act.113
その日の晩、結局レイチェルがウォレス家を訪れることはなかった。
ようやく帰宅したウォレスと少し遅いディナーを三人で食べ、リビングのソファーでテレビを見ながらココアを啜った。ベルナルド宅に預けられていた間に、シンシアはすっかりココア党になってしまったらしい。
二人掛けのソファーで父親にもたれかかるように座りながら、シンシアは呟いた。
「レイチェル、大丈夫かしら・・・」
テレビのニュースでは、レイチェルを襲った暴漢について何も報道をしていない。クラウン地区で起きた単なる強盗未遂事件など、ニュースネタにもならないのだ。
「彼女は大丈夫だよ。さっきの電話での調子だと、いつもの彼女だった。怪我もしていないし、警察にはセスもいるから」
二人掛けのソファーの左斜め向かいにある一人掛けのソファーに腰掛けたマックスが、ニュース画面を見つめながら言う。
「そうね・・・」
シンシアはそう呟きながら、マグカップの中のココアを飲み干すと、「少し疲れたから、先に休むわ」と言ってソファーを立った。
「お休み、パパ」
と言ってウォレスにキスをし、「お休み、マックス」と言ってマックスにキスをする。
シンシアが家族に対するようなキスをマックスに対して自然にしている光景を、ウォレスは目を細めて見つめた。今までにない幸福感がウォレスの身体を包む。
『家族』という言葉に執拗に拘ったのはマックスの方であったが、それを切望していたのは寧ろ、ウォレスの方だったのかもしれない。
「マックス、こっちに座ったら」
リビングを出て行く間際、シンシアは今まで自分が座っていた場所を指さして、彼女は姿を消した。
「まったく・・・」
マックスが少し頬を赤くしながら、苦笑いする。
彼女は、自分の目の前で控えめに愛情表現をする二人のことを少し気にしているのかもしれない。口では、その少しの愛情表現でも目ざとく見つけて囃し立てているのだが。
「じゃ、お言葉に甘えて」
マックスはテレ隠しにそう言うと、ウォレスの隣に腰掛けた。
ウォレスにさり気なく抱き寄せられる。
マックスは、ウォレスの肩に頭を凭れさせながら、ぼんやりとテレビを見つめ続けた。だが、どんな画面や音声もあまり頭に入ってこなかった。
側で感じるウォレスの体温。息遣い。
ウォレスと同じ屋根の下で生活できるようになって少し経つが、それでも今だ夢のように感じてしまう時がある。
ウォレスの存在自体が、時に儚く思えて・・・。
マックスは、ウォレスの横顔を見つめる。
いつもどこか憂いを帯びた蒼い瞳。
この人は今まで、この深い色を湛えた瞳で、どのような惨劇を見つめ続けてきたのだろう。
「・・・ん? どうした?」
マックスの視線に気づいて、ウォレスがマックスを見る。
マックスは深呼吸して、更にウォレスの身体に自分の頭を預けた。
「シンシアのママは・・・きっととても美しくて、強い人だったんでしょうね・・・」
そう言ってすぐに、微笑みを浮かべる。
「別に、嫉妬している訳じゃないんです。だけど、気にはなります。だって、あなたが苦労した時期に一緒にいた人だし、何よりあなたの子供を産んでくれた人だ。彼女のお陰で、シンシアがこの世にいてくれる。俺もシンシアのことを本気で愛しているし・・・」
「嫉妬しないといけないのは、私の方かな。自分の娘に」
強ばった笑みを浮かべるマックスをリラックスさせようと思ったのか、ウォレスがそんな冗談を言ってくる。マックスは、ふふっと思わず鼻で笑ってしまった。
「シンシアに対する愛情は、何というか・・・うまく言えないけれど、妹に対するものとも違うし、ましてや子供に対するものとも違います。かといってもちろん、恋人でも妻でもないのだけれど。・・・でもかけがえのない人だと思うんです。あなたと俺の関係になくてはならないし、彼女がいなければ俺達は今こうしていなかったかもしれない。・・・そう言えば、あなたと初めてあった頃、ふたりの間の強ばりを解くことができたきっかけは、シンシアの事故でしたね」
「そう言えば、そうだったな・・・。シンシアがかつぎ込まれた病院で、私達は初めて素直に互いのことを話せる時間を持つことができたんだ」
ウォレスも懐かしそうにそう呟いた。
「いろんなことが、ありましたね。そんなに長い間とは思えないけれど、本当にいろんなことがあった」
ウォレスが、マックスの額に残る傷に口づけを落とす。マックスは、くすぐったそうに笑って、身を竦ませた。
「俺は・・・イギリスのギルフォードで生まれました。両親は、俺が三歳の時に爆破事件に巻き込まれて亡くなりました」
「知ってる・・・。ミス・メアリーから聞いていたよ。君が病院にかつぎ込まれた時にね」
マックスは、やっぱり・・・と呟いた。
だからこそウォレスは、あの時別れを切り出したのだ。彼自身が、その仲間であったから。
「君は・・・それでいいのか? 私は・・・」
そういうウォレスの口を、マックスは情熱的なキスで塞いだ。
「いいんです・・・、いいんです・・・。時には、あなたのことを恨んだこともあったけど、俺達の出逢いは運命だった。あなたと俺がこうして愛し合っている事実は変わらないし、人の愛情は暴力よりも勝るってことの証明なんだ。いがみ合うことは無意味です。そこからは何も生まれないから・・・」
「マックス・・・」
ウォレスがキスを返してくる。マックスは、少し上がった息で言った。
「もう絶対に離したりしない。だって、俺にまた本当の家族を与えてくれたのは、あなただもの」
マックスは、ぎゅっとウォレスを抱きしめる。その耳元でウォレスが囁いた。
「そして、私に人間としての尊厳を再び与えてくれたのは君だよ、マックス・・・」
警察署でのレイチェルに対する事情聴取は、あっという間に終わった。
女性警官は、クラウン地区の強盗など興味が薄い様子で、ごくごく形式的な項目を訊かれただけで解放された。レイチェルを襲った男は、今頃留置場で目が覚めていることだろう。
レイチェルは心配しているであろうマックスとウォレスに電話連絡を入れた後、その足でセスを探した。
警察署内は、相変わらず騒然としており、レイチェルは喧噪をくぐり抜けるように上の階へと急いだ。
そして三階のフロアで一際ノッポの後ろ姿を見つける。
「セス!」
レイチェルがセスを呼ぶと、喧しい廊下の最中でもセスは敏感に恋人の声を聞き取り、振り返った。
セスは驚いた顔を隠しもせず、レイチェルの元に走り寄ってくる。
「どうしたんだよ、レイチェル。何かあったのか?」
「ええ、まぁ、ちょっと。例の部屋探してたら、強盗に襲われちゃって。さっきまで事情聴取されてたの」
レイチェルが肩を竦めると、セスの顔色が変わった。
「何だって?! 何を考えてるんだ?!」
今まで聞いたこともないようなセスの厳しい声に、今度はレイチェルの方がびっくりして、目をまん丸にした。
「ご、ごめんなさい・・・。あそこまで危険な地域だとは思わなかったのよ」
慌てた口調でそういうレイチェルの全身を、セスは厳しい目でチェックしている。
「それで、どこも怪我はないのかい?」
「ええ。助けて貰ったのよ。丁度顔見知りが通りかかって」
セスが大きな溜息をつく。頭を緩く振りながら、「怒鳴ったりして悪かった」と呟いた。
「それにしても、ラッキーだったね。あの地区で、誰かが強盗に襲われるようなことがあっても、周りの人間は見て見ぬ振りをするから」
「ええ、そうね・・・。ホント、ラッキーだったのかも」
「それで、その助けてくれた人っていうのは?」
「それが、私が携帯電話に出ている間に消えちゃったのよ。面倒に巻き込まれたくなかったのかも知れない。でも、彼がいて助かったわ。彼は低所得者らしくて、あそこら辺で家を探していたらしいの」
レイチェルは、あのゴツゴツとした手を持つ色素の薄い男の顔を思い浮かべていた。見かけによらず、善人だった訳だ・・・。
「いずれにしても、これからは気を付けてくれよ」
やっと表情が普段のように穏やかになってきたセスの腕を掴み、レイチェルは人気のない柱の影に彼を引っ張った。
「ラッキーついでに、ついにあの部屋を見つけたわ」
一瞬セスは意味が分からなかったらしい。だが、すぐに「本当か?!」と大声を上げた。
「シー! 声が大きいって」
「ごめん」
今度はセスが謝る番だ。
「だから、あの鍵をどうにか持ち出せないかと思って。明日にでも、もう一度行ってみようと思うの」
セスはう~んと唸った。
「証拠品の持ち出しはリスクが高いが・・・」
「そうだけど、鍵を壊して入る訳にもいかないわ」
「そうだね」
セスは少し伸びた顎の無精ひげを撫でながら、少し考えを巡らせる。
「何とかやってみよう。ただし・・・」
レイチェルが、小首を傾げてセスを見上げる。
「一人で行かないこと」
レイチェルが口を尖らせる。
「明日は、昼間しか私動けないのよ。かといって、ジムとマックスを引っぱり出すことはできないわ。一緒に行く人ったって、あなたは無理でしょ」
セスは溜息をつくと、また少し考えてレイチェルに軽くキスをした。
「その件も、何とかするよ。・・・明日、連絡する」
まるで謎々をかけられたような気がして、レイチェルはポカンとした表情でセスの背中を見送った。
Amazing grace act.113 end.
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編集後記
先週の予告内容と若干変わっちゃいました(汗)。ごめんなさい。いかに毎週その都度その都度で書いているかおわかりいただけると思います(←開き直るなよな・・・)
何だか今回、先週と打って変わって二組のカップルのラブな光景でしたが、何だかあれですね~。その~、結構レイチェルがしおらしくなっちゃって可愛かったです。セスにいきなり強気に出られて。書いてて微笑ましかったです。
[国沢]
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