act.125
教会で賛美歌を聴いた後、ミルズ老人の家に招待されてコーヒーを振る舞って貰った。
マックスにとってミルズ老人は今や祖父のような存在であり、ミルズ老人にとっても日頃寂しい家に客人が来てくれることを随分喜んでいるようであった。
教会で涙を流したウォレスも今は落ち着いて、テレくさそうな微笑みを浮かべている。彼はミルズ老人の話に注意深く耳を傾けていた。
奴隷制度は遠い昔の話になった現代であったが、ミルズ老人が若い頃はまだまだ謂われのない差別に苦しんできた時期がある。抑圧され、攻撃され、ひたすらそれに耐えてきた。そしてその苦しい環境の中で、荒れた生活に身を投じていく黒人の若者が多数いたことに彼は心を痛めていた。略奪や殺人、ギャング軍団の横行・・・。カラーズと呼ばれた有色人種の中での犯罪発生率は白人のそれより目に見えて増えていった。
そんな中必死に生きてきたミルズは、ある意味ウォレスととてもよく似た人生を歩んでおり、そして最も対局にいる人生を歩んでいるとも言えた。つまり、ミルズは極限の状態の中血に手を染めることはしなかったが、ウォレスはそうしてきた、ということだ。
ミルズの話す数々の人生話を聴くに付け、今日本当にミルズ老人をウォレスに紹介できてよかったとマックスは思った。
生きている限り、人生に終わりはない。全ての出来事には意味があり、どれをとってしても無駄はない。それは人間に対する試練でもあり、またチャンスでもある。素晴らしい人生というものはやってくるものではなく、自ら作り出すものだ・・・そういうミルズ老人の話は、ウォレスの心を随分軽くしたようだ。
ミルズ家を去る時は、必ずまた来ますと約束をして、ミルズ老人と抱きしめ合った。
「凄い人だ・・・」
帰りの車の中、ハンドルを握りながらポツリとウォレスは言った。
「ええ・・・本当に」
一人娘を失って、そしてその娘を助けることができなかった自分のような人間にも、分け隔てなく温情をかけてくれる。
ミルズは最も全米でも貧しい地区のひとつに住んでいながら、精神性では最も豊かな人間だと言えた。
「私も・・・・」
ウォレスが呟く。
「私もできるなら、あれほど穏やかな心を手に入れたい・・・」
囁くような声だった。
だがそれは正にウォレスの本当の気持ちだったに違いない。
マックスは優しい微笑みを浮かべると、シフトレバーを持つウォレスの手にそっと自らの手を重ねた。
「大丈夫・・・。大丈夫です。きっとそうなる日が訪れます・・・」
ウォレスはそれに答えるように、ふっと微笑んだ。
家に帰ると、シンシアとデイビスが首を長くして二人の帰宅を待っていた。
「もう! 遅いじゃない! スープが冷めちゃうところだった!」
デイビスがウォレス家に帰ってきてくれてから以降、ウォレス家の食卓は随分豪華なメニューが並ぶようになった。だが、費用はシンシアとマックスで慣れない食事の用意をしていた頃より安く上がっているはずだ。
「ごめん、ごめん」
ダイニングに入りながらマックスは苦笑いを浮かべ、上着を脱いだ。そしてそれを椅子の背にかけようとしたところでシンシアとデイビスに「あああ!」と注意をされる。
「皺になっちゃう。ちゃんと寝室に行って着替えてきてよ」
まるで小さな母親ができたようだ。
マックスは更に浮かぶ苦笑いをかみ殺しながら、「はいはい」と答える。
「もちろん、パパもよ。ちゃんと着替えてきて」
ダイニングの入口に姿を見せたウォレスを出迎えながら、シンシアがウォレスを見上げる。そして彼女は、ウォレスの両目が赤く充血して少し腫れぼったくなっているのに気が付いた。
「大丈夫・・・? パパ」
一気にシンシアが不安そうな表情を見せる。
「大丈夫さ、もちろん」
ウォレスは最高に優しげな微笑みを浮かべながら、シンシアを抱きしめた。
「本当に?」
「ああ、本当だ」
ローレンスの死の知らせを聞いてから動揺を隠しきれずにいた父親の、心底穏やかな声を聞いて、彼女もやっと安心したらしい。
シンシアもずっと心の中で不安だったのだ。
おそらく彼女の知る父親の中で、最も脆く傷ついた姿を目の当たりにしていたのだから。
シンシアは再度父親の身体をぐっと抱きしめて頬にキスをすると、上でいちゃつかないで早く下に降りてきてよ、と口を尖らせた。
「ああ、分かったよ」
ウォレスもこみ上げてくる苦笑いをかみ殺しつつ、マックスと共に二階に上がった。
その日の夕食には笑い声が絶えることがなかった。
学校での出来事を身振り手振り交えて話すシンシアに、他の三人は笑い通しだった。
「トライアスロンだって?!」
マックスが目を丸くする。
「そうなの。夏休み明けの最初の日曜日に行われるわ。本物のトライアスロンより全ての種目半分の距離なんだけど、それでも高校最後の大事業よ。うちの学校の名物行事なの。三年生の希望者だけが参加するんだけど、私もそれに出てみたいと思って」
「シンシア、君ってそんなにスポーツマンだっけ?」
「今年から目覚めたの」
「そんなので大丈夫なのかい?」
「今まで二年間ずっと学校生活に手を抜いてきてたから、今からでも頑張ろうと思って。でないとせっかくの三年間、後悔しちゃう」
シンシアがペロリと舌を出した。
「シンシアなら大丈夫よ。高校に入るまではそれはそれはスポーツ万能で、皆を驚かせていたんだから」
デイビスがキッチンでコーヒーをたてながら言う。マックスがへぇと溜息をついた。
「そうだったんだ」
シンシアが得意そうな笑みを浮かべる。その笑みにウォレスが釘を刺した。
「でも随分怠けてたから、相当特訓が必要だな」
シンシアがウォレスに反抗していた頃のことが彼女の頭に浮かんだらしい。シンシアの笑みはたちまち苦笑いに変わった。その様子を見て、マックスとデイビスが揃って笑い声を上げる。
「・・・ま、確かに特訓は必要よ。で、毎朝ジョギングを始めたいと思うの。マックスだって毎朝走っているんだし、一緒に走れば大丈夫でしょ?」
マックスはちらりとウォレスを見た。ウォレスはよさそうな顔をしない。やはりニールソンのことを懸念しているのだ。
マックスはウォレスの心情を汲んで、提案をした。
「じゃぁ学校で走ったら? いつもより早く家を出るようにして」
それならどう?とマックスがシンシアと共にウォレスの顔色を窺う。
「そうだな。それなら・・・」
ウォレスがオーケーを出すと、やったとシンシアが歓喜の声を上げ、マックスに感謝のキスを送った。
「いずれにせよ、一生懸命になるってことはいいことだわ。何に対しても」
薫り高いコーヒーをそれぞれのカップに注ぎながら、デイビスが言った。その台詞にマックスが反応する。言うなら、今だと思った。
「あの・・・話があるんだ」
マックスはウォレスとシンシアの両方を交互に見つめながら、おもむろに切り出した。
その改まった様子に、ウォレスとシンシアが顔を見合わせる。
「急な話のようだけど、実はしばらくの間ずっと考えていたことがあって・・・」
マックスは、忙しなくコーヒーカップを上げたり下げたりしていたが、意を決したように切り出した。
「会社に復帰したばかりで、おまけに入社してまだ一年にも満たない俺が、こんなこと言い出すのは正直気が引けるんですけど・・・。会社の方が落ち着いて、いい後任者を見つけることができたなら、病院に戻りたいと思っています」
「え・・・、それって、ERに戻るってこと?」
シンシアが驚きの声を上げる。
ウォレスが息を吸い込んで手を口に当てた。
マックスは少し弱気な笑顔を浮かべ、頭を垂れた。
「確かにERに戻ったら、今みたいな生活はできなくなるし、随分身勝手な申し出だと思うけど、でも・・・。随分考えたんだ、これでも。ここのところ、自分の存在や生き方について考える機会が多くて、自分自身、自分の出せる本当の力を使わずにただ逃げているんじゃないかって凄く思って。もちろん、ミラーズ社の社医は有意義な仕事だけれど、俺のするべきことはそこにないと・・・そう思えて」
マックスは目線を上げた。そこにはもう弱気な目はなかった。
「俺も、必死に生きてみたい。本当の意味で必死に。今まで俺は、あまりにも時間やその場の出来事に流され続けてきた。だけどもうそういうのは終わりにしたいんです。ひとつひとつのことを大切にしていきたし、自分の可能性を追求してみたい。そしていつか、あなたの人生をきちんと受け止めることが出来る人間になりたい。そう思っています」
マックスが真っ直ぐ見つめる目の先には、口に手を当てたままのウォレスがいた。
「パパ・・・」
シンシアが伺うようにウォレスの腕を揺すると、ウォレスはふっと苦笑を浮かべた。溜息をひとつつく。
「まったく・・・君って男は・・・。今でさえ君に支えられて私は生きていれるというのに・・・」
「ジム・・・」
再び不安げな表情をマックスは見せたが、その震える手をウォレスがそっと掴んだ。
「私も人生においての新たな目標を見出すことができた。今日私は生まれ変わることが出来たんだと思っている。そして君も・・・。君も生まれ変わるんだな。君という存在が誇らしい。早くそうなれるよう、ベルナルドに掛け合ってみよう」
マックスが安堵の表情を浮かべた。その横で、シンシアは少し複雑そうな顔つきをしている。
「じゃマックスがERに戻ったら、今みたいに暮らせなくなっちゃうのね・・・」
「そうだね・・・。時間が不規則になるから、家の中にいてもあまり会えなくなるかも」
シンシアが口を尖らせる。
「シンシア」
ウォレスが少し強い口調でシンシアの名を呼んだ。
シンシアは「分かってるわ」と言って立ち上がる。
「私はマックスの世界で一番の味方だもの。マックスがしたいと思ったことに反対はしない。でも、この家がマックスの家だってこと、忘れないで。私たち家族がいるってこと、絶対に忘れないで」
マックスはシンシアの手をぎゅっと握った。
「もちろんだよ。もちろんだ・・・」
マックスは声に涙を滲ませながら、そう答えた・・・。
丁度その頃、ウォレス家の前に佇む男の影があった。
男は忙しなく煙草をふかし、一本あっという間に灰にすると、火のついたままの煙草をくしゃりと手で握りつぶし、ポケットに吸い殻を入れた。そして新たな煙草に火を付けようとする。と、家の中から温かい笑い声が聞こえてきて、男は少し気を取られたように動きを止めた。そしてしばらくすると男は、火を付ける前の煙草もさっきと同じようにくしゃりと手で握りつぶし、ゆっくりとした足取りで家を後にした。
Amazing grace act.125 end.
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編集後記
先週、世界柔道のお話をさせていただいた国沢なんですが。いやぁ、男子の団体戦、おしかったっすねぇ・・・。
といっても、国沢が言わねばならぬ事はそんなことではなく(汗)。
先週書いた編集後記をアップした後、疑問に思った方っていらっしゃいませんでしたか?
実はお客様のひとりであるhasegawaさんにご指摘をいただいてはじめて気が付いたことがあります。それは何かと申しますと・・・。
それは、櫻井君の体重の話。
えへ、えへへへへ。
そう。先週国沢は、櫻井君の柔道の階級について60キロ級と書きましたが(いや、それは間違いです。正確には50キロ級と書いてました!さすがに男子で50キロ級はないだろうと、慌ててそれは直したのですが)、櫻井君のプロフィールには70キロって書いてある・・・(脂汗)。そうです。国沢、自分の書いた設定すらもう忘れてる・・・(力汗)。ややや。老人力のなせる技。とんでもねぇっすね。
お恥ずかしいです、ほんと。hasegawaさん、教えていただいてありがとうございました。国沢、何も気づかずにバカ大放出するところでした。うひ。
先週の予告で煽りにあおっといて、今週何も起こらなかったアメグレをお届けして、ますます肩身の狭い国沢でした~。(といってダンディ坂野のように舞台袖に掃けていく国沢なのです・・・)
[国沢]
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