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nothing to lose title

act.52

 その日の晩、ドーソンは手のひらに鉄錆びをくっつけたままで新聞社に取って返した。
 深夜のことだったので怖い編集長も既に姿を消し、編集室には当直の若い記者が数人と年老いた掃除夫がポーカーゲームをして遊んでいた。
 床下からは一階にある印刷所の巨大な印刷機が動いている音がまるで低音の地響きのように伝わってくる。既に朝刊を印刷している時間帯だった。
 編集室の後輩記者達は、ドーソンの顔を見ると一様に驚いた顔を見せた。その中には、爆弾事件担当の若手記者、ジェリー・バーマンもいた。細い顔立ちをした優男で、お坊ちゃん育ち丸出しの社主の甥っ子である。子供のいない社主の後々の後継ぎと目されている人物だ。
「先輩、こんな夜遅くに、どうしたんです?」
 カード遊びに興じているバーマンが、ドーソンに声をかけてくる。
「何、ちょっと調べ物だ・・・」
 ドーソンは適当に言葉を濁しながら自分の机の引出しを開けると、コンピュータ室のカードキーを手に取った。
「そういえば、ハートさんが心配してましたよ」
 バーマンがさらに声をかけてくる。レイチェルの名前を出され、ドーソンはバーマンを振り返った。
「先輩、何かコソコソとよからぬ事を考えてるんじゃないですか?」
 ニヤニヤと笑いながら、バーマンがそう言った。彼はほんの冗談のつもりだったろうが、ドーソンにしてみれば図星をつかれた訳で、内心面白くなかった。だが、ここでそれを顔に出しては、その「よからぬ事」がバレてしまうやもしれない。
「女は心配するのが商売なんだよ」
 ハハハとドーソンは笑って返した。バーマンもニヤニヤ顔のまま二、三回頷く。ドーソンは「お疲れさん」と気さくに声をかけると、編集室の隣のコンピュータ室に向かった。
 パソコンの端末が数台置かれたこの部屋は、部屋の奥にオニキス(スーパーコンピュータ)を二台設置してあった。この新聞社自慢のシステムで、警察や役所とほぼ同等、いやそれ以上の街のデータが網羅してある。市民の社会保険ナンバーから土地の持ち主、ビルの管理者、おまけに犯罪歴まで分かるようになっている。アパートの住人の身元を洗う取り掛かりの情報を得たのも、ここのデータベースからだ。もちろん、警察や公の機関が持つ機密情報を知ることはできないが、市民に公開されているようなデータなら、ここで調べる方が早い。  ドーソンは、例の倉庫の管理業者と借主を検索した。
 検索の結果は、たいして面白い内容ではなかった。
 倉庫管理業者は、ミリオン貸し倉庫商会という小さな会社で、借主はジェイコブ・マローンだった。借り始めた日にちを見るともう3年も前の話で、どうやらニールソンのために借りた倉庫ではないらしい。だが、実際今はニールソンがそこを使っているということか。
 マローンやニールソンがいない間、どうにかして倉庫に入る手立てはないものか・・・。ドーソンはミリオン貸し倉庫商会の住所をメモ帳に書きとめながら、あれやこれやと考えを巡らせた。


 ウォレスの車に乗り合わせてマックスの部屋に向かった二人は、途中深夜営業のピザ屋でその日の遅い夕食を手に入れると、後は真っ直ぐにマックスの部屋へと急いだ。
 酒瓶を抱えたマックスは、コートのポケットから部屋の鍵を取り出しながらドアの前に立つと、またもや舌打ちをした。
「またやられた」
「え?」
 ピザの箱を抱えているウォレスが、マックスの視線の先を追う。マックスは、ドアの下を指差しながら言った。
「新聞。最近いたずらで、新聞を盗っていかれるんですよ。誰の仕業かは、大体見当がついてるんですけどね」
「誰なんだい?」
「一階下の子供です。イタズラざかりで、このアパートメント中、何かしら被害を受けているらしいんですけどね。まぁ、どれも大したことはないんですけど」
「へぇ。どうしてその子だと判ったんだ?」
「数日前の夕方、新聞の顔写真に落書きをした古い新聞が、部屋に突っ込まれてたんです。大統領の顔にこう、鼻毛がたくさん」
 マックスが鍵を持った手でジェスチャーをすると、ウォレスは「なるほどね」と言って笑った。
「また注意しておかなくちゃ・・・。どうぞ」
 部屋のドアを開けて、ウォレスを中に通す。
 ウォレスがここを訪れたのは、あの雨の夜以来のことだった。
「リビングで食べましょう。今用意します。ソファーに座って寛いでください」
「ああ」
 ウォレスは、リビングのローテーブルにピザの箱を置くと、コートを脱いで入口のコートかけに掛けた。上着を脱いだマックスが、キッチンからグラスと皿、ピクスルの瓶を出してくる。
「音楽をかけていいかな」
 オーディオセットの前に立ち、CDラックを眺めながらウォレスは訊いた。
「ええ。大したものは揃ってないですけど・・・」
 確かに、CDの枚数もそんなに多くはない。医者時代、ろくに家に帰って寛ぐ機会が少なかったからだろうか。クラシック系のものが多かった。
 ウォレスは、その中からマリア・カラスのアリア集を手にとった。CDをかけると、ウォレスにも馴染みのアリアが流れてきた。美しいアリアで、ふるさとに別れを告げる内容の歌詞がウォレスの心を捉えた一曲だった。
 ウォレスが振り返ると、マックスは食器を持ったまま、そこに立ちすくんでいた。突如部屋を包んだクラシックな響きに、気をとられたように宙を見つめていた。少し悲しげな表情で。
「どうしたんだい?」
 ウォレスが食器を受け取ってテーブルの上に置くと、マックスは夢から覚めたかのように瞬きをした。
「この曲、俺が最後に行った手術の時に手術室でかけていた曲なんです」
 マックスはそう言って自嘲めいた笑みを浮かべると、ソファーに腰掛けた。
「手術室に音楽を?」
「ええ、大抵の人は知らないと思いますが、音楽を聴きながら手術をしている執刀医は多いんですよ。かけてる音楽は人それぞれ違いますけどね。ロックからそれこそクラシックまで」
 マックスはそう言いながら、自分が今だミルズ老人に真実を伝えきれていないことに気がついた。思えばミラーズに就職してからというもの、いろいろなことが起こり過ぎて、そのことまで気が回っていなかったというのが本音だ。あの罪悪感が蘇り、マックスの気分は少し落ち込んだ。
 そんなマックスの様子を見て、ウォレスはジョニー・ウォーカーの蓋を開けた。
「飲むか?」
「ええ。飲みましょう」
 そう言えば、ミルズ老人の家を飛び出したその日、ウォレスに初めて出会ったんだと思い出した。それを思うと益々感慨深い。本当に随分、いろんなことがあった。そして今目の前に、優しい光を宿したミッドナイト・ブルーの瞳が自分を見つめてくれている・・・。
 ウォレスも、あの夜のことを思い出していたらしい。「君との出会いに」と呟くと、コツリとグラスをぶつけた。
 結局、あまりピザには手をつけずにオリーブとキュウリのピクルスを齧りながら互いにグラスを空けた。もちろん「例の計画」を忘れているマックスではなかったので、彼は自分がグラスを開けるより倍のスピードでウォレスのグラスに琥珀色の液体を注いだ。心配されていた仕事のメドがようやくついたせいか、ウォレスのグラスを空けるピッチも早かった。
 このままだと順調にいけるかもしれないな・・・。
 ウォレスに「契約もうまくいきそうですね」と話を振りながらマックスがおぼろげにそう思った時、マックスの話を受けてウォレスがこう切り出した。
「そうだな。USパワー誌の発売も週明けに迫っているし、何とかこちら側にいい条件で契約にこぎつけそうだ。・・・USパワー誌といえば・・・あの時、君はあの記者に何か言われたのかい?」
 一瞬、マックスのピクルスを取る手が止る。
 その様子に気づいているのかいないのか、ウォレスが先を続ける。
「前からなんとなく聞きそびれていた・・・。あの時の君の様子がおかしかったから。何を彼に言われたんだい?」
「何って、別に大したことは・・・」
 マックスはそう言ってグラスの中のウィスキーを煽った。ついごほごほとと咳き込んでしまう。
「別に責めている訳ではないんだよ、マックス」
 確かに、ウォレスの瞳は今も優しげにマックスを見つめている。
 マックスは、妙に後ろめたく感じて、再度自分のグラスに酒を注いだ。
「実は、4日前だったか、ミゲル記者から私あてに電話があってね」
 マックスは危うく酒を噴き出しかけそうになった。
「何ですって?!」
 思わず大声が出てしまう。
「か、彼は何て?!」
 今度はウォレスが言葉を濁す番だった。


 電話は、昼休み直前の時間帯を狙って掛かってきた。
 ウォレスが電話に出ると、相手は『USパワー誌のマーク・ミゲルです。その節はどうも』と丁寧に挨拶をしてきた。ウォレスも社交辞令ながら、「この度は無理な要求を受け入れていただいて大変助かりました」と返した。ミゲルは、週明けに発売される号にマックスの取材記事が掲載されることを告げ、会社に10部ほど送らせてもらうと言った。だが相手がそんなことをただ伝えるために、態々ウォレスに電話をかけてきたとは到底思えなかった。そんな話は、広報部のキャサリンに言えば済むことだからだ。
「ミゲルさん、何か私に言いたいことがおありなのでは?」
 ウォレスがそう訊くと、少しの間があって笑い声がした。
『確かにそうです。実は先に言ったことは口実で。いや、口実と言っても、きちんと10部お送りさせていただきますよ』
「ええ。分かってます。それで・・・?」
 ウォレスも少し笑いながら、再度ミゲルに訊いた。ミゲルは、ウォレスが話の分かる男だと見込んだのか、単刀直入にこう切り出した。
『僕はゲイでして。それはあなたもご存知ですよね?』
「ええ。様々な活動もされていますよね。あなたの存在で勇気付けられた方々もたくさんいることでしょう」
『いや、そんなことは大したことではないんです。今の僕の興味は、あなたの恋人にある』
 さすがのウォレスもこれには一瞬、言葉を失った。
『否定してくださっても結構ですよ。マックス・ローズは自分の恋人ではないと。寧ろそちらの方が僕にとってはありがたい。あなたは社会的にも重要な地位にあるお方だ。認めることの方が辛いでしょう。カミング・アウトしている僕のような人間とは違って』
 ウォレスはどう答えていいものかどうか、言葉が即座に浮かばなかった。ただ、マックスが自分の恋人であることを隠し立てするつもりはさらさらなかったし、そんなスキャンダル如きで潰れるような自分ではないと思ってた。 ウォレスが言葉を返そうとした時、先にミゲルが口を開いた。
『彼が話した訳ではありません。だから彼は責めないでやってください。ただ、彼の表情は雄弁すぎて、長年記者なんかをやっている僕にとっては手に取るように分かるんですよ、彼の気持ちが。・・・彼は今、辛い恋をしている。もちろん、その相手はあなただ。彼が幸せなら、僕も波風は立てないつもりでした。だが、どうやら彼は心から幸せとは言い切れないんじゃないかと僕は感じました』
 それを聞いて、ウォレスは言葉を返せなかった。それはウォレスのアキレス腱をついた言葉だったからだ。
 自分と付き合うことによって、目の前の心優しい青年が本当に幸せになれるのだろうか?
 それはウォレスにとっても大いなる疑問であった。
 ウォレスの沈黙をなんと取ったのだろう。
 ミゲルは受話器の向こうで『すみません』と静かに謝った。
『突然電話で言うようなことではないですよね。・・・でもあなたが今のように僕に言い返せないのであれば、やはりあなたにも思うところがあるはずだ。僕は学生時代からのマックス・ローズを知っています。そしてその存在に偶然だがずっと憧れてきた。彼は本当に幸せになるべき人間です。あなたが幸せにできないなら、僕が彼を幸せにしてあげたい。僕は、彼にあんな顔はさせませんよ』
 ミゲルの口調は、彼が本気であるということを表すに十分な真剣さがあった。ミゲルが学生時代からマックスのことを知っていたということは意外だったが、今のマックスを見て夢中にならない人間がいないはずはない。事実自分にとってさえ、マックスは掛け替えのない存在なのだ。
「私との関係が彼のためになるかどうか、私にはまだ答えが出せません。だが、今の私は彼に対して、これでも必死なのですよ」
 ウォレスは少し混乱する自分の気持ちを、それでも誠実にミゲルに告げた。ミゲルはしばらくの間沈黙した後、『週明けには、そちらにお伺いすると思います』と言って電話を切った。
 本当のところ、ウォレスはその後、ミゲルの言葉に縛り付けられていた。そのお陰で自分からマックスに会いに行くことが憚られ、仕事の忙しさも手伝ってか、しばらくマックスの顔が見られなかった。
 だから、マックスが今夜どんな企みがあろうがこうして会いに来てくれたことは正直嬉しかったのだ。いや正確にはほっとしたという方が正しいのかもしれない。  自分は果たして、この目の前の青年を本当に幸せにしてあげているのだろうか? そしてこれからも幸せにできるのだろうか・・・?
 何か自分ばかり与えられているようで、ウォレスの心は少しばかり痛んだ。


 一方、ミゲルが何を言ったか、言葉を濁して答えてくれないウォレスに、マックスは焦れた。どうせミゲルのことだ。あの率直さでウォレスにとんでもないことを言ってしまったに違いない。
「どうして何も言ってくれないんです?」
 マックスは苛立ってまたもや自分のグラスの酒を煽った。そして空いたグラスになみなみとウィスキーを注ぐと、再度一気飲みした。
 ウォレスに噛み付くには、酒の勢いが必要だった。
「ミゲルさんが何を言ったかは知りませんけど、俺はあなたのことが好きです。俺にはあなたしか見えていない。彼に何と言われようと、俺の耳には入らない。でも・・・でも!」
 マックスはウォレスの胸元を掴んだ。
「何も言ってくれないと時々不安になる・・・。いつも俺の感情ばかり溢れすぎて、なんだか酷く一方的で・・・。あなたは俺に全てを許してくれている訳じゃない。あなたは俺に何かを隠して、酷く傷ついている。俺の力じゃどうにもならないことかもしれないけど、俺一人の気持ちばかり空回りしてるみたいで・・・」
 次第にマックスの顔が真っ赤になっていく。酒を煽ったばかりに加え、感情の昂ぶりもプラスされたせいで、酒のめぐりがよくなったせいだ。
 マックスはマックスなりに余程身体の中にストレスを溜め込んでいたのだろう、初めて会った時のようにわぁと泣き出すと、ウォレスの身体にしがみ付いてきた。
「あなたが好きです。あなたを愛しています。あなたの傷を俺も背負いたい。あなたの苦しみを俺に分けて欲しい・・・」
「マックス・・・」
「あなたとふたりで朝を迎えたいと思うことはいけないことですか? 朝起きたら、あなたはいつも隣にいない。もちろん、シンシアがいるから仕方がないことだとは思います。あなたを独占したいだなんて醜い感情だということも判ってる。でも、あなたの全てが欲しいと思ってしまうんです。あなたに愛されているという証拠を欲しがってしまう・・・!」
 マックスにそう言われ、ウォレスは再び言葉をなくした。マックスの気持ちは涙が出るほど心に染みたが、自分の抱えている傷がただの傷ではないことをウォレスは痛いほど知っていた。それをマックスとどう分かち合えるというのか。マックスには告白するには辛すぎる過去の傷・・・そしてそれは過去ではなくなりつつある・・・をどうして背負わせることができるというのか。愛しているからこそ、彼を苦しめたくない。闇の世界に触れさせたくない。ましてや自分が人殺しの片棒を担いできたことを知られたくない・・・。
 何も答えることができないウォレスは、ただマックスを抱きしめた。マックスはウォレスの胸元に顔を擦りつけ少年のように泣きじゃくった。酒はかなり回っているらしく、しばらくすると疲れて眠ってしまった。日頃怒りや悲しみなどの感情をあまり爆発させない性格なので、一度大きく噴火させてしまうとかなり疲労してしまうのだろう。
 汗で額に張り付いた前髪をかきあげてやると、ウォレスはマックスの身体を抱え、寝室に運んだ。シャツを寛がせ靴を脱がせると、シーツを上にかけてやり寝室のヒーターをつけた。タイマーをセットしてやる。
 ウォレスは再びベッドに戻ると、少し悲しげな顔つきでマックスの横顔を見つめた。
「すまない・・・。君と一緒に夜を明かす勇気が、私にはまだないんだ・・・」
 ウォレスはそう呟くと、マックスの髪にキスをして部屋をそっと出て行った。

 

Amazing grace act.52 end.

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編集後記

今年のグラミー賞、U2でしたねぇ。しかも、最優秀レコード賞(だったっけ?)は『Walk On』。
国沢が一万打突破を記念して作ったCDに羽柴耕造をイメージさせる曲として入れてた歌が、見事グラミー賞の一番いい賞を獲得しました。
思えば、U2は二年連続の受賞ですよね。去年は、 『Walk On』も収録されているアルバムからの先行シングル、『ビューティフル・デイ』で受賞していたと思いますが。
オジサンパワーは舐めてかかれませんね。
アダム(U2のベーシスト)の相変わらずの与太ぶりに思わず微笑んでしまいましたよ。
そしてラリー!!
何、あの可愛さは!!とても40過ぎているとは思えない!!相変わらずの美形健在ぶりを確認できて、ある意味感動。でも、彼も相変わらずで、全然フロントに出てこないのよね・・・。それが彼のよさでもあるが・・・。もっとラリーのアップが見たいっす(涙)。いつもジ・エッジ(もしくはボノ)の後ろに隠れてるんだもん・・・・。
U2を知らない方には、なんのこっちゃ判らないあとがきっすね(汗)。でもラリー(U2のドラムス)の美形ぶりは一度拝んでおいた方がいいですよ。(もちろん、曲も最高ですがね)

[国沢]

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