act.38
翌週、定光は機上の人となった。
定光の企画が正式に採用された後、定光のイメージスケッチを元にショーンの衣装の吟味をしていたのはエニグマ側だった。週明けにエニグマ側から衣装の候補の選定が終わったので、実際にショーンに着せて衣装合わせをするから、立ち会ってほしいとの打診があったのだ。
NYまでの旅費はエニグマ側が負担してくれるという破格の条件だった。
定光はエコノミークラスの席で充分だと先方に伝えたが、どういう訳か今はビジネスクラスの席に座っている。
どうやら定光の隣で大口を開けて眠っている男が、「ビジネスじゃねぇと行かねぇ」と天下のラクロワにごねたらしい。
確かにエコノミーとは比べものにならないくらい座席もサービスも段違いだったが、所詮は庶民の定光としては、些か場違いな空気感を感じてしまった。だが、隣の滝川は一向に動じるでもなく、ガースカ眠り込んでいる。いつもは眠りが浅い癖に、大層心地よく眠っているのが余計腹立たしい。
定光が足先で滝川の足をやや強めに小突くと、滝川は「んが」と変な声を上げて体勢を変え、身体を抱き込むようにして寝てしまった。
定光は溜め息をついて、窓の外に目をやった。
実のところ、定光はあまり海外出張は経験が少なかった。
これまで海外と関係する仕事は、英語が堪能な由井が担当することが殆どで、滝川の仕事で海外に出る必要がある仕事もその部分は由井がサポートしていたこともある。
だが今回は、定光自身が制作の肝の部分を担っているので、必然定光自身が出て行く必要があった。
とはいえ、やはり実際に相手側のホームグランドに言葉の壁を抱えたまま飛び込んでいくのは少々不安だ。
その点、滝川が傍についていてくれるのは心強いのだが……。
しかしそれにしても、滝川のエニグマ……ひいてはエレナ・ラクロワに対する太々しさはどこからくるものなのだろうか、と思う。
しかもそれが気に入られている節があるから、なんとも謎は深まるばかりである。
どうもラクロワとはかなり頻繁にメールのやりとりをしている様子が伺える。しかもその内容は、仕事に関するものというよりは完全にメル友といった風情だった。しかも、ショーン・クーパーとも同じようにやりとりをしているようだから、最近の滝川は常にスマホをいじっている印象がある。
その物怖じのなさに、定光は本当に頭がさがる思いがした。自分はおろか、職場のどの人間もそんな芸当は到底無理だ。ちゃらんぽらんさで言えば、滝川といい勝負を繰り広げている笠山でさえ、難しいだろう。滝川なら、下手したらローマ法王を相手にしても同じアプローチの仕方をするのではないかと、思わせるほどの大胆不敵さがあった。
度量が広いといえばそれまでだが、一方で変に小さなことでごね捲るから、一概に器がデカいというわけでもない。本当に読めない男だ。
長いフライト時間を過ごし、ジョン・F・ケネディ国際空港に到着すると、エニグマ社から迎えの車が来ていた。
滝川は広い空港内であっさりとそれを見つけると、もたもたしている定光の荷物をさっさと車のトランクに突っ込んで、「早く乗れ」と定光を促した。
車の後部座席に二人して乗り込んでからも、運転手であるエニグマの若いスタッフと、まるで初対面とは思えない雰囲気で滝川は会話を交わした。
定光は英語がからきしダメだったが、ここ最近の滝川のレッスンのお陰で、ところどころ会話の内容が理解でき、意外に滝川のレッスンが的外れでないことがわかった。
こうして英語圏に来ると、滝川は日本にいる時より更に活き活きとしているのがわかる。
やはり幼少時代の苦い思い出がある日本では息苦しいのかもしれない、と定光は機嫌良さそうに会話を交わす滝川の横顔を見つめつつ、そう思った。
それを思うと、定光は些か重い気分になる。
滝川を辛い日本に雁字搦めにしているのは、他ならない自分だからだ。
もし滝川が自分と出会わなければ、あの歪んだ愛情を今も燻らせている母親のいる国に帰ってくることはなかった。
滝川の母親は、会社に押しかけてきたあの一件以来姿を見せていないが、危険が全くなくなったという訳ではない。滝川は今もそのリスクを冒しながら、日本にいる。
それを思うと、なんだか自分が途轍もなく悪い存在のような気がして、定光は唇を噛み締めた。
ふいに脇腹を滝川の肘に小突かれる。
「いて」
定光が脇腹を押さえると、滝川は眉間に皺を寄せながら「何考えてたんだ?」と言ってきた。
定光のことを見ていないようで、実はしっかりと見ているから始末が悪い。
定光は車窓の外に目をやりながら、「英語、やっぱりよくわかんないと思ってさ……」と呟いたのだった。
定光と滝川がエニグマ本社に着くと、5階にあるエニグマの編集室でエレナ・ラクロワ自らが出迎えてくれた。
編集室の奥では、既に到着していたノート側の担当スタッフ二人が、エニグマ側のスタッフと軽い打ち合わせを行っている。そのピリピリとした雰囲気に、定光は若干顔を強張らせた。
しかし当のラクロワの雰囲気はまるで違っていた。
「ようやく実物の貴方に逢えたわ」
ラクロワは意外に柔らかな笑顔を浮かべると、真っ先に定光を抱き締め、頬にキスをした。
思ったよりも優しげなその仕草に、定光は思わずほっとして身体の緊張を解く。
"氷の女帝"というイメージをなんとなく抱いていたので、少し拍子抜けしてしまった。
ラクロワは定光が想像していたよりもずっと小柄で、穏やかに話をするエレガントな女性だった。
「初めまして……」
定光がたどたどしい英語で挨拶をすると、まるで息子を見つめる母親のように、定光の頬を優しく撫でた。
「笑顔が素敵ね。フライト、疲れたでしょ?」
「あー……、そ、それほどでも……。それより、エニグマ本社に来たことの方が緊張しちゃって……」
定光の英語は随分危なっかしい感じだったが、ラクロワは根気よく定光の言うことを聞いてくれた。滝川も不思議と途中で口を挟んでこない。
ラクロワはにっこりと笑うと、「少し休んでもらってからと言いたいところだけど。私の時間が押しているの。申し訳ないけど、例の衣装を見てもらえるかしら」と言った。
その途端に、周囲のスタッフが忙しなく動き始める。
一気にその場の雰囲気が"戦闘モード"に変わったので、定光も再び身体を緊張させた。
やはりラクロワは仕事に厳しい女帝なのだ。
定光と滝川は、下の階のワードローブルームに連れて行かれた。
その道中のエレベーターの中で、定光は恐る恐るラクロワに話しかける。
「あの……」
「なぁに?」
ラクロワが柔らかな笑顔を定光に向ける。
「ロータスの写真、本当にご自宅に飾られてるんですか?」
定光が多少文法を間違えながらもそう訊くと、ラクロワはパッと表情を明るくした。
「ええ。主人もお気に入りなのよ。まるでラファエロの絵画のようだと言ってるわ」
その発言に、定光は目を白黒させた。
まさかラクロワが旦那さんと二人であのポスターを眺めているとは、思ってもいなかった。
だが冷静に考えるとラクロワは確かに結婚しているのだから、家にご主人がいるのは当然のことだ。
確かラクロワの夫は著名な映画監督で、アート性の高い少々難解な映画を撮ることで有名な人物だ。
「あら、なにか気まずい雰囲気だけど」
定光の顔色が曇ったことを鋭く見抜いて、ラクロワがそう訊いてくる。
その時になってようやく、滝川が口を開いた。
「コイツ、自分の半ケツ写真をでっかく引き伸ばされたことが不服なんだ」
滝川が早口まくし立てたので、定光にはわからなかった。
定光が日本語で滝川に「今、なんて言った?」と険しい声で詰め寄ると、再度滝川は、日本語で同じことを言った。定光は思わず滝川の腕を拳で殴ると、「当たり前だろ!」と大きな声を上げた。
ラクロワや他のスタッフが笑い声をあげる。
定光は日本語で怒鳴ったにもかかわらず、そのニュアンスは十分伝わったようだ。
ラクロワがその拳にそっと手を添えると、ゆっくりとした口調でこう言った。
「もし貴方のヌードをエニグマのスタジオで撮影できるのなら、私はすぐにでも翌月の表紙を差し替えるように指示を出すわ」
その冗談とも本気とも読めないセリフに、定光はブッと吹き出す。
幸いなことに、それは滝川の方がなぜかNGを出した。
「ミツのヌード写真をエニグマに載せるなんざ、絶対にお断り」
エレベーターから降りて廊下を歩きながら、会話は続く。
「あら、意外にガードが固いのねぇ」
ラクロワが気の抜けた声で言う。
「ミツのケツをエレナが見るのはいいけど、世界中の女共に見せるつもりは毛頭ない」
「ま、恋人なら当たり前の反応ね」
「当然。ミツのチンチン拝んでいいのは、世界中で俺だけ」
「確かに本人を前にするとアラタが猫可愛がりする気持ちもわかるわ。彼、とても可愛いもの」
「羨ましいだろ?」
「フン。そんな軽口私に叩くのは、世界中広しと言えども貴方だけよ」
かなりの早口で会話が続いていったので定光はまったくついていけなかったが、一先ず滝川がヌード写真の撮影を回避してくれている様子だけはわかったので、定光は胸を撫で下ろした。
エニグマのワードローブルームは、一階の奥にあった。
NYの南に広がるアップタウンの只中にあるエニグマ本社の建物は、古風で伝統的な石造りの外観をしているが、その内部は上手い具合にリノベーションされていて、都会的で斬新なインテリアである。
そのビビットで独創的な内部の様子に定光は圧倒され、恥ずかしながらおのぼりさんのように、周囲を熱心に見て回った。
やはりここは、世界の流行の発信基地なのだと痛感させられる。
すれ違うどの社員もただならぬ雰囲気を漂わせており、和やかながらも厳しい空気が張り詰めていた。
広い倉庫のような様相のその部屋は、毎日届くブランド服を保管している広大なクローゼットブースと、モデルがフィッティングする小さな複数のブースが背の高いパーテーションパネルで仕切られていて、他のフロアより随分実務的で無愛想な内装だった。
定光は、その中でも一番大きなフィッティングブースに通される。
そこには既に古風な衣装をまとった6体のボディトルソが並んでいた。
「本当はショーンに実際に着てもらうところを私も見たかったんだけど、今日はC市のスタジオから来られないって言ってきたのよ、あの子」
ラクロワが腕を組みながら肩を竦める。
そんな愚痴めいた声を聞きながら、定光は滝川以外にもラクロワに強気な態度を見せる男がこの世の中にもう一人いた、と内心身を震わせた。
「恋人の誕生日が近いからって、何としてもプレゼントする曲を完成させたいんだって。まったく、仕事ってものを甘く見てるんだから」
溜め息をつくラクロワに、滝川がニヤニヤしながら、「ショーンをそんな風に甘やかして育てたのは、他ならぬアンタだろうがよ」と言う。
ラクロワは図星をつかれたのか、恨めしそうに滝川を見た。
「どうもあの子は、よその子のような気がしないのよ。私自身が子供を産んでいたらと思ったら、自分のダメ親さ加減にゾッとしたでしょうよ」
ラクロワには子供がいないはずだから、ショーンは実子のように思われているのかもしれない。いずれにしても、ラクロワの意外な一面だった。
「とにかく、ミスター・ミツの一番イメージに合う衣装を選んでほしいの。私は午後にフランスに発たなくてはいけなくなってしまったので。申し訳ないけど、ショーンのフィッティングはC市に飛んでもらってしなきゃダメね。あの子、曲ができるまでテコでも動かないはずだから」
定光達にとっては予想外の展開だったが、C市にあるショーンのプライベートスタジオに行けるのは願ってもないチャンスだったので、それは嬉しい誤算だった。
しかもC市に向かう手立てもエニグマ側が既に整えておいてくれているようで、何とも段取りがよかった。
定光は、ファッションのプロ達の目が見つめる中、6着の衣装と対峙した。
本物のアンティークと思しきものから、最近になって仕立てられた映画用の衣装と思しきものまで豊富なバリエーションだったが、方向性はそれぞれに特徴があり、かえって選びやすかった。
中には華やかな仕立てのものもあったが、定光は直ぐに一番硬派なデザインものを選んだ。それは6着の中でも一番質素で素朴なデザインのものだった。
世界のトップスターであるショーン・クーパーに着せるには地味すぎると捉えられてもおかしくない選定に難色を見せるエニグマスタッフもいたが、ラクロワはいたって上機嫌で、「わかりました」と返事をした。
「そうと決まれば話は早いわ。ショーンの身体のサイズに合うように手直しをして、仕上げは向こうで行ってちょうだい。それが終わったら、同じものを予備として2着用意して」
ラクロワは穏やかだが的確に指示を出す。
決めたのは定光だったが、難色を示すスタッフが複数人いたので、少々おろおろとしてしまった。
自分の直感を疑うつもりは毛頭なかったが、それも客観的に見て不適格なら、違った意見も聞き入れるべきだと思ったからだ。
だがラクロワはどこ吹く風で、不服そうなスタッフ達を一瞥だけで黙らせると、「後はお願いね」と一番側近のスタッフに言付けて、部屋を出て行こうとする。
その際、不安そうに立っていた定光の側に近寄ると、そっと耳に顔を近づけてラクロワはこう言ったのだった。
「今回の企画のコンセプトなら、私も絶対にあのデザインしかないと思っていたわ」
この手を離さない act.38 end.
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編集後記
新年から大人シーンのみの更新となっておりましたので、今週やっと通常の更新となりました「おてて」でございます。
先週の大人シーンをお読みいただいた方ならお分かりだと思いますが、13年間乗ってきた愛車が突然ぶっこわれて、その余波が現在までも私生活に影響を及ぼしております・・・。
ええと・・・一日一回動かさないと翌日バッテリーが上がるので、用もないのに土日はドライブに強制ライドしないといけないという(笑)。
新しい相棒は来月19日に納車なので、それまで日中の更新作業が難しい状態でございます(汗)。
微妙にご迷惑をおかけいたします・・・。
さて「おてて」は、ついにアメリカ大陸に上陸でございます。
現在、アメリカはトの字の方のご乱心で右往左往しておりますが、「おてて」の方は、そこら辺の時事ネタは割愛させていただいて(汗)。
国沢も久々の海外ネタを描くことになって、若干緊張しております。
上手く書けるかなぁ・・・。
それではまた。
2017.1.28.
[国沢]
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