
「その通り。爆弾は車の後方、トランクの中に仕掛けられていたんだ。爆薬の量としてはそれほどではなかったが、すぐに燃料に引火した」
 ハドソン越しにセスが説明をする。 「だからあんなに燃えていたのか・・・」とマックスは呟いた。
「それであなたは、道路上の被害者を抱きかかえて、後方に下がった」
 ハドソンが先を続ける。
「ええ。その時彼にはまだ息があって、安全なところにまで避難させました。けれど、応急処置をしようとしていた矢先、息をひきとりました。状況から考えると、ほぼ即死の状態です」
 マックスはそう言いながら、悔しさに顔を歪ませた。例えどんな事情があろうとも、人の命を奪うなど、医者として、いや人間として許せない。
「被害者は何か言ってませんでしたか? 死ぬ間際に」
「いいえ。彼にはもうその力は残されていませんでした」
「何か、言葉に代わるメッセージは?」
 マックスは首を横に振る。「そうかぁ」とハドソンが背を反り返らせて溜息をついた時、若い刑事が短いノックの後に会議室に入ってきた。 「被害者の身元が判明しました」と言いながら、ハドソンにメモ書きを手渡す。ハドソンはメモ書きに目を通して、会議室内の人間を見回しながら言った。
「被害者は、ボブ・ステッグマイヤー。こちらと取引のあるストラス社の元社長秘書です。彼をご存知ですね」
 ミラーズが思わずウォレスをかえりみた。ウォレスも渋い表情を浮かべる。
「なぜこの人物が、ミラーズ社前でこんな事件に巻き込まれているのか、何かお心当たりはありませんか?」
「いずれ調べが進めば分かることだから、今正直に話しておくが」
 ミラーズが口を開く。
「彼の会社・・・いや、元勤めていた会社となるが、ストラス社とは少々揉めましてな。確か、どれぐらい前だったかな・・・」
「2ヶ月ほど前です」
 影のような社長秘書が答える。ミラーズが頷いた。
「ストラス社が急に契約を破棄したいと言い出して。共同研究をしている最中に、その研究資料を持って、うちのライバル会社であるW&PC社に鞍替えをすると。ようは金に目がくらんだに違いありませんが、そんなバカな話はない。そうでしょう」
 ハドソンもセスも頷く。確かにミラーズが怒って当然の話だ。それでは、何のために契約しているのか分からない。
「おそらく、その橋渡しをしたのがそのステッグマイヤーという男です。賄賂でも渡されていたのでしょう」
「それで、W&PC社の買収につながるのですね。ミラーズ社の子会社である会社に吸収合併された」
 その部分は報道されていたので、ハドソンもすんなりことの次第が飲み込めたようだ。セスは、レイチェルからある程度の顛末を聞きかじりしていたので、その「大事業」を成し遂げたのがミラーズではなく、ミラーズの後ろに控えている社長秘書であることも理解していた。こうして改めて本人を目の前にすると、さすがのセスも背筋が寒くなってくる。
「では逆に、被害者の男の方が、貴社に恨みを持っていた・・・ということですね。おそらく彼は、そのことが原因で会社を追われたのでしょう。まぁ、その辺はこちらでも捜査してみますが」
「ではやはり、恨みを持って我が社の前で自殺してみせたということだろうか」
 不快感を隠し切れないミラーズに、ハドソンが肩を竦めて見せた。
「それはまだ、何とも。とにかく調べてみます。何か進展があったら、お知らせするようにしますので。それから、警備の方は、事件がはっきりするまで続けさせていただきます。万が一ということも否めないので。それでは」
 ハドソンが席を立つと同時に、室内にいるすべての人間が立ち上がった。
 物々しい雰囲気を残しつつ、ハドソンと警備の警官、最後にセスが退室していく。
 セスが帰り際、マックスの肩を叩いていった。「また今度」とマックスが返す。
 セスの笑顔は、不安感の残るマックスの心を安らげてくれた。
「しかし、大変なことになった・・・」
 ミラーズが珍しく弱々しい声を上げて、椅子に再び身体を落とす。その顔色の悪さに、マックスはミラーズの側に膝づき、脈を図った。
「少し、お休みになった方が・・・」
 マックスがウォレスを見上げると、ウォレスが頷いた。側のインターフォンを取り、ミラーズのためにベッドを整えるよう細かな指示を出す。その様子は、普段のウォレスと変わりなかった。
 ウォレスと共に、社長室隣の洒落た個室に(ここはミラーズの趣味の部屋だ)ミラーズを連れて行き、丁寧にベッドメイクされた簡易ベッドにミラーズを横たえた。  簡易ベッドといっても上等な代物だから、ミラーズは安心したように長い息を吐いた。
「しばらく横になっていれば大丈夫です。今回のことで心臓が少し、驚いているようですから。しばらく気分が悪いのが収まらなかったら、軽い鎮静剤を用意しますが、なるべくそれは飲まない方が身体のためにはいいので・・・」
 「ありがとう」と言いながら薄い眠りに入ろうとするミラーズを置いて、マックスはウォレスと共に個室を出た。
「しばらく様子を見ていた方がいいだろうか」
 ウォレスが部屋を出たところでマックスに訊く。
「そうですね。念のため。ただの心労なので、心配はないと思いますが」
「私がついてますから」
 ウォレスのアシスタントのレベッカ・アンダーソンが2人の間で声を上げた。ベッドを整えたのも彼女だ。頷いたマックスを見て、ウォレスも安心したらしい。 「頼んだぞ」とレベッカに言って、部屋を離れた。その後を、マックスが追う。
「ミスター・ウォレス」
 マックスは、ウォレスのオフィスの前で彼を捕まえた。
 振り返ったウォレスの表情は、硬く強張っているように見えた。それはマックスの気のせいでしかないのかもしれないが・・・。

 

Amazing grace act.19 end.

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編集後記

あまりサービスショットになりませんでしたかね? シャワーシーン。サイズ相手じゃ些か(というか、だいぶ・・・)色気もでないって。ウォレスは相変わらず鉄仮面ぶりを発揮していましたが、来週は、その仮面が僅かながら取れます。
ウォレスの過去、そして弱い一面が明かされる次回。こうご期待!
追伸。さらにマックスは、乙女な感じに磨きをかけます。

[国沢]

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