act.99
定光は、混乱したままだった。
深夜の住宅地で、声がいつも以上に響く状況だったが、構ってられなかった。
「俺一人でエニグマに行くって…………。それって別れ話を今してるのか?」
定光がそう訊くと、滝川は呆れたように定光を見た。
「バカ、ちげぇよ。落ち着けって。今更俺が、お前を手放す訳がねぇだろうが」
「でも、だって、今…………」
「距離が離れるだけで、お前との関係を切る訳じゃねぇよ。おとなしく行けって。ここまで話を進めるのに、結構苦労したんだぞ」
定光は滝川の側に近づいて、滝川の肩を掴んだ。
自分でもびっくりするほど、両手が震えている。
「お前も来ればいいじゃないか。お前の方がエレナに気に入られているのに」
滝川は、小鼻を指で摘みつつ、目だけで天を仰いで、「言うと思った」と言わんばかりの雰囲気を醸し出した。
「冷静になって考えろ。あっちはパトリックほど悠長に仕事の仕上がりを待ってはくれない。客観的に考えて、俺のこの状態じゃ、エニグマのスピードにはついていけねぇ」
「そ、そんなの俺だって…………」
「バカ言え。お前、追加のポスター1週間で仕上げたじゃねぇか。仕事が遅いとお前が感じているのは、俺のお守りをしてるからだ。それがなくなって、自分の仕事に集中できる環境になれば、お前は充分エニグマでやっていける。俺様が言ってんだ。間違いねぇ」
滝川はそう自信たっぷりに言う。
定光はハァーと長い息を吐いて、視線を伏せ、二、三歩後退りをした。
確かに、滝川は恐ろしいほど冷静に二人の置かれている状況を見つめていた。
それを認めようとしないのは、自分の子ども染みた屁理屈だとわかった。
定光は、ゆっくりと顔を上げ、滝川を見つめる。
「補助輪付きの自転車に乗るお前を、俺が見守っていたばかりと思ってたけど…………。補助輪が外れるように見守られてたのは、俺の方だったんだな」
定光がそう呟くと、滝川は「あ?」と口を開け、「なんの話だ、それ?」と返してきた。
定光は首を横に振ると、「いいよ。行くよ。行ってエレナと話してくる」と告げた。
その返事に満足した滝川は、「よしよし。それでいい」と定光の頭をグシャグシャと撫でた。
定光がエニグマで仕事を始めるための下準備で渡米している間、滝川は村上から散々恨み節を聞かされていた。
「一体どういうつもりなんですかぁ? ミツさん居なくなっちゃったら、俺、どうしていいかわかりません〜」
本気で泣いている。
事務室のソファーセットで毎日繰り広げられるその様に、由井や藤岡はもちろん、あの希でさえ、鬱陶しそうに村上を眺めた。だが、誰もが村上に絡まれるのが嫌なのか、滝川に助け舟を出してくれる者もおらず、今は仕事のない滝川も逃げ場はなくて、日がな一日この状態だ。
大きなアフロの髪をゆさゆさと揺らして、村上は泣く。
村上はアフロズラを被って以来、それを定光から「とても似合ってるね」と言われて、一生懸命髪の伸ばした挙句、足りない分を高価なエクステで補ってまで今のアフロヘアを完成させた。
確かに、定光のためにと折角完成させたアフロを肝心の定光に見てもらえることなく、定光は渡米したので、恨み節も言いたくはなるだろう。 ── だがしかし、しつこい。
── ああ。やっぱ会社に来るんじゃなかったなぁ…………。
滝川は、左手の人差し指で耳の穴を穿りながら、溜息をつく。
実は滝川も、自分でああ言ったものの、家に帰っても定光がいないことが意外に寂しくて、腐っているのだ。
一人で家にいても気分が滅入るだけなので会社に来てみるのだが、そうするとどこにどう隠れようと村上に見つかってしまうので、結局はこんな有様になる。
「お前の嗅覚はマジすげぇと思うけど。うっざいわ〜」
「ウザいなんてヒドイです! えぐっえぐえぐっ! こんなウザい男にしたのは誰ですか?!」
「自分で勝手になったんだろうがよ…………」
滝川は顔を顰めて、首筋を掻きつつ、明後日の方を見る。
「ミツさんのいない日常なんて、考えられない! ミツさんの姿が見られない毎日なんて耐えられない!」
「お前、本当に疑問なんだけどよ。ミツはお前のなんなんだよ」
「永遠のお姫様です!!」
村上のその一言に事務室中がゲンナリとなり、村上と滝川以外のスタッフ達が、そそくさと事務所を退散していく。
「 ── あぁ…………。皆が俺を置いていく…………」
ソファーの上にしな垂れた滝川の脚を、村上がガシッと掴んだ。
滝川はじとっと村上を睨んだ。
「お前、ミツは穢れのないお姫様とかなんとか言ってるがな。ミツは俺に触られるとアソコをシドシドに濡らしてぇー」
「聞きたくない! 聞きたくないでーす!!! あーーーー! あーーーーーー!!!」
村上が両耳を塞いだのを見計らって、滝川はダッシュで事務室を飛び出した。
屋上まで逃れてきた滝川は、ようやく静寂を手に入れて、プカリとタバコを吹かした。
そこに由井がやってくる。
「俺にも一本くれないか」
そう言いながら由井は、滝川の隣に座った。
「おっ、意外。由井さん、タバコ吸うんだ」
滝川はそう言いながら、ジーンズの腰ポケットからくしゃりと潰れたタバコのケースを取り出し、そのお尻を叩いて由井に差し出した。
由井はタバコを抜き取りながら、「たまに人目につかないところで吸ってる」と呟いた。
滝川のタバコの火で、由井が咥えたタバコに火をつける。
「まるで中学生か高校生が、先生に隠れてタバコを吸ってるみたいだな」
そんなことを言って、由井は笑う。
少しの間が空き、滝川はポツリと言った。
「ミツのことで山岸さんを説得してくれて、ありがとうございました」
「おっ、意外。滝川もお礼なんか言うんだ」
由井が先ほどの滝川の口振りを真似てそう言ったので、滝川はハッと笑いながら、軽く肘鉄をした。
由井がハハハと笑う。
「まさか、由井さんから援護射撃をしてもらえるとは思ってなかった」
滝川がそう言うと、由井は「社長もよく決断したと思うぞ」と返してきた。
「でもまぁ、それが定光のためだからな。会社としては大きな痛手だけど。でも、よくお前、手放したな。お前がその決断をしたからこそ、俺は心底驚いたし、応援をしなければ、と思った」
由井の言葉に、滝川は深呼吸するようにタバコの煙を吐き出した。
「思ったより寂しいけど、まぁすぐに慣れるでしょ。別に縁が切れた訳じゃねぇし。俺もアイツなしで仕事ができることもわかった。やっと一人前の大人になれましたぁー」
滝川は自分が言ったことがおかしかったのか、ケケケと笑った。
「笠山さんがかなりビビッてたぞ。“滝川が俺の知らない生物になってしまった”って」
「あの人、自分の腹黒さを俺の人間性によって免罪符としてたからね」
「まぁ、そうだな」
由井も思わずクククと笑う。
そして由井は、滝川を横目で見ると、こう言った。
「 ── お前、いい男になったよ。定光もうかうかしてられないな」
滝川は口を尖らせる。
「えぇ〜、俺はとっくの昔からいい男だけどぉ」
「自意識過剰なのは、相変わらず、か」
由井がそう言った時、バタンと屋上のドアが開いて、ナマハゲのような顔をした村上が飛び出してきた。
「滝川新はイネガ〜〜〜〜」
「ヤダ、怖い」
滝川が身を竦ませる。
由井は顔を歪ませながら、ポツリと呟いた。
「真面目にアイツのカウンセリングを考え始めた方がいいな」
── そろそろ次の仕事を決めてくれよ。
会社を出際、社長の山岸にそう言われつつ、滝川は会社を後にした。
そのまま“かねこ”に寄る。
滝川は手の麻痺のこともあって、自分で料理をすることはできなかった。
定光の渡米を聞きつけた“かねこ”の女将と息子さんは、滝川のその状態を心配して、「店が閉まった後でもおいで」と言ってくれた。以来、晩御飯の面倒は、“かねこ”にみてもらっている。
暖簾は内側に入っていたが、鍵は空いている。
ガラガラと引き戸を開けて滝川が中に入ると、息子さんが厨房の中から顔を覗かせた。
「待ってたよ」
滝川がカウンターに座ると、すぐに料理が出てくる。
改めて作ってもらうのもあれだから、店の余り物でいい、とメニューは全てお任せにしていた。
ほうれん草のおひたしに、冬野菜の揚げ浸し、厚揚げのめんつゆバターソテー、自家製の漬物。味噌汁はナメコだ。
恐ろしく健康的で食い出のある完璧なメニュー。
それを、左手に持った箸で食べる滝川の手元を見て、かねこの息子は感嘆の声を上げる。
「まぁ、随分上手くなったものだ」
確かに滝川は、以前右手でしていたことをほぼ遜色なく左手でできるようになっていた。
定光が渡米してから、更にうまく使えるようになった。
なんだかんだ言って、定光がいる頃には、彼に甘やかされていたんだろう。
「寂しいかい? ミツ君がいなくなって」
そう訊かれ、滝川は苦笑いする。
「大将もそんなこと俺に訊いてくるの?」
「まぁ、訊かずにはいられないよね」
「別に、1週間もしたらまた戻ってくるよ」
「でも、また向こうに行っちゃうんだろ? うちのお袋も寂しがってる」
「まぁ、そうだけど…………」
繰り返し皆から「寂しいだろ」と言われ続けていたら、なんだか感覚が麻痺してきて、訳がわからなくなってくる。
ともすれば、自分は定光と別れちゃったのかな?と錯覚してしまう時もある。
定光とはLINEでその日起きたことのやり取りを毎日していたが、なんだかここ二、三日の定光の報告が手抜きになってきて、益々自信がなくなってきていたところだ。
そう、LINEと言えば。
滝川のこの状況を噂で聞きつけたらしき成澤千春から、今日LINEに一言コメントが寄せられていた。
『笑える』
相変わらずの悪魔だ、と滝川は思ったが、唯一変化球の反応を示したのが千春だったので、むしろありがたく感じた。
寂しいだろ?と腫れ物のように扱われるより、いっそ笑い飛ばしてもらった方がスッキリする。
独り立ちするって、大変だわ〜と思いつつ、帰宅すると、ドアを開けても電気がついていないことが意外に胸に来る、と思ったりした。
定光と付き合い始める前は、独りぼっちなんて平気だった。
むしろその方が清々したし、束縛されない自由さがたまらなく心地よかった。
またそんな風に戻れると思っていたが、現実はそう甘くないようだ。
── まぁでも、時間が解決するはずだ。
滝川はそんなことを思いながら、観葉植物の世話を始めた。
元々は定光の持ち物だった観葉植物達は、滝川のブルーな気持ちとは裏腹に、冬場だというのに生き生きとしている。それはひとえに滝川の世話の仕方が上手い訳だが、本当のご主人様の旅立ちをすっくと立って祝福しているように見えて、滝川は「なんだかなぁ」と呟いた。
まるで観葉植物に器のデカさの違いを見せつけられたようだ。
「いや! 俺が送り出したんだ。俺が、、、送り出したんだっ!」
呪文のように唱える。
そして客観的に見たそのマヌケっぷりに、滝川はゴロゴロと床を転がった。
そのせいで、床に溜まっていた埃がふわふわと舞い上がる。
「あ〜、掃除機かけてないせいで、埃が舞い上がるぅ〜」
滝川はクスンと鼻を鳴らした。
── 人生というものは、いつだって厳しいものだな。
床に転がったまま、フッと鼻で笑った時、一階からガチャガチャと鍵を開ける音が聞こえてきた。
滝川はパッと猫のように背筋を反らせて起き上がり、耳を凝らす。
「ただいまー。新、いるのか?」
定光の声だった。
滝川は四つん這いで、階段までバタバタと急ぐ。右足の先にまだ少し麻痺が残る滝川は、四つん這いの方が早く移動できるのだ。
滝川が螺旋階段に到着したと同時に、定光が階段を上がって来る。
「おい、晩御飯ちゃんと食べたか?」
滝川の顔を見るなり定光がそう言ってたので、心の底から“通常運転だわ”と滝川は思った。
「食った。食ったよ。かねこで食べてきました。LINEにも入れたろ?」
滝川がそういうと、「飛行機の中だったんで、電源を切ってた」と定光はお土産が入っていると思しき袋をダイニングテーブルの上に置いた。
「はぁ、やっぱ家が一番落ち着く」
定光がそう言いながらダイニングチェアに座ったので、滝川はその向かいに腰掛けた。
「なんだよ、予定より早い帰国じゃん」
「ああ。向こうでトントン拍子で話が進んで…………」
そうだろう。どれだけ俺が下準備をしてきたと思ってるんだ?と内心滝川は愚痴たが、身体は生の定光の姿を堪能したいのか、減らず口は口をついて出なかった。
── 相変わらずのクソ美人だな。
久し振りに見る定光の顔を、滝川がマジマジと見つめていると、定光は「あ、そうだ。お前に言っておくことがある」と切り出した。
「は?」
「俺は、お前と付き合いってから初めて、お前を出し抜けた気分だよ」
定光はそう言って、ニンマリと笑ったのだった。
この手を離さない act.99 end.
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編集後記
突然ですが・・・。
ipad pro
買っちゃった♥
しかも、Apple pencilつきで♥♥♥
いや、いやねぇ・・・。
近頃、前のipad airの挙動がおかしかったんですよぉ。
小説書いてたら、しょっちゅうフリーズし始めたんで、創作に集中できないじゃないですかぁ。
それでねぇ。
・・・・・・。
え?
すべて言い訳に聞こえる???
いや、大体何かのフィーバー始まっちゃうと、何か買っちゃうよね。なんでかね。
断舎利しても、物欲なくならないよね。
中途半端な断捨離だったんでしょうねwww
ま、これで液タブチックに使えるipadにリニューアルしたことですし、そのうちイラストの方も復活できるかなぁと思ったりもしますが、途方もなく時間がかかりそうなので、そこはそれ、まだ封印しています(汗)。
今は取り敢えず、「おてて」のラスト・スパートと「巨人」のラスト・スパートに全ての時間を費やしたい。
ゾンビドラマは、少し更新お預け。
(まぁ、ドラマ本編がアレな感じだし、需要が下火になってそうなので、後回しにしてしまっているという・・・)
今週の「おてて」は、”ぼっち滝川の日常”って感じなんですけど、この描写、いるのかなって首を傾げながら書いてました(笑)。
まぁでも、書いてて楽しかったから、いいか。
すごい寄り道感満載の本日の更新でしたが、いかがだったでしょうか?
ああ、でも100話超えちゃうなぁ。
100話以内で収めようと思ってたのに、ちょびっと越えて終わりそう?
いや、意外に100話ぴったりで終われるのか???
(↑全然見通しが立ってないから、自分でもわからない)
ひょっとしたら、次週「おてて」最終回かもしれません。(←酷い)
ではまた。
2018.9.2.
[国沢]
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