act.68
月曜の朝、ミラーズ社の中はいつにもまして慌しい様子であった。
足掛け二年間準備を進めていたケイゼル社との契約日がいよいよやってきたのだ。
ケイゼル社は、運送業から大型量販店、果ては地方テレビ局の筆頭株主という顔も持つ大規模な総合商社だった。互いに対等な立場で協力体制を組むというこの契約は、両社共に多大な利益を齎すものと業界でも話題で持ちきりだった。
ケイゼル社は、世界的にメジャーなスポーツ企業との提供により、今まで大衆向けといった垢抜けないイメージを一新し、企業の生まれ変わりを目論んでいた。もちろん、ミラーズ社の全商品を直接的に扱えるメリットもある。そして彼らは、ミラーズ社の広報戦略に深く関わることによって、マスメディアの業界で更に躍進をしようと燃えていた。
一方ミラーズ社としては、大型量販店の販路を一気に拡大することに加え、全米を網羅する運輸システム、マスメディアに対する積極的な広報活動に更に動きを加えることができることが何よりも魅力的だった。
本日のこの契約が無事済んだとしたら、全米経済界を揺り動かすような大きな騒ぎになることは間違いなかった。
一見すると、出社してくる社員の様子はいつもと変らなかったが、ミラーズ社周辺にはいつもにもましての緊迫感で包まれていた。
前日の夕刻に起きた第三の爆弾事件が、その緊張に拍車をかけていた。
警察による記者会見では、正式にこれまでの爆弾事件との関連を指摘する発言はなかった。だが、ミラーズ社の内部や周辺を警備している規模が、月曜になって倍に増やされたのを目の当たりして、社員達は今回の爆弾事件も、きっと関連があることなのだと悟った。
ミラーズ社副社長のビル・スミスは、契約の取り交わしを当初ミラーズ社で執り行うように計画していたが、急遽契約の場をケイゼル社の方に移すことにした。本位ではなかったが、今のこの状況を考えると、ベルナルド・ミラーズはおろか、ケイゼル社の幹部陣達を危険に晒すことはできないとの判断だった。また本社が狙われるということは、ありえない話だとしても。
そのため、その日のミラーズ社はいつにもまして慌しい朝となった。
秘書室のエリザベス・カーターは、ケイゼル社のあるセントルイスまでのチャーター機を手配せねばならなかったし、企画管理部の連中は、契約に関するファイルや書類の束を荷物に纏めるのに大忙しだった。
ビル・スミスを始め上層部の人間は、急な変更に伴うケイゼル社との調整に奔走した。
ウォレスも例外ではない。ともすれば出発前に姿を消してしまいそうなベルナルドを捕まえつつ、先方の社長秘書とスケジュールの確認作業に時間を費やした。
とにかく、11時には空港に向って出発しなければならない。それまでに全ての段取りをほぼ詰めておかねばならないのだから、それまでが勝負だった。例え、頭の片隅で、マックスのことを気にかけながらも。
結局昨日遊園地の外で分かれてから、連絡を取り合うことはできなかった。
どうやら昨夜、マックスは自宅の方に帰らなかったようだ。従姉の側について夜を明かしたのだろう。レイチェルの顔を知らないではないウォレスも、気がかりだった。よりにもよって、彼女の同僚が爆弾の犠牲になるだなんて。彼女の周辺の動揺は如何ばかりかと思う。記者が標的にされるだなんて。
今日、マックスは会社に出社できているのだろうか・・・。
スケジュール表に書き込みきれないほどペンを走らせながら、ウォレスはふいに感じた不安に憂いの表情を浮かべた。
丁度その頃、マックスは医務室の中にある洗面台で不精髭を剃っているところだった。
その顔には疲れが色濃く浮かび、寝不足のせいか、瞳は赤く充血していた。
昨日の普段着の恰好のまま出社したマックスを、ロビーにいつもいる警備員のサイズは見逃さなかった。
だが、マックスが昨日起きた爆弾事件のせいで従姉にずっと付き添い、家に帰れなかったことを知ると、同情の声をかけた。
マックスは、許せない犯罪が再び起こったことに、深い怒りと憤りを感じていた。
今でもこの手に生々しく、先ごろの事件で犠牲になった男の熔けた皮膚の感触が残っている。ゾッとした。
マックスは、顔を洗って深い深い溜息をつくと、タオルで顔を拭いながら白衣を手に取った。
幸い今日はミラーズ社の一番忙しい一日であるために、かえって医務室は静かだった。カジュアルスーツといういでたちでも、白衣を羽織ってさえいれば何とかなりそうだ。
デスクの椅子に座って、しばらくぼんやりとしてしまう。
ケヴィンと彼の妻の葬儀がいつになるかも予定が立っていない。
レイチェルほどではないが、マックスもケヴィンのことはよく知っていた。低血糖症のケヴィンに日常生活についてのアドバイスもマックスがしていた。レイチェルと付き合っていた頃マックスにもよく気を使ってくれて、よく3人でバスケットボールのリーグ戦を見に行ったものだ。あの頃が酷く懐かしい。
警察からの連絡によると、ケヴィンと妻の遺体は司法解剖に回されているところだった。といっても、遺体と呼べるほどのものがあるのかどうかも定かではない。警察からの連絡では、言葉を濁していたらしいのだが、容易に想像できた。
ケヴィンの田舎から、彼の両親が車でこちらに向っているそうだが、例え彼らが警察に辿り着いたとしても、身元の確認などできはしないだろう。
マックスの両親も、そうであったらしいと聞いている。
マックスはあまりに幼すぎて、両親の遺体に対面した記憶はまったくない。 あの夜、自分をベビーシッターに任せて、久しぶりのデートに出て行った両親は、街角の高級レストランで爆弾事件の被害にあった。
当時は、街のいたるところでそんな騒ぎが頻発していた。
記念すべき結婚記念日に、マックスの父が母のために奮発して予約したレストランは、政府の要人がよく利用するレストランとして有名だった。だから標的にされたのだ。
事件後、マックスはすぐにアメリカの叔母のところに引き取られたので、母国で起こる日常の中の戦争は、対岸の火事のように感じた。だが間違いなく自分も、その『火事』の被害者であるのだ。そして今、その戦争から逃れてきたこの大陸で、新たな戦争に遭遇している。とても個人的で醜い感情の渦巻いた小さな戦争・・・。
心が痛んだ。
世の中に、どうしてこれほどまでの惨い感情というものが存在しているのだろう。 人は誰でも、どんな人であっても穏やかに死を迎える権利があるというのに・・・。
救命救急室に勤めていた頃、いやというほど、暴力に満ちた死を目の当たりにしてきた。その度に深い憤りを感じた。医者は死に慣れていくとよく言うが、暴力的な死に関しては、いつの時も感情を深く揺さぶられる。そしていつも、救うことにできなかった命を悔やむ。どんな医者だってそうだ。
医者・・・医者か。
マックスは椅子を回して中庭に目を向けた。
春を感じさせる穏やかな日差しが、芽吹き始ようとしている木々に降り注いでいる。
ガラスに白衣に身を包んだ自分の姿がかすかに映り込んでいた。
自分は医者として、向き合わねばならないことがある。
昨夜、レイチェルに付き添っていて余計にそう思った。
大切な人を失う痛み。そしてそこに隠されている真実を知る権利。
レイチェルや新聞社の人たちが、ケヴィン・ドースンの死の真相を追い求めようとする姿勢は、ミルズ老人にも当てはまるに違いないのだ。
ケヴィンの葬儀が終わったら、今度こそミルズ老人に会いに行こう。
そして真実をこの口から伝えるのだ。
決して逃げることなく、本当のことを、自分自身の言葉で。
ふいに医務室のドアがノックされた。
ケイゼル社との契約準備のせいで、企画管理部の連中の誰かがぶっ倒れでもしたのかな、と思いながらドアを開ける。
「・・・やぁ」
躊躇いがちにそう言ったのは、ウォレスだった。
「ジム! 今、忙しいんじゃないんですか?」
マックスは驚きながらドアを大きく開ける。ウォレスは表情を曇らせながら医務室に入ってドアを閉めた。
「どうやら昨夜は大変だったらしいな」
マックスの顔色を見て、ウォレスは心配げにマックスの頬に手を当てた。マックスは目を閉じながら、ウォレスの手の温かさにほっと息をつく。
「今日は出社しても大丈夫だったのかい? レイチェルは?」
2人でソファーに腰掛ける。
「レイチェルは大丈夫です。もっと荒れてるかと思ったけど、意外に冷静で。というよりは、癇癪を通り越して冷静に見えるといった方がいいかもしれませんが。けれど、会社に行けと言ってくれたのは彼女なんです。自分を慰めるために会社を休むものじゃないと。新聞社にはレイチェルの同僚もたくさんいるし、大丈夫だから、と」
「そうか・・・。それで、事件の方は」
マックスは苦笑いした。物悲しい笑みだった。
「大した情報は新聞社に入ってきていません。被害者が同じ会社の人間だとしても、警察は編集部の人たちを同僚としては見てくれない。他のマスコミ連中と同等として扱われているんです。警察の方も、神経質になっているんでしょう。事件の捜査は、まったく進展していないようですから」
マックスは、顔を右手で覆った。
「被害者のケヴィンとは親しかったんです、俺も。知らない仲じゃなかった。彼は多少強引なところもあったけれど、こんな死に方をするべき人じゃなかったのに・・・」
肩で大きく息をする。人間の身体には『心』という器官はないのに、こんなにも心が痛む・・・。
ふいにそっとウォレスに抱きしめられた。
ウォレスの身体の温かさが心に染みた。
マックスは、ソファーから立ち上がり、ウォレスの腕を取ると、窓から見えない診療台のカーテンを引いてウォレスの唇を奪った。
羽根が触れるようなキスは、やがて深く溶けるようなキスへと変った。
ウォレスの両頬を手で包み、額を彼の額に押し付ける。
「許されるのなら、ずっとあなたの側にいたい・・・。愛する人を失う悲しみなんて、とても想像ができない。たまらなく、不安なんです・・・」
「マックス・・・」
ウォレスの手が、優しくマックスの髪を撫でる。
「本当なら、この場であなたを抱きたい。・・・契約調印式を控えてるあなただから無理だろうけど」
マックスはちらりと壁掛け時計に目をやった。二人で時間を確認して、互いに苦笑する。
丁度タイミングとばかりに、ウォレスのスーツの懐から携帯電話のベルが鳴った。
「すまない」
ウォレスはマックスから離れて、電話に出る。
「・・・はい。・・・ああ。もちろん。社内にいる。ああ。分かった。すぐ行く」
電話から洩れてくる声は、副社長のビル・スミスのものだった。
電話を切ったウォレスが、申し訳なさそうに振り返る。マックスは微笑んだ。
「予定が変って、ミズーリ州まで飛ぶんでしょう? サイズに聞きました。どうせ俺の様子が気に掛かって抜けてきたんですね。ダメですよ、忙しいのに」
「すまん」
ウォレスは少し俯く。そんなウォレスに、マックスは更に微笑んだ。
「でも嬉しいです。そんなあなたの心遣いが」
マックスは、ウォレスの少し乱れたスーツを調えた。
「さぁ、もう行ってください。今日は大事な日です。この契約で、ミラーズ社の将来が変る。そう言っていたのは、あなただ」
「・・・そうだな。じゃ、行ってくる」
マックスは頷いた。
「帰りはいつ?」
出入り口のドアに向いながら、マックスは訊いた。
「明日の午前中になる。契約調印の後、夜は記念パーティーがある予定だ。ベルナルドについてないと、羽目を外しすぎたら困るから」
マックスは肩を竦める。
「社長が待ちに待っていた日です。多少箍が外れるのも仕方がないでしょう」
マックスはドアを開けて、ウォレスを見送る。
「行ってらっしゃい! どうか気をつけて」
マックスの声に、ウォレスは振り返って小さく手を振ったのだった。
Amazing grace act.68 end.
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編集後記
皆様、こんばんは。
いかがお過ごしですか? 国沢はといえば、大分復活してきました(汗)。内臓の調子が良くなるとともに、腹巻ともおさらばです。
ま、そんな陰気な話はおいといて、今週のアメグレ、いかがだったでしょうか。会社でいちゃつく二人です(大汗)。いやいや、まったく、甘くてすみません(赤)。
絶対、こいつら、会社でもばれてそうだよなぁ。はっきりとは噂にならないだろうけど、笑い話のネタぐらいにはなってそうです。レストランでも、マックスはっきり言っちゃったし。社長にはカミングアウトしちゃったし。
女子社員も気がそぞろですよねぇ。ミラーズ社のパウダールームとかって、覗くと面白そうです。
[国沢]
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