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この手を離さない title

act.97

 確かに定光の言う通り。
 バイクを走らせ始めた序盤は、明らかに免許取り立て……と言った風な、おっかなびっくりな運転だった定光だったが、都心を離れて、鎌倉方面に向かって車の流れが穏やかになる頃には、大分落ち着いた運転になって来た。
 定光の背中越しとはいえ、本当に久しぶりに感じるバイクのエンジン音や振動、身体に直接ぶつかってくる風を感じるのは、最高に気持ちがよかった。
 ここのところの移動手段は電車だけだった訳で、息が詰まってしょうがなかったが、そこから一気に放たれたこの開放感が素晴らしい。
 滝川は、願わくは鬱陶しいヘルメットも外したいと思ったが、さすがにそれをするとお巡りさんに捕まるので、それはなんとか我慢した。
 定光は、信号で止まる度に懐からスマホを出して、行き先が間違ってないか確認しているようだった。
 どうやら定光自身も、初めて行くところらしい。
 滝川は何度も「どこに行くのか」と訊ねては見たが、定光は返事をはぐらかすばかりなので、結局その質問は諦めた。
 バイクは心地のいい排気音を立てながら、いつしか海の見える道をひた走っていた。
 観光バスが目立つ鎌倉の中心地からかなり離れた小高い丘の上、農地が周囲に広がる町道を縫うように入り込んだところで、定光はバイクを停めた。
 滝川にとっては、全く縁もゆかりもない場所だ。
 いくら思いを巡らせても、こちらの方面に滝川の親戚はおろか知り合いもいない。
 定光がチャイムを押した古民家風の家の表札は、“常盤”と書いてあって、その苗字にも思い当たる節はない。
 ── ミツの知り合いなのかな?
 滝川はそう思いつつ、周囲の風景をぐるりと見渡した。
 家の向かいに広がる畑には、一見するだけでも様々な種類の野菜が植え付けられていることが見て取れる。畑の奥には裏山が迫っており、木々の合間に竹林が混ざっていて、濃いグリーンと明るい竹色のコントラストが面白い。いずれにしても目に優しい風景だ。それに大きく深呼吸すると、ほんの僅かだが潮の香りもする。
 車がないといかにも不便な場所だが、のどかに暮らせそうなところだ。
 定光がチャイムを押すと、家の中から女性の声で「はーい、ただいま」と声が聞こえて来た。
 パタパタとスリッパを履いた足が小走りに駆けてくる音が近づいてきて、引き戸式のドアがガラガラと開いた。
「まぁまぁ、遠いところにようお越しくださいましたね」
 丁度滝川の母親と同じような年齢の女性が出てきたので、一瞬身構えた滝川だったが、その女性の顔を見て、滝川は「あっ!」と声を上げた。
 驚きの声を上げたまま、身体を固まらせる滝川を余所に、定光は朗らかな笑顔を浮かべると、「お休みの日に、すみません」と頭を下げたのだった。
 
 
 常盤充代と名乗った女性は、にこやかな笑顔と共に、2人を家の中に招き入れた。
「農家に休みなんてあってないようなものですから。今、お茶をお持ちしますね」
「あ、どうぞお構いなく」
 定光はそう声をかけたが、充代はさっさと居間から姿を消した。
 居間は外観と違って意外にも洋風の家具が並んであって、定光達は2人がけのソファーに腰かけた。
 定光が隣の滝川に目をやると、滝川は充代が出て行った後をじっと見つめたまま、「あの人、ひょっとして………」と呟いた。
 定光がそれに答えようとした時、充代が台所から帰って来た。
 充代は、ローテーブルにお茶を並べてながら、自分のことを食い入るように見つめる滝川の視線を感じて、フッと笑みを崩した。
「女の子は父親に似るものだってよく言うけれど。私、母によく似てるでしょう?」
 充代はテレ臭そうにそう言った。
 定光の隣で、滝川がゆっくりと頷く。
 やがて滝川は、こう言った。
「先生とそっくりだ」


 定光が半休を取っている間。
 バイクの免許を取るために教習所に通っていたことも勿論だが、定光はもう一つのことにも時間を割いていた。
 それは、滝川が幼い頃世話になった“先生”こと、福留信代の家族を探すことだった。
 もちろん素人1人で探すことはままならず、結局はプロの興信所に頼んで探し当ててもらった。
 充代は信代の1人娘で、信代が滝川の家に家庭教師として勤めている頃から、充代の夫と共に3人で都内に暮らしていた。
 だが、信代が滝川の家から叩き出される例の件があった後、鎌倉のこの地に引っ越して来たと言う。
「元々、うちの主人は農業に興味がありましてね。母が滝川さんのお宅にお世話になっている間からも、ずっと田舎暮らしをしたいと言っていたんですよ。でも母がなかなか頑固で。滝川さんの坊ちゃんが大きくなるまでは離れられないって言って聞かなくて」
 充代は、懐かしそうにそう言いながら、優しげな声で笑った。
「では、先生が辞められてからこちらに?」
 定光がそう訊くと、充代は頷いた。
「母が滝川さんのお宅からもう来なくていい、と言われた直後に母のガンが見つかりまして。すい臓がんでもう末期でした。病院で最期を迎える方法もあったんですけど、景色のいい環境でゆっくりと過ごしてもらいたいと思うところもあって、主人の親類のツテを頼って、この地に落ち着いたんですよ。いい景色でしょう?」
 充代はそう言いながら、居間の大きな掃き出し窓の外に目をやった。
 定光も釣られて、外を見る。
「本当に素晴らしい景色ですね」
 開かれた海と手前の庭の緑のコントラストがとても美しい。
「今は開けると寒いから閉めてますけど、春先なんかは窓を大きく開けておくと、本当にいい風が入ってくるんですよ」
 その様が、定光でも容易に想像ができた。
 とても気持ちのいい風が入ってくるのだろう。
 定光は笑顔を浮かべつつ、滝川の方を返り見ると、滝川は対照的に思いつめた顔つきをして俯いていた。
 その様子を充代も目にとめて、定光と顔を見合わせ、少し困ったような笑みを浮かべる。
「よかったら、その塩大福もどうぞ。素朴なんですけど、美味しいですよ」
「ありがとうございます。いただきます」
 定光が大福にかぶりついても、滝川はそのままピクリとも動かなかった。
 しかしやがて、こう口を開く。
「先生には…………先生にはとても酷いことをしてしまった。なんて………なんて謝っていいかわからねぇぐらいに………酷いことを…………」
 小さく震える声でそう言った。
 だが充代は、ほっとしたように穏やかな笑顔を浮かべた。
「あなたからは何も酷いことをされてはいませんよ。酷いことをされたのは、あなたのお母様からで、あなたじゃない。むしろ母は、病気のためにあなたの元に帰れない自分を責めていたぐらいだったんですよ」
 それを聞いて、滝川がパッと顔を上げる。
「それ、マジで………」
 充代は頷く。
「ええ。母は許されるなら、あなたの元に戻りたかったでしょうね。でもあの後、歩くのもままならない状態になってしまって。母は、1人娘の私より、ある意味あなたのことを大切に思っていたかもしれませんね。自分の孫よりあなたの話をよくしていたし。よほど可愛かったんでしょう。あなたを助けられなかったことが、唯一の心残りだと最期までそう言っていました」
「俺のこと………幻滅してたんじゃなかったんだ………」
「まさか。もし母が健康だったなら、警察やら裁判やら、なんとかしてあなたをあの家から助け出そうとしていたでしょうね。母があなたの家で何を見たのかは、母は死ぬまで話してはくれませんでした。でも、母がそう思うくらいの辛い思いを、あなたはしてきたのでしょうね。母は、あなたがとても頑張り屋さんだと、よく言ってましたから」
 みるみる滝川の目に涙が盛り上がり、ポロリと零れ落ちた。
 定光は、滝川の左手をそっと握った。
 充代は、「よかったら、母に声をかけてもらえますか? 隣が仏間ですから」と2人を誘った。
 母が療養に使っていた部屋だ、と言って通された畳張りの部屋は、居間と同じで南側に大きな掃き出し窓の開いた、小さいながらも日当たりのいい部屋だった。
 今はそこにひっそりと仏壇が置かれてある。
 仏壇には、充代をふっくらとさせた感じの女性が朗らかな笑顔を浮かべている遺影が置かれてあった。
 部屋の入口で尻込みしている滝川の背中を、定光が押して仏間に入る。
「な、何をどうやったら………」
 ゴソゴソと身体を揺らしながら呟く滝川を見て、充代は「形式通りなんて気にしなくていいんですよ」と手慣れた様子で線香に火をつけ、線香立てにそれを立てた。
 線香のかぐわしい香りがプンと匂い立つ。
 定光は滝川の手を引くと、2人で正座をして、先に定光が手を合わせた。
 滝川も同じように真似をする。
 充代は、仏壇の引き出しから白い封筒を取り出して、それをお参りの終わった滝川に手渡した。
「これ、母からあなたに。あなたがあの家を生き延びることができたら、きっとここに来ると思うからと書き残したものです。これを本当にあなたに手渡す日が来るなんて。今日は、母にとっても私にとっても素晴らしい日だわ」
 滝川は震える左手でそれを受け取る。
 定光は充代と目を合わせて、揃って仏間から出た。
「向こうにいるから、ゆっくり手紙読んでいていいぞ」
 定光はそう言った後、仏間の襖を閉めたのだった。
 
 
 新くん。
 君の元に帰ることができなかった、私を許してほしい。
 あの日、大人同士のあんな争いを君に見せてしまって、本当に申し訳なかったと先生は思っています。
 私にもう少し勇気があって、裸にされようが身体に落書きされようが、ちっとも構わない強さがあれば、あの場であなたを助け出せたかもしれない、と今でも悔やんでいます。
 あの時、それまで60年以上生きてきて、あれほどまでに強く恐ろしい憎しみを人から向けられることがなかったから、正直先生は怯えてしまって、ただ家を去ることしかできなかった。
 今でも本当に後悔しています。
 この身体に力が残っていたら、今すぐにでも君の元に行きたい。でももう、それも叶いません。
 しかし、あなたはとても強くて賢い人だから、きっときっと、あの家を出て、自分の道を探し出していることでしょう。
 それができる力を、私と別れた年ですでに君は身につけていたのよ。
 この手紙を読む君がどんな大人になっているのかは想像しかできないけれど、きっと素敵な人になっていることでしょう。
 賢くて、気難しくて、でも本当はとても優しくて。
 君は、かけがえのない、大切な命と心を持った素晴らしい人です。
 何も恐れることはないのよ。
 あなたは、私にも、もちろんあなたの母親にも囚われることのない、自由な存在です。
 好きなように生きなさい。
 母親の犯した罪に対する責任を、あなたが追う必要はまったくないのよ。
 あなたは何も悪くない。悪いことをしていない。
 だから、誰に対しても申し訳ないと思う必要はありません。
 もちろん、先生に対しても、申し訳ないと思う必要もありません。
 自由にのびのびと生きなさい。
 あなたになら、それができるはずです。
 きっと。きっとですよ。
 
 
 滝川は、その手紙を読み終わると、はぁーっと大きな息を吐いて、その場で大の字に寝っ転がった。
 全てが何もかもリセットされた気がしたのだった。

 

この手を離さない act.97 end.

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編集後記


あっついですねぇ・・・。
今年の夏はホント凄い。もう夏バテしてます。熱帯夜が特に堪えてます。
国沢、あまり体力がある方じゃないんで、この夏をどうやって乗り越えたらいいか、悩んでます。

この前、●印の人をダメにするビーズソファーに座ってテレビ見てたら、ビーズソファーの保温性(笑)のためか、物の見事に熱中症になりかけましたwww
あれ、夏場ダメですね、座っちゃ。
あのフィット感が熱を溜めますねwww

さて、「おてて」はというと、いきなり突然、最後の山場を迎えました。
やっとここまで辿り着いた。
その割に、熱さに頭がやられたせいか、アッサリ書いてしまって、これでよかったかなぁ・・・と思うところはありますが(汗)。
でも一先ずここまで辿り着いた気持ちでいっぱいです。

「おてて」もそろそろエンディングが見えてきました。
思えば97話ですものね。
でももう少し、お付き合いいただければ・・・と思います。

ではまた。

2018.7.22.

[国沢]

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