act.124
死を迎えた人のために葬儀というものは行われるのだけれど、本当のところは生きているものの為にそれは存在するのだと思う。
マックスの目前にある墓碑には、アニー・ミルズという名が彫られてあった。マックスは胸元に手をやる。黒いYシャツの下には、ミルズ老人から貰ったロザリオがかけられてあった。マックスは、口の中で小さく祈りの言葉を囁く。
ER時代には、毎日たくさんの死が行き過ぎていった。そしてその死ひとつひとつはマックスにとって日々の出来事の僅かなワンシーンであり、心を痛めこそすれ、そこに大きな意味はなかった。アニーの死の場面に向き合うまでは。
マックスは十字を切って顔を上げた。
マックスは、アニーが眠るこのコニーラップ墓地に、先週の末ローレンスの遺体が埋葬されたことを知った。ウォレス宛に、アイルランド時代からの友人であるヴィンセントという人から連絡があったのだ。
ウォレスもマックスもローレンスの葬儀には当然参列できなかった。
ローレンスを殺した犯人がはっきり分かるまでは、ローレンスの周辺に近づかない方がいい。そうセスとテイラーに止められていた。
しかし、マックスはともかくとして、自分の身分をひた隠しにしてきたウォレスは止められる以前にローレンスの葬儀に参列できる訳がなかった。ミラーズ社の主席社長秘書・ジム・ウォレスとしての立場がある以上、近づくことはできなかった。
ウォレスは表向き、いつものように仕事をし、シンシアの送り迎えもして、一見普段通りの毎日を過ごしていた。しかしマックスにはよく分かっていた。事件以来やはりウォレスはふさぎ込んでいると。
彼は努めてそういう素振りを家族にも同僚にも見せたりはしなかったが、それでも時折物凄く悲哀に満ちた顔をする時がある。それはマックスにだけ分かる僅かな表情の変化だった。
マックスには、ウォレスの気持ちが痛いほど分かった。
ウォレスの中でローレンスの死は、まだ整理すらできない苦しみに満ちた出来事であるのだ。
なにせウォレスが最後に見たローレンスの姿は、血塗れの腕だった。
今なおそれがウォレスを捕らえて離さないのだろう。
ひょっとしたらローレンスがこんな目にあったのは、自分のせいかもしれない・・・そう彼は感じているに違いない。
突然身近な人間が亡くなった時。
人は己の中でその死をきちんと整理することができなければ、いつまで経っても先には進めない。
だからこそ・・・。だからこそ葬儀というものがある訳で、それを体感することで苦しみや辛さが自然に安らかな祈りの気持ちへ引き上げられる。
マックスはアニーの葬儀に参列できなかったが、それでもその代わりとなる瞬間をミルズ老人と迎えることができた。そうして今、アニーの墓標と向き合うことができている。
ウォレスの苦しみを取り除く為には、その『瞬間』が必要なのだと思った。
マックスはアニーの墓標に少し手を置いて別れの挨拶をすると、数歩足を進めた。
木々の合間から、黒いスーツを着た広い背中が見える。
掘り起こされて真新しい土がかぶせられた一角。
彼はただ静かにそこに佇んでいた。
マックスは、近くの木にもたれ掛かりながら、その姿を見つめた。
危険だろうが、誰かに見られようが、これは必要なことなんだ。
日曜日の今日、ウォレスをコニーラップ墓地に連れてきたのはマックスだった。
自分にできることは、それぐらいしかないと思った。
悔しいけれど、ウォレスが背負ってきた今までの人生の重みは、マックスの想像を遥かに越える。
おおよそのことは聞いて知っていたが、聞くのと経験するのでは大きく違う。
マックスは、物言わずローレンスの墓標と向き合うウォレスに近づくことができなかった。
ウォレスのその姿は、まるで北の不毛の土地にある断崖の縁で立っているかのような厳しさと悲しさがあった。まるで生まれてきたことを後悔しているかのような横顔。何者も寄せ付けないほどの重々しい沈黙。
そんなウォレスを見つめるマックスは酷く冷静だったが、それでも自分が彼を支えられる人間に値するのか、その価値があるのか、漠然と不安に感じた。
これまで起きたたくさんの事件を乗り越え、今は表向き平穏な時間を送っているが、その中に真実の人生があるのかと己に自問して。
今の生活は、ニールソンという見えない影の恐怖があったとしても、幸せだった。ウォレスとシンシアが側にいて、温かく何の心配も要らない職場もある。そしてそれにどっぷりと甘んじている自分がいる。
でもそれでいいのだろうか?
厳しく言ってしまえば『緩い』生活の中で、自分は精一杯自分の力を出し切れているのだろうか。そしてウォレスのように懸命に生きられているのだろうか。
自分は逃げることなく生きるべきだ。
自分のできることから目を逸らすことなく。後悔からも目を逸らすことなく。
だからこそ、決めた。
やはりERに帰ろう。
自分が一人でも多くの命を救うことが出来る手を持っているのなら。
それが自分の生きる意味だし、それが出来てこそ初めてウォレスと対等に向き合えるのだ。
ふいにウォレスが顔を上げた。
そして周囲を探すような仕草を見せ、マックスを見つけると少し手を上げた。
マックスは身体を起こし、ウォレスの元に向かった。
「待たせたかな」
そう呟くウォレスにマックスは「ちっとも」と肩を竦めると、「もう一カ所行きたいところがあるんです」とウォレスを誘った。
怪訝そうにマックスを見るウォレスに、マックスは指さして見せた。若葉を茂らせる木々の上から覗いている教会の屋根を。その教会は、いつかミルズ老人が招いてくれた教会だった。今は丁度日曜に行われるミサの真っ最中であるはずだ。耳を澄ませばシンプルなオルガンの音色と賛美歌のコーラスが風に乗って聞こえてくる。
「ぜひあなたに聴いて貰いたくて、皆さんにお願いしていることがあるんです」
マックスはそう言ってウォレスの手を引くと、真っ直ぐ教会を目指した。
教会のドアを開けると、音の洪水が溢れ出てきた。
牧師の周囲で伴奏に合わせながら身体を揺らすクワイヤ(コーラス隊)ばかりか、教会に来ている人々全体が手を打ち鳴らし、神に捧げる歌を歌っている。
圧倒的に黒人の人々が多かったが、それでもよく見ると様々な人種の人々が集っている。皆苦しい境遇ながら精一杯生きている人々。
その迫力のミサに圧倒されているウォレスを教会の中に引き入れマックスがドアを閉めると、末列に座っていた老人が後ろを振り返った。ミルズ老人だった。
ミルズ老人はマックスとウォレスの姿を確認すると、手を挙げて牧師に何か合図をした。
エンドレスに続くかと思われたコーラスがふいに止み、新たな伴奏が始まる。
クワイアの中から見事な体格の老女が一歩前に足を踏み出す。
そして彼女は、シンプルなオルガンの伴奏に合わせ、ある賛美歌を歌い始めた。
それはあまりにも有名であまりにもピュアな神への歌。
『なんという奇跡、なんというやさしい響きか
私のような無法者でさえも、主は救ってくださった
かつて私は道を見失ったが、今ではそれも見い出せる
ずっと盲目だった私だが、今はしっかりと見える
主の恩恵が私の心に慎みを教えてくれた
そして私の中の恐れを解放してくれた
ああ、なんと素晴らしいことだろう
初めて信じることを覚えた時にその奇跡は現れた
多くの危険や苦労、罠の中を通ってきた
ここまで無事に導いてくれたのは、主の恵み
そしてそれは、私を我が家へと導いてくれる
私たちはいつまでもそこに有り続ける
太陽のように光輝いて
神を賛美する歌が滅びる日がくることはない
最初に信じ始めた時から』
それは正しく18世紀の昔、一人の奴隷商人だった男が、敬虔なクリスチャンとして生まれ変わった時に身体から絞り出した祈りの歌だった。
罪深き人生を送ってきた自分のような男でも神は救ってくださった。人は望めば、例えどんな罪を犯していても生まれ変わることができる・・・。そんな信仰の奇跡を綴った歌。
それがこの『アメージング・グレイス』だった。
賛美歌としてはポピュラーな曲だったが、それでもこの奇跡の歌を、この教会で、どうしてもウォレスに聴いて貰いたかった。
この歌こそが、マックスのウォレスに捧げる魂そのものだった。
ウォレスが自分の人生を罪深いものだと思っているのなら、この歌はダイレクトに彼の心に響くはずだ。
だとしたらきっと、自分達は先に進むことが出来る。命の力を純粋に信じることができる・・・。
最初はゴスペル歌手の・・・といっても彼女もこの地区で生まれ育ち生活をしている普通の市民だが・・・独唱で始まった歌は、繰り返し繰り返し響き渡り、やがて教会全体での大合唱となった。
その穏やかでゆったりとした響きは、容赦なくマックスの心を揺さぶった。丁度、ミルズ老人に連れられて初めてここに来た時のように・・・。
ふいにマックスの横でウォレスが膝を折った。
「・・・ジム?」
マックスが隣に跪く。
ウォレスは、両手で顔を覆って泣いていた。
そしてその声はこれまで聞いたことがないぐらいの号泣になった。
まるで血のような涙。
ウォレスは木の床に手をつき、額をそこに擦り付けるように頭を下げた。まるで許しを請うかのように、祈りを捧げるかのように泣き崩れた。
まるで少年のように涙を流すウォレスの姿は、これまでの辛い重圧から解放されたかのような姿にも見えた。
マックスもその姿に涙ぐみながらウォレスの身体を抱きしめた。
ウォレスが涙に濡れた瞳でマックスを見つめる。
マックスは微笑みを浮かべ、頷いて見せた。
「大丈夫・・・。人生は、何度だってやり直すことが許されているんです。その奇跡を信じましょう。俺とあなたで」
くしゃりとウォレスの顔が歪んだ。そして新たな涙が零れ落ちた。
だがウォレスは大きく息を吐き出すと、祈るようにマックスの手を両手で握り込み言った。
Amazing grace act.124 end.
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編集後記
ご以前99話で『一番目に大事なシーンを書きました』ということを編集後記で書いたとおもいますが、今回はそのシーンの対となるシーンをお届けしました。二番目に大事なシーンとでも言いましょうか。いや、タイトルが『アメージング・グレイス』なんだから、今回のシーンこそが一番大切なシーンですね。ああ、随分長い旅だった・・・。でもこの話、まだ続くけど(汗)。
本文中に出てくるアメージング・グレイスの訳詞は、国沢がかなり崩して好き勝手に脚色しているので、本当の訳詞が知りたい方は、こちらを参考になさってくださいね。
先週は突然の大発表にびっくりさせてすみませんでした(汗)。たくさんの方々から祝福の言葉を頂いて、感無量の国沢です。本当にありがとうございました。勇気づけられる言葉もいっぱいくださって、これからも頑張っていけます、国沢!!
ところで、話変わりますが自分がスポーツできないために、国沢はすっごくスポーツ番組好きで、今はもちろん世界柔道に燃えています。特に軽量級の柔道がスピード感があって好きです。やっぱ立ち技で一本取るのがゾクゾクするほどカッコイイ! それでもって、「ああ、これを櫻井君がやってるのよねぇ・・・」と思うと余計に熱くなります。あのぱりっとした分厚い白の柔道着に黒帯。嗚呼、ストイック~~~~!!櫻井君の場合は小柄なので、60キロ級でしょうかね。櫻井君は殆ど立ち技でガッツリ一本決めるので、耳も餃子耳じゃないっすよ!(寝技の多い人は餃子みたいな耳になっちゃうんですよね。畳に耳を擦り付けすぎて)
でも、そんな櫻井君も、アニキに対しては寝技かけられまくってるけどね(大汗)。
・・・。
ああ、アメグレの編集後記なのに触覚の話してる国沢って一体・・・。
[国沢]
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