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nothing to lose title

act.13

 翌朝のハート家の食卓に、レイチェルの姿はなかった。
 マックスがダイニングキッチンに向かうと、朝早いパトリシアは既に朝食を取り終え、食後の紅茶を楽しんでいるところだった。
 マックスは、テーブルの上に置かれてあるCトリビューン紙を手に取った。新聞のトップはもちろん昨日の爆破事件だ。恐らくレイチェルが撮影した写真だろう。事件発生後の混沌とした現場の様子が生々しく映し出されている写真が大きく掲載されている。
「まったく物騒な世の中になったものだわ」
 マックスが新聞を眺めるのを見やってパトリシアが言った。
「それ、読んでしまったらさっさと処分なさいね。爆弾事件なんて、とんでもないわ」
 パトリシアはそう言うと、いそいそとダイニングキッチンを出ていった。娘の写真といえども、彼女にとって爆弾による犯罪は過去の嫌な思い出を呼び起こしてしまうのだろう。
「卵はどうされます?」
 コーヒーをカップに注ぎながらステラにそう訊かれ、マックスは新聞から目を上げた。
「任せるよ」
「じゃぁ、坊ちゃんの好きなハーブ入りのスクランブルエッグにして差し上げますわ」
 昔からハート家に仕える初老の召使いは、何度マックスが言って聞かせても、マックスのことを「坊ちゃん」と呼ぶ。
「元気を出してくださいね」
 手早くセージの葉と卵を混ぜ合わせながら、ステラは言う。
「ご両親のことを思い出されるのも無理はありませんけど、坊ちゃんがふさぎ込んでいると、奥様も心配なさいます。心臓もここのところ余り具合がよろしくないご様子ですから・・・」
「大丈夫だよ、ステラ。元気がない訳ではないんだ」
 ステラが振り返る。その伺うような表情に、マックスは微笑んで見せた。
「本当だよ。叔母さんにもそう言っておいてくれ。少し疲れているだけなんだ。昨日久々に心臓マッサージをしたからね。もう腕がなまっちゃったらしい」
 マックスが戯けた様子で両手を振るのを見て、ステラはようやく安心したらしい。彼女は安心したように頷いて卵をフライパンに落とした。
 先ほどはステラにああ言ったものの、少なからずマックスの気分は沈みがちだった。しかし、厳密に言えば、その理由は爆弾事件のせいではなかった。確かにマックスの両親は、無差別の爆弾テロの犠牲となった。そのことについて考えないことはない。しかし両親の記憶があまりないマックスは、その手の犯罪を憎みこそすれ、パトリシアほどの感情の高まりは感じなかった。マックスにとって両親の記憶は、あまりにも儚すぎる。マックスの気持ちを追いつめていたのはむしろ、今更ながらに思い出されるミルズ老人の言葉だった。
 両親の愛情に恵まれなかった子ども・・・。未だにマックスは、ミルズ老人に真実を伝える勇気はなかった。もしかしたら、一生言えずに終わってしまうかもしれない。いくらミラーズ社でその仕事ぶりを認められたとしても、彼自身の中では以前として負け犬に違いなかった。
 そのことを思う時、必ずマックスはウォレスのことを思い起こした。実は昨夜マックスが一睡もすることができず高ぶった神経の中考えていたことは、その大半がウォレスにことだった。ウォレスのあの意外な一面を見たことが、こんなにも自分に影響を与えているとは思わなかった。
 会社では決して見せない苦しげな表情。頼りなげな笑顔。娘の怪我に動揺し、娘の言葉に傷ついたごく平凡な父親。それでもウォレスは威厳を失わず、かえって自分を励ましてくれた。なんと言うことだろう。あの夜、自分が派手に酔いつぶれてしまったあの夜、介抱をしてくれたのが他でもない彼だったなんて。
 マックスは、地下鉄の窓に映る自分の顔が赤面していることに気が付いた。特別誰に見つめられているということはなかったが、まるでそれをごまかすかのようにマックスは咳払いをした。
 あの夜の記憶は殆どなかったが、ただ自分の髪を優しく撫でてくれた温かい手の感触は生々しく覚えていた。あの温かさに触れ、自分は恥も外聞もなく泣きじゃくったのだ。冷静に考えれば考えるほど、とんでもないことをしでかしてしまったものだと反省してしまう。今思えばあの時から、マックスの心はウォレスの手に鷲掴みにされていたのかもしれない。昨夜突然メアリーと再会したにも関わらず、たいして取り乱すことなく彼女を受け入れることができたのも、きっとウォレスのお陰なのだろうとマックスは思った。


 マックスが、ミラーズ社の回転ドアをくぐり抜けると、突然大きな拍手の渦に包まれた。
 マックスは周囲を見回して拍手される主人公を捜したが、皆の視線がどうやら自分に集中していることに気づき(特に若い女子社員は一様に熱い視線をマックスに送っていた)、マックスは顔を青くした。こんなに騒ぎ立てられることには全く慣れていない。
「何なんだ、これ」
 思わずそう呟いたマックスの耳に、聞き慣れた男の声が飛び込んできた。
「いや~、聞いたよ、聞いた! 昨日はなかなかの活躍だったそうじゃないか」
 警備員のサイズにドンと背中を叩かれ、マックスは胸を詰まらせる。痛みに顔を歪めるマックスなどお構いなしに、サイズは興奮気味にまくし立てた。
「あのミスター・ウォレスのご令嬢の命を助けただなんて、大した男だね、あんた!」
 またもや情報の発信源はこいつなのか・・・。マックスは頭を抱えた。どうせサイズのことだ、また話に尾鰭をつけて話を広めたのだろう。それも、瞬く間に。
「今日はお祝いだな!」
  サイズは意気揚々とそう叫ぶ。 「何で俺がお祝いされなきゃならないんだよ」と、マックスは身体を脱力させた。
「いいかい、俺の職業は医者だ。他の人より救命救急の知識もある。昨日のようなことは特別なことでもなんでもない。こんなに騒ぎ立てられる謂れもないし・・・。第一こんなのは苦手なんだ。人から見られることには慣れてない」
 そう言うマックスに、サイズは思わず隣の受付嬢と顔を見合わせた。サイズは肩を竦める。
「先生、あんた鏡でも見て、もっと自分を理解した方がいいと思うがね。いろんな意味で」
 マックスは怪訝そうな顔つきでサイズを見た。
  「それってどういう・・・」そう言いかけるマックスに、サイズがトントンと2回マックスの肩を指で叩いた。サイズの視線はマックスが今し方潜ったばかりの正面入口ドアに向けられていた。マックスは振り返る。
 あのシックなカシゴラのコートに身を包んだジム・ウォレスがマックスの姿を見つけて立ち止まる。彼にしては遅めの出社が、こんな偶然の出会いを生み出した。
「おはよう、ローズ君」
 サファイアブルーの瞳がマックスだけを見つめていた。マックスは、返事することも忘れて立ちすくんでしまう。
 あのジム・ウォレスが、今初めて自分の名前を呼んでいる・・・。
 それは意外な衝撃を持ってマックスを押し包んだ。
「昨日はすまなかったね。いろいろ世話をかけた」
 ウォレスがそう言っても一向に返事を返す様子がないマックスに、サイズはたまりかねて肘でマックスの脇腹を小突いた。マックスは正気に戻る。
「あっ、え、あの・・・おはようございます」
 その蚊の鳴くような挨拶に、ウォレスは片眉をくいっと引き上げた。
「娘のせいで寝不足にしてしまったかな? よかったら今度、昼食をごちそうしたいのだが、どうかね? 本来なら、ディナーをと言いたいところだが、夜は病院に行かねばならんので」
 サイズがまたもマックスの脇腹を小突く。
「はいっ、あの、いえっ、そのっ」
 変にロボットじみたマックスの返事になっていない返事に、ハハハとウォレスが声を上げて笑う。これにはマックスばかりかサイズや受付嬢達も目を丸くした。ウォレスが笑い声まで出して笑うところは、ミラーズ社の社員の殆どがまず見たことがない。
「どうしたんだ、ローズ君。昨夜の君はもっと堂々としていた。やはり病院の方がまだ君のホームグラウンドなのかな」
 ほぼ同じ高さにある紺碧色の瞳が優しげに細められている。
 なんて瞳の色なんだ・・・。
 マックスは変にアガってしまっていることを感じながら、苦笑を浮かべた。
「すみません、ウォレスさん」
「別に謝らなくてもいい。君の謝り癖は少し気をつけた方がいいな。じゃ、失礼するよ」
 軽く手を振ってウォレスはエレベーターのドアの向こうに消えて行った。
「・・・あのジム・ウォレスが笑ったよ」
 サイズは、妙に実感のこもった声でそう呟いてマックスの横顔を見つめた。マックスはぼんやりとエレベーターのドアを見つめている。
「また固まってる」
 サイズに再度背中を叩かれ、マックスは2、3歩前に足を進めた。振り返ると、仕方がないなという気の抜けた笑顔を浮かべるサイズの顔があった。マックスは少々バツが悪いのを感じながら、今し方ウォレスが消えたエレベーターに乗り込んだ。
 一番奥の壁に凭れながら、エレベーターに乗っている他の社員の目を盗みつつ自分の両手を見下ろす。
 震えていた。カタカタと小刻みに。
 なんで・・・、こんな・・・。
 自分の身体でありながら、自分の身体のようでなかった。


 その日の昼休み、ウォレスは会社を抜け出て例の店に足を運んでいた。
 例の店・・・そう、マックスが酔いつぶれたところをウォレスに介抱されたあの飲み屋である。
 陽はまだ高いので当然店は営業していなかったが、勝手を知っているのだろうか、ウォレスは何の躊躇いもなしに店の裏口に回るとドアを2回ノックした。やがてのぞき窓が開き、すぐにドアが開く。
 ウォレスを出迎えたのはあの初老の哲学者のような顔つきをしたバーテンダーではなく、身長も格幅もいい鼻の大きな大男だった。その鼻先が少々赤らんでいるのはウイスキーの飲み過ぎのせいだろう。
「アレクシス!!」
 男は豪快に笑い声を立てると、ウォレスを抱きしめ背中を荒っぽく2、3回叩いた。
 ウォレスは顔を露骨にしかめ、男の腕を払う。
「その名前で呼ぶのはやめてくれと何度も言ってるのに」
 ウォレスは、狭い廊下を通り抜けながらコートを脱いだ。男は、ウォレスに小言を言われながらも陽気な表情を変えることなく「すまん、すまん、ついな」とウォレスの後を付いてくる。
 ウォレスはコートをいつも座る店の一番奥の席に置くと、カウンターに腰掛けた。
 開店前の店内は当たり前のようだがガランとしており、小さな窓から入ってくる光も僅かだから、こんな風に電気もつけていないと昼間でも薄暗い。しかし、カウンターの中の椅子に腰掛けながら煙草を吹かすバーテンの様子を見る限り、電気はわざとつけていないらしい。
 大柄の陽気な男がウォレスの隣に座ると、ウォレスは大男が今し方空にした筈のグラスに新たな琥珀色の液体を注いだ。
「この間はすまなかったな、ヴィンセント。大分無理をさせたようだ」
 ヴィンセントと呼ばれた大男は、注がれたばかりのウイスキーを一気に飲み干した。しかしそれが少しも堪えていないような様子で再び大きな笑い声を立てる。
「おかげさまでこっちも大儲けさせてもらったさ。お前の読みは外れたことがないからな」
 どうやらヴィンセントは、先頃のミラーズ社に関わる株取引で便乗したらしい。決して表舞台に立つことのないこの男には、たまのこんな大きな臨時収入は大歓迎なのだろう。
 昔からの友の相変わらずの豪傑ぶりに、ウォレスも顔を少し綻ばせる。そのウォレスの前に、バーテンが新聞を投げ置いた。ウォレスは頬の痩せたそのバーテンに目をやり、ゆっくりと新聞に目を落とす。新聞は、外国・・・イギリスの大衆紙だった。
「3ページだ」
 初老のバーテン・・・ローレンスにそう言われ、ウォレスはページをめくる。
 季節外れのホラー話として、少々大げさに取り上げられている記事が目に付いた。なぜなら、苦々しい思い出と共にウォレスの心に刻まれた名前が、記事についた話題の墓に刻まれていたからだ。
「ジェイク・ニールソン。よりにもよって、その男の墓だとはな」
 驚愕のあまり声も出せずにいるウォレスに変わって、ローレンスが淡々とした口調で言った。
 ウォレスは、その深い紺碧の色を浮かべる瞳をローレンスに向けた。
「・・・これは・・・、本当に・・・」
「生き返ってる訳がないだろう!!」
 ローレンスの代わりにヴィンセントが声を張り上げた。
「タチの悪い冗談に決まってるさ。ニールソンがムショの中でくたばったのは確かな話だ。墓荒らしか何かじゃないのか? 島にはニールソンのシンパグループの残党がまだ残ってる」
「だが、俺の耳にはそんな動きは入ってきていない」
 ローレンスが落ちついた声でそう言った。
「奴等はニールソンの性格同様やることが荒っぽい。本人達がいくら上手に何かの計画を進めようとしても、必ず尻尾を残す。リーダーの片腕だった若き参謀が行方不明になって以来・・・な」
 ローレンスは椅子から身体を起こすと、ウォレスの傍らにある灰皿に煙草を押しつけた。ウォレスは、その指先をぼんやりと見つめた。
「気になることはもうひとつある」
 耳元でローレンスの声がして、ウォレスは顔を上げた。目の前に、思慮深い北海の煤けた海の色のような瞳の色をしたローレンスの顔があった。ウォレスは、大きくひとつ深呼吸すると、ゆっくりと瞬きをして目を伏せた。
「トレント橋の爆弾事件か」
「判ってるじゃないか」
 ローレンスが再びカウンター内の椅子に腰掛ける。
「俺の知り合いの警察関係者に聞いたところ、モノ自体は小さくてちゃちなものだったらしいが、その爆弾に使われていた配線回路の作り方が些か気にいらん。勿論、破片しか残ってないからはっきりとは判らんが、俺達には馴染みの配線板が浮かぶ」
「おいおい、そりゃ俺も聞いてない話だぞ。それが本当だとしたら、ちょっと生きた心地がしねぇよなぁ」
 流石のヴィンセントもこの話にはふざけてはおれないらしい、意外につぶらなブラウンの瞳でローレンスとウォレスを見比べながら、グラスに注がれた残りのウイスキーを飲み干す。
「奴が万が一生きていたとしても国外に出られる可能性は少ない。しかし何せ嫌な因子がこうも重なっては気味が悪いことは確かだ。ニールソンが生きていたとして、俺達はまだ蚊帳の外を決め込むこともできるだろうが、ウォレス、お前はそうは行かない。そうだろ?」
 ローレンスが腕組みをしてウォレスを見つめる。ウォレスは憂いを帯びた美しい横顔をローレンスに向けたまま、ヴィンセントのグラスを取り、ウイスキーを注いだ。一気にそれを煽る。本人は平成を装っているようだが、ローレンスには彼がいつも以上に苛立っているのが手に取るように判った。
「無理はするな、ジム。お前は今まで通り、ベルナルト・ミラーズの下で慎み深くしていることだ。間違ってもこの件に首を突っ込むな。あの事件を自分のせいだと思い詰めるな。お前はもう充分罪を償っている。俺達だって、お前の辛い顔は見ていたくない」
「しかし、ローレンス・・・」
 そう切り出したウォレスを見つめ、ローレンスは首を横に振った。
「ダメだ。シンシアの件も、俺達が調べをつける。お前は動くなと前も言ったろう。お前がもし、奴等に生きていると知られたら、命はないぞ」
 ウォレスは、拳をギュッと握りしめた。

 

Amazing grace act.13 end.

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編集後記

なんか20代も後半の男が、どぎまぎしている姿って、なんなんでしょうね? 本当にウブな男です、マックス坊やは。(坊やといっても、限りなく国沢と年が近いのですが) 可愛いですか、マックス君? 恋する乙女型ヒロインですからねぇ、彼は。でもガタイはかなりいい。基本的にスポーツマンだから。
うっは~!ホント、こんな奴、世の中にいたら、マジに天然記念物かも。
金髪+グリーンアイズ+美形+長身+白衣+純朴+勝気+恋する乙女キャラ。スーパーミラクルなヒロインですね、間違いなく(汗)。自分で生み出しておいて恐ろしいです。はい(たら~り・・・)。

[国沢]

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