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この手を離さない title

act.52

 パーティーが引けて。
 皆、三々五々解散をして、銘々の宿泊先に帰って行った。
 定光もショーンや理沙と挨拶を交わし、「じゃ明後日の10時に」と申し合わせて別れた。
 本当はPVの撮影が終わった翌日にアルバムジャケット用の写真素材を撮影する予定となっていたが、ショーンからご指名を受けたカメラマン・シンシアの娘がお腹を壊してしまい、1日だけ撮影を伸ばしてほしいと連絡があったのだ。
 ロドニーの店を出る時に定光はようやく滝川を捕まえた。
 パーティーの間中、滝川はあちらこちらに引っ張りだこで、定光も声をかけるのを控えていたのだ。
 滝川はかなり酒を飲まされているようだったが、それでも泥酔はしていなかった。
 だが全身薄っすらと脂汗を掻いているようだったので、定光は「夜風に当たりに行こう」と滝川を誘った。
「タバコを吸いたいんだろ?」
 定光がそう言うと、滝川は大人しく定光の後をついてきた。
 運河沿いの遊歩道に出て、遅くまで開いていたコーヒースタンドでブレンドコーヒーを二つ買うと、「あそこのベンチに座ろう」と定光が身近にあるベンチを指差した。一瞬滝川はバツが悪そうな顔をして見せた。ひょっとしたら、羽柴が言っていた"滝川が一晩明かしたベンチ"だったのかもしれない。
 だが、ベンチに座って一服タバコを吹かすと、滝川は随分落ち着いたようで穏やかな表情を見せた。実に美味そうにタバコを燻らせる。
 ここ数日、あまりにも作業に没頭し過ぎてタバコの本数も減っていたから、ようやくゆっくりとタバコを味わうことができたのだろう。
 タバコが身体に悪いことはわかっているが、滝川にとっては精神安定剤の役目を果たしているので、定光もタバコをやめろとは言えない。
「落ち着いたか?」
 定光がそう訊くと、滝川は黙ったまま頷いた。
 そのまましばらく二人で黙ったまま、初夏の気持ちいい夜風に吹かれる。時折啜るコーヒーの芳しい香りが疲れを癒してくれるようだった。
 運河の水面がキラキラと輝いて、とても美しい。
 運河の向かいにキスを交わしている恋人達の影が見えて、定光は苦笑いした。
 定光は前を見たまま、切り出した。
「お前、俺が帰国した日、俺にバイバイって言ったろ? ── あれって、どう言う意味で言った?」
 定光がゆっくり滝川に視線を向けると、滝川は鼻から煙を吐き出しつつも、黙って俯いたままだった。
「ひょっとして、俺と別れるつもりでそう言ったのか?」
 滝川はなおも返事をしなかったが、唇の端を神経質にカリカリと噛む仕草を見ると、やはりそう思っていたらしい。
 一瞬定光は胸が苦しくなったが、ここで取り乱しては全てが無駄になると、グッと我慢した。ここに至る前に理沙から励まされていたため、なんとか自分を保つことができていた。
「 ── なんでそう考えたんだ? あの夜のケンカで俺のことが嫌いになったのか?」
 滝川が首を横に振る。
「じゃ、俺に飽きたとか?」
 また滝川は首を横に振る。
「じゃぁ、なんで? 人と付き合うことが面倒くさくなったか?」
 それでも滝川は、首を横に振る。
 定光は内心ホッとしながらも、滝川の考えていることがわからなくて益々不安になった。
 定光は膝の上で拳を握りしめると、大きく深呼吸した後にこう告げた。
「 ── なら簡単に俺のこと諦めないでくれ」
 そこでようやく滝川が定光に目を向けて来る。
「俺はまだお前のこと、諦めたくない」
 定光は滝川を真っ直ぐ見つめ、穏やかだがしっかりとした口調でそう言った。
「なんでお前が別れようと思ったのかを、ちゃんと説明してほしい。そう思うのは、俺のわがままか?」
 定光のセリフに滝川は再び目線を下げ、首を横に振った。
 しばらく沈黙が流れたが、ふいに滝川は顔を起こすとコーヒーを少し口に含んだ後、おもむろに口を開いた。
「ガキの頃、俺が一番覚えてること、話してもいいか?」
 ボソボソとしたとても小さな声だった。
 定光は耳に全神経を集中させながらも、努めて普段通りの受け答えで「もちろん」と答えた。
 滝川はひとつ大きな息を吐き出すと、ポツリポツリと話し始めた。
「俺は、小学校の途中からまともに学校に通わせてもらえなくなった。でも勉強させない訳にはいかないと思ったのか、それとも虐待を疑ってくる行政を煙に巻くためか、ある日ババアが家庭教師を雇ったんだ。教職をリタイアした女の教師を。ちょっと小太りでお世辞にも美人とは言えないタイプの人だった。
 でも先生は、すげぇ頭のいい人でな。先生はすぐに俺の置かれている状況を察して、勉強だけじゃなく、世の中で起きてることや物の道理を丁寧に教えてくれた。うまいことババアの目を盗んでな」
 定光の脳裏に、滝川の実家の様子が目に浮かんだ。むろん見たことはないのだが、世間から隔離されて豪華な内装の広い部屋にポツリと独りでいる滝川の姿が、なぜかすぐに脳裏に浮かんだ。
「俺にとって先生は、自分と外界を繋ぐ唯一の"大きな窓"だった。めちゃめちゃデカくてキレイな窓だったな……。
 俺はテレビも見せてもらえなかったし、自由に外出することもできなかった。しかも使用人達は俺を腫れ物のように扱って、必要以上の接触は避けていたから、先生の存在は本当にありがたかった。
 どの使用人も、万が一俺と親しくなり過ぎれば、ババアに嫉妬されてクビになっちまうから仕方がなかったとはいえ、皆からよそ者扱いを受けるのは、ガキに取ってしてみれば随分寂しいものだったよ。
 先生はうちのそんな異常な事態を鋭く見抜いた。あっという間にな。見た目はおっとりとしていて、いつもニコニコしていたから、とてもそんな風には見えなかったけど。だからババアも油断してたんだろうよ」
 定光は、滝川家の異様な状況に背筋が泡立ったが、黙って滝川の話を聞いた。
「先生は厳しい人だった。俺が不義理なことやダラリとした態度を取ると、徹底的に叱ってくれた。びっくりするほど丁寧に怒られたよ。俺が先生の言っていることを飲み込むまで、勉強そっちのけで向き合ってくれた。その後遅れた勉強を取り戻す時も鬼のように厳しかったけど、"新くんならできるでしょ"ってニコニコとアンパンマンみたいに笑うんだ」
 その時のことを思い出したのか、滝川がふっと微笑む。まるで少年のような微笑みだった。
「先生がいてくれたお陰で、俺は俺の家が"普通じゃない"ことに気づくことができた。大きくなるにつれ、自然とそのことに気がついたんだ。先生が社会の常識をきちんと教えてくれていなかったら、きっとそのことを考えることすらなかっただろうよ。
 14歳になった頃、俺は先生にこう訊いた。 ── 俺がババアとヤってることは、間違ったことか?と。それを聞いた先生は目に涙を浮かべながら、俺の両手を握ってくれた。先生は、ババアと俺がセックスしてることまでは知らなかったんだ。先生は、何度も何度も俺に謝ってくれた。そんな重大なことに気づかなくてごめんなさい、と。君を守ってあげられなくて、ごめんなさい、と」
 そこで滝川はゴクリと唾を飲み込んだ。タバコを口に運ぶ手は小刻みに震えていた。
 定光は思わず手を差し伸べそうになったが、そこをグッと我慢して拳を握り締めた。ここで滝川の話の腰を折りたくなかった。いくら時間がかかっても、滝川が話し終わるまで黙っていると決めた。
 滝川はタバコを一吹かしして、話を続ける。
「よせばいいのに先生はババアに詰め寄った。立ち回りがうまかった先生でも、それは許せなかったんだろうな。ババアはそこでやっと先生が"危険分子"だと気づいたんだ。
 ババアの対応は早かった。その日のうちに先生は家を追い出された。その時の光景は、今でも忘れられねぇ。先生は、使用人達に押さえつけられ、身ぐるみ剥がされて素っ裸にされた挙句、額と背中に油性マジックで"売女"と書かれて、そのまま外に放り出された。ババアは笑ってたよ。"なんて醜い体なの"と。
 先生は泣いていた。そんな自分の姿を俺に見られるのが恥ずかしかったのか、一度も俺を振り返らなかった。俺も泣きじゃくった。とても大切なものが目に見えて失われていくのがわかったから。
 ババアに殴られたのはその時が初めてだ。先生と同じように使用人に押さえつけられ、ババアの気の済むまで大きな竹製のものさしで殴られた続けた。あんな売女のために泣くのは許さない、何度もそう怒鳴られながら。 ── そのまま俺は死ねればいいって思ったけど、そこまでは無理だったな……。ババアの暴力はことごとく的を射てる。いつの時だって」
 定光は、いつか自分が殴られた時のことを思い出していた。殴られた場所がなぜかズキリと疼いた。
 定光が重苦しい空気になっているのとは裏腹に、滝川は妙にすっきりとした顔つきで何事もなかったかのように冷めかけたコーヒーを啜った。
「 ── それでその先生は……どうなったの?」
 そう訊かれた滝川は、苦笑いを浮かべた。それはとても哀しげな表情だった。
「亡くなったよ。俺の家を追い出された一年後に」
「ええ……」
 滝川は再び息を吐き出し肩を竦めると、「ババアが教えてくれた。何が原因で死んだのかまでは教えてくれなかったけど、病気にしろ事故にしろ、先生が死んだのは俺のせいだ」と答えた。そして再びタバコを一吹かしすると、ペロリと薄い唇を舐めた。
「ババアは笑ってたよ。ザマアミロ、だってさ。 ── その時だ。何としてもこの家を出なければと俺が思ったのは」
 滝川はそこまで話すと、定光を見つめてきた。
「で、現在に至る」
 滝川は"どうですか?"と言わんばかりに両手を広げると、短くなっていたタバコをコーヒーカップに投げ入れた。タバコはジュッと小気味好い音を立てた。
「 ── どうする? 俺は、そんなババアの血を引いてる男だぜ?」
 定光が顔を上げて滝川を見ると、滝川はいつものような薄ら笑いを浮かべていた。
「俺がお前と別れなきゃと思った理由は、それだ。お前といると、俺はお前にどんどんおぶさりたくなる。束縛して、雁字搦めにしたくなってくるんだ。まるでババアが俺にしたみたいに。たとえお前が、嫌がろうが壊れようが、な。 ── 俺は確実にババアの因子を受け継いでる。俺も嫌で嫌でしょうがないけど、残念ながらそれが俺なんだ。俺と付き合ってると、お前はきっと傷つくことになる。これまでの何倍も深く」
 ふと滝川が表情を消す。
「今はまだ上手くいってっから、せいぜいお前が重荷を感じるだけで済んでるが、重荷が苦痛に変わった時、お前は俺から離れていくだろう。そうなったら俺は自分がどうなるのか俺自身わからない。 ── ババアみたいに酷いDV男になるかもしれない。1分おきにお前の居場所をチェックするストーカーみたいな男になるのかもしれない。俺のことだけ見てくれと朝から晩まで泣き続けるような男になるのかもしれない。どんな俺だってヘドが出そうだけど、そんな自分を律する自信が、今の俺にはまるでない」
 滝川はそこまで言うと、おもむろに定光の前に手を伸ばした。
「別にこの手を取れなくったって、俺はお前を恨んだりしないよ」
 滝川がそう言う。
「逃げることは恥じゃない。今なら、まだ安全に逃げられる」
 その言葉に、定光はグッと奥歯を噛み締めた。
 ポロポロと涙が溢れ落ちたが、それは自分の涙ではなく、滝川のもののような気がした。
「 ── 俺を見くびるな」
 定光はそう言って、迷わず滝川の手を握る。
「新、これからは俺のために生きてくれ」


 ショーンに借りている部屋に帰った二人は、自然と抱き合った。
 随分久しぶりに互いの肌に触れる状況だったが、実にゆったりと穏やかに抱き締めあった。
 前戯とは言えないほど、ただ互いの身体を撫で合うだけだったが、それだけでも定光の身体と心は満たされた。
 それは滝川も同じように感じたらしい。
 ホッと安心した顔つきで定光を見つめ、何度もキスを交わした。
 定光は滝川をベッドに横たえると、滝川の全身にキスを落とした後、滝川の身体に跨って、自分から彼を受け入れた。滝川も身体を起こし、座位になる。
 定光は熱い吐息をひとつ吐き出すと、滝川を見下ろし、頭を抱き締め、何度も何度も髪の毛を梳いた。
 滝川が定光を見上げてくる。
 その滝川の表情は、まるで少年のようだった。
 あまりにもじっと定光のことを見つめてくるので、「ん?」と定光が訊くと、滝川は苦笑いを浮かべた後、いきなり泣き出した。
 一瞬取り繕おうとしたが、できなかったようだった。
「 ── ヤってる最中だってのに……ワリィ……」
 滝川が唇を噛み締めながらそう言うので、定光は微笑みを浮かべたまま「なんで謝ったりするんだよ」と返した。
 滝川は定光の身体にギュッとしがみ付きながら、「途中で萎えるかもしれないから」と呟く。
 定光は笑った。
「そんなこと気にするなよ。俺は全然気にしないよ。今夜はお前とこうして抱き締めあえているだけでいいんだ。それだけで俺は幸せだよ」
 再び滝川が顔を上げる。
「 ── 幸せ?」
 定光は「ああ」と頷いて、滝川の濡れた頬を指で拭った。
「俺は今幸せだよ。お前とこうしていられるのも、お前と一緒に作品を作り上げていけることも。今回、本当にそのことを痛感できた。 ── お前はどうなんだ? 幸せじゃないのか? 今」
 滝川はしばらく定光を見上げてきたが、やがて子どものような顔つきのまま、こう言った。
「ミツさんが普段からもっとエロエロだと、更に幸せだけど」
「バカヤロウ、折角のムードを茶化すなよ!」
 定光が殴るふりをすると、滝川がアハハと笑った。
 定光の好きな何とも少年くさい悪戯小僧のような笑顔。
 再びキスを交わした後、滝川は定光の胸元にコツリと額をつけると、やがてそのまま眠ってしまった。
 むろん、定光の中の彼自身も萎えてしまったのが感覚でわかったが、定光は満足していた。
 少し身体をずらし、滝川の泣き疲れた後寝入り込んでしまった穏やかな顔を眺め、ふっと微笑む。
  ── うわぁ、なんか可愛いなぁ、コイツ。
 思わずそう思ってしまう。
 自分が滝川の恋人達の立場なのか保護者的立場なのか一瞬混乱したが、滝川に対して愛おしさが深まったのは事実だ。
 確かに滝川が言った通り、これから滝川が母親の呪縛から逃れられるかはわからなかった。けれど定光は、自分の力で彼を闇の淵から引っ張り出そうと決めた。どれだけ自分にその力があるかどうかはわからなったけれど、ショーンや理沙が言ってくれたように、自分にその力があるとするなら、やってみるだけの価値はある。
 定光は、珍しくぐっすり熟睡している滝川をベッドに横たえながら、何としても滝川を守ってみせると固く誓ったのだった。

 

この手を離さない act.52 end.

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編集後記


今週は、ちょっと異例なんですが、大人シーンをステルスにせずにオープン状態で更新いたしました。
話の流れ上、国沢的にかなり重要なシーンとなってしまい、省くことができなかった(汗)。
そのかわり、いつもの直接表現はなるだけトーンダウンして、お上品な表現に努めてみました(大汗)。
ゆ、許してください・・・。

今週は、新のヘビーな過去話が出てきて、国沢も書いていて「新のオカン、まじでこえ〜わ・・・」と思ったことです。
ここまでの悪役書くの、ひっさし振りやわ・・・(脂汗)。
「触覚」の櫻井君のお兄ちゃん(おねえちゃんでもありますが)以来?
まぁあっちは人を殺めるタイプの人ですから、それに比べりゃって思いますけど、人の精神を蝕んでいく度合いでいえば、新のオカンもなかなかのものだと。
新、マジ腐らずによく生き抜いてきたな(涙)。多分、この家庭教師の先生のお陰だと思うけど。
「おてて」を書き始めた当初は、新の生い立ちや虐待の影響についてさほど意識してこなかったのですが、話が進むに連れ、やはりそこは避けては通れなくなってきてしまって、こんな重たいことになってしまいました(汗)。
自分で書いていて、設定のダークさに気分が滅入ってしもた(汗)。
新もそうですが、国沢自身が新のオカンに耐えられるか自信がなくなってきた(脂汗)。
なんとか頑張るしかない・・・。
てか、ミツさんに助けてもらうしかない・・・(←結局他力本願)。

新の中でも、国沢の中でも、日に日にミツさんの天使加減に磨きがかかってきます。
あ〜、ミツさん、天使やわ〜〜〜〜〜。
新ごと国沢も救ってたもれ。


そして話は変わりますが、今週はグランジの巨星がまた一人地に堕ちました・・・(涙)。
グランジバンド「サウンドガーデン」のボーカル、クリス・コーネルが亡くなりました。
享年52歳。
コンサートツアー中の突然の訃報でした。どうやら自殺だった模様。
彼もまた、ストテンのスコットと同様に薬の依存とうつ病に悩まされていた模様です。
グランジって、精神的に病んでる世界をメロディアスなロックのサウンドにのせてなんぼの世界ですから、どうしても陰傾向に引きずられるのですが、正直こういうニュースを聞くと「またか」と思います。
グランジを代表するアーティストって、薬で死ぬか自殺で死ぬかって感じになってる。
60歳代まで生きられない定めなの???
国沢はストテン一本槍だったので、サウンドガーデンはそれほどファンではありませんでしたが、やはり残念です。
なんだかなぁ・・・・。

それではまた。

2017.5.20.

[国沢]

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