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act.25

 翌日、案の定、額の傷が腫れた。
 後頭部の方も今だ痛みが治まらず、朝しばらく寝床から起き上がれなかった。
 身体がいうことをきけば、会社にも出社しようと思っていたが、鏡を見てやめにした。口の上も少し腫れている。こんなグロテスクな顔で会社に行ったら大変なことになる。
 マックスは、キッチンでオレンジジュースをグラスに注ぎ、リビングのソファーに腰掛けた。ジュースを口に含むと、少し沁みた。口の中を切っているらしい。だが、そんなことはどうでもよかった。
 本来なら、キングストンとあの男に対する怒りで気が狂っていてもおかしくはなかったろう。レイプという憎むべき犯罪行為を許してはならないことも、十分判っている。今すぐにでも病院に行って、この酷い有様を写真に記録してもらうべきだ。
 だが・・・。
 マックスが考えていることと言えば、他でもないウォレスのことだった。詳しく言うと、ウォレスの身体の傷。
 誰に、何時つけられたというのだろう。『お前は、私のもの』だなんて残酷な傷。
 そのことを思っただけで、涙が滲んだ。 どんなにか辛い目にあってきたのだろうと思う。自分の苦しみなんて、ウォレスのあの傷もつれの身体の前では、些細なことでしかない。自分は、殴られたりしたけれども、でも結果的に無事だったのだ。レイプも未遂に終わった。キングストンとあの男が、どうなろうと知ったことではない。ウォレスの歩んできた人生に比べれば、こんな痛みなど、取るに足らない・・・。
 レイチェルの言う通り、ウォレスの経歴は偽りであると考えて間違いない。ヴァージニア州の片田舎で、取り分け目立つことなく平凡に高校を卒業した男が、あんな傷を受けるなんてことはありえない。
  マックスの見たところ、あれはかなり古い時代の傷だ。身体の成長が終了するまえにつけられたもので、傷が引っ張られたように引きつっているのも、そのせいだ。おそらく、10代か20代前半の頃の傷。あれほどの傷を負うような出来事があれば、必ずどこかに記録は残る。レイチェルやドースンが探し出すことが出来なかったのなら、その記録は、はなからなかったのだろう。
 ウォレスがどういう手段を使ったのかは判らないが、彼はどこかの段階で『ジェームズ・ウォレス』という人物に成り代わったのだ。
 世の中には、金さえ出せば、自分の人生ごと売ってしまうような人間がいるという。そんな奴から名前と人生を買い取ったのだろう。
 明らかにそのことを思えば、ウォレスは危険人物だった。身分を偽り、影に身を潜め、身体の傷を隠しながら生きる男・・・。 なのに自分は、その男に心を奪われてしまった。 とうとう感情を抑える事ができず、同性に対して、愛の告白すらやってのけた。
  マックスは、自嘲めいた笑みを浮かべる。でもおかしなことに、目尻からは涙が零れた。
  好きになってはいけないのに、こんなにも好きになってしまった。 そして今、自分がレイプされかけた痛みより、ウォレスに拒絶されることの方が、よっぽど怖いだなんて。
  ふいにドアがノックされた。ビクリと身体が震える。
  誰だろう・・・。
  目尻の涙を拭って、カーディガンの襟元を引き寄せ、玄関のドアの覗き窓から外を覗いた。びっくりして、慌ててドアを開ける。
「レイチェル!」
  ドアを開けると同時に、レイチェルが抱きついてきた。あの勝気なレイチェルが、マックスの顔を見た途端、ぽろぽろと涙を零した。
「・・・マックス、ああ、マックス、なんてこと」
 マックスは、片手でレイチェルの身体を受け止めながら、開いた方の手で何とかドアを閉めると、レイチェルを首に巻きつけたまま、リビングに取って返した。
「なんだよ、レイチェル。落ち着きなよ」
 そんなことを言っている自分に首をかしげながら、とにかくレイチェルを引き剥がし、ソファーに座らせた。テーブルの上のティッシュボックスから2、3枚取り出し、レイチェルに渡す。レイチェルは、辺り憚らず、物凄い音を立てて鼻をかんだ。
「どうしたの、レイチェル」
「どうしたじゃないでしょう! なんなの、その顔!」
 しおらしいレイチェルは、もう終わったらしい。いつもの調子の彼女が戻ってきて、マックスは迂闊にも笑ってしまった。レイチェルが「笑い事じゃないわよ」と悪態をつく。
「ごめん。・・・でも、本当にどうしたの? 仕事は?」
「そんなもの、休んできたわよ。あんたが酷い目にあったって聞いて、平気でおれるっていうの? あんたは私のかわいい弟よ」
  ・・・本当は従弟だけど。と最後にことわるレイチェルが、益々いとおしかった。
「でも、誰から聞いたの? どこまで?」
 内心ビクビクしながらも、訊かずにはおれなかった。レイチェルは、一回鼻を啜って深呼吸すると、真っ直ぐにマックスを見た。
「あのジム・ウォレスよ。彼直々に家に電話があったの。もう驚いたのなんのって。彼、声も素敵ね。・・・・・。そ、そんなことはともかく、彼が言うには、あなたが暴漢に会って、殴られた。酷くやられたから一人でいるのは不安かもしれない。できれば、家族の誰かがあなたの様子を見に行ってやってもらえないか・・・そんな感じね。それを聞いて、ママは卒倒。私はこうして、飛んできた訳」
「殴られたって・・・。彼はそう言ったの? 殴られたってだけ?」
「・・・ええ。そうよ。犯人はもう捕まえてあるって。あなたがその気なら、警察に突き出すって言ってた。証言もすると。あんなに世間から姿を隠そうとしている男があなたのために警察沙汰に首を突っ込むなんて、よっぽどね。・・・どうしたの?」
「・・・・ごめん、レイチェル」
 マックスは席を立ち、キッチンに姿を隠した。
 涙が溢れて、止まらなかった。
 ああ、何てことだろう。そんな危険を冒してまで、どうしてこの俺のことを・・・。
「くそっ!」
 テーブルの上に置いた拳の上に、ポタポタと涙の粒が落ちた。
 ふと背中が温かくなった。レイチェルが震えるマックスの背中に頬を押し当てていた。
「・・・バカね・・・。あなた、そんなにあの人のことが好きなの・・・」
 マックスは振り返った。優しく微笑むレイチェルの顔があった。
「判らないとでも思ってた? 私は、ずっとあなたと一緒に育ってきたのよ」
「レイチェル・・・!」
 たまらずレイチェルに抱きついた。誰にも言えないと思っていた想いだった。ウォレスに言ったことでさえ後悔しているというのに、レイチェルの優しさが身に沁みる。
 しばらく泣いて、落ち着いたところでキッチンの椅子に腰掛けた。
「実は・・・レイプされかけたんだ・・・」
 レイチェルには、何もかも正直に話そうと思った。掛け替えのない自分の家族だからだ。
 不思議なことにレイチェルは驚かなかった。薄々彼女も感じていたのかもしれない。 「未遂に終わったのね」と冷静な声で訊き返してきた。マックスは頷く。
「ミスター・ウォレスに助けられたんだ。その時に彼も傷を負った」
「そうだったの・・・。ウォレスは、あなたのことを一番に考えたのね。だから、すぐに警察にも行かなかった。まずは、あなたの意思を確認したかったから。それで・・・、あなたはどう思ってるの?」
「俺をこんな目に合わせた奴らのことなんてどうでもいいよ。憎いのは確かだけど、正直いうと、あまり大げさにはしたくない」
 レイチェルは頷いた。
「確かに、犯罪行為は裁かれるべきだけど、ケースによるわね。ただの暴行でも、訴えられるわよ」
「そんなことをすれば、奴らはすぐにレイプのことを口に出すさ。社会的に俺と心中することだってできる。彼らの罪は、いずれどこかで償う時がくるよ。そのことについては、もう忘れたい。・・・俺は、臆病かな」
 レイチェルが、マックスの額を指で小突いた。
「バカね。そんなことないわ。・・・ウォレスはあなたのことを心配している。すごく。電話してあげたら。あなたの意思も、直接伝えた方がいいと思う」
「でも、レイチェル・・・」
「本当に心配してたのよ。彼はあなたを助けてくれたんでしょう? 電話をかけてあげるべきよ」
 レイチェルは、自分の携帯電話をマックスに手渡すと、キッチンからマックスを追い出した。背後からバタンバタンと戸棚や冷蔵庫が開く音がして、水の流れる音が続いた。
 マックスは、レイチェルに感謝しながら、反対側の寝室に向かった。
 レイチェルの携帯電話で、会社の代表番号に電話をかける。マックス・ローズだと名乗ると、交換士が「お身体の具合がよろしくないんですってね。大丈夫ですか?」と訊かれた。大丈夫だよと答えて、ウォレスのオフィスに繋いでくれと頼んだ。
 彼がオフィスにいるかどうか判らなかったが、すぐに電話が繋がった。
『ウォレスですが』
 耳の奥に染み込むバリトンの声に、胸が熱くなった。
「・・・ローズです」
『君か。身体の方はどうだ?』
 いつになく早口だ。
「お陰様で。少々見てくれは悪いですが、腫れさえ引けば、会社に行きます」
『・・・そうか。それは良かった』
「ウォレスさんこそ、腕の調子は」
『君の言う通り、病院に行ったよ。だが、医者は何もすることがなかった。君の処置は、完璧だってね。さすがだな』
 少しウォレスが笑う。
「・・・あの・・・。キングストンの件ですが」
『・・・うん』
「俺は、警察沙汰にはしたくないんです」
『そうか』
「情けないとは思いますが・・・」
『いや。・・・気持ちは、分かるよ。だが、私は彼らを許すことができない。私の気持ちも分かってくれるな』
「はい」
『君は、あのことが公になりさえしなかったら、構わないんだろう?』
「・・・ええ・・・。・・・ウォレスさん?」
『安心したまえ。それは絶対に防ぐ。・・・君のことは、私が守る』
 一瞬、言葉を失ってしまう。電話を持つ手が震えた。
「・・・・ミスター・ウォレス・・・」
『・・・ん?』
 マックスは唇を噛み締めた。ぐっと目を閉じる。
「・・・なんでも・・・なんでもありません。ありがとうございました。何から、何まで」
 受話器の向こうに沈黙が少しの間流れた。やがて、『いいんだよ』という優しげな囁き声が聞こえた。
 電話は、マックスから切った。
 まるで自分の想いを断ち切るように。


 ウォレスは、ゆっくりと受話器を置いた。
 込み上げてくる感情に、うまく受話器が置けなかった。
 憎いと思った。
 あのマックスの怯えた目。血だらけの顔。
 マックスにそんな思いをさせたキングストンとあの男は、絶対に許さないと思った。
 こんなにも他人に対して憎いという感情を持ったのは久しぶりだ。
 これまで人間的な感情は極力抑えるように生きてきた。そうせねば、ここまで生き延びてこれなかった。
 今更、こんなに感情に揺さぶられるなんて。・・・いい大人が、なんてことだ。
 しかし・・・。どうやってこの感情を抑えろというのだろう。
 ウォレスは痛みを知っていた。他人から一方的に与えられる暴力は何もかも。そう、性的なものを含めてだ。
 若い頃は、ずっとその暴力に晒されてきた。そして、その暴力を与える立場でもあった。 いろんなものを失って、自分の人生さえ失いかけていた。ベルナルドに拾われていなければ今頃、路頭でくたばっていただろう。傷だらけの身体と愛する人の赤ん坊と共に。
 誰にもそんな思いはさせたくなかった。二度と。もう二度と。
 ふいにオフィスのドアが開いた。ベルナルドが立っていた。
「彼と連絡は取れたかね」
 彼とて、マックスのことを心配していた。彼には、マックスがキングストンと外部の男に殴られたと伝えた。自分も傷を負ったことも知らせた。だが、察しのいいベルナルドは、ただの暴力がそこで行われた訳ではないことを察知した。彼も自分の息子に似た青年のことをひどく心配した。
 ベルナルドは、会社のことは顧みず(社内でこんな騒ぎがあったことは、少なからず会社にとってはマイナスだ)、警察に言うように言った。だが、ウォレスはマックス自身の意思を確かめたかった。
 この手の暴力は、被害者の名誉を著しく傷つける。被害者には何の落ち度がなかったとしてもだ。それは許されざることだったが、事実だった。特に、マックスは男である。性差別をするつもりは毛頭なかったが、男には男の傷つき方がある。この手の犯罪の場合、時として同性ながらの深い痛手を負うことがある。ウォレスは、痛いほどのそのことが判っていた。だからベルナルドもウォレスに判断を任せたのである。
「彼は、大丈夫です。・・・思ったより、元気そうな声でした」
 ウォレスがそう言うと、ベルナルドは少し安心したように頷いた。
「それで・・・。決めたのか。どうするかを」
 ウォレスは立ち上がった。
「警察には、届出を出しません。事を大きくしたくないことが彼の希望です。・・・だから・・・」
「判っている。私の口の堅さは、君も知っているだろう?」
 ベルナルドが肩を竦めて見せた。確かにそれはそうだ。そうでなければ、ウォレスは今こうしてここにいない。
「それで、君の気持ちは収まったのか」
「いいえ、全然」
 あっけらかんとウォレスは言った。まるで少年のような表情だった。ベルナルドは「やれやれ」と小さく溜息をついた。
「どうやら若い頃の君が戻ってきてしまったらしい。私は何も知らんよ。これから君がしようとすることは、何も知らんことにする。考えただけで恐ろしい」
 ベルナルドはそう言い残して、さっさと社長室に取って返した。
 バタンとドアが閉まると同時に、ウォレスの表情がガラリと変った。まるで、刃物の先のような鋭さだった。


 ウォレスは、荒々しく自分のオフィスを出ると、キングストンのオフィスがあるブロックへと急いだ。途中何人もの社員に声をかけられたが、一切応えなかった。
 ウォレスのただならぬ様子に、後を付いてくる者もいた。
 キングストンは、パーティーがお開きになってから、彼のオフィスに監禁している。専門業者が夜どうしパーティーの後片付けをしている間中もずっとだ。例のあの男は、ウォレスが医務室を出て戻った時は、既に姿を消していた。だが、あの男を逃すつもりはさらさらなかった。男の正体は、今朝目を覚ましたキングストンから搾り出している。男は、キングストンの飲み仲間だった。裏の世界の取引にも少し手を出しているようなチンピラだった。今頃はヴィンセントが動いてくれているはずである。そしてウォレスの次の指示を待っていた。
 キングストンのチームの者達は、自分たちのボスがウォレスと愛すべき彼らの社医に対して何かよくないことをしたことは既に知っている。今日のウォレスは、とにかく機嫌が悪く、朝キングストンを締め上げた時に、彼の腕の傷が開いて再び右手に血が流れても、一向に気づくことなく、更にキングストンを締め上げた。
ウォレスのそんな姿を見るのは、社内のどんな人間でも初めてだった。副社長のビル・スミスでさえだ。
 ウォレスが再びキングストンのオフィスの前に立つと、中から聞き苦しいキングストンの罵声が聞こえていた。 「ここを開けろ」だの「お前ら、俺の恩を忘れたか」など、様々な下品な言葉を混ぜに混ぜた言葉のオンパレードだ。 彼の部屋のドアを固めている鎖と鍵を外し、ドアを勢いよく開けた。ようやく開けやがったなと顔を上げたキングストンの顔が、再び青くなった。「ひぃ」という声を上げて、大きなデスクの裏に逃げ隠れる。
 ウォレスは、ズカズカと個室内に入ると、デスクの下に隠れるキングストンを引きずり出した。壁に押さえつける。
 キングストンの怯えた目に、ウォレスの静かで恐ろしい形相が映っていた。
「・・・いいか。警察は勘弁してやる。お前も、あの男もな」
 それを聞いて、一瞬キングストンの顔の緊張が緩んだ。その首根っこを更に締め上げる。
「だが、償いはさせてやる。言ったはずだ。許されたと思うな」
 唸るような声。
「お前はここから、今すぐ立ち去れ。今すぐだ。・・・報いはそれだけじゃない。これから一生、お前が死ぬまで、まともな職に就けると思うな。この街でも、それ以外でも。これが冗談でないことは、私と同じ会社に長く勤めていたお前なら、嫌というほど判るだろう? そしてもし、少しでもローズの不利になるようなことを言ったりしてみろ。更に恐ろしい目にあわせてやる。いいか。この国が、一生お前の刑務所になるんだ。むろん、あの男にも同じ目にあってもらう。私には、あらゆるコネがある」
 キングストンの顔色が、目に見えて真っ白くなった。
 ウォレスは、キングストンに判決を言い渡すと、急に興味を失ったかのようにキングストンを解放し、彼の「元」オフィスを後にしたのだった。

 

Amazing grace act.25 end.

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編集後記

暴走ウォレスはいかがだったでしょうか(笑)。鼻息荒っすね~、おじさん!
一方マックスの方は、相変わらず恋する乙女道をまっしぐらって感じですが。ついにレイチェルにまでバレちまって、どうするつもりなんだ、あんた?!って感じです。
でも、もっとどうするんだと言いたい人物あり。
その名も『国沢柊青』。
ついにストックがあと二つとなってしまいました。・・・・・。ヤバイこれは深刻だ。なのに、この週末はやっととれた夏休みに浮かれて、友人とユニバーサル・スタジオにランデブ~。
週末・・・・国沢にとっては、「終末」って意味かな・・・・・なんてね・・・(遠い目)。

[国沢]

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