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この手を離さない title

act.76

 定光が滝川のマンションの下まで辿り着くと、そこには消防車や救急車、それにパトカーが停まっていた。彼らもまさに到着したばかりといった雰囲気だった。
「すみません! ひょっとして、滝川の件で!?」
 定光はマンションのエントランスに入ろうとする警官を捕まえて、声をかけた。
 滝川の件で、と言ってわかるかどうか不安だったが、相手はきちんと理解してくれたらしい。
「関係者の方ですか?」
「そうです!」
「部屋番号、わかりますか?」
「わかります! マンションに入る際の暗証番号も!」
 定光がそう言うと、警官も表情を少し和らげた。
 定光がマンションの正面玄関を開く暗証番号を打ち込んでいる間に、消防士や救命士も集まってきた。マンションから煙が出ているわけでもないのに、消防士は酸素ボンベを背中に担いでいる。その様子に益々緊迫感が募った。
 ドアが開く。
 皆で一気に中に入った。
 奥から管理人が出てきて、驚いた顔つきをした。
「何事ですか?」
「このマンションで無理心中の可能性があるとの通報がありました。滝川さんのお宅です」
「部屋番号は811です!」
 定光が間髪入れずそう言うと、管理人は定光のことを見て、見覚えがあるというような表情を浮かべた。
「鍵を持ってきます」
 管理人が慌ててマスターキーを取りに行く。
 その間にエレベーターが到着し、皆で乗り込んだ。
 八階に着く間、定光は警官に訊いた。
「パトリック社からの通報ですか?」
「ええ、そうです。あなたは?」
「会社の者です。本人の携帯から電話があって、本人の声は聞こえませんでしたが、彼の母親の声が聞こえました。電話を代わった同僚が、一緒に天国へ行こうと言っていることを聞き取りました」
「どうしてそうなったか、理由はわかりますか?」
「滝川の母親は、息子に異常な愛情を持っています。それが元で滝川は家を出たのですが、最近になって居場所を突き止められ、会社にも乗り込んで来られました。その際母親は暴力沙汰を起こして、会社として弁護士と共に対応しました。確かめたければ、顧問弁護士の事務所にその時の記録が残っています」
 警官はメモ帳に定光の言ったことを書き付ける。
 そうしているうちに、八階に着いた。
「こちらです!」
 管理人が部屋の方に走って行く。皆もそれに続いた。
 同じ階で自宅にいた女性や老人が、何事かとドアから顔を覗かせる。
 管理人がドアの鍵を開けている間、消防隊員が「ドアが開いたら、私達以外は絶対に部屋に入らないでください。二次被害にあいますので」と鋭い口調で言った。
 定光は、思わず「そんな」と声を上げようとしたが、消防隊員らが酸素マスクをつけているのを見て、グッと口をひき結んだ。
 部屋の中はそういう状態なのだ。背筋が凍った。
 ドアが開く。
「下がって!」
 思わずドアに向けて一歩進んだ定光の身体を警官が掴んで、ドアから離した。
 救急隊員が予備の酸素ボンベとストレッチャーを抱えて、部屋の中に入って行く。
「新! 新!」
 定光は力一杯叫んだが、中から返事はなく、消防隊員の機敏な声が聞こえてくるのみだった。
「マルキュウ発見!」
 そんな声が複数聞こえてくる。
 警官が定光に「生きている人がいるようだ」と言ってくれたので、定光は思わず警官の腕をギュッと掴んだ。
 中から慌ただしい足音やストレッチャーが動かされる音が聞こえてきて、隊員が無線を入れる声も漏れてきた。
「室内にいた3名のうち、マルキュウ2名、マルイチ1名」
 それを聞いた警官の顔色が曇った。定光は嫌な予感を感じて、再びドアに駆け寄った。
「あ! こら! 待ちなさい!」
「新! 新!」
 定光が警官に背中を捕まれ玄関から引き剥がされた瞬間に、ストレッチャーが出てきた。
 人が寝かされている。
 女性だ。
 滝川の母親だった。
 僅かに頬がピンク色に火照っているようで一見すると眠っている様だったが、ストレッチャーからだらりと垂れた手が不気味だった。まだ生きているのか、酸素マスクをつけられている。
 それを見て、定光は背筋がゾッとした。
「新!」
 定光は悲鳴のような声を上げながら、再び玄関を覗き込んだ。
 次のストレッチャーが出てくる。
 滝川だった。
 彼もまた意識がなく、マスクをつけられている。
「新!」
 定光がストレッチャーの端を掴むと、「緊急搬送しますので、下がって!」と怒鳴られた。
 隊員は定光を退けた後、ストレッチャーを走らせた。
「一緒に着いて行きなさい」
 警官にそう言われ、定光は弾けるように走り出した。
 まるで現実味がない。
 警官の声は妙にこもって聞こえ、やたら自分の荒い息が大きく聞こえた。
 一生懸命走ってはいたが、身体がふわふわ浮いているように感じる。
 エレベーターホールでストレッチャーに追いつき、滝川の顔を覗き込むと、滝川は穏やかな表情で横たわっていた。
「い、生きてるんですよね……?」
 定光が恐る恐るそう訊くと、救命士は「生きてはいますが、危険な状態です」と答えた。
「あなたも大丈夫ですか? 少し一酸化炭素を吸っているようだ」
 そう言われたが、それが定光の耳に入ることはなかった。
 定光は滝川の手をギュッと握って、「新、起きろ! 死ぬな!」と声をかけ続けた。
 滝川の両手首は赤く擦れた跡があって痛々しい。それを目にして、定光は目の奥がカッと熱くなるのを感じた。
 滝川と一緒に救急車に乗ると、定光もまた酸素マスクを被せられた。
 けたたましいサイレンの音と共に、「高圧酸素治療を要請します」という救命士の声が聞こえた。
 定光が掴む滝川の手は冷たくて、力はなかった。
 それでも。
 絶対にこの手を離さないと、定光は心に強く思った。
 
 
 救急車が到着したのは、定光も名前を知っている大きな総合病院だった。
 奇しくも滝川の母親も同じ病院に運び込まれていて、ガラス張りの高圧酸素治療室の中に母親と滝川が並んで入るという状況となった。
 複数の救急スタッフが、滝川と滝川に母親の身体に様々な機器を取り付け、治療を始める。
 治療室が見渡せるベンチから絶対に動かないと言い張った定光は、そのベンチで医師から体調チェックを受けた。
 瞳孔の大きさを確認され、頭痛や吐き気はないかと訊かれた。
 頭痛や吐き気はあったが、それが一酸化炭素中毒のせいなのか、こんな事件を起こした滝川の母親に対する嫌悪感からくるものなのか、よくわからなかった。
 定光が正直にそう言うと、再び酸素マスクをかけられ、「あなたに対しても人を寄越します。このままここにいてください」と言われた。
 定光はこの場からテコでも動く気はなかったから、「はい」と頷いた。
 しばらく、1人になる。
 部屋の中からは電子音が聞こえ、反応がないにしても確かに滝川が生きていることがわかった。
 それでも、定光は自分の膝がガクガクと震えていることに気づいた。
 酸素マスクをつけているのに息苦しさを感じて、マスクを剥ぎ取った。
 そこに白衣を着た年配の医師が近づいてくる。
 彼は定光の隣に腰掛けると、「それを預かろうか」と優しげに声をかけてきて、定光の手からマスクを受け取った。
 定光が戸惑った目線を医師に向けると、彼は穏やか表情のまま、「大丈夫。彼は生きている。まずは大きく深呼吸をしてみよう」と言った。
 医師が深呼吸をして見せたので、定光も同じように息をしてみる。少し楽になったような気がした。
 医師は、心療内科の西田ですと名乗った。
 定光は西田医師の腕を掴むと、「どうか新を助けてやってください。大切な人なんです。お願いします……。お願いします……」と絞り出すように言った。
 西田は定光の手を柔らかく手に取ると、「我が病院のスタッフは優秀で、経験も豊富だ。彼に必要な治療は、根気よく全て行うよ」と答えた。
 更にこう続ける。
「しかし助かるかどうかは、まだ断言ができない。助かっても、後遺症が残る場合もある厳しい状況だ。だが今、彼は生きるために一生懸命頑張っている。だからあなたも一緒に頑張ろう。私も側にいるよ」
 そう言われ、定光はこくりと頷いた。
 そして滝川に目をやる。
 先程と全く様子は変わらないが、西田医師の言う通り、滝川は生きるために一生懸命頑張ってくれているんだと思えた。
 滝川が定光に電話をかけてきたのは、決して偶然なんかじゃない。意図的に電話をかけてきたのだと信じたかった。
 無意識の中で「消えたい」と零したあの滝川が、それが現実のものとなる状況を目の前にして、定光に助けを求めることを選んでくれた。それこそが、滝川が「生きたい」と思ってくれた証拠だと思った。まさしくそれは、滝川が定光に向かって伸ばしてくれた"手"……。
 少しして、私服警官が2人、定光の元にやってきた。
 吉岡と名乗った白髪混じりの刑事が定光の前に跪くと、封筒から一枚の写真を取り出した。
 ゴツゴツとした顔つきの中年の男が目を閉じて横たわっている写真だった。
「この人に見覚えは?」
 定光は首を横に振った。
 まるで見覚えがなかった。
「そうですか……。彼はあの部屋にいて、亡くなった人物なんだけどね」
 そう言われて、定光は少なからずショックを受けたが、一度も見かけたことのない男だった。母親が会社に乗り込んできた時も見かけなかった。
 知りません、と定光が口を開こうとした時。
「多分、使用人だと思います」
 突如そう声がして、一同が声のした方に顔を向けた。
 そこに立っていたのは村上だった。その後ろには社長の山岸や由井もいた。
「使用人?」
 刑事が立ち上がると、村上は「俺もよくわかんないっすけど」と言いつつ、近づいてくる。
「ミツさんが会社を飛び出した後、電話口で新さんが言ったんです。"練炭自殺か。俺だけじゃなく、使用人も連れて行く気か?"って」
「滝川の実家は裕福なんです。家にはたくさんの使用人がいたそうなので、そのうちの一人かもしれません」
 定光がそう続けると、吉岡刑事の奥に控えた若い刑事がメモをした。
 吉岡が、全員の顔を見渡してから口を開いた。
「これから詳しく調べますが、状況から考えると、滝川さんの母親が練炭での無理心中を計画し、使用人が手伝ったという線が濃厚だと言えます」
 その場にいた一同が顔を見合わせる。
 吉岡刑事は、「内側から目張りされた室内で、滝川さんは手足を紐で拘束されていました。室内には練炭が入った七輪がたくさん。今あなたが言った通りの状況です」と村上を見て言う。
 滝川が手足を縛られていたというくだりで、その場にいたパトリック社全員が顔を顰めた。社長の山岸が、口を開く。
「滝川はああ見えて腕っ節が強くて喧嘩っ早い男だ。アイツが大人しく縛られただなんて」
 村上も同意するように頷く。
 吉岡刑事はなぜか山岸を見ずに、定光を見つめた。
「当初は我々も、その亡くなった使用人という人物が大変大柄だったから抵抗ができなかったのだろうと思っていましたが……。その話を聞くと彼はどうやら意図的に大人しく従ったらしい」
「……どういう…ことですか?」
 定光がそう訊くと、吉岡刑事は封筒からもう一枚の写真を取り出した。定光がスーパーで買い物をしている様子の写真だ。
「部屋にはあなたの写真が散乱していた。中には、あなたと滝川さんが一緒に写っているものもありました。全て隠し撮りで撮影されたものです。中には、あなたの身の危険を連想させるものもあった。あなたのことを大切に思っている彼の気持ちにつけ込んで、脅したんだろう」
 定光はヒュッと息を吸い込み、よろよろと立ち上がった。
 定光は吉岡の胸元を掴み、「そ、それは……本当ですか……?」とごくごく弱々しい声でそう訊いた。吉岡はどこか飄々とした表情の刑事だったが、急に引き締まった表情を浮かべると、こう言った。
「この事件の全容が解決するまで、我々が身辺警護につきます。あなたも狙われているかもしれないからね」
 吉岡刑事がそう言った瞬間、ピーッというけたたましい音が治療室から響いてきた。
 定光の心臓がドキリと跳ね上がり、目に見えて身体もビクリと震えた。
 その音は、医療ドラマでよく聞く、心臓が停止した場面でよく聞く音だ。
 その場にいた全員が治療室に目をやる。
 室内では、滝川の母親が心臓マッサージを受けていた。
 その光景を見て、動揺した定光はポロポロと涙を零す。
「新が死んだらどうしよう………。新が死んだら……」
 その場に崩れそうになる定光の身体を西田医師が支えた。
 静かに取り乱す定光に、吉岡刑事はこう告げた。
「滝川さんはきっと助かるよ。消防隊員からの調書によると、彼は風呂場で見つかった。手足を拘束されながらも風呂場まで這いずって、排水口に鼻と口を突っ込んで倒れていたそうだ。彼は見た目ほど一酸化炭素を吸ってない」

 

この手を離さない act.76 end.

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編集後記


先週に引き続き、「新、ピンチの巻」、いかがだったでしょうか?
自分の安全のために新は抵抗をせず大人しくしていた、だなんて言われたら、そりゃミツさん泣いちゃうよ。
自分で書いていて、なんとも苦しい回でしたね。

あ、そうそう。
今回出てきた「吉岡刑事」。
お気づきの方がいらっしゃるかどうか。

このサイトの複数のお話を読んでくださっている方は既にご存知でしょうが、国沢は、話同士を登場人物でリンクさせることをよくします。

「おてて」ではこれまで、ショーンが出てくることで、「プリセイ」とのリンクがありました。
そして今回は吉岡刑事。
この吉岡さん、実は「触覚」で櫻井君の先輩刑事だった、あの「吉岡刑事」です。
彼も随分、年を取りました(笑)。
彼は「触覚」で辛い目にあっていましたが、刑事職を続けていた・・・という。
なんだか感慨深いものがあります。
ああ、「接続」の続き、どうにかしなきゃ(笑)。

さて。
以前、web拍手のコメントで、「靴のこと、その後いかがですか?」とのご質問をいただいておりました。
自分のチビ足のことをきちんと調べてもらいに上京したのが今年の4月。
けれどそこで資金が尽き、まだ自分の足にあったパンプスを購入するに至ってません(笑)。
地方に住んでいると、気楽に東京に行けないのよね。
LCCもないので、東京に行く交通費だけで万単位のお金が飛んでいっちゃいます・・・。
今は、日々足のサイズにきちんとあったスニーカーを履いて歩いている状態。
そうすると、縮こまっていた足が多少伸びてサイズが変わる可能性があるから、焦ってパンプスを買うなと中敷き屋さんに言われたことを実践している最中です。
予定では、来春また東京に行ける資金が貯まったら、今度は足の再計測をして、いよいよパンプスを買いにいくつもり。
靴を買う時は絶対に試履しないとダメと言われたので、紹介されたお店をいろいろ回るつもりです。
本当なら、地方に住んでいても、自分にあったパンプスが買いに行けたらいいんだけどなぁ。
それではまた。

2017.11.25.

[国沢]

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