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この手を離さない title

act.59

 定光と滝川は、帰国後、一日だけ休みをもらって、その翌日から通常の勤務に戻った。
 休み明けの朝、定光は鏡に向かい、ヒゲを剃っていた。
 鏡に映る自分の髪はついに肩下まで伸びている。洗面台の上には、昨日コンビニで買ってきた髪ゴム。今日からは家の外に出かける時は縛って行くつもりでいた。
 滝川はいまだ定光が髪の毛を切ることが嫌なようで、定光が「髪が鬱陶しい」と呟く度に「切るなよ」と返してきていた。だから切らずにここまできたが、さすがに縛らないと邪魔でしょうがない。
 ヒゲを剃り終わって髪ゴムを手に取った時、鏡の奥から滝川の姿が入ってきた。定光は目を見張る。
「いやに早く起きてきたな」
 思わずそう呟く。
 普段の滝川は、定光が身支度や洗濯、朝食の準備などを終えた頃に、定光が起こさないと起きられないのが常だった。酷い時には、定光が起こしても起きてこない日もある。だからこうして1人でこの時間に起きてくるのは、珍しいどころの話じゃない。
 滝川は頭をボリボリと掻きながら、「なんか自然に目が覚めた」と答えて、コップに水を注ぎ一度口をゆすいだ後、ゴクゴクと飲み干した。
 定光はそんな様子を横目でじっと観察した。
 質のいい睡眠を得られたのか、滝川の顔色もいい。
 実は、定光が滝川の夜中の奇行に帰国直前気づいてから、定光は寝る時に滝川の身体を捕まえるように抱きしめながら眠ることを意識的に心がけた。昨日は休みで定光もゆっくりした朝だったのでその効果があったのかどうか今ひとつわからなかったが、今朝の様子を見る限り確かに効果はあったようだ。
 滝川にはそのことをまだ話していなかったが、定光がそうすることで改善するのであれば、わざわざ言わなくてもいいか、とも思った。
 だが定光が考え事をしているのを滝川は見逃さない。
「 ── なんだよ?」
 自分のことをじっと見つめてくる定光を同じように横目で見返して、滝川がそう言う。
 定光は肩を竦めると、「早く起きたんなら、洗濯物干すの手伝え」と返した。
「えー……、んなのめんどくさい……」
 滝川はそんな不平を言いつつ、定光の身体に後ろから抱きついてくる。そしてそのまま、襟足の髪を掻き分けてキスマークをつけてこようとしたので、「おい、やめろ」と定光は声を上げた。
「今日から髪を縛るから、人に見られる」
 定光がそう言うと、鏡に映る滝川の顔つきが目に見えて不機嫌になった。
 定光も同じように機嫌の悪い表情を浮かべながら、ため息をつく。
「この長さになると、何をするにも邪魔なんだよ。お前のリクエストに応えて切らずにいてやるんだから、縛るくらい我慢しろ」
 定光はそう言いながら滝川の目の前で髪の毛を手で束ね、無造作にゴムで縛った。
 鏡に映るその様子を見ていた滝川は、パッと不機嫌な表情を消すと、定光が髪をまとめる様をじっと眺めていた。
 滝川が何を考えているのかはわからなかったが、なぜか機嫌はなおったようで、定光が髪をまとめ終わると、鼻歌を歌いながら自分のヒゲを剃り始めた。
 定光は怪訝そうに滝川を眺めつつ、心の中で"変なヤツ"と呟きながら、洗面所を出た。
 滝川は不機嫌な表情を浮かべることが多々あったが、機嫌がなおってしまえば、前の不機嫌さを引きずることはない。それだけにますます捉えどころがないのだが、引き摺らないでいてくれる分、ケンカになりかけてもあまり重症化しない。
 同居に踏み切る時に定光は「ケンカをした時にどうしよう」と心配していたが、これまでそれが杞憂で終わっていることは正直意外だった。
 定光は洗濯機のスイッチを入れながら、「一緒に暮らすって、小さな出来事の発見と積み重ねなんだなぁ」とおぼろげに思った。
 同居する前から、定光は滝川のことをかなり理解しているつもりだったが、実際にはまだまだそうではないということを実感する日々が続いている。だからこそ、大変だけど面白いと感じられるのかもしれない。
 案の定、滝川は洗濯物を干す作業を手伝うことなく、早く起きてもぐうたらで定光は呆れ返ったが、本人はどこ吹く風だった。ただ、相変わらず観葉植物の世話をまめにしている様子だったので、定光もイライラすることはなかった。
 今では定光の持ち物だった観葉植物も、まるで滝川の方がご主人様だといったような顔付きをしている。滝川は定光より管理が上手なのか、滝川が家にいる間は、家の中にあるどの鉢も調子がいい。今回の出張は、滝川だけが長い間家を空けていたので、観葉植物たちは少し元気をなくしていた。だからまた滝川が世話をしてくれるのは、正直ありがたかった。
「おら、早く後ろに乗れよ」
 鍵を閉めるために遅れて出た定光は、バイクを跨いで偉そうにそう言う滝川の頭をヘルメットの上からバチンと叩いて、自分もバイクの後部座席に跨った。なぜか滝川は、ヒッヒッヒと引き笑いしながら定光の分のヘルメットを彼に手渡し、バイクのエンジンをかけたのだった。


 会社に出社すると、滝川はすぐに編集室に篭った。
 今後は、オコネルが撮影した画像データを編集する作業に没頭するはずだ。
 ただ、低解像度で一度大まかにラフ画像は制作できていたので、いつもよりは早く仕上がるのではないかと定光は思っていたが、素材がいいだけに滝川がまた捏ねくりまわす可能性もある。キリのいいところで止める必要がある場合は、定光がストップをかけなくてはならない。
 一方、定光は午前中、ノートのスタッフも交えて、パトリック社内での打ち合わせに時間を費やした。
 本来ならシンシアが撮影した写真素材を使って、まずは先行発売されるシングル曲のジャケット制作に取り掛からねばならなかったが、マネジメントの仕事もやると言った手前、まずはそちらの方をきちんとこなすことがどうしても優先的になる。定光が段取りをしなければ、全ての仕事の進行が止まってしまうのだから、それは仕方がない。プロジェクトはまだ序盤なので多少時間に猶予はあるが、これからますます仕事が立て込んでくる傾向が強まっていくだろう。だがこれは自分が選んだ道なので弱音は吐けない。
 ノートのスタッフにアメリカでの仕事の報告と今後の進行について確認作業を行い、午後から定光は、由井と村上、笠山を交えてアルバムジャケット用画像素材の撮影日程について話し合った。アメリカでのことを受けて、なるだけカメラスタッフとしてシンシア・ウォレスに参加してもらうべく、計画の見直しをする必要が出てきたからだ。
 極端に遠くて厳しい環境での撮影 ── 砂漠や海中の現場は除外して、それ以外のスコットランドや南米の撮影はシンシアに参加してもらえそうだと踏んだ。
 計画の見直しは比較的スムーズに済んでホッとした定光だったが、ふとそれに村上が水を差す。
「計画上は結構いけそうですけど、マジで新さんが子守できるんですか?」
「う」
 痛いところを突かれ、思わず定光は言葉に詰まる。
 由井は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、笠山はニヤニヤとさも面白いネタを見つけたと言わんばかりの笑みを浮かべた。
「予算は潤沢にあるんだから、プロのベビーシッターを雇ったらどうだ?」
 由井がそう提案してくる。
 確かに、滝川にオムツ替えやミルクを飲ませるのはほぼ不可能な気がする。
「そうですね……。先方と検討するようにします」
「あと、撮影工程の調整は俺と村上でやっておくから、お前は制作に取りかかれ」
 由井がそう言ってくれる。定光は由井に礼を言って、申し出に甘えることにした。
 その後、グラフィック制作部にてやっとジャケットデザインの仕事に取り掛かった定光だったが、いざ制作を始めると30分ごとにいろんな人物が定光に指示を仰ぎにきて、なかなか集中できない有様だった。
 取引先からの問い合わせの電話だったり、村上が日程調整の不明点を確かめにきたりといったようなものもあったが、そのほとんどは滝川に絡んだ案件ばかりだった。
 定光が打ち合わせや制作に取り掛かっていて、滝川の面倒が見られない時は、事務方の人間の誰かが代わる代わる滝川の面倒をみることにしているのだが、結局は誰の手にも余って最終的には全員定光に泣きついてくる。
 編集作業に没頭している時の滝川は大人しいものだが、滝川の体調管理のためにも定期的に休憩を取らせようとしたのが裏目に出て、休憩時間が来る度に暴れているらしい。
 作業を途中で無理やり止められる時点で不機嫌になるのに、そばに定光が見当たらないことが不機嫌さに拍車をかけているらしい。
 定光は作業の手を止められる度に溜め息をつき、滝川に対する対処の方法を指示するしかなかった。その光景を見ながら、グラフィック制作部の部長・横谷が同情するような視線を定光に向けた。
「おい、ミツよー。これじゃろくに集中できないなぁ」
 他の制作スタッフも同じような目つきで定光を見つめる。
 定光は天井を仰ぎ見ながら、「自分もまさかここまで酷いとは思ってませんでした」と呟く。
「いっそのこと、滝川さんの休憩時間をなしにしたら?」
 富岡がそう言ってくるが、その頭に向けて横谷が丸めた紙クズを投げつけた。
「読みが甘いやつだなぁ、相変わらず。それで滝川がオーバーヒートしてみろ、それ以降ミツは一切グラフィック仕事はおろかマネージャー仕事もできなくなるんだぞ」
「は、はぁ……。確かにそうですね……」
「とはいえ、なんとか方法を考えないとな」
 横谷の呟きに、定光も「はぁ」と返事をした。
 自分が作業を中断されるのも困った状況だが、そのせいで他のスタッフにも気を使わせることになるのだから、確かにこのままではよくない。
「一体どうしたら……」
 一同が腕組みをしてうーんと唸った時、定光の足元で「そんなの簡単じゃん」と声がした。
 定光が驚いて椅子から飛び上がり、見下ろすと、いつの間にそこにいたのか、滝川がしゃがみこんでいた。
「うわっ! な、なんだお前! 全然気づかなかった……」
「 ── おー、滝川。なんかいいアイデアでもあるのか?」
 横谷がそう声をかけると、滝川は子どもがするように床に寝っ転がりながら、「ミツのパソコンを俺の編集室に移せばいいべー」と呑気な声を上げた。
「そ、そんなこと言ったって、LANケーブルとかどうするんだよ? あの部屋、端子、足んねぇだろ」
「そう言われると思って、さっき技術屋呼んだ。新しいパソコンやらプリンターやら機材一式も買ってやったからよー。業者には音速のスピードで持ってこいって言ってある」
 滝川がドヤ顔でそう言った。
 グラフィック制作部のスタッフ全員が同時に「おー」と声を上げたが、定光は顔を派手に顰め、滝川を睨む。
「"買った"じゃなくて、"買わせた"の間違いだろ?! どうせ経理部を脅して無理やり金を出させたんだろうが!」
 滝川は口を尖らせ、「そうとも言う〜」と呑気に答えながら、床をゴロゴロと転がる。
「ああ、汚ねぇから床を転がるな! そして勝手に経費を使うな!!」
 歯を食いしばりながら滝川を無理やり引っ張り起こそうとしている定光に、横谷がこう言った。
「おい、ミツ。滝川がここに引っ越してくる前に、ミツがあっちに引っ越してくれ」
 
 
 決局、定光は制作部から厄介払いをされて、滝川がいつも使っている編集室で作業を行うことになってしまった。
 滝川には、編集中いつものように部屋の中を暗くできなくなるんだぞ、と脅しをかけてみたが、滝川にとっては、部屋の明かりを暗くできないことと定光が一緒の部屋で作業をすることを天秤にかけてみたらあっさり答えが出たのか、「俺は全然気にしねぇし」と言ってきた。
 普段から、自分の身の回りの環境を変えることに異常に嫌がる傾向が強いことを考えると、驚きの発言だった。だが、事務方の連中からすると定光が滝川との間のクッションとして入ってくれるだけで余程精神的な負担が軽減されるのか、皆目に見えて喜びながら、「いやー、ミツさん、すみませんー」と言ってくるのだから、仕方がないと定光はため息をついた。
 滝川に呼ばれた家電業者は、滝川の無言のプレッシャーに押され、物凄いスピードで彼らの仕事を終え、その日の夕方には編集室内に定光専用のワークスペースが確保されていた。しかも、電話会社まで呼んでいたのか、内線で話せる電話機まで設置されていた。
 いつもは自分から何かを手配したり、段取りを踏んだりすることが皆無の滝川だが、実は彼も本気を出せばひじょうに抜かりなく物事の準備ができる人間なんだということを証明したようなものだ。
  ── やっぱコイツ、俺はできない、と猫かぶってるだけなんだな……
 完成した定光のワークスペースを眺めて満足そうな様子の滝川を眺めて、定光はまた深いため息をついたのだった。

 

この手を離さない act.59 end.

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編集後記


一週お休みをいただいての更新となりました。
ええと、本当ならミッチロリンツアーファイナルの感想でも書こうかな、と思っていたのですが、まさかのこのニュースが入ってきたので、急遽話題をチェンジ。

リンキン・パークのボーカル、チェスターが亡くなりました。

享年41歳。
本当に、早すぎる死です。

国沢は、リンキン・パークのアルバムを購入するほどのファン、と言うわけではありませんでしたが、チェスターには縁を感じている理由があります。

それは、ストテンのスコットが薬物依存の問題で一時期バンドを離脱(というか、メンバーから三行半を突きつけられたんだけど)していた時期に、チェスターがストテンのボーカリストとして、リンキンと掛け持ちしてくれていた時期があるのです。


国沢はスコットの声が大好きだったので、チェスターの歌うストテンの曲は物足りなさを感じたりもしたのですが、彼もまた才能のあるボーカリストであったのは、間違いないです。
なぜなら、リンキン・パークの曲は、チェスターのボーカルじゃないと成立しないだろうから。


きっと逆にスコットは、リンキンの曲をチェスターほどステキに歌えなかったんじゃないかな。

それにスコットも、チェスターとは悪い関係ではなかったようです。
一緒に写った写真を見れば、そこら辺がうかがい知れます。


もうこの二人が、この世にいないだなんて・・・(涙)。


ストテンの苦しい時期を支えてくれたチェスターが、自ら死を選んでしまったのは、本当に残念です。
ストテンのメンバーも、ショックを受けているんじゃないかなぁ・・・と思ったりしています。

くしくもチェスターは近年、幼い頃に家族と親しい人物から性的虐待を受けていたことを告白して話題になっていましたが、それは現在この「おてて」で取り上げているテーマでもあるので、なんだか余計に複雑に感じます。
そしてチェスターも、スコットと同様にお酒や薬の依存と戦っていた模様。
おばさん、そこまで深刻な依存だとは知らなかったのよ(涙)。
残された家族・・・特に子どもたちは、本当に辛いだろうと思います。

とても残念だけど、どうか安らかに。

それではまた。

2017.7.22.

[国沢]

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