act.04
ジェイコブ・マローンは、C・トリビューン紙の配送センターに勤める男だった。
勤務態度は極めて真面目で、主に、刷られたばかりの新聞を各配送トラックに荷詰めするための仕訳作業に携わっていた。誰もが、ただ金を貰うだけの仕事と割り切って行っているような単純作業でも、マローンはその仕事に誇りを持っていた。マローンにとってこの仕事は、他の連中とは違い、趣味と実益を兼ねたものだったからである。
マローンの趣味は、新聞を集めることだった。
年老いた母親と2人暮らしのアパートメントには、市立の図書館にも負けないほどのコレクションが、クローゼットの中に山積みになっている。しかも、家の中に収まりがつかなくなった分については、近くの貸倉庫に保管してある。マローンの自慢は、自分が生まれた日の世界中の新聞がコレクションされているということと、各社がたまに出す号外をたくさん集めているという点だ。特に、地元のC・トリビューン紙の号外については、ここ20年近くのものが全て保管してある。マローンのこの趣味については社内でも有名で、皆がおもしろがってマローンを囃し立てたが、新聞があれば幸せなマローンは、特に気にかけることもなかった。自分の趣味を公言することは、悪い影響があるばかりではない。現にゲラ刷り段階でおしゃかになった珍しい紙面が希に手には入ることがある。
今回のミラーズ社に関する記事のゲラ刷りは、久々のゲラ刷り切りの記事であり、マローンを有頂天にさせた。「ミラーズ社の影の支配者」だなんて陳腐なタイトルがついてはいたものの(ケヴィン・ドースンは、いい記事を書く記者だったが、いつも見出しの付け方が残念だった)、記事内容のミステリアスさや、臨場感のある映画の一場面のような写真は、マローンの所有欲を満たすに十分だった。
マローンは、仕事帰りに寄ったいつものパブのカウンターで、帰りがけに貰ったゲラ刷りを広げた。社外に公表できない記事だから、人の目には触れさせるなというのが条件だったが、マローンは我慢できなかった。
写真の男は、マフィアの幹部かさもなくば国防省の優秀なアナリストに見える。
マローンは、目を瞑っていつものように空想の世界に浸った。
写真の男が、革張りのソファーで葉巻をくわえている。服は、依然マローンが何度も劇場で見た『アンタッチャブル』のケヴィン・コスナーが着ていたような洋服だ。あの有名な何とかとかいう男のデザイナーがデザインした、上品で男らしくロマンテックな洋服。マローンはアンディ・ガルシアが着ていた服を着て、栗色の皮の手袋を填めている。マローンはソファーの傍らに立ち、男が自分に話しかけるのを待っていた。マローンは射撃の名手であり、ナイフ使いの達人である。そしてまた、爆弾作りのプロでもあった。男はその腕を買ってマローンを雇っている。男はマフィアの大ボスの腹心で(もちろんそのマフィアの大ボスは、ゴッドファザーに出てくるマーロン・ブランドのような男だ)、先日起きた抗争事件の報復処置について考えを巡らしている。
ふいにドアがノックされた。「誰だ」と、男が声を出す。重厚な声だ。揺るぎない自信が漲っている。
ドアが開いて、真っ赤なドレスを着た女が入ってきた。明るいブロンドの髪を上手に纏め上げ、真っ赤なルージュを引いた女。女は背が高く端正な顔をしており、大きな緑色の瞳が印象的だった。
「食事の時間よ。迎えの車が来ているわ」
女がそう言って、男の座っているソファーの上の部分に腰掛けた。女が屈んで男にキスをしようとしたが、男は腹立たしげに女の腕を振りきった。
「よせ。出て行け。俺は今、ジェイコブと話している。大事な話だ。邪魔をするな」
男は、厚い信頼と親しみを込めて、マローンをファーストネームで呼ぶ。大勢いる部下の中でも、男にファーストネームで呼ばれるのは、マローンだけだ。
女が、挑むような目つきでマローンを見た。マローンは、笑みを浮かべて肩を竦めて見せた。そうやって「あっ」とマローンは思い直す。
マローンはストイックな殺し屋だ。決して戯けた仕草など見せない。もう一度やり直しだ。
女が、挑むような目つきでマローンを見た。マローンは、冷たい笑みを口の端に浮かべただけですぐに無表情になると、女を冷たく見つめた。
「車を待たせて置くわけにはいかないわ。レストランではドン・コルレオーネがお待ちなのよ」
女が言う。男は、女の言いぐさをフッと鼻で笑って、葉巻をふかした。高い鼻が、男の頬に濃い影を作っていた。
「じたばたするな。親父には言わなくても分かってくれる。女には分からない、男だけの世界があるのさ。行くならお前一人で行くがいい。俺は、ジェイコブと話してから行く」
「私より、この男の方が大切だっていうの?」
「ローズ、お前は少しも分かってない。そんな言いぐさは女しかしないものさ。男の問題に立ち入るんじゃない。とっとと出て行け!」
男が声を荒げた。男は日頃あまり怒鳴ったりしない。男は、本当は無口なのだ。女は、流石に怯えた表情を見せ、部屋を出て行った。男が、葉巻を銜え直す。マローンを見て、ニヒルな笑みを浮かべた。
「・・・女とは、愚かな生き物だ」
マローンも、男と同じような笑みを浮かべた。
「俺のことを分かってくれるのは、お前だけだジェイコブ。他の奴はクズも同然。お前は、頭がいい」
「ありがとうございます」
落ちついた声でマローンが答えると、男は満足そうに2、3度頷いた。
「ジェイコブ。お前だからこそ頼めることがある」
男が立ち上がってマローンに近づいた。マローンは、この心地よい緊張感を楽しんでいた。
男は、自分に何を頼むのだろう。マローンにしかできない、重要な仕事だ。
男が、マローンの肩を掴む。真っ黒い大きな瞳が、思慮深い光を浮かべてマローンを見つめていた。
「実はな、ジェイコブ・・・・」
「ヘイ、マローン!」
肩を勢いよく小突かれ、マローンはハッとした。横を見ると、能なしのロブが酒臭い息を自分に吹きかけていた。
「なんだ。また珍しい新聞貰ってきたのか」
マローンは、あからさまに不快そうな顔つきをして見せたが、気分よく酔っているロブがそのことに気づくはずもなかった。
ロブはいい奴だったが、どんないい奴でも、マローンの空想を途中で邪魔する奴は許せなかった。マローンは、大切なゲラ刷りを懐にしまって、「まぁな」と曖昧な答えを返し、ぬるくなったビールを口に含んだ。
「おい、マローン。新しい友達を紹介してやるよ。ベンだ」
マローンがゆるゆると顔を起こすと、巨漢のロブの向こうに見慣れない顔があった。不健康そうな顔色をした、岩のような顔つきの男だ。薄い色の金髪と、ギョロリとした大きな目が印象的だった。男は40をとっくに越えた風格があり、ロブの友達にしては落ちつきのある威厳深い雰囲気を漂わせたていた。
マローンは、一瞬ゲラ刷りの写真を見た。顔はまるっきり別人だったが、何となく写真の男と似た空気を感じて、マローンは男に向かって身体を向けた。
「初めまして、ベン」
マローンが手を出すと、男は少し笑ってマローンの手を握り返してきた。ゴツゴツとした手だ。
「やぁ、よろしく、マローン」
ベンは、酷く訛りのある英語を話した。これはどこの訛りだろう・・・。マローンは思いを巡らせたが、思いつかなかった。
「マローンは、新聞コレクターだ。ベン、あんたはこの国に来たばっかりで、ここ最近世の中がどうなってるか知りたいって言ってただろ? 俺はあんまり学がないし、上手く説明できないから、マローンに新聞を見せてもらうといい」
ロブがマローンの肩を叩く。その痛さに、マローンは顔をしかめた。
「よせよ、ロブ」
「いいじゃないか、見せてやれよ」
「だって、毎日家に来られたら、困るよ。家にはお袋もいるし、知らない人を入れちゃいけないってお袋には言われてるんだ」
「何情けないこと言ってるんだ。何もお前の新聞を取って食う訳じゃないよ。ベンは新聞を読むだけだ。ただそれだけのことさ。ベンは困ってる。助けてやれよ」
ロブがウインクしながら、カウンターの下でマローンにだけ見えるように金を表す指サインを作った。どうやら金を掴まされたらしい。マローンは溜息をつきながら、ベンを見やった。
「俺からもお願いするよ。ある事情があって、外界の情報が伝わりにくいところにいたんだ。君は映画好きだと聞いた。特に、銃の密造や爆弾の製造とかが取り上げられた映画が好きだってね。ひょんなことに、俺は爆弾についてはちょっと詳しい。爆弾についての秘密を知っている。そのことを君に特別に教えてやってもいい。どうだね?」
マローンはドキドキしながら男の言うことを聞いていた。
何と言うことだ。
ひょっとしたらマローンは、本当に爆弾の名手になれるかもしれない。あの写真の男の期待に添えるかもしれない。
そのことを思い浮かべるだけで、マローンの心は高鳴った。
マックス・ローズの叔母、パトリシア・ハートの家は、街の中心地まで車で15分とかからない交通の便のいい住宅地にあった。それも、高級な部類に入る住宅地である。
パトリシアは既に未亡人で、夫が残した財産を器用に運用させて日々の生活費を稼いでいた。彼女には、元々夫以上に財テクの才能があったらしい。今では、夫が築いた資産を逆に増やしているほどだ。
C市の一般的な市民が新しい朝を迎えて出勤準備に勤しんでいる頃、マックス・ローズは力のない足どりでパトリシアの2階建ての家を訪れていた。いや、その表現は正しくない。病院を辞めて、依然住んでいた病院所有のマンションを引き払って以来ここに居候しているのだから、帰って来たと言った方が正しいだろう。
パトリシア・ハートの家は、こぢんまりとした建物であったが、小さなひとつひとつの調度品やディテールが全てこだわりの品々で揃えられており、パトリシアは先に亡くなった夫よりこの家をこよなく愛していた。パトリシアの雇ったメイドは、毎日2度、家中の廊下を雑巾掛けする。
マックスは、そっと玄関のドアを開け、すぐ横の階段を上がろうとしたが、「マックス、こちらに来て朝御飯を食べなさい」というパトリシアの声に、足を竦ませた。マックスは、恐る恐る廊下の奥の開いたドアを見やる。「早くなさい」とパトリシアの声が聞こえ、マックスは観念したように溜息をつき、奥のダイニングキッチンに向かった。
「おはよう。叔母さん」
「おはよう。マックス」
メイドによって完璧に整えられたテーブルの上には、カリカリに焼いたベーコンと目玉焼きにトマト。それにバターがたっぷり塗られたパンケーキとプレーンヨーグルト。生のオレンジを絞ったジュースに紅茶が添えられてあった。ご丁寧に、マックスの分まで用意されてある。
「昨夜はよく眠れたの?」
パトリシアが、嫌みたっぷりにマックスを見る。マックスは、「あー」と言葉を濁した。とてもじゃないけれど、酒屋で夜を明かしたとは言えない。おまけに、昨夜のことはあまりよく覚えていないとも。
「ハイ、ハンサムさん。無精髭なんて生やしてどうしたの」
背後から明朗活発な声が聞こえ、マックスの背中が勢いよく叩かれる。マックスは低く呻いて、後ろから入ってきた小柄の女性を恨めしそうに見た。
「いい仕立てのコートね。あんた、服の趣味変わったの?」
きびきびとした動きで席につく彼女は、マックスと4つ違いの従姉妹である。だが、実際は姉弟のように育ってきた。
「これは借り物だよ、レイチェル。俺のじゃない」
コートを脱ぎながらマックスがそう言う。メイドのステラが、マックスのコートを受け取ってハンガーに掛けてくれた。「ありがとう」とマックスはステラにそう言ってから、キッチンで手を洗ってレイチェルの向かいに腰掛けた。
「道理であんたにしては趣味がよすぎると思った」
キャリアウーマンを地で行くこの従姉妹は、今も昔も変わらず毒舌だ。マックスは苦笑いする。
「レイチェル、あなた、食べる前に手を洗ったの?」
平然とした顔でいきなり食卓につきフォークを手に取るレイチェルに、パトリシアが眉を顰めて訊く。レイチェルは、平然とした顔でトマトを口に放り込みながら答えた。
「いいのよ。さっきトイレで洗ったから」
マックスは、パトリシアに気づかれないようにして笑った。パトリシアは、予想通りに顔をしかめて見せた。
「なんであなたはいつもそうなの? それだからお嫁にもいけないのよ。私がいつも言ってるでしょ?」
「結婚こそが、女の幸せ」
随分昔からの決まり文句なのか、最後の言葉はパトリシアとレイチェルの合唱になった。パトリシアがびっくりして口を噤む。レイチェルは、そしらぬ顔をして、ベーコンを頬張りながら悪態をついた。
「マンネリなのよ。結婚なんて、クソ食らえだわ」
今度こそ、笑いが堪えきれなくなって、マックスはとうとう吹き出した。
「マックス!」
パトリシアが、バカ笑いするマックスを諌めた。マックスは、「いやいや、ごめんごめん」と言いながら腹を抱える。
「まったく、この家の子はどうしていつもこうなの? 片や一生結婚しないなんて言い張るし、片やある日突然仕事を辞めて来るし。寿命が縮まる思いよ」
パトリシアはひとつ溜息をつくと、紅茶を啜った。
「ところで、マックス。あんたこれからどうするつもり? 仕事探さなきゃいけないんでしょ。手伝ってあげるわよ。何てったって新聞社勤務だもの。求人情報も早いわよ」
レイチェルは母の嘆きをまったく相手にせず、マックスに訊いてくる。マックスは、オレンジジュースに口を付けながら(正直言って2日酔いのためほとんど食欲がなかった)、小首を傾げて見せた。
「それはありがたいな。でも、ほどほどでいいよ。コネを使って就職なんてしたくないし、自分のできることをゆっくり考えたいし。蓄えも少しあるから、近々部屋も探すよ。いつまで経っても居候じゃなんだし」
「あら、マックス。あなたまた出て行くつもり? いいじゃないの。部屋は余ってるんだし、ここに住めば」
パトリシアが本当に悲しそうな顔をする。彼女は彼女の妹がこの世に残した忘れ形見のマックスを、亡き妹の思い出として心底可愛がっていた。その愛情は時として甘すぎて、マックスをぬるま湯に浸かりきった気にさせる。
レイチェルは、そんなマックスの気持ちを唯一分かってくれている理解者でもある。レイチェルは、ニコリと笑った。笑うと、いつもの勝ち気さが丸くなり、とてもチャーミングに見える。
「マックスの言う通りよ。男はきちんと独立しなきゃ。世の中には、電話一本で会社の運命を決めてしまう男だっているんだから」
少し意味深なレイチェルのその言いぐさが如何にも彼女らしくて、マックスは微笑んだ。
始業時間の5分前に秘書室に現れたウォレスに、矢継ぎ早に4人の秘書から挨拶の声が掛けられた。
ジム・ウォレスの朝はいつも慌ただしく、会社に入る依然からもう臨戦態勢である。彼は、ビル最上階のオフィスに来るまで、何十人もの挨拶を受けなくてはいけない。場合によってはすぐそこで簡単な打ち合わせや相談が始まるから、定時の1時間半前に会社に着いても、首席秘書室にまで辿り着くのに始業時間に間に会わないことはいつものことであった。今日のような日は希な方である。
「おはようございます、ミスター・ウォレス。あら、黒のカシゴラのコート、どうされました?」
秘書室つきのウォレスのアシスタントであるレベッカ・アンダーソンが、今日のスケジュール表とウォレス宛の郵便物を彼に手渡しながら、訊いてくる。ウォレスは、薄手のトレンチコートを脱ぎながら軽く笑みを浮かべた。
「昨夜寄った店に忘れてきてしまってね」
その言葉に、秘書室の中の誰もが驚いた。もちろん、顔には出さなかったが。
「それはお困りですね。朝はまだしも、最近夜はめっきり冷え込んできていますわ。何でしたら、取りに伺うようにいたしましょうか?」
レベッカも顔はあくまで笑顔で、ウォレスの答えを待つ。ウォレスはスケジュールをチェックしながら、小さく鼻を鳴らして首を横に振った。
「どこの店だったかも忘れたんだ。また新しいものを買うよ。それより社長は出社しているか?」
「いいえ、まだですわ。それではコートの方は、コルトンに注文をしておきます。前と同じ品でよろしいんでしょ?」
ウォレスは、スケジュール表に目を落としたまま、2、3回頷いて彼のオフィスに消えて行った。
ウォレスは、そのギャランティから考えても、もっとリッチな生活をしてもいいはずなのに、いたって質素な生活を送っている。先に言ったカシゴラコートも良質のコートだが、カシミヤよりも格は落ちるし、家に2着しかない。彼の家のクローゼットには、必要最小限の衣服しか入っておらず、それらが駄目になるまで丁寧にクリーニングをかけ、きれいに着つぶした。その一着一着を見れば確かに高価で趣味のいい品ばかりだったが、頻繁に買い足すということはしなかった。それは、車や家についてもそうで、豪華さよりは機能性を重視した品の選び方をする。唯一ウォレスが金をかけて凝るといえば、モンブランのマイスターシュチュックの時計と高級革靴メーカー、ジョン・ロブ製の靴のみだ。もっとも、ミラーズ社は元々革靴職人の店であったのだから、従業員が靴に凝るのも頷ける。
そのウォレスが、簡単に「新しいものを買う」というのだからただ事ではない。ウォレスのオフィスのドアが閉まった途端、レベッカを初めその場にいた4人が4人とも口を押さえ、驚きの表情を露にした。
4人はすぐさま一カ所に固まり、あれやこれやとウォレス談義に花を咲かせる。
「ちょっとあれ、どういうこと?」
「彼が物忘れするなんてことがあり得るのかしら」
「僕が思うに、あれは女だね。女に貸したに違いないよ」
「久しぶりに艶のある話じゃない? 今度はどんな人かしら?」
「前のはあまりにも才色兼備過ぎて可愛げがなかったから、今度はもっと可愛いのを狙ってんじゃないの?」
「今度こそ結婚を考えてるとか」
「それは、どうかなぁ。結婚するには、障害があるしねぇ・・・。ボスの場合・・・」
「ああ。あれね」
「そう、あれ」
何を思っているのか、4人が4人揃って溜息をつく。その時、秘書室のドアが開いて、秘書室の女帝エリザベス・カーターが入ってくる。
「あなた達、何油売っているの。ジムは来ているの?」
「はい。もうオフィスに来られています」
慌ててレベッカが答えると、エリザベスはウォレスのオフィスのドアを叩いてドアを開けた。
「おはようございます、ジム。今日の社長のご予定ですが・・・。どうしました?」
エリザベスは後ろ手にドアを閉めながら、訊いた。
ウォレスが、今開封したばかりと思われる手紙から顔を上げる。エリザベスに顔を向けたウォレスは、いつものウォレスの顔だったが、さっき一瞬ウォレスが浮かべていた堅く強ばった表情は、エリザベスの神経をチリチリと突き刺した。ウォレスがごくたまに見せるこの表情は、決まって不吉なことが起こる前兆だった。
「その手紙が、なにか?」
努めて平然と訊いたつもりだが、恐らくエリザベスの感じている不安はウォレスに聞き取られてしまったのだろう。ウォレスは、すぐにいつものあの落ちついた威厳のある声で「何でもない」と答え、手紙を引き出しにしまった。
「今日の社長の予定だが、午後3時のディケンズ社との会合だけには絶対に出て貰わなければいかん。後は生け簀で釣りをしようが、ポームダムールのカウンターでメルローのボトルを空けていようが一考に構わん。恐らく今はウエッジ通りにあるダイナーでベーグルを頬張ってるはずだ。ベルナルドは最近、そこのウエイトレスに淡い恋心を抱いている」
普段通りのウォレスが、エリザベスに指示をする。こうなったらどんな人間も、ウォレスの「何でもない」を信じるしかない。
「はい。分かりました。社長は私が捕まえるようにします」
エリザベスは一礼をして、退室をした。
ウォレスはそれを確認すると、大きく一つ溜息をつく。革張りの椅子に身体を預け、口に手を当てて少し考え込みながら、傍らの引き出しをすっと引いた。
『ウォレス。いつかお前を殺してやる』。
よくある臼茶色の便せんに、新聞の切り抜き文字を張り合わせた手紙。
大規模な会社になると、この手のタイプの脅迫状が送られてくるのは珍しいことではない。現にミラーズ社でもそうだ。ミラーズ社の場合、本社ばかりか、世界各地の支社にも送られてくることがある。だが、ウォレス個人宛に来たのはこれが初めてだった。ウォレスは余程のことがない限り、極力表立った行動はしないことにしているし、この会社にウォレスのような男がいること自体知らない取引会社もいる。先日の新聞記事は早々に圧力をかけて、掲載にストップをかけた。
さて・・・。どうしたものかな・・・。 ウォレスは、ぼんやりと窓の外に目をやった。
Amazing grace act.04 end.
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編集後記
今回は、ウォレスに対する危なげなストーカー兄ちゃんが登場してしまいました! ウォレス君ったら、どこまでモテモテ男なんでしょう? ウォレスには、まだまだ秘密がいっぱい。まるで風呂屋のロッカーのように、小さな扉がいくつもある男(笑)。それに比べ、マックスは美形に割には庶民的でかわいい。年上のいとこの尻に敷かれてるし。(こういう図式が国沢のパターンなのかも) ちょっと頼りないところがあるけど、結構勝気ってところが気に入ってます。
[国沢]
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