act.65
上質の赤いウールコートが目の前を掛けていく。
子供たちの歓声。空に逃げていく3つの風船。
「マックス! 早く!!」
ウールコートの裾が翻って、ベージュのひだスカートが揺れる。
片手に射的の景品である大きなテディーベアを抱えたシンシアが小さく跳ねてマックスを呼んだ。
「本気でそれに乗るの?」
マックスは、目の前の『サイクロン』と呼ばれている乗り物を見上げた。
目まぐるしく動きをかけながら、物凄い速さで回るその乗り物からは、絶え間なく悲鳴が沸きあがっている。
いつまでも動こうとしないマックスに業を煮やしたシンシアは、また駆け戻ってきてマックスの腕を取った。
「なぁに、怖いの?」
シンシアの挑発的な目に、「そんなことないよ」と思わず強気に答えてしまうのは、マックスの性というべきか。
「ホントにぃ」と笑いながらマックスを引っ張っていくシンシアに、ウォレスが声をかける。
「そのぬいぐるみを貸しなさい。そのまま乗る訳にはいかないだろう」
「あ、そっか。ごめん、パパ。マックス借りるね」
「バカ、何言ってる」
ウォレスはテティーベアを受け取りながら笑った。強気に返したものの、その目は明らかに怯えているマックスが、シンシアに引っ張られながらウォレスの目を見る。
ウォレスが手を振ると、マックスは本気で泣きそうな顔になった。結局マックスは、サイクロンの客の渦に飲み込まれて行った。
ウォレスは、サイクロンの側にあるスタンドでホットコーヒーを買うと、サイクロンを見渡せるベンチに腰掛けた。
新年からC市の港地区に来ていた移動遊園地に行こうと言い出したのはシンシアだ。
よく考えると、ウォレスはシンシアをこういうところに連れてきたことがないことに気がついた。
シンシアが幼い頃は、ウォレス自身が外の世界を過剰なほど警戒していた。
ベルナルト・ミラーズの家に保護されてからは、娘を連れて外出することは殆どなかった。
若き日のウォレスは、娘を外敵から守ることに関しては絶対的な力を発揮したが、娘を愛することに関しては酷く不器用だった。
穏やかな心で娘をあやす方法など、ミラーズの家にくるまでは誰も教えてはくれなかった。死の危険から娘の命を守るので精一杯だったからだ。いつも。
幸い、ミラーズの家の使用人達がシンシアの面倒をよく見てくれ、ベルナルト自身も、まるで新しい孫ができたように彼女を扱った。その点で言えばシンシアは様々な人の愛情に包まれて育ってきた。
だが、ウォレスがようやく人並みの穏やかな心を取り戻すことができた頃には、既に彼の娘は難しい年頃に差し掛かっていた。
ミラーズ家の人々と遊園地や動物園に出かけても、彼女の父親はいつも過剰なまでに警戒心を持って周囲を見渡し、いつも娘の心を興ざめさせた。彼女は、他の人のささやかな優しさや好意を激しく拒絶する父親の態度が許せなかった。父親には人の優しさを理解することができない冷たい人間だと思っていた。
ウォレスが、ミラーズ達に助けられながらようやく『普通の生き方』を取り戻した時、彼は娘と親子らしく接するタイミングを完全に失ってしまったのだ。
そんなギクシャクした関係の中で、ウォレスが新しい女性を家の中に連れてくる度に娘は反発した。
自分にも満足な愛情を与えてくれない父親が、他の人間に愛情を注ぐことを娘は許せなかったに違いない。そして、父親が真にその女性達を愛しているのではなく、娘には母親が必要だという思いから女性を連れてきていることを察知していたからだろう。
親子ながらに愛し合いながらも、純粋に向き合えない二人。このまま一生そういう関係で終わってしまうのだと思っていた。 だから、今こうしてシンシアが屈託のない笑顔を浮かべて・・・そして自分も同じように微笑みながら穏やかな休日を過ごす日が返ってくるなんてことは思っても見なかったことだった。
そして今は、シンシアだけでなく、新しい家族が加わろうとしている・・・。
自分達を救ってくれた天使。自分の命より大切な人。
サイクロンは、あっという間に動きを止めたのだが、マックスにとっては永遠に近い時間だっただろう。すっきりした表情でベンチに向って走ってくるシンシアに比べ、マックスは明らかに顔色が悪かった。
「最高!!」
ウォレスの右隣に座ったシンシアが、息を弾ませて言う。遅れてやってきたマックスは、ウォレスの左隣に座って、大きな息を吐き出した。
「大丈夫か?」
ウォレスが声をかけると、マックスは膝に手をついて俯いたまま2、3回頷いた。
「マックスって、意外に乗り物酔いするのね」
そういうシンシアに、「ありゃただの乗り物じゃないよ・・・」とマックスが力のない声で返した。
ウォレスが、再び近くのスタンドで冷たいグレープフルーツジュースを2つ買ってくる。
紙コップを頬に押し付けられて、マックスは「すみません」とそれを受け取った。ストローで啜って、ほっと一息をつく。
シンシアも同じようにジュースを飲んで、息をついた。頬が赤くなっている。生き生きとした表情だ。
「今日は本当に最高。こんなに大きなテディも貰えたし」
自分の身体を被い隠さんばかりの巨大なクマのぬいぐるみを抱きしめながら、シンシアが微笑む。
このクマは、先ほどウォレスが射的で全ての的を落として勝ち取った景品だ。
人相の悪い射的屋のオヤジも、目をまん丸にしていた。
娘に対してして上げられることといったら、こんなことぐらいだ・・・自分の恐ろしく優れていて呪われた能力を活かせる事といえば。
後ろを振り返ると、マックスもまた驚いていて、目が合った瞬間複雑な笑顔を浮かべて見せた。ひょっとしらマックスは、過去の忌まわしい記憶の中にいるウォレスを思い出したのかもしれない。ナイフを投げて、キングストンのネクタイを射抜いた手・・・。
一瞬不安になったウォレスだが、瞬きをするともう次の瞬間には、いつものマックスがそこにいた。
「私、あれにも乗りたい」
サイクロンの向こう側を走る木製のジェットコースターを指差すシンシアに、マックスが天を仰いだ。
「参った! 降参。これ以上は怖くて駄目だ」
シンシアが笑う。
「人間素直が一番よ。パパ、一人で乗ってきてもいい?」
「ああ、いいよ」
「行ってくる!」
赤いコートを翻し、走って行くシンシアは、18歳の少女としてはあまりにも無邪気だ。ひょっとしたら、今まで楽しめなかった時間を、彼女なりに今一気に取り戻そうとしているのかもしれない。
ゴホンと咳をするマックスの背中をさすって、ウォレスは「本当に大丈夫かい?」と訊いた。マックスが肩を竦める。
「高いところとかは平気なんですけど。昔からああいうのは駄目なんですよ」
ウォレスがシンシアの置いていった冷たいジュースに入ったカップをマックスの首の後ろに押し付けると、マックスは気分がよさそうに目を閉じた。大分顔色も元に戻ってくる。
「こうしてると・・・最初にあなたに出遭った時のことを思い出します」
目を閉じたまま、マックスが呟く。
「最初・・・? ああ、あの酒場か」
あの時のことを思い起こしながら、ウォレスが答えた。
マックスが身体を起こす。
「あの時俺は眼鏡が壊れてて、ほとんどあなたの姿が見えてなかった。今でも恥かしいですよ、あの夜のことを考えると・・・」
「私もびっくりしたよ。まさかあんなところの酒場で、君のような若者がクダを巻いてるなんて」
「あの日は、本当に最悪の日だったんですよ」
「確か・・・」
ウォレスはその先を続けなかったが、マックスがその後を取った。
「そうです。俺の手術ミスがあって、彼女の父親に会いに行った帰りだった。あの時は、彼女の死と真っ直ぐ向かい合うことができなくて、結局ミルズさんにも真実を伝えることができませんでした。その勇気がなかったんです。そればかりか返ってミルズさんに、『寧ろあなたの方が不幸だ』と言われました。『この世の中で一番の不幸は、血を分けた両親に十分な愛情を受けられないことだ。そうした人間は、肝心な時期に心が十分に満たされないから、他の人を上手に愛することができなくなってしまう』・・・と。今までその言葉に、ずっと怯えて生きてきたようなきがします・・・」
「マックス・・・」
マックスがウォレスを見た。話している内容とは裏腹に、穏やかな表情だった。
「俺の両親は、俺が幼い頃に亡くなりました。その後、叔母に引き取られて育ったんです。叔母は裕福な人でしたから苦労らしい苦労はしなかったんですけど、やっぱり心のどこかにぽっかりとした穴があった。従姉のレイチェルも、叔父も友人達も皆いい人だったけれど、本当の家族じゃないから・・・」
ウォレスが、マックスの目尻を親指で拭う。マックスはテレ臭そうに微笑んだ。 「でも今は違う。今の俺には、あなたとシンシアがいる。本物の家族が。だから今なら、あの時のことときちんと向き合えることができる気がします。ミルズさんにも真実を伝えられると思う。そう思えるようになったのも、すべてあなたのお陰です」
そういうマックスの微笑みは、まるで宝石のように輝いていた。
男の手が、隣の妻の身体を転がした。
力の篭らない妻の身体は、ゴロリと気だるく転がってベッドから落ち、あお向けになって床に倒れた。
その青白い顔はいつも以上に青白く、青緑色の血管が肌の上に網目状に浮き上がっていた。
その瞳がカッと見開かれているのを見て、ドースンは叫び声を上げそうになる。その声を男の手によって阻まれた。
ごつごつとした屈強な手が、ドーソンの顔半分を強引に覆う。
それでもドースンは、怯えた目を見開いてベッド下の妻を見つめた。
昨夜は死んだように眠っていると思っていた妻が、実は本当に死んでいたのだと知って、身の毛がよだつ思いだった。
妻の首にどす黒くうっ血した手形の痣が浮き上がっており、その周辺に掻き毟った傷が見て取れた。生々しく流れ落ちた血が、妻のネグリジェの襟元を汚していた。
ぞっと背筋が凍る。今自分の口を覆っているこの手が、妻を絞め殺したのだ。
誰だ、誰なんだ。自分を今羽交い絞めにしている男は。
もがけばもがくほど、きつく身体が締め付けられていく。
手馴れていた。
ドースンの頭に過ぎるもの。
まさか・・・。
ドースンは、カッと目を見開いて上を見上げた。
ぎょろりとしたスカイブルーの瞳。
間違いない。間違いない。
イギリスを震撼させた、冷酷なテロリスト・・・。
でも、どうして? ふふふと男が身体を震わせて笑った。
ドースンの動揺が全て分かっているような表情。
ふいに解放された。
床に投げ出された。
ドースンは、震えが抑えられない身体を、壁に押し付けた。
一方、ジェイク・ニールソンは余裕の表情を浮かべ、ドーソンの前にしゃがみこむ。
小首を傾げて、ドースンを見た。
「何のために俺の周りを探っているんだ」
「な、なんのことだ」
恥かしいほど自分の声が上ずっていた。
「倉庫に忍び込んだのはお前だろう」
「倉庫?」
しらばっくれた途端、手に激痛が走った。悲鳴が上がる口を再び覆われた。
涙の滲む目で自分の手を見つめると、右手の小指が普段曲がらない方向に向って折れていた。
「しらばっくれるな。俺は見ていたんだ」
ドースンはニールソンに目をやる。
見られてた? あの時、既にばれていたのか?
「お前につけられていることを知ったのは、それよりずっと前だ。マローンのアパートの前でお前はずっと見張っていただろう。何が目的だ? 何を知っている」
顔を青くした。手の痛みを忘れるほどだった。口を解放されて、荒い息を吐き出した。
「・・・あんたのせいじゃない。俺が調べていたのは、マローンの方だ。マローンだ。マローンだ・・・」
必死に繰り返した。
ニールソンが訝しげにドースンを見る。
「マローン? マローンの何を知っている」
「今度の爆弾事件・・・。ヤツが犯人だ・・・。あんたは関係ないんだろう? なのに、なんでこんなこと・・・」
ニールソンが笑った。
「お前は俺の正体を知っているんだな。知っているからこそ、そんなことを言うんだ。傲慢な新聞記者め。手柄を独り占めにしようとしたから、今誰もあんたのことを気にとめもしないのさ」
ニールソンの冷たい目が、ドースンを『愚か者め』と見下しているのが分かった。
ドースンの目から、涙が流れ落ちる。
今更ながら、後悔していた。
警察にいうべきだった・・・。俺は読みを間違った・・・。
「あんたは、犯人じゃない。犯人じゃない・・・」
そんなことマヌケなことを言いたい訳じゃないのに、口からは矢継ぎ早にそんなくだらない台詞が零れ出てくる。もはや自分でコントロールができない。これからの自分の運命を考えると、あまりにも恐ろしくて・・・・。
ニールソンがドースンの頭を掴む。
髪をつかまれたまま、リビングまで引きずられた。
「俺が犯人かどうかなんて関係ない。俺の周辺を嗅ぎまわる人間がいること自体が問題なんだ」
リビングにあるテレビの裏に顔を突っ込まれた。
テレビの裏に、見たこともない物騒な物体がくっついていた。
「これをつけているところをアンタの奥さんに見つかってね。騒がれたんで、つい締めてしまったんだ」
何でもないことのようにニールソンは肩を竦める。
ドースンは再び引きずられると、テレビの前のソファーにガムテープで縛り付けられた。口をガムテープで覆われ、片足をテーブルに乗っけられる。
真っ直ぐ伸ばされた足に、まるで骨折した時のように木の切れ端がしっかりと固定された。両側からはさみ込まれ、テープで太ももまでガチガチに固められる。まったく足を曲げることができない。
何をする気だ・・・。
恐怖に震える目でニールソンの動きを目で追った。
だがすぐに、ニールソンの意図が分かる。
「さぁ、足を上げるんだ。上げろ!」
必死に抵抗したが、無理やり引き上げられた。
踵の下にテレビのリモコンが置かれる。
「どこまで我慢できるかな。イギリスでは、2日頑張った男がいたよ。アメリカンはどこまで根性があるか見ものだな」
ニールソンの笑い声が、やがて家の外に消えていった・・・。
Amazing grace act.65 end.
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編集後記
うわ~。ぎりぎり!
最近サッカー一色で、国沢も他の日本国の皆々様と同様に浮かれております。所詮ミーハーな人間さ・・・。
昨夜は日本の勝利に酔いしれながら、今年初のすいかを4分の1個かっ食らって、本当にご満悦ない地に地でございました。
本日もデンマーク×イングランド戦で燃えましたわ。ははは。
皆様、どこのチームを応援してますか?
[国沢]
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