act.45
── ゆっくり休んでね。
ショーンは夕食後、定光と滝川を元いたスタジオビルのプライベートルームに案内すると、いつかのお返しとばかりにいろいろと二人の世話を焼いて、羽柴との愛の巣に戻って行った。
表向きの"ショーンのプライベートルーム"は広さも充分で、ちょっとしたホテルの一室のようだった。洗面台やバスルームは部屋のすぐ側についている。滝川によると、こういう部屋の作りは欧米では珍しくないようだ。奥にはミニキッチンまでついていたので、ここで篭って生活しようと思えばやっていけそうな設備は一通り揃っていた。
ショーンが言うに、ショーンの父親や叔父さん、学生時代の友人など、ごくごく限られた人間しか使わせていないらしい。エニグマのスタッフ ── それはエレナや理沙も含む ── ですら、ここには泊めないと言われ、定光はひどく恐縮してしまった。
なぜなら、立場上、定光もエニグマのスタッフと同じような立場だからだ。
だが、ショーンはそんな風には思っていないらしい。いや正確には、滝川に対してそう思っていないと言った方が正しいのかもしれない。
夕食後も、滝川はショーンとさも旧年来の友人のようにギター談義に花を咲かせていた。滝川が意外とショーンのマニアックなギター話にきちんとついて行っていることに、定光は目を丸くした。どうやら滝川は、ショーンとネットで十二分に仲良くなっているらしい。
ショーンといいエレナといい、相手がどんな立場の人間であろうと自分の態度を変えることなく渡り合っていく滝川の姿勢は、時にヒヤヒヤもするし時に尊敬もする。
今回の訪米は、その効果がいい方に出ているようで、定光は安心した。
この分なら、明日定光が帰国しても、そんなに心配をせずとも大丈夫かもしれない。
なぜなら定光の目には、アメリカにいる滝川の方が、活き活きして見えたからだ。
── やっぱ、こっちの水の方が合ってるのかな……。それか、ここには母親の手が絶対に及ばない安心感がそうさせるのか。
定光は、明日に向けて自分の分だけの荷造りを整えながら、そう思った。
「お前もシャワー浴びてこいよ」
そう言いながら、滝川がバスルームから出てきた。
スーツケースの蓋を閉めながら定光が滝川に目をやると、滝川の様子にギョッとした。
全裸のままバスルームを出てきた滝川は、身体から水滴をボタボタと滴らせ、彼が歩く度に上質なカーペットに足跡がついて行った。
「 ── ちょっ、お前、ちゃんと身体を拭いてから出てくるようにいつも言ってるだろ?!」
定光は滝川の手からタオルを奪い取ると、乱暴に滝川の全身を拭いた。
「いってぇ」
「うるさい! しのごの言うな!」
定光はぴしゃりと言うと、滝川は口を尖らせた。
「俺たちの家ならともかく、ここは人の家なんだぞ! ── まったく、身体を拭き方ぐらい教えてもらわなかったのか」
思わず定光がそう言うと、滝川は無言のまま、定光をじっと見る。
「なんだよ」
「 ── 子どもの頃の癖が抜けねぇんだよ」
「癖?」
「風呂上がりに俺がタオル使うと、ババアに酷く叱られてたから」
滝川はサラリとそう言ったが、定光はその発言にギョッとした。
過去、いつも滝川がびしょびしょで風呂から帰ってくる度にどやしつけていたが、これまで「親に教えてもらわなかったのか?」的なニュアンスのことを言ってきてなかったので、まさかそんな言葉が滝川から返ってくるとは思わなかった。
滝川は、自分が言った言葉が定光にそれなりのインパクトを与えているとは思ってもいないのか、定光の手からタオルを奪い取り、再びそれを首にかけながら、ソファーに座ってタバコに手を伸ばしている。
定光はそんな滝川を見つめた。
滝川の母親が一体どんな気持ちで息子の身体を拭いていたかと思うと、背筋が粟立つように感じる。それを自分が不用意に掘り起こしてしまったんだと、定光は苦虫を噛んだ。
「 ── ごめん」
定光がポツリと呟くと、滝川は「は?」と顔を顰めた。
「なんでお前が謝る訳?」
「嫌なこと思い出させたから」
滝川は一瞬ポカンとした顔付きで定光を見上げると、ヘッと口の端を歪めて笑った。
「何がおかしいんだよ」
「お前、そんなこといちいち気にしてたら、身が持たねぇぞ」
「どういう意味だ」
「俺が持ってる地雷は、そこら中にあるってことだよ。そんなん気にしてたら、なんもできねぇ。だから俺は、気にすることをやめた。俺が平気なんだから、お前が気を使う必要はない」
それを聞いて、定光は思わず鼻の奥がツンとなって、右手で口を覆った。
「そんなに地雷があるのか……?」
「だから、もう気にしてねぇっつってるだろ」
それはウソだと定光は思った。
子どもの頃に受けたショックな出来事は、忘れられない。定光はそうだ。滝川は定光が経験してきたことより何十倍も辛い経験をしてきたはずだ。それを忘れたとは思えない。
定光は滝川をじっと見つめると、こう言った。
「俺は気になるよ。俺が知らないうちに、お前の地雷を踏むこと」
滝川はイラついた表情を浮かべてタバコに火をつけると、乱暴にそれを吹かした。
「だからぁ、それは無駄だっつってるじゃん」
「無駄でもなんでも。俺はヤダよ。気づかないまま、お前を傷つけるのは」
「傷つかねぇって言ってんのがわかんねぇのか? お前の言ったことぐれぇで傷つく訳ねぇだろ、この俺が」
「傷つかない訳あるかよ! 誰が聞いたってひどい話だよ! 俺の前で取り繕うのはやめろ!」
定光がそう声を荒げると、滝川はソファーの前のローテーブルを蹴った。
「取り繕ってんのはどっちだよ?!」
滝川にそうやり返されて、今度は定光が顔を蹙めた。
「は?」
「こっちに来てから、お前、いろいろ考え込んでるだろ。余計なことを」
「え? 何……」
滝川は目を細めて、定光を見た。
「こっちについたばっかの時、お前英語が聞き取れねぇってうそぶいてたけど、本当は意味がわかってたんだろう」
滝川にそう言われ、定光はその時のことを思い返し、ドキリとした。
こちらについたばかりの時、迎えのエニグマスタッフと滝川がテンポよく会話しているのを聞いて、滝川はアメリカにいる方が本来の彼のように思えたのだ。そして自分は、こう思った。
── その滝川を日本に雁字搦めにしているのは、自分なのだと。
「お前その時、何考えてやがった?」
「え……」
定光は言い淀む。
滝川はそんな定光を追い詰めるように、きつい目つきで見つめてきた。
「俺に腹ん中見せろって言うんなら、まずはお前が見せろ」
そう言われ、定光は唇を噛み締めた。
滝川の言うことはもっともだ。筋が通っている。
定光は位置が動いたローテーブルを元の位置に整えると、それを挟んで滝川の向かいに座り込んだ。
「俺がいるせいでお前が日本から離れられないでいるって思ってた」
「は? なんだそれ」
「俺という存在が、お前を危険に晒してるって思ったんだよ」
滝川がはぁーっと一際長い溜め息をついて、頭を左右に振った。
定光は続ける。
「今のところなにもないけど、新の母親があのまま引き下がるとは思えない。お前が日本にいる限り、お前はずっと……」
「 ── ミツ」
意外に穏やかな声で滝川は定光を呼んだ。
定光が口を紡ぐと、滝川はこう言った。
「 ── 俺のことが、重荷か?」
「……いや、俺は……」
「正直に言え、ミツ。俺にウソは言うな。お前だけは」
定光は、再び唇を噛み締めた。
重くないと言えば、それはウソだった。
側にいればいるほど、どんどん大切になっていくし、自分が考えてもいない悩みを抱えることもある。これまで自分でも思っていなかった言動を自分自身がすることもあって、戸惑いも多い。
経験は少ないけれども、それでもこれまで経てきた恋愛ではおよそなかったことだ。
それは相手が同性というせいかもしれないし、扱いにくい滝川だからこそなのかもしれない。
「ミツ」と滝川に再度促され、定光は答えた。
「そうかもしれない」
それを聞いた滝川は、立ち上がって彼の荷物の側まで行くと、くわえ煙草のまま、服を着始めた。チェックのボタンダウンシャツに下着も身につけずジーンズを履く。
「新、お前なに……」
定光が滝川を見上げると、滝川は財布からドル紙幣を数枚抜き取ると、それを腰のポケットに突っ込んだ。
「飲みに行くんだよ。お前は先に寝てろ」
不思議と滝川の声は落ち着いたものだった。もっと感情が昂ぶるまま怒鳴りつけられると思っていたのだが。
定光は返ってそんな滝川に不安を覚える。
「一人で?」
「俺だって一人になりてぇ時もあんだよ」
「でも、この時間からなんて危ない……」
「お前も思ってるんだろ? こっちにいる方が俺には合ってるって。昔俺が住んでたサンディエゴやロスよりずっとこの街の方がまともだよ」
滝川は定光の返事を待たずしてドアを開けた。
滝川は、部屋を出際にこう言い残して行った。「ミツ、もう無理すんな」と。
滝川は、一階出入口の警備員をやり過ごして、ビルの外に出た。
C市はどちらかと言えば南部に近いので、この時期は空気に湿り気があって、夜でも生暖かい。
時間はもうすぐ日付を跨ぐような時間帯だったが、大通りに出ると少しだが人通りはまだあった。やはり治安がいい街だ。
滝川は酒屋を探して大通りを歩き始めたが、すれ違う人達が滝川を舐めるように見ていく。滝川はその視線に閉口して、運河沿いの遊歩道に出た。
滝川が人々の視線を集めたのは、全身しっとりと濡れたまま家を出たせいか、髪の毛も湿っていて、薄いシャツが逞しい胸元に張り付いて一際彼をセクシーに見せていたからだ。見る人が見れば、男娼のように見えたのかもしれない。
滝川はふいに全身に倦怠感を感じて、ベンチに座った。
運河の南側は繁華街が広がっていて、深夜営業をしているバーが集まっている一画だけ明かりが灯って、水面に反射していた。
日中は、ホットドッグや安いペーパーバックの屋台などが立ち並び、ジョギングや散歩を楽しむ市民で活気に溢れている遊歩道も、さすがにこの時間ともなると誰もいない。
滝川は胸元を探ってシガレットケースを取り出し、その後腰のポケットからライターを取り出した。滝川唯一の精神安定剤だ。
しかし、エレナにもらったシガレットは既にあと二本となっていた。
滝川は貴重な高級タバコに火を付け、そのままベンチの上にごろりと寝転ぶ。
夜空は、東京とさほど変わらない。
滝川は、定光が滝川の過去に触れるような発言をすることに対して、本当に気にしてなどいなかった。だが、それをいくら言っても、定光は納得しないんだろうということは、先程のやりとりでわかった。
自分が母親とのことで深く傷つき泣いていたのははるか昔の話で、その後渡米した時にその傷とは決別した。
それでも時折、昔体に馴染んだ感覚が戻ってきて、今の自分に影響を与えていることについての自覚はある。だがそれが再び自分を傷つけているとは思っていなかった。
だが定光は、それを「そうじゃない」と言う。
傷ついていて当然だと。
その感情をはるか昔に追いやったのではダメなのだろうか。
それで終いが付いているのであれば、そんなこと心配する必要もないだろうに。
── 俺がおかしいのか、それともミツがただ頑固なだけなのか。
滝川が「俺が重荷か?」と訊いた時、「そうかもしれない」と答えた定光に、滝川は不思議と腹が立たなかった。
むしろ、定光が可哀想に思えて、同情した。
── 俺みたいな厄介なヤツに目をつけられてなかったら、そんな苦しい思いもしなくて済んだだろうに、と。
滝川は身体を横にして、まるで胎児のように器用に身体を丸めた。
ゆらゆらと揺らめく暗い水面を眺めているうち、涙がぽつりぽつりと浮かんでは落ちていった。
それを指で拭って、滝川はハハハと力なく笑う。
「俺って、ポンコツだからな……」
滝川はそう呟いて、瞳を閉じた。
この手を離さない act.45 end.
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編集後記
新ちゃんがゴネだした。
ま、上の写真はあくまでヴィジュアルのイメージですが・・・。
先週書いた愚痴を今週も引きずっておりまする・・・。
思えばもう45話。
そこそこの長さになってきてるから、もう終盤に突入してもいいはずなのに、ここにきて揉め始めるとは。
とはいえ、新は新で、ミツさんが心底大切だから、彼なりに一生懸命考えた結果の答えなんだろうなぁと思います。やけっぱちになってるんじゃなくて。
でもミツさんは、そういうのを求めてないのよね・・・。
「まっすぐ俺にぶつかってこい」と。
(なんか適当な画像がなかったので、ドラマ「アウトランダー」の画像で穴埋め)
ミツさん、頭の中まで体育会系だから、凄くストレートなのよね。考え方が。
でも新にはそういう思考回路は想像もつかないから、変な気の使い方しちゃってる。
凄い国沢の中でグルグルしちゃって、気持ち悪い・・・(脂汗)。
久々だわ、こんな感じ。
「触覚」のグロいシーン書いてた時、こんな感じしてたような気がする(笑)。
なんだろう、新の精神回路って、メンタル的にホラーな感じなのかしらwww
新って、書けば書くほどよくわかんなくなってくるキャラだわ・・・(汗)。
核心を覗こうとすると、すぐに貝のようにぴしゃりと閉じて見えなくなるし。
きっと国沢の中の引き出しにはない思考の持ち主なんだろうなぁ・・・。
どうしてこんなキャラクター設定しちゃったんだろう???www
すごい振り回されている感。
早くどこかに着地したいです(脂汗)。
それではまた。
2017.3.18.
[国沢]
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