ジェイクがナイフを振りかぶった光景を見て、悲鳴がわき起こる。
　避難を続けている社員達にも、最上階で繰り広げられている危機的状況が確認できたのだろう。
　警官が拳銃を構える音が次々とこだまし、口々と「動くな！」という怒鳴り声が中庭の吹き抜けた空間に響き渡った。
「よせ！　やめろ、ニールソン！！」
　テイラーやセスの怒鳴り声も混じっている。
　さすがのマックスも、ジェイクがウォレスの身に付けている装備からナイフを引き抜いた時、あまりの恐怖に一瞬声を失った。
　ああ、神様・・・・！！
　このままウォレスの命が消え去ってしまうのではないかと、マックスは歯を食いしばって祈りを捧げた。
　だが、この状況の中でウォレスだけは違っていた。
　やはり運命の糸に翻弄され続けた二人だからこそ、ジェイクの微妙な心の変化を敏感に読みとることができたのだろうか。
「・・・ジェイク・・・？」
　ウォレスは、怪訝そうにジェイクを見つめた。
「・・・ジェイク、やめろ・・・何をする気だ・・・」
　ウォレスの言った言葉は、他の人間の静止の声と意味が違っていた。
　ウォレスは、続けて叫ぶ。
「やめろ、ジェイク！　死ぬ気か？！」
　ジェイクは、自分の手首を掴むウォレスの指にナイフをあてがった。
　そしてジェイクは薄く笑みを浮かべると、こう言った。
「俺は奪う生き方しかできない男なんだ。そうでなければ、あんな時代で生き抜くことなどできなかった。せめて・・・、せめてお前の小指を俺にくれ。これで俺の『奪う』人生を終わりにしたい」
「ジェイク！！」
　ウォレスがジェイクの名を叫んだ瞬間、ナイフの切っ先が小指に突き立てられた。
　ウォレスは唇を噛みしめ、他の指に力を込め何とかジェイクの手首を放すまいと必死になったが、小指から吹き出す血と痛みに、ジェイクの手がズルズルと落ちていく。
「よせ！　やめろ！！　ジェイク！」
「やっと、さよならだ」
　ジェイクは今度こそはっきり笑顔を浮かべると、グイッとナイフに力を込め、指を切り取った。
「うぁ！！」
　痛みに一瞬ウォレスの意識が霞んだその時。
　ジェイクの身体が、今だ燻る赤い炎の上に舞った。
　まるで、永遠に続くような一時。
　誰もが息を飲んで、絶対的な破壊者の最後の瞬間に見入った。
　吹き上げる風に赤い火の粉が舞い上がる最中。
　ズドォン・・・
　地面を揺るがす大きな音と共に、ジェイクの身体は炎のど真ん中に叩き付けられ、すぐに飲み込まれた。
　まるでスローモーションの映像のように、怒号と悲鳴が沸き上がり、セスが消火隊に早く火を消すようにと怒鳴った。
　次の瞬間、屋上からロープで下りてきた救出隊にウォレスの身体が抱きかかえられる。
　ウォレスは、今一度ジェイクが消えていった闇に目を向けた。
　まるで花火のように火の粉が風で巻き上げられる光景は、いやに綺麗で。
　ウォレスの深い海の色を湛える瞳から、一筋の涙がぽたりと落ち、やがて炎の中に吸い込まれていった。


　ウォレスが社長室に引き上げられると、社長室にも多数の警官隊と救命士がなだれ込んでおり、マックスの傷の手当が施されていた。
　ウォレスは、すぐにでもマックスと抱き合いたかったが、傷ついた左手の手当をと隊員達に押しとどめられた。
　ウォレスの左手は、ジェイクが宣言した通り、小指の第一関節から先が綺麗に切断されていた。だがウォレス自身は落ち着いていて、取り乱すことはなかった。
　その間、手当を受け終わったマックスは、今だ気を失っているシンシアを抱き上げウォレスの元に連れてくる。救命士が差し出した気付けの薬をシンシアの鼻先に近づけた。
　すぐに目を覚ましたシンシアは、最初呆然としていたが、やがて傷ついているマックスとウォレスの姿を見て、どういう状況だったかある程度理解をしたらしい。
　彼女は顔をくしゃくしゃにすると、マックスとウォレスに抱きつき、声を上げて泣いた。
　そして三人で固く抱きしめ合った。


　一方、テイラーは、死体袋に入れられ運ばれるジェイク・ニールソンに付き添うようにしてビルを出た。
　あんなに憎むべき犯罪者だと思っていた男を初めて目の当たりにしたにも関わらず、なぜか心は複雑な悲しみがわき起こっていた。
　ジェイクの身体が落ちる直前、ウォレスとの間でどんなやりとりが交わされたかは分からなかったが、それでも死してなおしっかりと手の中にウォレスの指を握りしめて放すことがなかった男の哀れさが、テイラーを何とも言えない気持ちにさせていた。
　救急車に乗せられていく姿を見送りながら、テイラーは長い長い溜息をついた。
「・・・ご苦労様でした」
　ふと隣から、煙草が差し出される。
　目線を左に向けると、煤汚れが顔に付いたセス・ピーターズが立っていた。
　テイラーは、煙草を銜えるとセスの点したライターの炎に煙草の先を近づける。
　そうして一服すると、疲れた苦笑いを浮かべた。
「・・・そっちの方が苦労したんじゃないのか」
　テイラーは、セスが今回の爆弾の解体に一番貢献したことを承知していた。
　そしてそれがどんなにか困難な仕事であったのかも。
　流石のセスも、テイラーと同じように疲労の浮かぶ顔つきで笑った。
「今回ばかりは、本当に死ぬかもなって思いましたよ。流石にね。・・・でも、ちょっと切ないかな・・・。ニールソンという男の才能をまざまざと見せつけられて、何なんだろうって何度も思った。こんな悲しい才能を身に付けることになってしまった男の人生って、一体なんなんだろう・・・なんてね」
　テイラーは、その言葉に何も答えを返さなかった。そしてセスも、それ以上何も言わなかった。
　二人の吐き出す煙の向こうに、ジェイク・ニールソンの遺体を乗せた救急車のテールランプが消えて行った・・・。


　全米を揺るがせた大企業での立てこもり事件は、主犯格の逮捕、そして共犯者の死亡という形で終焉を迎えた。
　人質になったミラーズ社の社員は多数いたが、ほとんどが軽傷で腕を骨折している社員と指を切断された社員二名のみ、一旦病院に入院することになった。
　警察の取り調べにおいて、主犯格のキングストンは共犯のジェイク・ニールソンと知り合った経緯を供述したが、どちらともミラーズ社の莫大な資産目当てという利害関係が一致しての犯行だと述べた。
　イギリス当局は、今回死亡した犯人の身元を、刑務所を脱走して逃走中だったジェイク・ニールソンであると正式に認めた。死体のDNA鑑定により確認されたと公表され、遺体はイギリス本国まで輸送されることとなり、皮肉にもニールソンが抜け出した墓に埋葬されることになった。遺体は本来ならそのまま棺に入れて埋葬される予定だったが、遺体の傷みが激しかった為、大使館員のジョイス・テイラーの指示により輸送される前に荼毘にふされた。その際、指の骨が一つ多いことに関係者は気が付いたが、それがどこかに報告されることは結局なかった。
　なお、ジェームズ・ウォレスがSWAT隊員になりすまし、ビル内に侵入した事に関しては、警察署としても目を瞑る結果となった。またもや警察としてのメンツを危うくしそうな話に、署長が関係者に戒厳令を発令した為、マスコミに漏れることは一切なかった。
　そしてマスコミは、しばらくの間挙ってこの事件を取り上げ騒ぎ立てたが、やがて別の場所で別の戦争が始まるとこの事件が取り上げることもなくなった。
　その後、フリーのジャーナリストとなったマーク・ミゲルがアイルランド紛争に巻き込まれ数奇な人生を歩んだある女性の話を綴った小説を発表し、ベストセラーとなった。現在その小説の映画化が検討されているという。

　そして、マックスとウォレスはと言えば・・・。

　真っ白い鳩が一斉に飛び立つ姿を見て、人々の間から歓声と拍手が鳴り響いた。
　リンゴンリンゴンと真っ白な教会の鐘が鳴り響く。
　教会のドアが開き、皆が「おめでとう」と口々にいいながら、花嫁と花婿にライスシャワーを浴びせかけた。
　その歓声にびっくりしたのだろう。
　突如マックスの腕に抱かれていた赤ん坊が、ワンワンと泣き始めた。
「うわ！　ああ、起きちゃったよ・・・」
　マックスは目を白黒させながら、あたふたと赤ん坊をあやした。
「泣かないで・・・、ね、後でミルクあげるから・・・」
　その慣れない手つきに、赤ん坊は益々泣き声を大きくする。
　今まで無視を決め込んでいた人々も、流石にマックスを返り見た。
　マックスが視線を感じて顔を上げると、マックスの『親友』である花婿が、「お前何やってんだよ？」という目線をマックスに送っている。マックスも「ごめん」と声に出さずムキになって口を動かした。顔を顰めている花婿に、花嫁がすっと手を掛ける。
　花嫁の穏やかな微笑みに、花婿はデレデレだ。
　花嫁は花婿を諫めた後、マックスを見て再度微笑んだ。
　マックスも『元婚約者』の花嫁姿に目を細める。
　純白のドレスに身を包んだ彼女は、本当に美しかった。
　自分が彼女に着せてあげることはついになかったが、それでもこうなって互いに本当の幸せを勝ち得たのだと思う。
「ERでは、赤ん坊の治療とかはしないのかい？」
　ふと側で低く少しハスキーな声が聞こえてくる。
　それは、愛して止まない人の声。
　マックスは振り返った。
「どれ、少しかしてごらん」
　遅れて教会から出てきたウォレスが、マックスの腕から栗毛色の髪の赤ん坊をすっと抱き上げた。
　ウォレスが二、三回赤ん坊を抱いたまま優しく揺すると、不思議なことに赤ん坊がピタリと泣きやんだ。
「えぇ・・・」
　マックスは、びっくりして思わず見入ってしまう。
　優しげな微笑みを浮かべながら赤ん坊を胸に抱くウォレスは、何というか本当に様になっている。
「シンシアが小さい頃は、よく泣いて大変だったからね。こうして心臓の音を聞かせると、安心して眠るんだよ」
　ウォレスがそう言うと、ウォレスの後ろにいるシンシアが口を尖らせた。
「私、そんなに泣いてたの？」
「ああ。夜昼まったく関係なしだ」
「うわぁ・・・子育てって、大変だぁ・・・」
「本当に！　まったく冗談にもならないわよ」
　シンシアの台詞に間髪入れず、教会の方から特徴のある甲高い声が聞こえてきた。
「レイチェル」
　マックスが振り返ると、如何にも不機嫌そうな顔つきのレイチェルが、セスを伴って歩いてきた。
「ああ、ジム、ごめんなさい。受け取るわ」
　レイチェルは、慣れた手つきで赤ん坊を受け取ると、肩に抱き上げて背中をトントンと叩いた。その手つきは、すっかり母親のそれで、堂に入っている。
「まったく、ちょっとはジムを見習ってほしいわよ。うちのバカ亭主と来たら、さっきアタシの前でこともあろうか煙草を銜えやがったのよ。この再び激しくつわりに苦しんでいるアタシの目の前で！！」
　レイチェルはそう叫んだが、母親のキンキン声は慣れているのか、赤ん坊は心地よさそうに眠っている。だが、セスは対照的に冷や汗をダラダラと垂らしながら、「ごめん、本当にごめん」と平謝りしている。
「それじゃ、さっきまでまた吐いてたの？　大丈夫？」
　今ではすっかり仲がよくなったシンシアが、レイチェルの身体をさする。レイチェルは「吐くもの全部ブッ吐いちゃったから大丈夫よ。後は出たとしても液体のみ」と言いながら、悠然と微笑みを浮かべる。
　皆が一様に責める視線をセスに向けた。
「・・・セス、いい加減に禁煙しないと駄目だねぇ」
　ヘビースモーカーには苛酷なマックスの一言に、セスはがっくりと項垂れる。
　その時、自動車のクラクションが派手に鳴らされた。
『ジャスト・マリッジ　マイク　アンド　メアリー』とリアウインドウにペイントされた車が動き始める。
「お嫁さんかぁ。子育ては大変そうだけど、お嫁さんには早くなりたいかな」
　シンシアが呟くと、すかさずマックスが「まだ早いよ。大学二年生だぜ？！」と言い返す。その台詞に、周囲の誰もが笑い声をあげた。
「これじゃ、どっちが父親か分からないなぁ」
「シンシアは気の毒ねぇ。小うるさい父親が二人もいて」
「おや、私はそんなに小うるさいことはない筈だが」
「やぁねぇ。パパだって十分小うるさいわよぉ」
「そうか？」
　ウォレスがマックスと同じように顔を顰める。
「小うるさい舅二人なんか置いといて、早くパーティー会場に行きましょうよ」
　レイチェルがまるでいたずらっ子のような笑みを浮かべて、シンシアの手を引く。
　足早に二人の元から去っていくシンシアも、二人を振り返ってレイチェルと全く同じ表情を浮かべた。
「あ～・・・、お互いに大変そうですなぁ」
　置いてけぼりを食らった二人の隣で、セスがぽつりと呟く。
　ぎょっとして二人が顔を見合わせている間に、「じゃ、お先です」とセスはレイチェル達を追いかけていった。
　やがて、周囲に誰もいなくなってしまう。
　何となくおかしくなって、二人で苦笑いした。
「俺達も行きましょうか」
「ああ。・・・そうだな」
　二人並んで歩き始める。
　青い葉を茂らせた若木が、サワサワと風に揺れている。
　本当にのどかな一日。
　ふいにウォレスの左手が、マックスの右手をそっと握った。
　マックスは、握られた手を見下ろす。
　今は小指を失ってしまった手だけれど、本当にいとおしい手だった。
　マックスは、ぎゅっと握り返す。
「・・・来月あたり、まとまった休みが取れそうです」
「え？　本当に？」
　ウォレスが驚いた顔でマックスを見た。
　ミラーズ社を退社し、ERに復職したマックスの多忙さは目を見張るものがある。だがマックスは、病院側にマイクがハネムーンで休暇を取る間連続勤務に入る代わりに、来月始めの週末、まとまった休みを貰えるように病院側と交渉していた。
　そうまでして、どうしてもウォレスと訪れたい場所があった。
「だから、行きましょう。アイルランドに」
　ふとウォレスが足を止める。
「・・・本当に・・・いいのかい？」
　ウォレスの問いかけに、マックスは頷いた。
「あなたの生まれた町を見てみたいんです。それに久しぶりに両親の墓参りもしたいんですよ。忙しさにかまけて、ずっと行ってなくて。つきあって、もらえますか？」
「ああ・・・もちろん。もちろんだよ」
　そう返すウォレスの声は、少し湿っていた。
　二人は静かに抱き合う。
　そして顔を見合わせて、そっと微笑んだ。
　溢れ出すほろ苦さと幸福感を噛みしめるように。

　

Amazing grace end.

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