act.75
定光は、久保内に見送られつつノートを後にした。
ノートの地下駐車場に停めてあった車に乗って、会社を目指す。
車の助手席には、ノート側から預かったデータ資料やらアンケート結果など、膨大な量の書類がダンボール箱に入れられている。
これに目を通すのは大変そうだが、今後の方向性を検討する上では大事なことだ。滝川の制作作業にも役立つデータがあるかもしれない。
目の前の道路が次第に渋滞して行く様子が見られたので、定光は横道に入った。ここら辺の道は一方通行の箇所もあって複雑なのだが、ノートとパトリック社の間はよく行き来しているので、慣れた道だ。定光の車に続くように、次の車も後ろをついて来る。
しばらく車を走らせて、定光は再びバックミラーを見た。
数十分に一緒に脇道に入った車が、まだ後ろをついて来る。
黒のRV車で、運転手はサングラスをかけた茶髪の男だ。
偶然とは思うが、このわかりにくい道をこんなに長い間一緒に走っていることを少々珍しく思った。
定光がそう思っている間に会社に辿り着いた。
定光が会社の駐車場に車を入れると、その黒い車は、ブオンと荒々しい排気音をさせて目の前を通り過ぎて行った。
定光が会社に入ると、受付の女の子が可愛らしく「定光さん、お帰りなさーい」と声をかけてきた。
「滝川さんは、さっき出かけました」
続けてそう言われる。
いつの頃からか、定光が出先から帰って来ると、なぜかこちらから訊く前に滝川の動向を報告されるようになった。
定光は滝川と完全にセットだと思われている節が前からあったが、ショーンの仕事を始めて、益々その傾向が強まったようだ。
定光は、ダンボール箱を一旦受付カウンターの上に置くと、「どこに行ったんだ、アイツ」とダメ元で訊いた。
滝川が出かける時は、大抵誰にも何にも言わず、ふらりと出て行くことが多いので、訊いたところで答えが得られることは少ないのだが、今日は珍しく明確な答えが返ってきた。
「不動産屋さんから電話がかかってきて、マンション売りに行ってくるって出て行きました」
「え?今日?」
定光は顔を顰めつつ、思わず訊き返す。
確か予定では、週末に買い手の内見が予定されていると滝川から聞いていた。
「急に予定が変わったみたいです」
受付嬢にそう言われ、定光は「ああ……」と生返事をした。
「それにしても急だな……」
定光はそう呟きつつ、再びダンボール箱を抱えて、制作管理部のオフィスに向かった。
「あ、ミツさん、お帰りさない」
村上が声をかけてくる。
「ああ、ただいま」
定光がダンボール箱を部屋の片隅のローテーブルに置くと、「なんっすか、それ」と村上に言われた。
「ああ、ショーンのファーストシングルの売上に関するデータ書類だ。念のため、全部出してもらった」
「すげぇ量」
ダンボールの中を覗き込みながら、村上が呟く。
定光はフゥとため息をつきながら、「そこら辺はさすがノートだよ。マーケティング分析にかけている予算が凄い」と言う。村上は口をへの字にしながら、「それほどショーンの売り上げが凄いってことでしょうね」と返してきた。
ダンボールの中から2人で書類を取り出し、雑談交じりに種類別にファイルを分けて置いていく。
「そういや新さん、出かけたこと知ってます?」
「ああ、受付で聞いたよ」
「マンション、売っちゃうんですか?」
「そうみたい。借り手がつかないならいっそ売った方がいいってさ」
「ま、確かにそりゃそうですね。 ── てか、ミツさん、手の皮剥け凄いっすね」
「そうなんだ……。気をつけて日焼け止めは塗ってたつもりなんだけど、砂漠の日差しはやっぱりハンパないね。鬱陶しいけど、ずっと長袖着てて正解だった。そうでなかったら、今頃腕も凄いことになってただろうな」
「ミツさん、色白っすからねぇー。あ、ミツさん、携帯鳴ってますよ」
耳ざとい村上が、定光のスマホのバイブ音に気づく。
「あ? ああ、ホントだ」
定光は、自分のカバンからスマホを取り出した。
画面を見ると、滝川からの着信だ。
「新からだ」
書類の分類を続ける村上を眺めつつ、定光はスマホをタップする。
「もしもし?」
定光がそう話しかけても、なぜかスマホは無音だった。
「ん? もしもし?」
再度声をかける。だが応答がない。
定光は思わずスマホを見つめた。その様子に村上が気づく。
「どうしました?」
「いや……。何も反応がない」
定光はそう答えつつ、スマホを再び耳に押し付ける。
「あれじゃないですか? ほら、誤作動的な」
村上が呑気な声でそう返してくる。
定光も「そうだな……」とぼんやり答えつつ、耳を澄ませた。
よくよく聞くと、ごそごそと音がする先に、人の話し声が聞こえてくる。
── マンション売却契約の最中なのかな?
定光がそう思った矢先、聞こえてくる女性の声が「新さん」と言ったのが聞き取れた。
その瞬間、定光の背中に一気に鳥肌が立った。
── 貴方、新さんの何なんですの?
定光の頭の中に、滝川の母親から言われたセリフが一気に蘇った。
スマホから聞こえる音はだいぶ篭ってはいたが、その口調といい声のトーンといい、あの時と全く同じだった。
「ミツさん、どうしました?顔が真っ青ですよ?」
定光の変化を敏感に感じ取って、村上が作業の手を止める。
「 ── 新の母親の声が聞こえる……」
「え?」
「電話の向こうで、新の母親の声がしてる」
「マジっすか!?」
村上は慌てて定光の方に近づいて来たために、机の足の角に自身の足をぶつけて、「イテェ」と叫んだ。それでも足を抱えつつ、ケンケンをしながら近づいてくる。
「な、何て言ってます?」
「それが、よく聞こえないんだ。声が遠すぎて……」
「貸してください」
耳のいい村上が、定光のスマホに耳を押し付ける。
「何て言ってる?」
「シッ……!………あー、ヤベェ。貴方と一緒に天国へ行けて嬉しいとかなんとかって言ってる」
村上がそう言った瞬間、定光はオフィスを飛び出していた。
背後で村上の「ミツさん、携帯!」という叫び声が聞こえたが、構ってはいられなかった。
定光は、黒いジャケットの裾をはためかせながら、エレベーターまで向かう。
だが、エレベーターが別の階に止まっていることが分かると、すぐ側の階段に出た。
一気に一階まで駆け下りる。
「定光さん、どちらにお出かけですか?」
受付嬢の呑気な声も無視して、会社を飛び出す。
慌ててジーンズの腰ポケットから、社用車の鍵を取り出し、再び車に飛び乗った。
荒々しくアクセルを踏み、滝川のマンションに向かう。
どういう訳だか知らないが、滝川のマンションにあの母親が現れたことは間違いない。しかも、村上が聞き取ったことが正しければ、一緒に死のうとしている!
赤信号に引っかかり、定光はハンドルを叩いた。
前に車もいるような状況で、突っ切る訳にもいかない。
「そうだ、警察に電話!」
定光はそう思って、腰ポケットに手を伸ばしたが、会社に置いてきたことを思い出した。
「バカかっ!俺は!」
再びハンドルを殴る。
自分の冷静さを欠いた自分の無能さに涙が出そうになる。
── 俺が辿り着くまで、どうか、どうか無事でいてくれ……!
定光は赤信号を睨みつけてそう思った。
両手両足を縛られ、ソファーに座る滝川の足元には、定光の日常の様子がいろんな距離から撮影された写真が散らばっていた。
打ち合わせ先のビルから出てくるところ、会社の駐車場を歩く姿、クライミングジムでジム仲間と談笑している笑顔、仕事帰りにスーパーで買い物をしている様子、朝に滝川とともに慌ただしく自宅マンションを出てくる姿、そしてマンションの窓際で滝川とキスをしている美しく幸せそうな横顔……。
中には、駅のホームらしきところで、定光のすぐ後ろから撮影した写真もあった。定光の目の前には線路が見えていて、電車がホームに入ってくる直前の写真だ。もしこの写真を撮った主が定光のことを線路に突き飛ばしたら、定光はどうなっていることか……。
そんな写真を、滝川の母は嬉々として「よく撮れているでしょう?」と言って、滝川に見せた。
「この写真なんか、物凄く離れた距離から撮影したらしいけれど、キレイに撮れているわ。ねぇ?」
新さんもそう思うでしょ?と定光と滝川のキス写真をかざして見せた。
滝川は終始無言を貫いた。
一言でも口を聞けば、その弱みに付け込んで滝川の母親はあれやこれやと滝川の心を揺さぶってくるからだ。
今でも定光には、私が連絡したらいつでも動いてくれる"その筋の人"が付いているらしい。
滝川が母親のお付きの者に縛られている間、母親はずっと古い型の折りたたみ式携帯電話をこれ見よがしに開けたり閉めたりしていた。
母親のお付きの者は昔から母に付いている大きな体躯をした男で、知的に障害を持つ使用人だった。この男は滝川が生まれた時から屋敷にいたが、一度も喋ったところを見たことがない。母の命令に従って、風呂場のドアをハンマーで叩き壊したのもこの男だ。
母親もこの使用人も、滝川の恐怖心を思い起こさせる絶対的な存在だった。
固く縛った滝川を軽く抱え上げてソファーに座らせた男は、運んできたダンボールからガムテープを取り出し、部屋中の窓に目張りをし始めた。その間母親は、定光を殴りつけたエナメルのカバンから、次々と定光の写真を取り出し、滝川の方にかざしては、それを床に投げつけた。
「新さん、そんなに理想の女性が見つからないからって、男の人とこういうことをするのは良くないわ。いくらこの男に誘惑されたからと言っても、いけないことよ。男同士なんて、正しくない」
── じゃぁ親子で乳繰り合うのは正しいとでも言うのかよ、と危うく喉から出そうになるが、滝川はぐっと我慢した。
ここで減らず口を叩いて使用人に殴られ、気絶するようなことになれば、一緒に"持っていかれる"。
母親の足元には練炭が詰め込まれた七輪がいくつも並んでいた。
どうやら、心中をしたいらしい。
それに母を逆上させたら、定光だって危険に晒される可能性がある。
一体どんなヤツが定光を付け回しているかはわからないが、母が金にモノを言わせて雇った輩だ。本気で定光に手を出すかもしれない。
滝川は、後ろ手に縛られた手を何とか動かして、腰ポケットのスマホを引き抜いた。
スマホを前回使い終わったのは、連絡帳を開けた状態はずだから、一番上までスクロールさせてタップすれば、定光の番号にかかるはずだ。
スマホの画面を全く見ずに当てずっぽうで操作しているので自信はなかったが、今はそうするしか思いつかなかった。
「こんな汚れた男のどこがいいのかしら?姿が上等なのは認めるけれど」
母は定光の写真を眺め、顔を歪ませた。
子どもの頃には気づかなかったが、随分と醜い表情を浮かべるおばさんだ、と滝川は思った。
滝川の母は、あっさりとした古風な美人だと言えたが、それだけにそんな生々しい表情を浮かべると、途端にギラギラとした印象になる。
見た目の大人しそうな外見とそのギャップが益々不気味さを増長させた。
「新さん。そろそろ冒険は終わりにして、お母さんの元に帰ってらっしゃい。そんなに冒険したいなら、お母さんと一緒に誰の手も届かないところに行きましょう」
母はそう言って、練炭に火をつけ始めた。
目張りを終えた使用人は、母が火をつけた七輪をリビングのあちらこちらに置いていく。
その時、滝川の尻の下から、微かに「もしもし」という声が聞こえてきたような気がした。
とても小さな声なので、母親達には聞こえていないようだ。
滝川の母は、滝川が黙って大人しくしていることをとても喜んだ。
「お母さん、嬉しいわ。貴方と一緒に天国に行けて。やっと貴方がその気になってくれたんですもの」
滝川は自分の足元に置かれた七輪を覗き込み、「練炭自殺か。俺だけじゃなく、その使用人も一緒に連れて行く気か?」と口を開いた。
母は滝川の大きな声に目を丸くすると「そんなに大きな声を出さなくても聞こえますよ」と言った。
そして黙って動く使用人を愛おしそうに見つめると、「カズオのことを使用人だなんて余所余所しく呼ぶのはおやめなさい。ずっと私達のお世話をしてきてくれた人よ」とカズオを呼んだ。
一旦作業を止めたカズオは、母に近づき、膝を折る。母はペットを撫でるように、カズオの頭を何度も撫でた。
ほんの些細な光景だが、異様だ。
このカズオは、母と滝川が同衾している間もずっと同じ部屋にいて、それを見つめていた男だ。それをネタにしてかどうかはわからないが、母に隠れて自慰に耽っていたことも滝川は知っている。
ごま塩頭になっても、母に対する従順さは変わらないカズオの陶酔するような表情を眺めながら、滝川は密かに足元の七輪をゆっくりと蹴って、自分より少しでも遠くへそれを離した。
一酸化炭素は無色透明で、臭いもしないと聞く。そして確か空気よりも軽いから、部屋の上部から溜まっていくはずだ。
母とカズオが寝っ転がらない限り、頭が高い位置にある母やカズオから意識がなくなって行くはずだ。
滝川は自分からソファーの上に横たわって、頭の位置をなるだけ低くした。
視線を七輪に向けると、時折赤い光をチロチロと放ちながら、練炭が燃えている様が見える。きっと今、この時も"悪魔の気体"を空中に放出しながら。
この手を離さない act.75 end.
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編集後記
新、大ピンチ。
相変わらず、新の母親は、とっても気持ち悪いです(汗)。
自分で書いていても、本気で気持ち悪い・・・。
国沢は大抵、悪役のキャラでも愛着を持っていることがほとんどなんですが、新の母親だけはそれがないんですよね。
だから名前が出てこないの。
名前をつけてないんです。
というか、名前を知ろうとしてない、というようなイメージ。
こういう人は、後にも先にもこの人だけかもしれない。
それを考えれば、この人すごい人なのかも。
さてさて。
先週は車の件でかなりダウナーな感じの国沢だったんですが、今週に入って嬉しいニュースが。
どうやら、ストーン・テンプル・パイロッツが新しいボーカルを迎えて、再始動した模様です。
新譜のシングルカット曲が出てたので、itunsで思わずポチリ。
彼らも、最初のヴォーカリスト・スコットをオーバードーズで失い、そして2番目のヴォーカリストであるチェスターを自死で失い、なかなか辛い思いをしてきたんだろうと思いますが、こうして音楽活動を続けてくれることはやっぱり嬉しいです。ファンとしては。
一時期は、レディ・ガガがヴォーカリストとして加わる、だなんて噂も流れましたが、結局はオーディションを敢行。
新しいヴォーカルをオーディションで選ぶって聞いた時は、思わず「大丈夫か?」と思ったものですが、意外とキレイに収まったような感じです。
とても歌が上手な、正統派肌のヴォーカリストが加わった。
お名前はジェフ・グーツ(グート?)さん。
腕に派手な刺青が入ってますが、極めて人が良さそうなシングルファーザー。
男手一つで、息子さんを育てております。
変わったファミリーネームなんで、どこがルーツなのかわからないですけど、今までにない”すごく健全そうな人”w
スコットが妖しげな魅力満載の人だったので、余計にそう感じる。
なので、セクシーな萌えはまだあんまり感じないのよねぇ。
やっぱ子育て中だからかなwww
ジェフはどうやら、有名なオーディション番組「X factor」で準優勝だった実力の持ち主らしく、その番組の動画を見た感じでは、「どんな曲調の歌も歌いこなせる器用なヴォーカリスト」といった印象。
ソフトな声もハードな声も、器用に使い分けられるイメージ。
それだけに、器用貧乏な感に陥る危険性はあるかなぁと思ったりもしました。
そこで出たばっかりの新譜「Meadow」を聞いたんですけど、思ったよりスコットの歌声に寄せてた。
やっぱ器用なだけに、そういうことが可能な人なのか、と。
イメージ的には、痩せてる頃のスコットの歌声にしっかりとしたビブラートが入っている感じ。
ファンとしてはいかにも後期のストテンらしい曲で、嬉しいのは嬉しかったんですけど(エリックのドラムもお兄ちゃんのギターやロバートのベースも相変わらずねば濃くて素敵だし)、不思議と「もっとジェフさんらしく歌えばいいのにな」と思ったことでした。
彼のいいところは伸びのある声だと思うので、”痩せスコット”の喉を少し潰したような歌い方ではそれが生きてないような気がしたのよね。
太ってた頃のスコットは、もっと艷やかで伸びのある野太い声をしていたから、昔の曲を歌うともっといいのかもしれない。
野太いボーカルをキボン。
まぁいずれにしても、スコットを意識するなというのは難しいとは思うけど、もう少し慣れてきたら伸び伸び演ってくれそうな気もする。
来春にはフルアルバムも出るとのことですからね。
頑張って欲しいです。
それではまた。
2017.11.19.
[国沢]
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