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nothing to lose title

act.03

 水曜日の夜遅く。同僚のケヴィン・ドースンが、がっくり肩を落として編集長室から帰ってくるのを見て、レイチェル・ハートはドースンのデスクに腰掛けた。
「どうしたのよ、青い顔して。奥さんのクラック中毒がバレたの?」
 マルボロのメンソールをふかしながらレイチェルが訊くと、ドースンは慌てて周囲の様子を見やってから、見るからに心外そうな顔をした。
「違うよ! そんなんじゃない。人聞きの悪いこと言うな。それに、ワイフはクラック中毒なんかじゃない。アルコールだ」
 ・・・たいして代わらないじゃない、とレイチェルは思いながらも、あえてそれは口に出さなかった。
「じゃぁ、なんなのよ。編集長になんて言われたの?」
 レイチェルがケヴィンの背中を小突く。ケヴィンは引き出しからキャンディ・バーを取り出してそれを口に含みながら、手に持っていた明日の朝刊のゲラ刷りを机の上に乱暴に置いた。
「これだよ!」
 ケヴィンはそう怒鳴ったが、口に突っ込んだキャンディー・バーのせいで、くごもった声になり、少々決まりがなかった。
 ケヴィン・ドースンは幼い頃から低血糖症の持病を持っていて、何かことあるごとに甘いものを口に入れている。そのくせ身体はガリガリで狐のような顔をしていたから、社内ではフォックスとあだ名を付けられていた。
 レイチェルとケヴィンは一時期つき合っていたこともあったが、今はいい友達であり、C・トリビューン社のよき同僚でもある。ケヴィンは記者として12年のキャリアがあり、レイチェルもまた8年のキャリアがあったが、3年ほど前からレイチェルは、報道カメラマンとしてのキャリアをそれに積み重ねつつある。レイチェルは身長が160センチ足らずという大変小柄な身体付きをしているが、持ち前の勝ち気さと鋭い観察力を武器にして、他の報道カメラマンと何らひけの取らない仕事をしてきた。小さな顔に大きな瞳を持つ童顔のレイチェルは、より知的に見られるように、肩までの明るい栗色の髪をわざと濃いブラウンに染めている。髪は細いがこしが強く真っ直ぐで、寝癖がつくことはほとんどなかった。
 レイチェルは、くしゃくしゃになった新聞紙を広げ、そこのトップに掲げられている見出しと写真を見つめた。
「ミラーズ社の陰の支配者。・・・誰、これ。恐ろしくハンサムな男ね」
 嫌み抜きで、レイチェルは言った。そのレイチェルの台詞に、ケヴィンが溜息をつく。
「流石の君もその反応か。まったく嫌になるよ。こいつの写真を見る女は、皆口を揃えてそう言う。終いには、あのゲイのミックでさえ、セクシーな男!って叫んで腰をくねらせていやがる。チクショウ、天は二物を与えずなんて俺は絶対信じないからな」
 ケヴィンは低く悪態をついた。
 レイチェルは、力無く鼻先だけで笑って、再び写真に目を落とした。
 男は、大理石の大きな柱で飾られたミラーズ社の正面ロビーから出てくるところを、望遠レンズによって捕らえられていた。何かに気を取られているのか、眉間に軽く皺を寄せ、目を細めて通りを見やっている。とても思慮深い瞳だ。鼻筋の通った高い鼻に意志の強そうな薄い唇。悪戯な風によって、少し髪が乱れている。年の頃は40前後。苦みの走ったその表情には、ハイレベルな環境の第一線で戦っている企業戦士独特の不屈の精神力を感じさせると同時に、それとは対象的な浮き名を数々鳴らしていそうな危うい魅力が共存していた。いずれにしても、何気ないただのモノクロの隠し撮り写真であるのに、それだけでもただならぬ存在感が漂っている。レイチェルが思わず身震いしたのも無理はない。この男には、理屈では説明し切れない、人を惹きつけ惑わす危険な魅力がある。
「それで、誰なのよ、この男。ミラーズ社の陰の支配者ってどういうこと? この男、ミラーズ社の社員なの?」
 じれたレイチェルは、ドースンの肩を足で小突いた。ドースンは、すっかりご機嫌斜めな様子でレイチェルの質問に答えた。
「ジェームズ・ウォレス。37歳。ミラーズ社社長の首席秘書をやってる男だ」
「社長秘書? ベルナルド・ミラーズの秘書って、エリザベス・カーターじゃないの? 私、ミラーズ社長とアポイントを取ろうとしたことがあるんだけど、その時は彼女が対応してきたわ」
「ウォレスはミラーズの懐刀なんだよ。実は、今回のW&PC社合併の件、こいつが仕切ったらしい」
「なんですって? ビル・スミスがやったんじゃないの?」
 レイチェルの思い通りの反応に、ドースンも段々気をよくしてきたらしい。次第に彼の語り口が滑らかになっていく。
「表向きはそうさ。しかも、ミラーズ社以外の誰もが疑いなくそう信じてる。彼がやったとなると、説得力もあるしね。だけど本当はそうじゃない。俺の使ってる情報屋が、ミラーズ社と共同開発を行っているストラス社に縁がある奴でさ、そいつによると、経済界のトップグループ・・・つまり、俺らからしたら雲の上のまた上の話だが、そこの世界でジム・ウォレスの名前は一種の驚異となっているらしい。実のところミラーズ社は、この男なしではここまで発展してこなかっただろうって言うんだからすごいよな」
「たかが社長秘書なのに大したものね」
「たかが、じゃないんだよ。この男はな、それこそ電話一本で会社を一個難なく潰すことのできる社長秘書なんだ。俺ならそんな秘書、恐くて側に置いとかないけどな。いつ裏切られるか分かったもんじゃない」
 ドースンは、大袈裟に身体を振るわせると、またキャンディー・バーを口に含んだ。レイチェルは、タバコを口にくわえながら、難しい顔つきで再び新聞のゲラ刷りを見る。
「・・・そんなにすごい男なら、何で今まで表に出てこなかったのかしら。ミラーズ社長が出かける時付き添っているのはいつもカーターだし、これだけの決定力が彼にあるとして、その彼が社長秘書だなんて地位に甘んじているのはおかしいわ。写真で見る限り、この手の男は無口だろうが目立つのよ。今まで誰も彼の存在に気づかなかったなんて、冗談にしても度が過ぎる。・・・と、いうことは・・・ちょっと待ってよ。ケヴィン、あんた、スクープじゃない、これ!」
 レイチェルは新聞を丸めて、ドースンの顔めがけてそれを投げつけた。新聞はキャンディー・バーに引っ付いてぶら下がった。ドースンが「何するんだ! クソ!」と悪態をつく。しかし、レイチェルは悪びれた様子もなく、壊れたおもちゃのようにけたたましく笑った。(レイチェルの声は、幼い子どものような高い声をしている)
「すごいじゃない、ケヴィン! あんた、久々のスクープじゃないの?」
 レイチェルは、クラッカーを鳴らす勢いで叫ぶ。だが、レイチェルとは裏腹に、みるみるテンションが下がるドースンに、流石のレイチェルも笑顔を笑顔のまま強ばらせた。
「・・・何? ・・・なんなの?」
 ドースンが深い溜息を付きながら、机に突っ伏す。
「ぎりぎりになって社主から駄目出しが出たって、デスクに言われた。写真は勿論、ジェームズ・ウォレスの名前を出すことも駄目だとさ。どうやら隠しカメラのことがばれて、ミラーズ社から圧力がかかったらしい。こんな小さな新聞社が、世界のミラーズ社に対抗できるわきゃないよな」
 レイチェルは、暫し言葉を無くした。
 このジェームズ・ウォレスという男は、今まで表に出てこなかったのではない。表に出ないようにしていたのだ。しかも、会社ぐるみになって、必死に彼の存在を隠そうとしている。
「・・・どういうことなの・・・?」
「そんなこと知るかぁ。クソー、今夜はやけ酒だ! めちゃくちゃに飲んでやる!」
 机の上で飲む前から早くも管を巻くドースンは視界の彼方に、レイチェルはすっかり自分の世界にはまりこんでいた。
 レイチェルは、ドースンの机の下に落ちたくしゃくしゃの新聞紙に目をやる。丸まった紙の塊の奥から、あの思慮深い瞳が見える。
 少し、調べてみようかしら・・・。
 久々に燃え立つ報道魂に、レイチェルは知らぬ間に笑みを浮かべているのだった。


 脈拍が異常に早い。このままだと、ショック性の呼吸困難にでも陥っていまいそうだ。
 この期に及んで、悪態をつくにもまだ医学用語を並べ立てている自分に気がつき、マックスは軽い自己嫌悪を感じた。
 どこかでジミヘンの唸るような声が聞こえてくる。このアパートのかびた壁は相当薄い造りにできているらしい。ジミヘンの歌声の他にも、トイレの汚水を流す音やテレビの音、どこかの夫婦の痴話喧嘩が廊下に響いていた。
 お世辞にも、きれいなアパートとは言えない。だが、C市の北にあるこの低所得者の居住地区(皮肉にもクラウン地区と呼ばれている)では標準的なアパートの部類に入るだろう。
 マックスがこのアパートを訪れるのは、これで3回目だ。だが、ジョン・ミルズが住むこの階まで上がって来れたのは、今日が初めてである。
 ジョン・ミルズは、町外れにあるコニーラップ共同墓地に先日埋葬されたアニー・ミルズの父親で、マックスとはセント・ポール総合病院で一度だけ面識があった。彼は、クラウン地区に住む市民の中では極めて良識人であり、一人娘の学費のために、老体に鞭打って毎日10時間近くも板金工場で働いているような人物だった。
 ジョンが、変わり果てた娘を病院に引き取りに来た時は、娘の身体をきれいに整えてくれた看護婦達に曲がりかけた背筋を更に何度も押し曲げながら、礼を言って去っていった。
 ジョンが病院にいる間、マックスはあの手術のことについて真実を話そうとしたが、病院側からも口止めをされ、ついに話すことができなかった。しかし、マックスにも真実を話す勇気はとてもなかったのだから、病院側が口止めしようがしまいが結果は同じだったろう。
 マックスの心の中で、今の自分は第一級の犯罪者だった。殺人。真相の隠蔽工作・・・。たとえ法的に訴えられることはなかったとしても、神の審判では確実に地獄行きの切符を渡されるだろう。医者になろうと思った時から、神の存在を一切気にかけてこなかった自分が、今更になって神の影に怯えていることが何とも滑稽だった。
 ジョン・ミルズの部屋は、この階の一番奥にある。マックスは、廊下に散乱したゴミを跨ぎながら進んだ。途中で廊下にゴミ袋を出す派手な化粧をしたプエルトリコ系の中年女と視線があった。女は、ライトブラウンのコートを着たマックスを舐めるように見つめて、顔を歪めた。こんなところに、あんたみたいな人間が来るのはとんだお門違いよ、とでも言いたそうな顔つきだった。それにマックスは、女の客になりそうな雰囲気すらこれっぽっちもなかったのだから、女が乱暴にドアを閉めたのも無理はない。マックスが別の視線を感じて上を向くと、螺旋状に伸びた中央の階段の上から、口をぽっかり開けた老婆がマックスを覗き込んでいる。マックスは、曖昧に笑みを老婆に返して先を急いだ。このアパートでは、マックスは完全に異星人だった。このアパートに住んでいる人間で、自前のブロンドにライトグリーンの瞳を持ち、少し英国訛りの英語を話す人間など一人もいない。(マックスの英国訛りは、英国出身の叔母の影響だった)
 マックスは、周りを伺いながら、煤けたエメラルド色のドアを2回ノックした。返事がない。内心どこかでホッと溜息をついている自分を感じながら、再度ノックをする。またもや返事がないので、マックスが去りかけようとした時、唐突にドアが開いた。
 マックスの心臓が跳ね上がる。振り返ると、チェーンの向こうに白目が黄色く濁った褐色の老人の顔があった。
「・・・ジョン・・・、ジョン・ミルズさん?」
 マックスが荒い呼吸を悟られないように慎重に声を出すと、ジョン・ミルズは怪訝そうな顔をして見せた。
「何か、ご用ですかな?」
「あの、僕は、セント・ポール病院でお嬢さんの執刀を担当したローズです。病院でも一度お会いした・・・」
「ああ・・・」
 老人の顔が、急に和やかになった。
「その節はお世話になりました。家の中もやっと落ちついたところで・・・。なんせ、家の中の仕事は殆どあの子にまかせっきりにしてたものですから。どうぞ、入って。ここではなんですから」
 ミルズがチェーンを外してドアを開ける。
「すみません。失礼します」
 マックスは、おずおずと部屋に入ってコートを脱いだ。部屋を見回す。狭い部屋だ。あちらこちらにキリストの小さな絵が掛けられてある。
「どうぞ、座ってください」
 マックスは、ダイニングテーブルの椅子に腰掛けた。14インチ画面のテレビが一攫千金のクイズ番組を映し出している。戸棚には、ハードカバーの本が数冊と古びたアルバム、アニーと思われる小さな女の子の写真が入った写真立てが置かれてある。その隣には立て付けの悪そうなドア。恐らくその向こうが寝室だろう。とても小さな生活。この家庭にはソファーすらない。ここで、年老いた父親と小さな娘が2人で暮らしていたのだ。
 寝室のドアの向かい側にあるドアから、ミルズがマグカップを二つ持って現れた。
「こんなものしかないが・・・」
「いえ、どうぞお構いなく」
 マックスが立ち上がって手を振ると、慎み深い老人は、目を細めて笑った。
「こんなに腰の低いお医者さんは初めてです。どこの医者も、大抵がクラウン地区の住民だと知ると途端に冷たくなる。クラウン地区にもまともな人間だっているということを、彼らは知らない」
「・・・すみません・・・」
 マックスが謝ると、ミルズは両肩を竦めた。
「ああ、すみません。あなたを責めている訳じゃない。こんな世の中が悪いんです。どうぞまぁ座って。人と話をするのは久しぶりなんです。なにせ、ここではアニーと2人暮らしでしたし、親類らしき親類もいないものだから。葬儀もささやかなものでした」
 マックスは、再び椅子に座りながら、テーブルの下で両手を擦り合わせた。手のひらはじっとりと汗ばんでいた。マックスは、顔を上げる。さぁ、話すなら今しかない。
「・・・ミルズさん、実はあなたに話さなければならないことがあるのです。僕は・・・」
「娘は」
 マックスの声を遮って、老人は言った。
「お恥ずかしながら、年老いてからできた子どもです。家内は去年天に召されましたが、アニーは私たちの深い愛情の中ですくすくと育ちました。・・・ローズ先生、でしたかな?」
「はい、そうです。いや、違います。僕はもう医者ではありません。今日病院を辞めましたから」
「ほう。なぜ、辞めたのです?」
 ミルズが、あからさまに眉間に皺を寄せる。マックスは、そんなミルズを真っ直ぐに見れず、俯いた。
「医者として、許されない行為をしたからです」
 しばらく、沈黙が流れた。テレビの音が、いやに大きく聞こえた。
「ミルズさん、僕は・・・」
「あなたはご結婚されておられるのかな?」
「え・・・。いや、してません」
「今まで結婚はしていない?」
「はい。結婚しようと思っていた人はいましたが、別れました。1年になります。それも僕の彼女に対する態度が問題でした。僕は他人を思いやることなく、ただがむしゃらに仕事に打ち込み・・・」
「ご両親は?」
「はい?」
「ご両親です。ご両親は今も健在で?」
 マックスは顔を上げた。ミルズと目を合わせると、ミルズは答えを促すようにマックスを見つめている。マックスは、ミルズの考えていることが分からなかった。
「・・・両親は・・・、爆発事故で亡くなりました。イギリスのギルフォードで。僕が、まだ3つの時です」
 マックスがぼんやりとした口調でそう答えると、ミルズは首を横に振って小さく十字を切った。
「おお・・・。すみません、嫌な思いをさせてしまった」
「いや、いいんです。実を言うと、両親のことは僕も余り覚えてなくって。僕はすぐにアメリカにいた叔母に引き取られ育てられました。叔母は裕福な人でしたから、さほど苦労はしなかった方だと思います。今でもたまにひょっとしたらあの時の記憶なのかな・・・という夢は見ます。だけど、あなた方親子がこれまで経験してきた苦労に比べたら、僕の苦労なんて苦労のうちには入りませんよ」
「ローズさん」
 ミルズが、テーブルの上で堅く握りしめられたマックスの拳を軽く握った。マックスはビクリと身体を振るわせ、再度ミルズを見た。そこには、穏やかな老人の吸い込まれるような瞳があった。
「この世の中で一番の不幸は、血を分けた両親に十分な愛情を受けられないことです。そうした人間は、肝心な時期に心が十分に満たされないから、他の人間を上手に愛することができなくなってしまう。私たちの娘は、その点で言うとあなたよりずっと幸福だった。・・・娘は死ぬ間際まで幸福だったのですよ」
 マックスは、口を開けたまま瞬きもせず、しばらくミルズを見つめた。その口が、知らないうちに戦慄いていた。
 老人はゆっくりと立ち上がると、キッチンに置いてあったティッシュボックスを持ってきた。
 マックスは、ミルズに薄くて柔らかい紙を渡されて初めて、自分が泣いていることに気がついた。気づいた途端、嗚咽がこぼれた。人前でこんな泣き方をするのは、生まれて初めてだった。
「・・・すみません。本当に、すみません」
 マックスはようやくそう断ると、ミルズの部屋を逃げるようにして飛び出したのだった。


 いくら引いてみても駄目なので、試しに押してみたら、次の瞬間にマックスは、汚れた木製の床に倒れていた。
 マックスはケタケタと笑いながら、おっとりとした動作で立ち上がる。薄いグリーンのピンストライプのシャツについた泥を叩きながら、マックスはクシャミをする。ライトブラウンのコートもカラメル色のジャケットもどこかの店に忘れてきたらしい。だがそれもどうでもいいことだ。マックスが顔を上げると、今まで自分を値踏みするように見ていた他の客が、一斉にマックスから視線を逸らした。またもやマックスは、ここでも異邦人である。
 ここは他の外人街と隣接するクラウン地区の端っこにある飲屋街の1軒だった。マックスはここにたどり着く前に、4軒の店を梯子し、至る所で「もう看板だから」と道に放り出されていた。だがマックスにしてみればまだまだ酔い足りない。結局最後に、看板も出ていない小さな明かりがドアの前に引っかかっている飲み屋らしきこの店にやってきたのだった。
 マックスは、軽く頭を振って、カウンターに寄り掛かった。ぐるりと周りを見回す。間口狭い入り口にしては、店内は広い。店を入って右側に小さなジャズピアノが置かれてあったが、今は蓋が閉まっている。煉瓦造りの壁は無骨で、クラブというよりは頑なに無愛想なアイリッシュパブのような雰囲気がある。だがその客層は様々で、黒人もいれば南米系の客もいる。だが、マックスのように如何にも育ちがよさそうな青年は誰一人いなかった。
「ジン。ストレートで」
 カウンターの中のバーテンに濁声でそう告げると、マックスはカウンターに突っ伏した。哲学者のような面もちをした初老のバーテンが、冷ややかな目でマックスを見つめる。
「金ならあるよ。早くしてくれ」
 マックスは、腰のポケットから財布を取り出し、中身を広げた。乱暴に10ドル札を引っぱり出したので、他の札束もバサバサと床に落ちた。マックスは、バーテンが顔をしかめるのも構わず、カウンターの上に10ドル札を叩き置いて、床に散らばった札を拾った。ごわつく財布をまた腰のポケットに押し込みながら、マックスはグラスを受け取った。透明の液体を喉に流し込む。途端にマックスは顔を歪めた。
「水じゃないか!」
「あんたにはまず、それが必要だと思うが」
 背の高いバーテンはが言う。マックスは、ポカンとした顔をしてバーテンの言うことを聞いていた。
「ここは、酒を出す店じゃないのか?」
「もちろんそうだが、今のあんたに出せる酒はない」
 普通なら憤慨してもおかしくないようなことを言われた訳だが、司祭のような面もちのバーテンにそう言われ、不思議と怒りは沸いてこなかった。逆に、なぜか無性に悲しくなって、マックスはバーテンの腕に縋った。
「飲みたいんだよ。めちゃくちゃになるまで飲みたいんだ。あんただって、そうなりたい時だってあるだろう? 頼むよ」
 バーテンは暫くマックスを見つめ、ふと店の一番奥の席に目をやってから、ロックグラスにジンを入れ始めた。バーテンは、マックスの前にグラスを置く時にマックスに耳打ちをする。
「めちゃくちゃになるのはいいが、あんたの飲み方はあまりにも無防備過ぎる。こんな街の飲み屋でやる飲み方じゃない。せいぜい気をつけるんだな」
 バーテンは、そう言い残してカウンターの後ろの倉庫に消えていった。
 マックスは、誰もいないカウンターに向かって「ありがとう」と礼を言うと、グラスの中のジンに口をつけた。その時だ、マックスの後ろを通って店を出ようとした背の低い男がマックスの腰を撫でていったのは。
「おい! ちょっと待てよ!」
 マックスが、男の腕を掴む。男が、ギョッとした顔でマックスを見た。
 マックスは、酒臭い息を男に吐き付けながら怒鳴った。
「お前! 今、俺のケツ撫でただろう!」
 一瞬男が拍子抜けした顔をしたが、酔いの回ったマックスに、それが分かるはずもなかった。
「あんた、ホモかよ!」
「何?」
 ホモかホモじゃないか、2人で言い合いをしている間に、この騒ぎを聞きつけてバーテンが店に戻って来る。
「何事だ」
「こいつが、俺の尻を撫でた。俺が酔っぱらってるからってバカにしやがって」
 それを聞いてバーテンは少し考え込むと、ことの次第が飲み込めたのか、男に目をやった。バーテンは溜息をつきながら、呆れた目をして男を見る。
「ロベルト。お前、またやったのか」
 その台詞に、マックスが目を丸くする。
「おいおい、ちょっと。こいつ、常習なのか? さては女に相手にされないで、男のケツばっか追いかけてる変態野郎なんだろう、お前!」
 このマックスの言いぐさに、ロベルトと呼ばれた男は、完全にきれたらしい。マックスの腕を弾いて、懐からバタフライナイフを取り出した。バーテンが頭を抱える。
「言わせておけば、白豚野郎。ふざけたこと言いやがって。ブッ殺すぞ」
 ロベルトの威勢のいい脅しに、マックスは笑顔で答えた。両手を大げさに広げて笑った。
「殺す? こいつはいいや。殺してくれよ。丁度死にたいところだったんだ。俺は自分で死ぬ勇気もない。殺してくれるというんなら、ありがたい。ひと思いに殺ってくれよ」
 マックスのこの反応に、ロベルトもどう対処していいやら分からないのか、バーテンとマックスを見比べながらおろおろしている。マックスは、そんなロベルトに痺れを切らす。
「おい、刺すところ分かるか? よし、刺しやすくしてやるよ。すみません、ペン貸していただけますか?」
 妙にバカ丁寧な言葉使いでマックスがバーテンに頼む。バーテンは、怪訝そうな顔をしてマジックペンをカウンターに置いた。マックスはペンを取ると、シャツのボタンを外して上半身裸になり、胸元に×印を書いた。
「刺す時に気をつけないといけないのは、胸骨だ。胸骨にまともに当たったら、心臓までは届かない。人間の骨は意外に丈夫だから。狙いは骨と骨の間。丁度この辺りだ。ここだったら間違いない。ほら、刺せよ」
 マックスは、一歩男に近づき再び両手を広げた。ロベルトは、額に脂汗を滲ませながら震える手でナイフを構えている。店内は、呑気なジャズの調べが流れる中、妙な緊張感が張りつめていた。
「刺せよ、おら、刺せって!」
「うわあああ!」
 男がナイフを振り上げる。バーテンがカウンターを乗り越えようとする。マックスは、目をギュッと閉じる。だが、いつまで経ってもマックスの身には何も起こらなかった。代わりに、ロベルトのうめき声がした。 マックスは薄く目を開ける。
「いい加減にしろ、ロベルト。素人相手に熱くなるな」
 バーテンダーではない、別の男がロベルトの腕をねじ上げてナイフを奪っていた。
 黒のジャケットに黒のタートルネック、黒のボトム。黒の革靴。上から下まで真っ黒な男だった。だが、眼鏡のない酔いの回り切ったマックスに、男の細かいディテールはよく分からなかった。
「それから、財布も彼に返せ」
 男の穏やかだが有無を言わさない声に、ロベルトは素直に財布を懐から取り出すと、マックスに財布を投げつけた。マックスは訳が分からなくなって、財布とロベルトを交互に見比べた。
「警察には黙っておいてやる。今度こんなことをしたら、この店に二度と出入りできないぞ」
 男が背に低いロベルトを見おろすと、ロベルトは顔を青ざめさせながら、店を走り出ていった。男が、鮮やかな手つきでナイフをしまい、カウンターの向こうで胸を撫で下ろしているバーテンにナイフを放った。
「すまない」
 バーテンがそう言うと、男が肩を少し竦めたのが分かった。どうやら男は、この店の顔らしい。
「・・・大丈夫か?」
 男が、マックスに声を掛けてくる。マックスは、その声を聞いた途端身体の力が抜けてその場に腰をついた。
「おい」
 男が、マックスの肩に手を置く。その温かさを感じた途端、マックスは酷い吐き気を感じてうめき声を上げた。両手で口元を被う。
「くそ」
 バーテンが悪態をついた。
 「氷と布巾を持ってきてくれ」そう言う黒尽くめの男にマックスは身体を抱え起こされ、店の奥のトイレに連れて行かれた。便器についた途端、マックスは胃の中のものを勢いよく吐き出した。もっとも、ろくに食事も取らず飲み続けていたのだから、出てくるのは液体ばかりである。マックスが吐いている間、黒尽くめの男が布巾に包んだ氷をマックスの首筋にずっと当てていてくれたお陰で、吐ききった後のマックスは大分気分が楽になっていた。
「丁度シャツを脱いでいてよかったな」
 男が、紙のナプキンを差し出してくる。マックスは、だるそうな手つきでそれを受け取ると、口から胸元にかけてついた汚れを拭った。
「・・・疲れた・・・」
 そう呟いてその場に蹲ろうとするマックスは、再び男に抱えられた。マックスはボックス席に座らされ、今し方脱ぎ捨てたシャツを着せられた。
 久しぶりに身近に人の体温を感じて、マックスはその腕の中に顔を埋めた。人の温もりが無性に恋しかった。ミルズ老人の言った言葉が脳裏に何度も何度もこだまする。マックスは、急激に自分が愛情を受けたことのない世界一寂しい人間のような気がして、涙混じりの嗚咽をこぼした。
「おい・・・」
 男の膝に頭を埋めながらしゃくりあげるように泣くマックスに、男の戸惑った声が聞こえてきた。マックスは、男の困り果てた声に気を回すこともできず、久しぶりに唱える祈りの言葉を何度も何度も繰り返していた。
「神様・・・。どうか、お救いください。私は犯してはならない罪を犯しました。私のたった一つの過ちで、ミルズ親子の幸せを永久に葬り去ってしまいました。ああ、神様。私は医者でありながら、立派な人殺しです。あの少女の輝ける未来を、私のこの手が奪い去りました・・・」
 男の手が、マックスの汗で汚れた黄金色の髪に触れる。マックスは、柔らかく髪を撫でられ、やがて安心したように寝息を立て始めた。泣き疲れた顔をして、「くしゃん」と鼻を鳴らす。次の瞬間、温かな感触がマックスを被い包んだ。その後、男がマックスの頭を支えながら、そっと立ち上がったのがぼんやりと分かった。
「ヘイ。コートは持って帰った方がいい。また吐かれたらことだ」
「コートはどうなってもいいさ。ローレンス、よかったらこの坊やを目が覚めるまでここに置いておいてくれるか」
「ああ、それはいいが・・・」
「こんなお面相の男をこんな状態のまま物騒な道端に放るわけにはいかないだろう。他の奴にレイプされたり、殺されるとも限らん。・・・この坊やは、この街の道端にねっ転がるには少々汚れなさ過ぎる。この街の住人は、天使を見るやいなや、片っ端から焼き討ちにかけるような連中ばかりだからな」
 バーテンの笑う声が遠くにこだまする・・・。

 

Amazing grace act.03 end.

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編集後記

皆さんのありがたい感想のお陰で、どうやら更新を続けても国沢の「ひとり相撲」にならずに済みそうです。ありがとう!マックスはいわゆるお坊ちゃん育ちで、イマイチなよっちかったりするんですけど、その彼が精神的に強くなっていくところをうまく書けたらいいな・・・と思ってます。まぁ、ウォレスはねぇ・・・。おっさんですからねぇ・・・。酸いも甘いも、もうとっくに経験して(笑)。(なんのこっちゃ)。ウォレスのビジュアルモデルは、はっきりいって、今よりもうちょっと若い頃のガブリエル・バーン様です。だから愛情もひとしおです(酷い!)。マックスはねぇ・・・、以前はレイフ・ファインズじゃ!と騒いでいたんですけど、彼ももう年齢が合わなくなって。しかも、レイフは青い目だしね。今は特に思い浮かべてません。・・・・なんだか、洋画ファンの方でないと分かんない話でしたね。参考までに、上記二人の俳優さんの出た映画を書いときます。レンタル屋に行かれた際は、ビデオパッケージ等で、ご確認ください。
●ガブリエル・バーン・・・「ミラーズ・クロッシング」「シエスタ」「ユージュアル・サスペクツ」「仮面の男」「エンド・オブ・デイズ」「スティグマータ」
●レイフ・ファインズ・・・「イングリッシュ・ペイシェント」「クイズ・ショウ」「オスカーとルシンダ」「アベンジャーズ」「オネーギンの恋文」
(2007年時点)

[国沢]

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