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この手を離さない title

act.90

  休みが開けて、定光は通常の勤務体制に戻った。
 初日は、出張の後処理で一日中忙殺されてしまい、滝川をリハビリに連れて行くのを村上に頼まねばならなかった。
 滝川は大層機嫌が悪そうで、それを村上に当たり散らしていたが、翌日から定光が滝川と一緒に制作・編集室に篭り始めると、現金なもので途端に機嫌を直した。
 ショーンがシングル曲の発売を延期してくれたお陰で、定光はアルバムジャケット制作に集中することができた。滝川も、ゆっくりとシングルカット予定曲のPV制作に時間をかけられる。
 しかし、滝川は定光が海外に出ている間にも作業をしていたようだが、明らかにその進行具合は、前の滝川とは違っていた。
 やはり遅い。
 定光は、自分の作業に没頭しているふりをしながらも、横目で滝川の作業の様子を盗み見てたが、作業の遅さは歴然としていた。以前の滝川が驚異的なスピードで編集作業を行うタイプだったので、余計にそう感じる。
 いくら右手が動くようになったとはいえ、麻痺が完全に治っているわけではない。
 30分ほど作業をすると疲れて握力がなくなるのか、マウスを左手に持ち変える。しかし左手だと利き手ではないため勝手が違うのか、スムーズに作業ができない。
 滝川は頭の回転がとにかく早いので身体の動きとのギャップが相当あるのか、舌打ちを頻繁にしている。そして1時間もすると身体の疲れが耐えられなくなるのか、床に転がって寝始めた。
 滝川が受けたダメージはやはり相当深刻なものなのだ。
 定光は上着を脱いで滝川の身体にかけると、部屋の片隅にこれまで見たことがなかったサンドバッグに目をやった。
 ただでさえ狭い編集室なのに、それは異様な存在感で天井からぶら下がっていた。
 最初部屋に入った時に目に入ったのだが、あえてそれには触れなかった。
 定光は、サンドバッグに近づいて、少しそれを揺らす。
 ふと背後の壁に影が見えてサンドバッグを寄せると、壁に拳大の穴が開いていた。
 定光は床の上で眠る滝川を見下ろす。
 明らかに滝川が開けた穴に、彼のジレンマが現れていた。
 実は村上からも、定光が海外にいる間、あの“鍵かけ行動”が出ていたことを聞かされている。
 いくら滝川ともうあの母親のことは気にしないでいこうと気持ちを確かめ合っているとしても、いつまた滝川の気持ちが途切れてしまうかわからない。
 定光は溜め息をつくと、自分の作業に戻った。
 
 
 ついに、ショーンとジェーン・モリーンとのデュエット曲の放送とPVの公開が解禁された。
 大方の予想通り、映画の予告とも相俟って、それは瞬く間に全世界の話題を独占した。
 ショーンとジェーンが映画のキャラクターを彷彿とさせる衣装を身に纏い、叶わぬ悲恋を連想させる切ない歌を口ずさむ姿はとても美しく、印象的だった。
 前回の滝川が制作したPVでも多少コスプレチックな扮装を見せたショーンだったが、ここまで本格的なものは前例がなく、それもまた話題の盛り上がりに火をつけた。ロックアーティストとしてショーンを高く評価しているファンの中には否定的な意見をツイートする者もいたが、それもまた話題を盛り上げる一役を担い、ネットではしばらくこの曲の話題で持ちきりとなった。
 一方ノートには、世界中から問い合わせのメールがひっきりなしに届いた。
 ショーンの今回発表した曲の具体的な発売日と、更に映画のサントラでしか発売されないのか、という問い合わせが多かった。
 全てショーンが狙った通りだ。
 シングル曲を出すのと匹敵する……いやそれ以上の効果を上げていた。
 アルバム発売まであと1ヶ月というタイミングで、最高のマーケティング効果を発揮した。
 その間、滝川と定光はと言うと………。
 
 
 定光が完成したアルバムジャケットのカンプをテーブルの上に広げると、ノートのミーティングルームは「おおー」とどよめいた。
「フロントデザイン案は3案ありますが、僕としては1案目をおすすめしたいと考えています。ショーンやエニグマ側とご検討をお願いします」
 定光がそう言うと、正面に座っていた久保内は大きく頷いた。
「確かに定光君の言う通りだな。検討する必要もないように思うけど、一応伝えておくよ」
「ありがとうございます」
「しかしそれにしても……」
 久保内は、ジャケットデザインやweb用のデジタルブックレットのデザインを眺めながら、難しい顔つきで左右に首を振る。
 てっきり批判されるのかと身構えた定光だったが、久保内の反応は違っていた。
「期待以上の出来だよ。あの時撮影した写真が、これほど印象深い色に仕上がるなんて思ってもみなかった。僕も感慨深い」
 撮影旅行に参加して以来、久保内の雰囲気も大分変わったようだ。
 自分もショーンのチームの一員であるという気持ちがより強くなったのか、熱量を感じる対応に変わっていた。今も彼は、前のめりで定光のデザインを見つめた。
「昨今のJ-POP業界ではあまり見られないような雰囲気のデザインだが、逆に新鮮に感じる。ショーンもきっと二つ返事を送ってくるだろう。楽しみに返事を待っていてくれ」
 久保内にそう言われ、定光は笑顔でノートを後にした。
 ノートの社外に出た定光は、ふぅっと深呼吸する。
 一先ず、うまくいった。
 ショーンとエニグマからの返事がこないうちはまだ安心できないが、あの様子なら大丈夫なような気がする。
 定光が胸を撫で下ろしていた矢先、村上から電話がかかってきた。
 社用車のドアに手をかけていた定光は、嫌な予感がしてスマホをタップした。
 本来なら、今頃村上は滝川のリハビリに付き合って病院にいるはずだ。
 車に乗り込みながら電話に出ると、案の定村上の焦った声が聞こえてきた。
『ミツさん、すみません。ちょっと目を離した隙に……』
「どうした?」
『どっかに行っちゃいました……』
「今お前どこだ?」
『まだ病院です〜……』
「病院内でいなくなったってことか?」
『はい〜』
 定光は唇を噛み締めながら、考えを巡らせた。
「屋上見たか?」
『見ました〜。今も屋上にいます〜』
「近くのコンビニは? タバコを買いに行ったんじゃないか?」
『タバコはフル満タンで持ってました』
 定光はウーンと唸る。
「一先ず打ち合わせは終わってるから、そっちに向かう。念のため、非常階段の方も見ておいてくれ」
 村上の二つ返事を聞きながら電話を切って、定光は車のエンジンをかけた。
 
 
 結局、リハビリ病院内でついぞ滝川の姿を発見することはできなかった。
 病院スタッフも忙しい中探すことを手伝ってくれたが、思い当たる場所には姿がなく、最終的には病院入口の警備員が、滝川が歩いて病院の外に出た姿を見かけていたことを突き止めてくれた。
「会社に帰ったんですかねぇ」
 心配げにそういう村上に定光は「そうかもな」と言いつつ、およそそんな気分にはならなかった。
 会社に電話をかけたが、案の定滝川は会社に戻っていなかった。
 滝川は身体を壊す前にも、一人でふらりとどこかに居なくなることは多かったので、それと同じようなことなのかもしれないが、何となく胸騒ぎがした。
「リハビリ受けてる時の様子はどうだった?」
「機嫌は悪かったですけど、リハビリする時はいつもそんな感じだし……。強いて言えば口数が少なかったでしょうか」
「うーん。それはあんまりいい傾向じゃないな……」
 定光は、午前中の滝川の様子を思い出しながら、そう呟いた。
 不安を感じながらも一旦会社に戻って、滝川行きつけの店や友人らに電話をかけ始めた。
 
 
 滝川の行きつけだったクラブ『ラ・トラヴィアータ』のVIPゾーンに、もはや滝川の見知った顔はいなくなっていた。
 だが相手はそうでないのか、滝川の姿を見ると露骨に嬉しそうに絡んでくる奴らもいたし、ヒソヒソと内緒話を始める者たちもいた。
 滝川は背筋を沸き上がってくる寒気を感じつつ、時折よろめきながら、VIPゾーンでも目立たないボックス席に転がり込んだ。
「ねぇ、どうしたのぉ? せっかく久しぶりに会えたのに、新、冷たいじゃぁん」
 見覚えのない裸同然の格好をした若い女が、滝川の身体に引っ付いてくる。
「え? 何、どうしたのぉ? 震えてるじゃん。寒いの?」
「酒……酒をくれ」
 滝川は絞り出すようにそう言った。
 女は、「いつも飲んでたヤツね」と答えて、そこら辺にいるボーイにバーボンの銘柄を告げた。確かにそれは以前の滝川がよく飲んでいたものだったから、一応自分と関係のあった女なのだろう。
 だが今の滝川には、どの女も顔がのっぺらぼうに見えて、誰が誰やら判別がつかなかった。
 病院のリハビリ室で、母親によく似た声の女性に遭遇した。
 最初は努めて気にしないでおこうとしたが、それでも女性の高笑いの声を聞いた瞬間に、フラッシュバックが起こった。
 目の前に突如母親の姿が現れ、滝川を嘲笑った。
「あなたは、私がいないと何もできないダメ人間なのよ。あなたの大切な“先生”とかいうアバズレも助けることができなかったじゃない」
 母親はそう言って、勝ち誇ったように笑った。
 そこから先の記憶がない。
 気づいたら、この店の前にいた。
 理由はわからない。あの母親が絶対に近づかないタイプの場所だからだろうか。
 取り敢えず、酒でなんとか恐怖感をごまかしたいと思い、滝川は青白い顔色のまま、乱暴な喧騒の中に身を潜り込ませた。
 鼓膜に突き刺さるような大音量の音楽が逆に心地いい。
 柔らかめのソファーが震える身体を包み込むようにして受け止めてくれたので、滝川の気分は少し落ち着いた。
 しかし滝川が酒が来るのを待っている間に、様々な人間に取り囲まれてしまった。
 彼らが自分に対して何を話しかけているかてんで耳に入ってこなかったが、誰もが笑って、滝川の肩を叩いてきたり、自分のスマホで何やら写真を見せてきたり、中には滝川とツーショットの自撮り写真を撮影しようとしてくる者までいた。
 いつもの滝川なら、勝手に身体を触ってこようものなら腕力でそれを阻むところだが、全身が震えて力が入らないのと、気分の悪さで、弱々しく手で払う程度しかできなかった。しかしそれも、騒がしい彼らの騒ぎの中に埋もれていってしまう。滝川の具合の悪さに気をかけてくれる者など、ここには誰もいなさそうだ。
 テーブルに酒の入ったグラスが運ばれてくると、滝川は縋るようにそのグラスを掴んだが、麻痺している右手のせいで床に落としてしまった。それを一斉に笑われる。
「どうしちゃったんですか、新さん。別の店でもう酔っ払って来ちゃったんですね」
 一際近くに座っていた男に大声でそう言われ、滝川は顔を顰めつつ、耳を塞いだ。
「なんだか、本当に具合が悪そう」
「顔色は真っ青だし」
「ガタガタ震えているわ」
 ふいに吐き気を催し、ゴホゴホと咳き込むと、「やだ、咳き込んでる。かわいいー」と言われ、また一斉に笑い声が上がった。
「そんなに気分が悪いなら、これを吸った方がいいわ」
 妖艶な微笑みを浮かべた美女が、紫煙を上げる紙巻タバコを滝川に差し出す。
「いい気分になって、また私達と遊びましょうよ。あなたのセックスはいつだって最高だったもの。これを吸えば、一発でハイになれるわ……」
 滝川は両手で頭を掻き毟った後、目を開けた。
 どこかで焚き火を燃やすような田舎臭い香りを感じながら、滝川は差し出された紙巻タバコをぼんやりと見つめた・・・。

 

この手を離さない act.90 end.

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編集後記


年度末でなかなか立て込んできました(汗)。
今週家に少し仕事を持って帰ってきてしまったので、ウォーキング・デッドの続きもまだ見られてないです(汗)。
新さんがピンチの状態でなんなんですけど、次週は休みがない状態になるかもしれないので、更新お休みになるかもです・・・。
てか、いろんな意味で私がピンチだっていうね(笑)。

2018.3.18.

[国沢]

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