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nothing to lose title

act.45

 どうしたというのだろう・・・。
 ウォレスは、ふと万年筆を動かす手を止めて、宙に視線を泳がせた。
 午前中のマックスの様子のことが、ずっと気に掛かっていた。
 主席秘書室。ウォレスの目の前には、契約間近のケイゼル社関連の資料や重要書類が積まれてあった。
 視界の隅にその書類の山が目に入り、ウォレスは緩く首を横に振った。
 彼がやらなければならない仕事は、山のようにある。
 正直、マックスのことが気に掛かりながらも、仕事を放っておいて彼の元に行くことのできない辛さを感じていた。
 マックスのことが大切なことには変わりなかったが、ベルナルド・ミラーズのために心血を注ぐこともウォレスの人生とっては重要だった。
 そのミラーズは、例の如く契約に必要な作業を副社長のビル・スミスと社長秘書のジム・ウォレスに任せっきりで、気ままなボートセーリングの旅を楽しんでいる頃だ。ミラーズは大きな契約が迫ると、妻や家族を置いて身近な側近のみを連れ、必ず海に出る。彼には、それが大切な時間なのだろう。一見遊んでばかりいそうな社長であるが、契約の席に登場するミラーズは、どのような人物を前にしても威厳があり、カリスマ性があった。
 ミラーズは、会社の方針に対して細かく指示を出すことは決してしなかったが、彼の内面から滲み出る魅力を慕い、有能な部下が会社を安全に力強く動かしてきた。そしてミラーズは常にそんな部下達を信頼し、部下のためなら自分の私財が危険に及ぶことも厭わなかった。だから、ミラーズ社の幹部クラスの人間で、他の会社に引き抜きされる人物は皆無といえる。いずれも様々な会社から引く手あまたな人間ばかりだったが、決して誘いに乗ることはなかった。
 ウォレスとて、強力に他の会社に引き抜きの誘いを受けたことが多々ある。
 いくら社外に対して目立たぬようにと振舞ってきていても、分かる人間には分かるものだ。
 今のサラリーの3倍出す、と口説かれたことがある。新しく興す会社の雇われ社長の椅子を用意されたこともある。だがウォレスは、そのいかなる誘いも即座に断わってきた。「君ほどの人間が」と捨て台詞を吐かれたこともある。 だが、ウォレスは他の人間にもまして、ミラーズに身を捧げるだけの恩があった。
 ウォレスが、まだアレクシス・コナーズだった時代。
 あの地獄の監禁生活から何とか逃げ出すことができたのは、彼が20歳の頃である。ボロボロの身を引きずり、乳飲み子を抱えて何とかアメリカ大陸に密入国した。 アメリカには、既に亡命を果たしたティム・ローレンスの一派がいると聞いていた。
「あなたとシンシアには、どうしたって生き延びてほしいの」
 リーナのその言葉だけを胸に抱いて、必死に生き延びようとした。
 その時、既にリーナはこの世の人ではなくなり、彼女の最後の言葉だけが、彼の心を支えていた。
 アメリカに渡ってしばらくは、ホームレスの生活を続けた。
 小さな赤ん坊を抱え、そして傷だらけで身元も不明の怪しい男を雇うところなど、どこにもなかった。
 せめて赤ん坊のミルク代だけはどうにかしなければならない・・・。
 最初は、道端で知り合った娼館の女達が親身になってくれた。
 可愛い赤ん坊は彼女達の間で天使のように扱われ、赤ん坊を連れた謎多き若者は、その端正な容姿と陰りのある表情、そして傷だらけの身体のせいで彼女達の保護心をかきたてた。
 娼館の女主人にも気に入られ、彼はそこで下働きの職と温かいベッドを手に入れた。
 トイレ磨きから部屋の掃除。客が残していった情事の後始末から娼婦達の下着の洗濯まで、汚れ仕事を何から何までやった。
 やがて女主人がアレクシスに興味を持ち始めた。25歳も年上だったが、彼女はアレクシスを毎夜自分の寝室に呼びつけるようになった。
「逆らうと、ここを追い出すからね」
 そう言われて、様々なことをさせられた。言うに耐えないこともやらされた。時には、馴染みの客が交じる事もあった。
 だが、アレクシスは、不平は一言も言わなかった。赤ん坊に十分なミルクをやれること。ここには、母親代わりを率先してやってくれる女達がたくさんいること。それが得られるのなら、どんなことにも耐えていけた。
 しかし、アレクシスが逆らわなかったとしても、やがて彼は娼館を追い出されることになる。
 女主人の亭主が、刑務所を出所してきたからだ。
 彼女の亭主は、マフィアの幹部で脱税の罪で投獄されていたのだった。
 結局アレクシスと女主人の仲がバレてしまい、マフィアのチンピラ連中に痛めつけられた後、街を追い出された。
 以前、アメリカでのティム・ローレンス一派の行方は分からず、頼る伝もない。
 今日を生きる金にも困ったアレクシスが最後に選んだ手段が、「当たり屋」だった。要するに詐欺のようなものである。
 狙いを定めた車に態と体当たりし、慰謝料を請求する。
 大抵の人間は、裁判沙汰にしたくないので、その場で金を払い示談にしてくれる。好都合だった。
 身体にまた新たな傷を増やしながら、それでも何とか生きていたある日。
 例の如く高級車に目をつけてぶつかっていった。
 痛みにうめくアレクシスに気づき、車から運転手が飛び出てくる。
 慌てふためく運転手の身なりに目を向け、今回はいいカモを掴んだかもしれないと思った。
「そっちの出方によっては、訴えてやってもいいんだぜ」
 赤ん坊の命がかかっているアレクシスの演技には凄みがあった。それに怯んだ運転手が、懐の財布を探ろうとした時、後部座席から車のオーナーが姿を現した。
 初老で小柄の紳士。それがベルナルド・ミラーズであった。
 一目見て本物の金持ちだと分かったアレクシスは、更に難癖をつけた。
 必死になって傷を見せて訴えるアレクシスの顔を、ミラーズはしばらく黙って見ていた。 まるでつかみ所のない目だった。
 そのミラーズが言う。
「別に裁判に訴えてもらっても構わないよ」
「ご主人様!」
 ミラーズの発言に目を見張ったのは、運転手だけでない。アレクシスもまたそうであった。
 正直なところ、裁判沙汰になればアレクシスにとっても危険だった。逆に逮捕される危険性もあったからだ。
 焦ったアレクシスは、ついこんな言葉を口にした。
「こっちは、赤ん坊に満足にミルクも飲ませてやれない! そんな人間を怪我させて働けない身体にしておいて、一銭も出さないって言うのか!」
 今まで、赤ん坊のことをダシに使ったことはなかった。それがアレクシスにとって最後に残ったプライドだった。
 しまった・・・。
 そう思った時は遅かった。その微妙なアレクシスの表情を、ミラーズは見逃さなかった。
「赤ん坊がいるのか。君が面倒をみているのかね」
 仕方なくアレクシスは頷く。
「母親は?」
「・・・死にました」
「今、その赤ん坊はどうしているんだね」
 穏やかにそう言われ、アレクシスは観念するほかなかった。その神父のような眼差しには、とても逆らえなかった。
 アレクシスは、汚れた洋服を何重にも巻きつけて、駐車場脇の植え込みに寝かされていた赤ん坊を連れてきた。赤ん坊はすやすやと穢れのない顔で眠っている。
「おお、可愛い子だ。可哀想に、そんなところで寝かされて」
 汚れた布に包まれた赤ん坊を、ミラーズは高級スーツが汚れるのも構わず胸に抱いた。
 周囲の者が逆に慌てた。
 だがミラーズは終始笑顔で、アレクシスを見た。
「この子があんなところで寝かされているということは、君はここで事故があると分かっていたんだね。つまり、態とだったということだ。それについては許されざる犯罪行為といえるが、赤ん坊を巻き添えにしないところは気に入った。ま、車に乗りなさい。私の家に行こう」
「社長!」
 おつきの者が激しく抗議を繰り返す中、こうしてアレクシスと赤ん坊はミラーズ家に迎えられたのだった。
 その後アレクシスは、ミラーズの元で教養を身につけるようになった。
 アレクシスの頭のよさを見抜いていたミラーズは、家の中でアレクシスに様々なことを教え、各界の著名人を呼び、アレクシスの教育者として雇った。
 いつしかアレクシスはミラーズに心を許すようになり、やがて自分の身の上を全てミラーズに語った。自分の命ばかりか人間性をも救ってくれたミラーズに対して、忌まわしい過去を持っている自分が側にいることが彼に悪影響を及ぼすに違いないと推察してのことだった。
 だが、ミラーズは気にしなかった。
 そればかりか、アレクシスの為に闇ルートから「ジェームス・ウォレス」という男の身分を買い、アレクシスに与えた。そして彼の同胞であるティム・ローレンス達の居所も探し出し、彼らがC市に拠点をおいて活動をしていることを知ると、自分の会社をボストンからC市に移した。ジェイク・ニールソン一派の手からアレクシスを守るためだった。そのためには、ニールソンと対立していて、なおかつアレクシスのことを親身に思ってくれていたティム・ローレンスの存在は重要だと考えたからだった。
 そして様々な知識を完璧なまでに吸収したアレクシスは「ジム・ウォレス」と名乗り、ミラーズ社に入社。数年の内に主席社長秘書となり、秘書以上の仕事をこなすようになった。
 ベルナルド・ミラーズのために、命を捧げたい。そう思ってウォレスは精力的に仕事をした。ミラーズの後ろで極力身を隠し、汚れ仕事にも率先して手を汚した。
 シンシアが物心つくころに、ウォレスはミラーズの家から独立。C市の郊外にごく普通の質素な家を手に入れた。
 ごく普通の生活。
 激動の時代を生き抜いてきたウォレスにとって、ミラーズから与えられた「ごく普通の生活」は、涙が出るほど大切な金には変えられない宝物となったのである。
 だからこそ、今ウォレスはミラーズの元を離れる訳にはいかなかった。
 今度の契約は、ミラーズ社の行く末が掛かっている。不況の影が見える経済状態を前にして、それは大げさなことではなかった。
 二度目の人生を与えてくれたミラーズの為に。
 例えジェイク・ニールソンがこの街に来ているのだとしても。
 ウォレスは、引出しからリーナの懐かしい写真を取り出しながら、息を詰めたのだった・・・。

 

Amazing grace act.45 end.

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編集後記

あはははは~~~~~はぁ。
すみません。またもや次回予告内容をぶっ千切ってしまいました。
そして更新作業がこの時間(汗)。(現在23時28分)
まさに綱渡り更新です(大汗)。
本当は、次回予告通りに書きたかったんですけど、書いているうちにミラーズとウォレスの出会い編になってしまいました。
何をやってるんだ国沢!!
ダウンロードの綴りも間違ってるし!!(たかたかさん。誤植指定メール、本当にありがとうございました。国沢の馬鹿馬鹿さ加減大公開をストップすることができます。近いうちに直しますので!のでので!)

あ~。間に合うかな~。今日中に。

[国沢]

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