act.49
定光が日本に到着したのは、翌日の夕方のことだった。
だが日付変更線を跨ぐので、日付は一日先に進んでしまう。したがって、日本時間では明後日、ということになっていた。
NYに向かう時は逆に一日日付が遡ることになるので、日にちと時間の感覚がわからなくなる。
定光は朝型人間なので、NYに向かった時はさほど時差ボケには襲われなかったのだが、日本に帰ってきた今の方が影響があるようだ。約13時間のフライト疲れのせいもあるだろうが、なんとなく脳みそが膨張したような感覚で足元がおぼつかず、全身が怠い。
それでも明日以降のスケジュールの確認を由井や村上としておきたくて、スーツケースを引っ張ったまま、一旦会社に寄った。
「あれ⁉︎ ミツさん、家に帰らなかったんですか?」
オフィスに入ると、案の定、村上に目を丸くされた。そしてその後、背後をジロジロと眺められ、「あれ? 狂犬がいないみたいですけど?」と訊かれる。
「いろいろ事情が変わったんだよ……。由井さんにはメールで知らせておいたけど……」
定光はさすがに強い疲れを感じて、大きなため息をつきながら、ソファーにどっかりと腰をかけた。
「由井さん、まだ出先から帰ってきてないです。本当なら、もう帰ってきてる時間なんですけどねぇ」
「どこに行ってるんだ?」
「FNCです」
定光は再度ため息をつく。
「それなら簡単には帰ってこれないかもしれないな……」
由井が抱えている顧客の中でも打ち合わせが長引きがちのお客様だ。
両手で顔を擦る定光の前に煮詰まったコーヒーを置きながら、村上が向かいのソファーに座り込んで来る。
「で、狂犬は今どこで何をしてるんですか?」
定光は腕時計を見下ろした。
「時差が14時間だから……今頃ベッドの中でグースカ寝てるだろうよ。ああ、道理で眠たいはずだ……」
定光は欠伸を噛み殺した。
それでも村上が食いついてくるので、定光は事の顛末を説明した。
村上は、「スターと新さんのシンクロ率がハンパないわ」と呟いた。
「でも、そんな調子で一週間も狂犬を野放しにしちゃって大丈夫なんですか、ミツさん」
痛いところを突かれた定光だったが、自分に言い聞かせるようにこう答えた。
「元々あいつはあっちに住んでた期間が長いんだし、周りは余所の会社の人間だらけなんだから、そこまで暴れたりはしないと思う……。俺も小まめに電話かけるようにするよ」
定光はそう言ったものの……。
「なんで電話に出ねぇんだよ! アイツは!!」
わざわざ電話に出やすい時間を選んで、時差に合わせて電話をかけているのに、滝川は一向に出る気配がなかった。
定光はと言えば、時差のせいで夜昼が逆転するため、夜中に何度も起きて電話をかける生活をここ5日間続けているせいで、万年寝不足のような状態だった。出先でも「顔色悪いね」と言われる始末で、体調も気分も最悪だった。
しかし理沙とのメールでやり取りでは、あちらの仕事の進行は順調のようだ。
機材と撮影スタッフの準備も整い、一番難問だったPVの主役を務める赤毛の若い女性も短時間のスケジュールながら無事に決定したそうだ。そして定光の方もノート側にPVの内容を急遽変更することを無事承認してもらい、予算の変更の算段も一件落着できた。 ── 一見すると心配することは何もない状態なのだ。明後日にはこちらを発つ。焦る必要は何もないのに、しかし定光はイライラとしていた。
この5日間の間に家の掃除や洗濯、ランニングやボルダリングジムにも行けて、滝川のいない生活を久しぶりに満喫できたはずなのだが、なぜかイライラはつのるばかりだった。
定光はソファーの上にスマホを放り投げて、ただ広い部屋をぼんやりと眺めた。
滝川がいる時はさほど部屋の大きさを感じたことはなかったのだが、一人リビングだけの明かりをつけて床に座り、ソファーに上半身を預けている格好で部屋を見回すと、本当にガランとしている。
前に住んでいた部屋と比べると確かに広さもかなり違っているので当たり前なのだが、滝川がいないだけで空気がぽっかりと空いているような気がするのだ。
── 身体を動かしてもまだイライラしてるのって、欲求不満ってことなのかな……。
定光はそんなことを思って独り顔を赤らめた。
思えば、随分しばらく、滝川と肌を合わせていないような気がする。
下世話な話、マスターベーションも仕事の疲れに押されて、してはいない。
こんな状況なら、イライラして当然か、とも思うが同時に物凄く恥ずかしくも思えた。
以前女性と付き合っていた頃は、むしろ淡白な方で相手の方から不満を言われることの方が多かったが、これでは完全に自分の方が不満を感じているセックス好きの色情魔のように思えてくる。
確かに滝川とのセックスは、とても気持ちがいいものだった。
同性とのセックスが好みにぴったりはまった、と言うよりは、やはり相手が滝川だからこそなんだと思っている。 ── つまり、滝川のことを定光が好きだからこそ、あのように深い快感を得られることができているように思うのだ。
それでも、頭の片隅には滝川のセックスの上手さが一番の理由なのかもしれないと思ったりもしているのだが。
しかしそれを思うと、否が応でも滝川の母親のことが思い浮かぶ。
滝川があれほど丁寧に前戯をするのは、母親に怒られまいと母の望むセックスをさせられていたからだ。
滝川はそれについて話すことはなかったが、滝川のこれまでの様子を見ていると、その線はかなり間違っていないのではないかと思う。
── 俺にはたくさんの地雷がある……
滝川はそう言っていたが、セックスの仕方についても"地雷"なのだろう。
まさか今頃、定光みたいに欲求不満な衝動を抑えられず、金髪美女をベッドに連れ込んでいるとは思いたくはないが、確信は持てなかった。帰国する直前にケンカ別れしてきたようなものだったから。
定光は、眺めていても全然頭に入ってこない深夜のショッピング番組を消すと、そのままソファーに突っ伏して目を閉じた。
別れ際、声を出さずに「バイバイ」と言った時の滝川の表情が目に浮かぶ。
少し薄ら笑いのような笑みを浮かべ、なんだか定光を小馬鹿にしたような顔つきだった。
その表情は、昔から定光はおろか他の人間に対しても時々浮かべているもので、ひんしゅくを買うのが常だった。
以前の滝川と知り合って間もない頃の定光もよくカチンときてケンカのネタになっていたのだが、付き合いが長くなるにつれ、それが滝川の強がりや本当の気持ちを見透かされないようにする時の癖のようなものだと気がついた。
そこら辺、滝川は実に捻くれていて、素直ではない。
それが他人の神経を逆なでして、反感を買う。
滝川もその点はわかっているだろうに、一向に直そうとしない。
滝川は頭がいいが、人との接し方はまるで不器用だった。
定光は、呑気にそんなことをツラツラと考え、急にハッとして身体を起こした。
目玉をギョロつかせて周囲を見回したが、その実、目には何も映っていなかった。
「 ── あの笑い顔が強がりだとして……あいつは一体何を強がってんだ……?」
朧げな疑問の答えが定光の中に浮かんできた時、空気に触れている肌の部分がギュッと押さえ込まれたような息苦しさを感じた。背筋が泡立って、全身に鳥肌が立っていた。
── まさかあれって、俺と別れるつもりの"バイバイ"じゃねぇだろうな?
定光は、自分の思いついたことに派手に顔を顰めた。
確かに定光が帰国する前の晩にケンカをした訳だが、あの時に揉めたこともまだちゃんと話し合えてもいないのにいきなり別れるだなんて発想、定光には理解できなかった。それに翌日の滝川は、一晩ヘソを曲げて部屋に帰ってこなかった割に癇癪も起こさず、その後の態度は実に穏やかなものだった。まるで何事もなかったかのように。
これまでの滝川なら、思い通りにならなければ烈火のごとく怒り狂い始めるし、気に入らないことがあれば全身から威圧的な空気を容赦なく周囲に撒き散らす。
だが、翌朝の滝川は随分大人しくて、機嫌を損ねている風には見えず、寝坊をして焦る定光よりも冷静そうに見えた。
定光は、その滝川のイレギュラーさが不気味なんだと今更ながら気がついた。
普通じゃないからこそ、これまで定光が遭遇したことがない滝川の思考パターンが作用した証拠なのかもしれない。
言い知れぬ不安と、皮膚をチクチクと針で刺される感覚に囚われ、定光は思わず自分の手の甲を摩った。
「 ── ヤバい……。これってなんかヤバい感じがする……」
急に大きな不安に襲われる。
こんなことで一方的に別れるなんて、定光には納得できなかった。
ひょっとしたら滝川は、あの夜の言い争いで自分に対する興味を失ってしまったのかもしれないが、定光はまだ滝川のことが好きだし、傍にいたいと思っている。
もし別れるにしたって、定光がちゃんと納得できる形でないと、これから一緒に仕事もできない。元来、そう言う点では自分が器用なタイプでないことはよくわかってた。
しかし定光は、仮にでも滝川と別れるシナリオを思い浮かべただけで、目から自然にぽろぽろと涙が零れ落ちたことに、自分でも酷く驚いた。慌てて涙を手のひらで拭ったが、後から後から溢れ出てくる。頭より先に体の方が滝川との別れを悲しんでいるように思えた。
改めて、自分がいかに滝川に強い想いを寄せているかを痛感させられた。
定光は、さっき放り出したばかりのスマホを手に取る。
画面に表示された時間を見て一瞬電話番号をタップするのが躊躇われたが、どうしても耐えられなくて、定光は電話をかけた。
『 ── ミツさん、どうしました?』
村上はツーコールで電話に出てくれた。
由井や藤岡はこの時間もう寝ているはずだが、夜更かし傾向の村上ならまだ起きていると踏んだのが的中した。
「こんな時間にすまん」
定光がそう言うと、定光の声が若干鼻声なのを察したのか、村上は『緊急事態なんでしょ? 気にしないでください』と答えてくれた。
定光は、思わず自分と滝川の関係を前提に話し出そうとしてハタと気づき、大きく深呼吸を挟んだ後、明日にもアメリカに戻りたい旨を伝えた。なんとも回りくどい理由も添えて。
自分と滝川が付き合っていて、その関係性がピンチなんだと伝えれば話は早かったが、仕事にプライベートな感情を持ち込むのは非常識なことだとわかっていたから言いづらかった。それに二人が付き合っていること自体、村上は知らないはずだ。
向こうに戻りたい理由として肝心のところをボカして差し障りのない理由をいろいろと並べたものの、我ながら説得力にかけるなぁと気まずく思ったのだが、意外にもあっさりと村上は『わかりました』と返事をしてくれた。
『残っている仕事は由井さんと相談して、なんとかします。航空チケットは取れそうなんですか?』
村上の返事に、定光は内心ほっとする。
村上のことがこんなに頼りになるとは、と初めて感動もした。
定光は幾分落ち着いた声で返事をした。
「わからないが……まぁなんとかするよ。多分正規チケットのはずだから、日程変更ができるかどうか明日の朝に問い合わせてみる」
村上は『了解しました』と言った後、最後にこう言って、電話は切れたのだった。
『ミツさん、無理は禁物ですよ』、と。
この手を離さない act.49 end.
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編集後記
先週は、国沢が東京旅行に行っておりまして、お休みをいただきました。
気づけば世の中はゴールデンウィークですねぇ。いかがお過ごしでしょうか?
国沢は、一足先に旅行を満喫して、その疲労回復に一週間近くをついやいております(大汗)。
やっぱ、行き帰りにバス泊を1泊ずつ入れるの、年齢的に過酷やったわ〜(油汗)。
夜行バスを舐めておった・・・。
バス、手ごわかったわ〜。一睡もできなかったwww
年をとるって、貧乏旅行もできなくなるんだね!うふ!!
まぁ東京になにしに行ってたかというと、ミュシャ展を観に行くのがメインの目的でした。
このスラブ叙事詩をどうしても原寸で見たかったのよ。
今見逃すと一生観れないと思ったから、思い切って貯金叩いて行きました。
アルフォンス・ミュシャって、こういうデザイン画が有名ですけど、
国沢はミュシャの描く絵画も大好物で、特に男性の肉体を描かせると、本当に美しい肉体を描く人だと思っています。
それはスラブ叙事詩でも遺憾なく発揮されていて、人体がほぼほぼ実寸大で描かれておりました。迫力満点。
だって、キャンバスがこの大きさだもの。
実際見ると、絵の具とか凄く薄く均一に乗っかってるような感じで、色使いが繊細だった。
キャンパスがデカイから大味なのかと思いきや、スポットを当てたい場所はしっかり細かく描かれていて、モチーフの強弱が絶妙な感じでした。
さすが、ミュシャ。
ミュシャがこの20枚の連作を描き始めたのがだいたい50歳くらいだろうから、どんなにか体力がいったことだろうと思う。
このサイズのキャンパスを塗りつぶすだけでも相当大変そうだもの。
しかもテンペラ画法だから、顔料の定着きっと卵を使うんだよね。
どんだけの卵が費やされたのか・・・。
東京にお住いで、まだご覧になってない方がいらっしゃったら迷わずおすすめしますが、まぁなにせ
人が多い。
わざわざ月曜日に行ってみたけど、それでも人がワンサカ。
いや、あれはあれで空いていたのかもしれないし、入場するのに行列つくってた弥生ちゃんの個展よりはマシなのかもしれない・・・。
でも、普段からあまり人混みに揉まれたことのない田舎者の国沢からすると、「人、また人」って感じでした。
東京の人は何をするにも行列に並ぶからエラいわ・・。
その他にも、自分のチビ足のサイズについて今回ちゃんとしたところできちんと計測してもらったのですが、その結果についは、また次回にコメントしたいと思います。
それではまた。
2017.4.30.
[国沢]
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