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この手を離さない title

act.34

 おはようございます、と今日も映像制作部のデスクに定光が出勤すると、「おはようございまーす」と返事をしてきた村上が、すれ違いざまの定光の背中を、怪訝そうな顔つきで見つめてきた。
 定光は、デスク横のカゴにカバンを置くとパソコンの電源を入れた。しかし何だか視線を感じて、自分をじっと見ている村上に目をやる。
「ん? なんだ?」
「なんだって……。ミツさん、背中、それどうしたんですか?」
「背中?」
「え、まさか気づいてないんですか?」
「え? やっぱTシャツになんかついてるか?」
 定光はそう言いながら背中を覗き込んだが、「いやTシャツというよりも……」と呟く。
「?」
 定光は、さっぱり意味がわからないといった風に村上を見る。
 村上は席を立ち上がると、「ちょっと……ちょっといいっすか」と定光の背中に回り込んできて、定光を椅子から立ち上がらせる。
 ちょうどその時、島崎希が出社してきた。
「おはよーございまーす! あれ? 村上さん、どうしたんですかぁ? なんだか神妙な顔つきしちゃって」
 そういう希に、村上が"こいこい"と手招きする。
「えー? どうしたんですかぁ?」
 希が村上と同じように、定光の背中側に回り込んでくる。その頃になると、事務所内の他のメンツもこちらを気にし始めた。
「なぁ、のぞみん、これ、なんか透けて見えるよなぁ」
「あ、ホントですねぇ」
 そう言われ、定光はギクリとした。
  ── ま、まさか新のヤツ、背中に強烈なキスマークでもつけたんじゃないんだろうな……。
 定光は一瞬焦ったが、希が「グリーンやらピンクやら、いろいろな色が見えますねぇ〜」と言ったので、ほっと胸を撫で下ろした。いくらなんでも、キスマークが緑色であるはずはない。
「ミツさん、失礼しまーす」
 村上がそう言いながら、定光のTシャツの裾を掴んで、そろりとめくり上げる。
「わ! すっご〜い! 何これ!」
 希の甲高い声がして、事務所中の人間が、定光の背中を覗き込んできた。「うぉ〜」と感嘆の声を上げる。
「え? 何? 何がどうなってるわけ?」
 知らないのは、定光本人のみである。
「ミツさん、こんなことになってます〜」
 希がスマホで写真を撮って、定光に見せてくれる。
「え?! な、なんだこれ?!」
 思わず定光は素っ頓狂な声を上げた。
 定光の背中の右半分に蓮の花のイラストがまるで刺青のように描かれていた。
 華やかな色合いとかなりリアルな筆致でなんとも見事なロータスの楽園が背中に広がっていた。
 定光の真っ白で絹地のような肌と充実した逞しい筋肉の上に畝るように描かれたそれは、かなり美しい絵画作品となっていた。
「ミツさん、背中こんなになってるのに、なんで気づいてないんです?」
「いや、でも、あの、その……。だって俺、昨夜風呂に入ったし!」
 ロータスの絵は、明らかに絵の具で描かれていた。風呂に入れば、絶対に消えてなくなる代物だ。
「え、じゃぁこれ、一晩のうちにってことっすか……? ミツさんが寝てる間に?」
「誰がですかぁ?」
「そんなの……新さんしかいないっしょ? ミツさんと新さんちに絵を描くのが趣味の小人さんが住んでるのならいざ知らず」
「へぇ、新はこんな絵も描けるのか。やっぱアイツ、天才だな」
 藤岡が感心したように、腕組みしながらヘェ〜と声を上げる。
「あ、これ、腰の方まで繋がってないか……?」
 普段は余り冗談にものってこない由井ですら、定光の背中を覗き込んで呟いている。
「腰っつーかケツの方まで描いてますね。どうやら。 ── ミツさん、失礼しまーす」
 村上はそう言いながら、ジーンズのウエスト部分を掴んで、グイッと下げてくる。
「お、おい!」
 お尻の割れ目が見えるくらいまでジーンズを下げられ、思わず定光は顔を真っ赤に赤面させつつ、ジーンズを掴んだ。
「キャァ〜、ミツさんのお尻〜」
 女性陣が黄色い声を上げたが、男性陣はうって変わって「おお〜」とどよめいた。
「こりゃ綺麗だな」
「ホントだな」
「ミツさん、今日も風呂、入りますよね?」
 村上が何やら真剣な顔つきで定光にそう訊いてくる。
「そ、そりゃぁ入るよな、普通。暑くなってきてるし……」
 定光の背中に回り込んでいるスタッフ全員が、顔を見合わせた。
「おい。スチルの鈴木さん、社内にいるか聞いてこい」
 由井が希にそう声をかける。希は「あいあいさ〜」と答えて、事務室を出て行った。
 定光は、由井の言ったことにギョッとする。
「え? 鈴木さんって……。まさか写真に撮る気ですか?!」
 スチルの鈴木とは、パトリック社でスチルカメラを担当しているカメラマンで、映像制作の途中の記録写真や宣材写真、グラフィック制作部で使用する素材写真の撮影などを一手に引き受けてるスタッフだ。つまり由井達は、プロのカメラマンに定光の背中を撮らせようと言っているのだ。
「こんなに素晴らしい絵が何の記録もなしに消えゆくのは許せない」
 由井の言葉に、一堂がウンと頷く。
 パトリック社の社員は、事務方の人間に至るまで基本芸術的興味の高い社員が多い。そうでないと、こういうヴィジュアルクリエイトな仕事には携われない。
「いや、でも、しかし……」
 定光は、顔を真っ赤にしたまま口籠る。
 このままでは、半ケツ写真を撮影されてしまうのは確実な流れだ。
 そんな定光の考えが空気を読むことに敏感な藤岡にまんまと見透かされる。
 藤岡は定光の肩をポンと叩くと、こう言った。
「安心しろ、ミツ。お前の半ケツも充分美しい」
「そ、そういうことじゃなくて、ですね……!」
 定光の抵抗の声も虚しく、鈴木がカメラを抱えた状態で太鼓腹をゆさゆさと揺らしながら、「どうした、どうした」と事務所に走り込んでくる。
「あ、スーさん、きたきた」
 村上が鈴木を手招きする。
「スーさん、見てこれ」
「お〜。何、誰が描いたの、これ」
「新らしい」
「新?! ヘェ〜、人は見かけによらないねぇ。アイツ、こんなに繊細な絵ぇ描けるのぉ」
「スーさん、早く写真撮って、写真。今夜でこれ、消えちゃうから」
「え! そうなのぉ。勿体ないねぇ」
「スーさん、俺に一生風呂に入るなって言います?」
 定光が恨めしそうに鈴木を見ると、鈴木は熊のような髭面に人の良さそうな満面の笑みを浮かべて、「ミツくん、ちゃんとしたスタジオ、行こっか」と言った。

 
 「ミツの分の午前中の仕事は俺と村上でやっておくから、快く脱いでこい」とど真面目な顔つきの由井にそう言われ、定光は有無を言わさず写真の撮影スタジオに連れて行かれた。
 まさかあの由井が一番熱心にこんなことを言い出すとは思えなかった。
 定光が思わずそのことを口にすると、鈴木は「あれっ? ミツくん、知らなかったの?」とスタジオのライティングを整えながら、そう声を上げる。
「何がですか?」
「由井さん、伊藤若冲の絵が大好きなんだよ。なんだかその蓮の絵、若冲の絵にちょっと雰囲気似てるじゃない」
「えぇ? そ、そうですかぁ?」
 定光は気色ばんだ。
 定光とて、近代日本絵画の巨匠・伊藤若冲の絵は知っている。絵画展も見に行ったことがあるくらいだ。
 しかし新のアクリル絵具か何かで描いた絵が、そこまで素晴らしいとは思えない。
「さ、ミツくん、脱いで脱いで」
 カメラを三脚に固定しながら、ニコニコ笑って鈴木が声をかけてくる。
 熊五郎のような親しみのある笑顔だが、言ってることは、およそ酷い。
「さ、ミツくん、パンツも全部脱いじゃって」
 Tシャツまでは素直に脱いでいた定光だったが、定光は鈴木のそのセリフにキッと後ろを振り返り、「パンツまでは絶対に脱ぎません!」と宣言した。
「え〜、そうなのぉ。スーさん、困っちゃう〜」
「別にスーさん、何にも困らないでしょ。仕事でもなんでもないんだから」
 定光にそうピシャリと言われ、鈴木は惚けた顔つきをしてみせる。
 一先ず、Tシャツを脱いだだけの定光の背中をパシャパシャと撮影した鈴木だったが、やっぱりカメラマンとしてそれでは出来が満足仕切れないらしい。
「ちょっとミツくん、ポーズ取ってもらっていい? こう、両腕を頭の上で組んでもらって」
「こうですか?」
「そうそう。そうした方が、背中の筋肉がキレイに見えるから」
 鈴木の声は、既にプロのそれで、さっきまでの戯けた声色とは全然違う。
「ちょっとカメラの方に視線貰える? あ、違う違う。左側からこっち見てもらった方が絵面のバランスがいいから。そうそう。体勢厳しいと思うけど、そのままキープね」
 鈴木の真面目な様子に、定光もおとなしく従った。鈴木のプロ根性に触れられて、さすが鈴木さんだなぁと思っていた矢先、鈴木はこう声をかけてきた。
「さ、じゃぁ、下、全部脱いじゃおうか」
「絶対に嫌です」
「え〜、やっぱダメなのぉ。スーさん、困っちゃう〜」


 とはいえ。
 結局は鈴木に絆されて、全部脱ぐとまではいかないが、半ケツまでは許すことにして、撮影は終わった。
 まったく仕事でもなんでもないことに、ここまで熱中するノリの良さもパトリック社の創作力の源なので一概に否定はできないが、鈴木の写真の出来を事務室のパソコンで確認して、皆が一斉に「おお〜」とどよめいているのを見ると、「本当にこんな会社で大丈夫なの?」と定光は思わず疑問に思ってしまった。
「すっごい素敵な写真です〜」
 希がうっとりとした声を上げる。
 ブルーグレイのグラデーションがかかった背景に定光の透き通るような白い肌が浮かび上がり、美しい筋肉のラインに沿って華やかな深いマゼンダ色の蓮の花が咲き乱れている。
 定光のカメラを返り見る憂いを帯びた鳶色の瞳や淡いイエローブラウンの髪の毛も、実に美しく撮れている。さすがプロ、といったところだ。
「いやぁ、これ、いいですね。今年の我が社の年賀状にします?」
 村上がそう言うと、珍しく由井が村上の頭を叩いた。
「あだっ」
「バカもん。こんなに芸術的な写真に、"謹賀新年"なんて漢字を被せるつもりか」
「す、すみません〜」
「大判プリンタで出力して、B1くらいのポスターにするわ。額に入れて」
「あー、それがいいな。いいアイデアだ」
 由井が何気なくそう答えて、一瞬その場の空気が止まる。
 しかし最後の"声の主"は、それにも気を使わず、「いやースーさん見直したわ〜。いつも写真へたっぴって言ってゴメンね」と笑う。
「新!」
 定光が振り返ってそう叫ぶと、滝川は耳に指を突っ込んで、「起き抜けにそんな大きな声を出すなよ」と顔を顰める。
「お前、い、いつ来たの?」
「ん? 今さっき。写真は撮って貰えるだろうとは思ってたけど、ここまで仕上がりよく撮って貰えるとは思ってなかったわ〜。エレナも喜ぶと思う」
 定光は、早速「なんでこんなもの背中に描いたんだ?」と詰め寄ろうとしたが、滝川の発言の中にまた新たな"案件"が出てきて、定光は口をパクパクさせた。
「えっと……、い、今誰の名前言った?」
「エレナ」
「エレナって……。どこのエレナさん……?」
「俺の知ってるエレナっつったら、一人しかいねぇじゃねぇか」
「エレナ、ラ、ラクロワ……?」
「ふん」
 行儀悪く鼻をほじりながら、マヌケな顔つきで滝川は頷く。
 再びその場が「おお〜」とどよめいた。
「ど、どうしてそこにラクロワさんの名前が出てくる訳?」
「エレナが寝室に飾る絵を探してるって言っててさ。ロータスがテーマの美しいポスターとかないかしら、なぁんてメール寄越してきてたから、これでちょうどいいじゃんって思って」
 滝川は、パソコン画面をスマホで写真に撮り、せっせとメールを送っているようである。
「ちょっ! お前、俺の半ケツ写真をエレナ・ラクロワの寝室に飾らせる気なのかっ?!」
「キレイに撮れてるからいいじゃん。エレナもこういうの好きだと思うぜ。あ、ほらほら。早速返事来たわ。即刻送れってよ」
 滝川はヒッヒッヒッと引き笑いをする。
「ちょっと! マジでやめろ! ホントにやめろ!」
 定光は悲痛な叫び声を上げたが、周囲は同情する気も、取り合う様子もなく、鈴木にいたっては、自分の写真があの天下のエレナ・ラクロワの私室に飾られるとなり、大層喜んでいた。太鼓腹を揺らしながらジャンプを繰り返していたぐらいだ。
 滝川はタバコを咥えながら、「さー、出力の段取りして、額買いに行くか〜」と事務室を出て行く。
 定光はヨロヨロとその場に崩れ落ち、がっくりと床に項垂れた。
 その横に村上がしゃがみ込む。
「ミツさん、相当新さんを怒らせたでしょ」
 定光がゆるゆると顔を上げて、村上を見つめる。
 村上はため息をつきながら左右に顔を振ると、「新さんの嫌がらせも、なかなか手が込んできましたよねぇ〜」と言った。
 定光はぐすんと洟を啜りながら、再び項垂れたのだった。

 

この手を離さない act.34 end.

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編集後記


メリークリスマース!
国沢はといえば、ネコを病院に連れて行ったり、車のバッテリーが死んで予期せぬ出費がかさんだり、ipadの角を寝転んだ顔の上に落として鼻っぱしが腫れたりと、随分バラエティに飛んだクリスマス・イブを過ごしております♥

・・・・・。

サンタさん、幸せという名のプレゼントをください♥

さて、今週の「おてて」は、新の復讐劇の一幕でした。
国沢にとっては、ミツさんと新の二人シーンを書くのももちろん楽しいのですが、今日の更新分のように、彼らと彼らの周辺の人達の関係性を書くのも割と好き。
プリセイやオルラブの時もそうでしたが、そこで出てくる会社の人達って、自分が「一緒に働きたい」と思う人達ばかり。
今週初めて出てきたカメラマンの鈴木さんも国沢のお気に入りのキャラの一人。
でもスーさん、今後出てくるかわからないwww

更新内容は全然クリスマス感ありませんが、皆様、どうぞよい聖夜をお過ごしください!
ではまた。

2016.12.24.

[国沢]

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