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この手を離さない title

act.22

 滝川が始業時間ぴったりに映像制作部のオフィスに姿を表すと、その場にいた一同が「おー」と、どよめいた。
 このところ、定光を朝会社に送り届けては、自分はふらふらと彼方此方にバイクを走らせていたので、午前中に滝川がまともに顔を出すのは久しぶりだった。
 しかしその後から入ってくるはずの定光の姿がなく、皆怪訝そうに滝川を見る。
 定光は、昨夜滝川を身体の中に受け入れる形でセックスをしたため、朝ベッドからすんなり起き上がれなかった。
 歩けない程ではないが、トイレが近く感じるようで、短い間に行ったり来たりを繰り返していたので、落ち着くまで会社に来るなと滝川が命じた。
 だがそんな理由を正直に言うほど滝川も人でなしではない。
 滝川はオフィス内を一瞥すると、「昨日揉めた件で俺がちょっとボコってきたから、午前中は来れないだろうぜ」と言うと、皆一様に「ひーーーーー」という表情を浮かべて、銘々が自分の仕事に戻っていった。
 滝川がオフィスの片隅にあるソファーに座り、早速タバコを咥えると、そのタバコに村上が火をつけた。
「新さん、本当にミツさんボコったんですか?」
 そう訊いてくるので、「おお、ボコってやったよ」と答えた。心の中で、"エッチな意味で"と付け加える。
「あんまりミツさんのこと、苛めないでくださいよ」
 村上がしおらしくそう言う。
 滝川はチラリと村上を見上げた。
 村上は滝川の向かいに腰を下ろす。
「あの人、本当に新さんのこと好きで仕方ないんですから」
 村上にそう言われ、滝川は柄にもなくドキリとした。
 だが村上はいつものように茶化すでもなく、真面目な顔つきで滝川を見つめてきた。
「今回、仕事を掛け持つって言ったのも、新さんの才能に惚れ込んでるから無理してでもやりたいって思ってるんです。あの人、あんなに柔らかそう見えて、結構頑固ですから」
 社内では、この村上が一番定光の側で彼の仕事を支えてきた。だからこそ、彼から見える風景があるのだろう。
「結局ミツさんが我を押し通した形になってますけど、俺は本気で心配してます。だから新さん、なるだけミツさんの負担にならないようにしてもらえませんか?」
 滝川は鼻からタバコの煙を吐き出し、流し目で村上を見ると、「俺のやり方に口出すなんて、いかにも俺にボコってくれと言わんばかりだな」と返した。
 村上はギュッと目を瞑ると、「それは覚悟の上です! ただし、眉毛以外!」と言って、両手で眉毛を覆い隠した。
 滝川はフッと笑うと、村上の頭をポンポンと軽く叩いた。
 村上が恐る恐るという風に、目を開ける。
 滝川は、タバコをもう一度大きく吹かすと、それを灰皿に押し付け、呟いた。
「アイツが壊れないようにするのが、これからの俺の仕事だ」
 

 その日の午後、やっと体調が回復してきた定光は、自力でなんとか出社した。
「定光さん、お加減悪そうですよ〜?」
 受付嬢二人に心配されながら、三階まで上がる。
 トイレ往復の症状は止まったが、腰がなんとなく重く、気づけば腰に手を当ててしまう。
 それでも滝川がかなり気を使ってしてくれたのでこれくらいで済んでいるが、確かに最初の時、勢いだけで最後までしていたら、今頃定光は肛門科かどこかに通院していたかもしれない。
 定光は一先ず、映像制作部のオフィスに顔を出した。
 アルバムジャケットの方は、定光が先方に提案する企画を考える段階で、提出時期は十日後となっていたから、まだ時間はある。
 終わったの仕事の資料をまとめつつ、ジャケットのアイデアを考える……という風に回すつもりでいた。
「遅刻して、すみません。昨日の今日なのに、ご迷惑をおかけしました」
 映像制作部のオフィスに入るなり頭を下げた定光は、藤岡から顔を覗き込まれ、「よかった、ミツ。無事だったか」とため息をつかれた。
「はい?」
「いや、滝川がボコったって言ってたから……」
「あ。いや、殴られてはいません」
「だよねー」
 オフィス中がホッとした空気に包まれる。
「ところで、その新は……?」
「午前中、早い時間に珍しく笠山さんと二人で出かけて行きましたよ」
 村上がいつの間にか側に寄ってきて、そう言う。
「笠山さんと?」
「そうなんです。犬猿の仲なのにね、あの二人」
「犬猿ってのはさすがに言い過ぎだろ?」
「はい、すみません。うまい例えが見つからなくて、今テキトーに言いました」
 村上はそう言って敬礼したが、村上が言わんとしていることはわかる。
 滝川の仕事のプロデュースは笠山が受け持つことが多いが、いわゆる"いかにも業界人"といった風情のお軽い笠山と仕事に関しては硬派な姿勢で取り組む滝川とは真逆の性格をしていて、互いに互いのことを毛嫌いしていることを日頃から包み隠さず言い合っている二人だ。そこはいつも定光が間に立って、仲を取り持っている。
 その二人が二人だけで行動を共にするのは、今回が初めてのことだった。
「藤岡さん、なんか聞いてますか?」
「いや」
 藤岡も首を横に振る。
「なんだろう……」
 定光はそう呟いたが、ここでこうして頭を捻りあっている暇はない。
 定光は先日残していた仕事を取り敢えず片付けることに専念した。


 滝川と笠山が帰ってきたのは、夕方遅くのことだった。
 二人が帰ってきたことに関しては、取り分け話題にも何にもならないことだったが、滝川が朝とは違って、黒のタイトなスーツに身を包んで帰ってきたことに、受付から社内全体に密かな伝令が走った。
 入社以来、一度もスーツを着たことがない滝川とあって、そのスーツ姿を一目見ようと、一、二階にいた制作スタッフも三階オフィスにいた事務方の連中も、自分達の仕事を放り出して、滝川の姿を走って追いかけた。
 滝川は特徴的な顎髭を生やしたままだったが、漆黒のスーツに白いシャツ、光沢のあるグレイのタイという一見ボヤけそうな着こなしになるそれを、しっかりした胸板で上品に着こなしていた。実年齢より大人びた雰囲気で艶があり、男性特有の色香を纏わせている。
「うわー! メッチャ紳士」
 笹岡がアワアワと口を戦慄かせながら、映像制作部のオフィス前の廊下を歩いて行く滝川を見て言った。
「馬子にも衣装ってよく言ったもんだなぁ。あれで黙ってりゃ、どこかの映画俳優ですよ」
 村上も追随してそう言った。
 定光の隣に陣取った島崎希も、「チョーカッコいい! チョーカッコいい! アタシの目は節穴だらけだった」と叫んでいたが、元々滝川は切れ目もなく数多の女性達にモテていた訳だから、滝川の姿がいいのは今に始まったことではない、と定光は思っていた。
 だが正直、滝川がなぜスーツ姿だったのか、に関しては非常に気になるところだが。
 滝川は映像制作部のオフィスに寄ることなく、そのまま笠山の部屋に篭ってしまった。
 その理由が判明するのは、もうしばらく後のことになる。
 

 その日の夜、定光は午後十時に仕事を終えた。
 これまで溜めてあった前の仕事の事後処理が終わり、これで一先ず滝川が新しい仕事を引き受けるまでは時間が空くことになる。
  ── 明日からは少しショーンの方の仕事に時間が割けそうだ……
 定光は安堵のため息をついて席を立ち、パソコンの電源を落とした。
 既に映像制作部のオフィス内は定光以外の社員全員が帰宅しており、定光は最後の戸締りを確認すべく、ポットの電源や窓の鍵などを見て回った。
 ふいにコンコンと戸口をノックする音がして、定光は振り返った。
 スーツ姿のままの滝川が、戸口に身を凭れかけさせ、立っていた。
 そうしていると、まるでファッション雑誌の一ページのようだ。
「仕事、終わったか?」
「ああ、うん。そっちも遅かったんだな」
「いろいろ笠っちと相談することがたくさんあってさ。まぁ、あらかた問題は解決しそうだわ」
「そうか」
「それでお前、身体の具合は?」
 滝川にそう訊かれ、定光は頬を赤らめる。
「もう大丈夫だよ」
「ん。じゃ、飯食いに行こうぜ。この時間、飲み屋かファミレスしか開いてねぇだろうけど」
 定光は少し目を見張る。
「お前、俺と居酒屋行く気なの?」
 これまで滝川はそれを避けてきたような節があったので、定光は少し驚いたのだった。
 滝川は懐からタバコを取り出すと、それに火をつけながら、「これから晩飯作るの、お前が大変だろ? かといってコンビニ飯は俺がヤダし」しと言う。
 定光はまるで滝川からデートに誘われた気分になって、「うん」と頷いた。
 

 滝川が定光を連れてきたのは、会社から数ブロック先にある西アジア料理の専門店だった。
 定光だってもう何年も千駄ヶ谷に通勤してきているが、こんな店があるとは知らなかった。
「ここなら遅くまで食物のオーダー取ってくれるんだよ」
 滝川が店のドアを開けながらそう言う。
 店内は至る所にアジアンチックな布がかけられ、店の真ん中にある大きな柱には北インドの弦楽器シタールがかけられてあった。
 右側がテーブル席で左側がいかにもな柄の絨毯が敷き詰められた座敷になっており、滝川は迷わず靴を脱いでそちらに上がって行ったので、この店を訪れ慣れているような風情だった。
 定光はメニューを見ても今ひとつ料理の中身がよくわからなかったので、注文は全て滝川に任せた。
 滝川は、ラム肉の辛子炒めと野菜カレー、ナンと数種類の串焼きを選び、飲み物はベルギー製のビールを頼んでいた。
「どうせタクシーで行き来すりゃいい」
 滝川はそう言い放った。
 定光は電車通勤に抵抗はないが、滝川はあの通勤ラッシュがどうも苦手らしい。だからこそのあのバイクなのだろうが、こうしてバイクに乗れない状況になるとすぐに「タクシー」という発想になる。
 サラリーは定光よりずっと多い滝川だが、節制という言葉を知らないので、さほど貯金はないだろう。
「そのスーツ、どうしたんだ?」
 定光は滝川のワードローブにスーツが一着もないことは知っていたので、訊いてみた。
 滝川は二つのグラスにビールを注ぎながら、「今日出先に行く前に買った」と答えた。
「なんでスーツなんか?」
 定光がそう訊くと、滝川は不服そうに両手を広げ、「俺がスーツ着ちゃ悪いか?」と言った。
 一瞬、周囲の客の目が滝川に集まる。
 定光は滝川に顔を近づけると、「スーツ、よく似合ってるよ」と告げた。
 滝川は途端に機嫌を直したようで、「惚れ直したか?」と訊いてくる。
 ここで定光が減らず口を叩くと、またもや滝川が臍を曲げるだけなので、「ああ」と答えてやった。
「このスーツ売ってくれた店、いい店だったぜ。あの澤清順に教えてもらった店だけどさ。いつかお前にも一着買ってやるよ」
 定光が顔を顰める。
「そんな高価そうなスーツ、俺のために買わなくったっていいよ」
 定光がそう言うと、テーブルの下で滝川が定光の足を軽く蹴ってきた。
「わかってねぇなぁ。俺がお前のエロいスーツ姿を見たいんだよ」
 さすがにこの発言には耐えられず、滝川の頭をばちんと叩く。
「イテェ」
「エロいは余計だ」
 定光がそう言った時に、タイミングよく料理が運ばれてくる。
 しばらくは珍しい西アジア料理を食べた二人だったが、ふいに定光は「そんなにしてまで取りたい仕事なのか?」と呟いた。
「あ?」
「笠山さんと出かけたとなると、営業だろ? お前なら営業しなくったって、もう既に数社からオファーが来てる。何もそうまでして仕事を取りに行かなくても……」
「いや。今の俺にはその仕事が絶対にいるんだよ。いろいろ条件が厳しいから、これくらいは仕方ない。その仕事を得られるなら、俺は土下座だってする」
 滝川がそう言ったことに、定光は心底驚いた。
 これまで、滝川が自分からそこまでして仕事を取りに行ったことはない。
 最初の仕事こそ笠山が営業をかけて滝川の仕事を取ってきたが、それから以後は滝川が黙っていても、向こうから仕事が来た。
「一体、なんの仕事……」
「それよりさぁ、部屋、引っ越さない?」
 滝川が定光の声を遮って、そんなことを言い出す。
「は? 引っ越すって、俺が?」
 滝川はマトンの焼き串を頬張りながら、「んー」と頷く。
「だって手狭じゃん? あの部屋」
「お前ねぇ。知ってると思うけど、あそこは単身者向けのマンションなんだよ。ただでさえ大家にバレやしないかヒヤヒヤしてるってのに、なんでお前がデカイ顔してそんなこと言うんだ」
「だから二人で住んでも怒られないとこに引っ越した方がいいんじゃん」
「え……」
 定光はキュッとビールの入ったグラスを握った。
 今度は滝川が、定光の額をペシッと叩く。
「だから、きちんと一緒に住みましょうよっつってんの。間に合わせじゃなくて」
 滝川は「お前んちのベッド、やっぱ狭ぇんだもん」と口を尖らせた。
 確かに、定光の部屋で初めて最後までセックスをした夜は、結局シングルベッドで図体の大きい男二人で眠ることはできず、結局定光はベッドで滝川はソファーでと別々に眠った。
 それは定光にとってもやや物寂しくは感じたのだが……。
 考え込む定光に、滝川が串焼きを差し出してくる。
「しゃんしゃん食えよ。俺が全部食っちまうじゃねぇか」
 定光は串を受け取り、肉に齧りつく。日本の串焼きと違って、いろんなスパイスの味が効いていて、面白い味がする。
 滝川は追加注文したサラダを器ごと抱えてモシャモシャと頬張りながら、言う。
「俺も今の家、処分するからさ」
 その発言に、定光は眉間に皺を寄せた。
「え? あれ、賃貸じゃねぇの?」
「あ? 分譲だけど」
 定光は思わず言葉を失って、串を咥えたまま、ぶらりとさせた。
「別に実家の金じゃねぇぜ。ちゃんと俺の稼いだ金で買ったから、あれ。もちろん、一括なんかで買ってねぇし」
「いや……一括だろうが分割だろうが、普通、二十歳半ばじゃあんなマンション買えないもんなんだぞ」
 定光がそう言っても、滝川は怯まなかった。
「俺、言ってなかったけど、あっちの学校で学生やってる頃から映像の仕事してたし」
「は?」
「ミラーズ社のCMも撮ったことあるよ。クレジットは、バイト先のチーフディレクターの名前にされたけど」
「はぁぁぁぁぁ?!」
 今度は定光が周囲から視線を集める。
「ミラーズ社って、あのミラーズのことか?」
 ミラーズ社はナイキやアディダスに並ぶスポーツウェアの世界的ブランド企業だ。
 特にスポーツシューズについては優れた製品を数多く出していて、定光のクライミングシューズもミラーズ社製のものだ。
 ミラーズ社はいつもスタイリッシュで時代を牽引するようなCMを数多く手がけており、アップル社やGoogle社のような企業らと肩を並べている。
 手がけた本数は少ないとはいえ、そんな大企業のCMを、まだ若い、しかも異国籍の専門学校生が撮っていたとは、定光は心底驚いた。
「まぁ結構前のことだけど。あのチーフディレクター、自分の手柄にするために随分俺に金を積んでくれたからな。お陰でこっちに帰ってくる時の資金は困らずに済んだわ」
 定光は今更ながら、よくぞこんな男が日本の片隅の小さな映像制作会社に就職したな、と背筋を寒くした。このことを果たして山岸や笠山達は知っているのだろうか、と思う。
「 ── あ、別に売らなくても、他に住みたいやつに貸せばいいのか」
 滝川は定光の驚きを無視して、呑気にそんなことを呟いた。
 完全にドン引きしている定光の皿に、残りの料理を取り分けると、
「で、間取りはどうする?」
 と滝川はウキウキした声でそう訊いてきたのだった。

 

この手を離さない act.22 end.

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編集後記


新さん、意外とマメに面倒見るタイプ。
この回書いてる途中で、それに気づいた国沢です(汗)。
「ああ〜、そうなのねぇ」って妙に納得しながら書いてた覚えがあります。
面倒のみかたは乱暴だけど、好きな子に対しては、結構世話を焼きたがる性格なのではないかと感じたので、以後ミツさんの面倒を甲斐甲斐しくみる新の姿が度々出てきます。

あと、どうしても新にスーツを着せたくて、この回を書きました(笑)。
むろん、ちゃんとした理由は後程出てきますが、やっぱ男のスーツ姿、かっこいいもんねぇ。
特に黒のスーツ。


ま、この写真はピンスト入ったスーツですが・・・(汗)。

なお、話の中では出てきませんが、実のところ新は人が知らない間にしっかりと筋トレしている設定です。
でないと、やはりしっかりした胸板の維持はできないよな・・・ということで。
国沢の中の新はこのような↓体つきのイメージですからね。


このレベルだとやっぱ筋トレしないと無理ですよね、多分。

ちなみにミツさんは、好んでスポーツしている間に筋力が維持できているタイプ。
一方新はスポーツするのが面倒くさいので、合理的に短時間で筋肉が鍛えられるジムに行って、短時間で済ませるタイプ。
なので、人の少ない午前中にジムに行って、30〜40分くらい筋トレしてるって想定です。

・・・・。

てか、就業時間中なんだから仕事しれよwww

ではまた〜。

2016.10.2.

[国沢]

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