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この手を離さない title

act.82

 翌日の午後、滝川は予定通りリハビリ病院に転院することとなった。
 転院といえども、母体の総合病院の建物とは渡り廊下で繋がっていて、感覚的には別棟の病棟に移ったというイメージだ。
 滝川が屋上で一服している間に、定光と村上で、個室に持ち込んでいた私物を新たな病室に移動させた。
 新たな病室は、金銭的な心配をせずともよいお陰で、かなりいいクラスの個室となった。テレビや冷蔵庫のほか、電子レンジも備え付けてあったので、定光としてはありがたかった。
「 ── 村上」
 ベッド周辺を整え終わった定光は、定光が持って帰る荷物をまとめていた村上に、声をかけた。
「俺、一旦その洗濯物を家に持って帰った後、かねこで晩飯を取ってくるから、新が病室に帰るまで付き添っててくれ」
「了解です」
 村上はそう言うと、滝川を迎えに行くべく、病室を出て行った。
 
 
 滝川は、2本目のタバコに火をつけて、プカプカとそれを吹かした。
 入院生活が始まってから極端にタバコの量が減っていたので、ニコチンが肺に染み渡る感覚を覚える。
 滝川が今座っている屋上の青いベンチからは、都会の雑然とした風景が見張らせた。大きな病院だ。屋上の位置もかなり高い。屋上の縁にかなり背の高いフェンスがぐるりと張り巡らされている様がどこか不気味だった。
 滝川の背後では、患者のものなのか、強めの風にはためいた洗濯物がパタパタと音を立てた。
「おっと」
 滝川は、一瞬左手からタバコが落ちそうになって、グッと指に力を込めた。
 やはり利き手でない左手で様々なことをするのは負担がかかる。
 午前中もリハビリ担当の若い理学療法士が、右手ばかりか左手のコリが酷いとそちらのマッサージも行った。
 そして右手は相変わらずピクリとも動かない。
 腕を上げることはできるが、右手自体に力が入らない。
 理学療法士には「意識を集中していきましょう」と言われたが、滝川からしてみれば、「そんなもん、とっくにやってる」という心境だった。
 一方右脚の麻痺はだいぶ良くなってきていた。
 走ったりはできないが、びっこを引きながらでも一人で長い距離を歩けるようになってきた。
 理学療法士によると、「そのうちびっこを引かなくなるくらいまで回復できるかもしれない」とのことだった。
  ── まぁ、そうは言ってもなぁ……
 滝川はタバコを咥えてから、左手で首筋をゆっくり撫でた。
 右手が使えないと、むろん仕事に支障が出る。
 滝川はこれまで一人で編集作業を行うのが常で、映像編集から音の合わせまで、編集機器を駆使して全て一人でこなしてきた。
 今後それを他の人間に手伝ってもらうにしても、仕事を始めたらのめり込んでしまう滝川のスタイルに付き合える者が定光以外に、あとどれくらい社内にいるのか謎である。
 更に致命的なのが、絵コンテが描けないことだ。
 自分の中にあるイメージをまとめるためにも重要な作業だし、クライアントに制作の進行を認めてもらうための大切な行程の1つだ。
 滝川の場合、絵コンテは、途中何度も描き直しながらまとめていくので、これを他の人間に頼むとなると、相当時間がかかることになりそうだ。
 滝川の仕事の優れていることのひとつが“仕上がりが早いこと”なので、それも今後はそうもいかなくなるだろう。
 滝川は全身に倦怠感を感じて、タバコをキューっと吸い込んだ。
 長かったタバコが、一気に半分まで燃える。
 滝川が灰をベンチ横の自立式灰皿に弾き落とした時、村上が屋上にやって来た。
「お疲れ様でーす」
 反射的なのか、そんな挨拶をしながら、村上が近づいてくる。
 滝川は傍に立つ村上を見上げ、「ミツは?」と訊いた。
「ミツさんは一旦家に帰りました。かねこで夕飯仕入れて、また来るそうです」
「ふーん、そっか。今日の献立、何かな〜?」
 滝川が呑気な声でそう言うと、滝川の隣に座った村上は、「毎日かねこの特製弁当食えて、羨ましいっす」と言った。
 隣で同じようにタバコを吸い始めた村上に、滝川は気になっていたことを訊ねた。
「それで、ショーンの次のシングル曲は誰がPV作ることになった? 映像素材の引き渡しは済んだのか?」
 それを訊いた村上は少し驚いた顔をして、目をパチパチとさせた。
「あれ? ミツさんから聞いてないんですか?」
「何を」
「ショーンったら、新さん以外の人に制作を頼むつもりはないって」
「は? そんなこと言ってたら、スケジュールが狂うじゃねぇか」
「そうです。だからアルバム出すのを一旦凍結するって言っちゃったんですよ、あの人。ノートで」
 滝川はゴクリと唾を飲み込んだ。
 ふいにタバコの熱気を指に感じて、慌てて短くなったタバコを灰皿に投げ入れる。
「あの暴れん坊、そんなこと言いにわざわざ小型ジェットレンタルして来やがったのか」
「まぁ、そうですね」
「久保内は怒り狂ってただろ」
「ええ。表面上はなんとか体裁を保ってましたが、そりゃぁもう」
 滝川は、珍しくため息をつく。
「久保内を怒らせるのはマズイ……。ああいうタイプは根に持つんだ」
 村上が、また“およっ”とした表情を浮かべて、滝川の横顔を見る。
「新さん、そんな政治的な動きを気にすることもあるんっすね」
 滝川は恨めしそうに村上を横目で見ると、「ショーンが立場的に微妙になるから言ってんだろ」と低い声で答えた。
「いくらドル箱だからって、レーベルとドンパチするのはショーンのためにならない。ましてその原因が“俺”だなんて、バカげてる」
「だからミツさんは予定通りプロジェクトを進めるって宣言したのかもしれないですねー」
 村上の発言に、今度は滝川が目を丸くした。
「どうやって? 百歩譲って俺のことは置いておいても、アイツ毎日病院に来てるぞ。撮影旅行の段取りしながら、いつデザインの仕事をする時間があるんだ?」
 村上は「うーん」と唸った後、「今はデザインの仕事、できてる気配はないですね」と続けた。
 滝川は左手で顔を擦ると、「なんでどいつもこいつも、無茶なことばっか言ってんだ?」とグチた。
「それは皆、新さんのことを大切に思ってるからじゃないっすか?」
 村上は当たり前のようにそう言った。
「だって俺が新さんと同じ状況に置かれたとしても、ショーンは多分あんなこと言わないし、ミツさんもここまで献身的に面倒をみてくれないと思いますもん」
「そうだな」
「 ── いや、そうもあっさり断言されると、ちょっと……」
 滝川は、ブツブツ呟く村上を置き去りにして、新たなタバコに火をつけた。
 しばらくタバコを吸った後、滝川は天を見上げ、呟いた。
「要するに俺が、とっとと手を治して、さっさと退院しろってことなんだな」



 定光は電話を置くと、ほっとして肩の力を抜いた。
 隣のデスクにいる由井に、「サウスジョージア島の撮影許可がやっと降りました」と告げると、「お疲れさん、よかったな」と声をかけられた。
 滝川の入院生活が始まってから、かれこれ4週間経っていた。後半の撮影旅行までは、後3週間というタイミングである。
 難航していたペンギンコロニーの中での撮影許可を取り付けることができ、あとは移動手段の細かな確認と参加者全員に最終的な予定の告知をすれば準備は整う。
 この分なら、出発までにシングル曲のジャケットデザイン作業に時間が裂けそうで、そういう意味でも定光はホッとしたのだった。
 滝川の件についても、理学療法士からは「彼はよく頑張ってくれています」との話をされていた。
 面倒臭いことを極端に嫌うあの滝川が、珍しく真面目にリハビリに取り組んでいるらしい。
 そのせいか、全く動かなかった右手が少しだけ指が動くところまで回復しているらしく、その点についても定光の心は少し明るかった。
 撮影旅行には間に合わないかもしれないが、滝川があと1ヶ月の間に退院できて、不自由なところがあっても会社に出てくることができれば、編集技術スタッフの手を借りてPV制作が進められるかもしれない。
 後半の撮影旅行に滝川が帯同できないとしても、逆にその間、制作の時間に当てられる。撮影旅行チームとしては、今回滝川がシンシアの娘サラの面倒を見られないのが少々痛手だが、そこは残った人間でなんとかしなくてはいけない。滝川があれだけ頑張っているのだから、こちらも頑張らなくては、と定光は思う。
 それに撮影旅行の最後は日本での撮影なので、前ほど長い期間海外に出るわけではない。
 あんな酷い事態に遭遇した割に、プロジェクトは正常なリズムへと帰ろうとしていた。
 
 
 その日の午後、滝川用の弁当をかねこからピックアップして、定光は病院に向かった。
 いつもなら、午前中のリハビリを終えて病室に帰って来ているはずの滝川の姿が、病室になかった。
「あれ? どこに行ったんだろう? タバコでも吸いに行ったかな?」
 定光は荷物をソファーの上に置くと、エレベーターホールに向かった。
 突然、かなり慌てた様子の看護師に「ああ! 定光さん、来られてたんですね! よかった!」と声をかけられた。
 定光は不穏な雰囲気を感じて、眉間にシワを寄せた。
「どうかしたんですか?」
「そ、それが……。今朝から滝川さんの様子がおかしくて……」
「え?」
「今もリハビリ室で暴れてるんです」
 看護師のその言葉を裏付けるように、リハビリ室の方向から、ガシャーン!と何かが床に落ちる音が響いた。
 定光は反射的に走り出し、リハビリ室に入ると、若手の男性理学療法士二人がかりで身体を掴まれている滝川がいた。
「滝川さん、落ち着いてください!」
「うるせぇ! 離せ!」
「まずはその手を治療しないと!」
 滝川担当の理学療法士がそう言ったので、定光はギョッとして滝川の右手に目を凝らした。
 確かに、滝川の右手のひらは赤い血が広範囲に滲んでいた。
 真新しい丸い火傷の跡がいくつも。
 定光は背筋に悪寒が走った。
 以前のことを思い出した。
 しかもあの時はひとつだけだったが、今回はいくつも……それも火傷の跡が幾重にもなっている箇所もあり、一体何度滝川が自分の手のひらにタバコを押し付けたのか、計り知れなかった。
「なんで……なんでこんなことになってるんです?」
 定光は自分の声が不自然に震えるのを感じながら、看護師に訊いた。
 看護師は、今朝滝川が病室のドアの前の床で倒れ込むように寝ていたことを定光に告げた。
 いつもなら定光が冷蔵庫に入れている朝食を自分で温めて食べるが、今朝はそれをした形跡がなく、リハビリの時間になっても姿を現さないので、看護師数名で探し、非常階段の踊り場にいたところを見つけてリハビリ室に連れてきたらしい。どうやらそこでポケットに突っ込んで隠していた右手の火傷を発見され、厳しく咎められたことで癇癪を爆発させたらしい。
  ── 夜中の“鍵かけ”がまた出たんだ……
 それは定光も予想していなかった。
 おそらく、滝川のこの取り乱しようからすると、滝川自身も“治った”と思っていたのだろう。
 なぜなら、その原因である母親は、もう死んでしまったのだから。
 病室のドアには鍵がかからないから、一晩中ずっと夢遊病の状態で鍵をかけ続けたのか、滝川の目の下はどす黒くくすんでいた。
「離せ! 俺に構うな!」
 暴れる滝川が、理学療法士達の顔に自分の右手の血を塗りたくった。
「うわっ!」
 二人が同時に悲鳴を上げ、その隙に滝川が廊下に飛び出す。
 その後を定光は慌てて追いかけた。
 滝川の右脚はほぼ回復して、多少びっこは引いていたが、走れるまでになっていた。
「新!」
 定光が名前を怒鳴っても、振り返りもしない。
 ある病室から出てきた女性が持っていた果物ナイフを、すれ違いざま滝川が左手で奪い取るのが見えたので、定光は心底ゾッとした。
 立ち止まって跪いた滝川が、右手を廊下に押し当て、ナイフを持った左手を振り上げる。
 辺りは複数のキャーッという悲鳴が響いた。
 寸前で追いついた定光が滝川の左手を思い切り叩いて、ナイフを床に落とした。そのまま足でナイフを遠くに蹴りながら、ナイフに掻きつこうとする滝川の身体を背後からひっ摑んだ。
「新! 落ち着け!」
「嫌だ! 触るな! 誰も俺に触るな!」
 以前より筋力が落ちている様子の滝川は、何とか定光だけで押さえ込むことができたが、滝川の様子はおよそまともでなかった。
 全身がガタガタと震え、目はギョロリと見開かれて、どこを見ているか定まらない。フーフーッと興奮した様子で荒い呼吸を吐いた。
 そして定光は、興奮した滝川に、押さえていた左手をガブリと噛まれる。
「 ── ッ!」
 痛みに定光は顔を顰め、周囲からはまたキャーッと悲鳴が上がったが、定光は決して滝川の身体を押さえる力を緩めなかった。
「安定剤! それから、西田先生を呼んできて!」
 定光の後を追ってきた看護師がそう叫ぶ。
「定光さん、アナタ、大丈夫!?」
「大丈夫です……。早く……、早く安定剤を……」
「今準備してる。もうすぐよ」
 そうしていたら、急に滝川の身体から力が抜けた。
「新?」
 定光が滝川を見下ろすと、目に一杯涙を溜めた滝川が、「ババアから逃げられない……。俺は一生ババアから逃げられない……」とうわ言のように呟いた。
 そして廊下に伏すと、小さく蹲って、「もうわかんねぇ……。どうしたらいいか、わかんねぇ……」と言いながらさめざめと泣き始める。
 滝川が人目を憚らず衆人環視の中涙を流したのは、初めてのことだった。
 まるで頼りない幼子のように時折ヒクヒクとしゃくり上げながら泣いている。
「 ── 新……」
 定光も掠れた声で滝川の名前を呼び、ポロポロと涙を流した。
 もはや定光でさえ、どうしたらいいかわからなかった。
 まさかあの母親が死んだ後も、滝川の心の病がまったく解決されていなかっただなんて。
 二人まとめて神様から見捨てられたような気になって定光は愕然とし、自分の手の痛みも忘れ、ただ廊下に蹲る滝川を呆然と見つめ続けた。

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編集後記


新年から、かなり厳しい場面での更新と相成りました・・・。

あけましておめでとうございます。
本年も何卒よろしくお願いいたします。

新は完全にパニックを起こしてしまい、ミツさんもどうしていいかお手上げ状態・・・。
このシーンを書いた時は、書いてる国沢も心苦しいものがありました。

最初は軽い気持ちで書き始めた「おてて」も、なかなか重い話になってきております。
なんとか乗り越えてほしいところ。てか、乗り越えていくんですけど。
もう80話も超えてきているのでこの辺でそろそろ終わらせればいいものを、まだ国沢、こねくり回しております(大汗)。
ぜひ、二人の行く末を見届けていただけたらと思います。

さて、国沢はといえば、新年からこれにハマってた。





今更〜〜〜www


いやそれがですね。
ロード・オブ・ザ・リングは大好きでDVDまで持ってる国沢なんですけど、なぜか「ホビット」シリーズには触手が動かずにいたんですよね。
理由としては、

(1)ロード・オブ・ザ・リングのビルボがあまり好きになれなかったから
(2)どうせ、いかついドワーフメインの話で、イケメン萌えができねぇだろ


というなんとも欲に塗れた理由で観てなかったんですよね。

それがここに来て、新年どうしたわけか三部作を一気に観る気になって観たんですけど・・・。


あれ? このビルボ役の人って、ラブ・アクチュアリーで”奥ゆかしい性格なのにベッドシーン吹き替え俳優をしてる”という珍役をとても可愛く演じていたマーティン・フリーマンじゃ・・・。


あれれ? これって、ドワーフ族ですか???(なんだかイケメンに見えるんですけど、気のせいですか???)


ふぁっは〜ん!!
ステキ眉毛ぇぇぇ!!!



・・・・。


すみません、ドハマりしました。

むしろ国沢にとっては、ロード・オブ・ザ・リングよりこっちの方が萌え要素満載でした。 なんでも食べず嫌いはダメですね。

ということで、次週から「おてて」とはまったくもって関係ないんですけど、「ホビット」談義を編集後記で語ってみたいと思います。
なにせ随分前に公開された作品なので、今更感満載だと思いますが、よろしければお付き合いください。

ではまた。

2018.1.7.

[国沢]

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