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この手を離さない title

act.85

 由井に言われた通り、定光は、村上がコンビニで買ってきてくれた朝食を会社で食べた後、家に帰ることにした。
 由井に指摘された通り、滝川のことで手がいっぱいで、家の中はいろんなものが散らかったままで、掃除機もろくにかけていなかった。
 薬を飲んでいるせいなのか多少眠気に襲われつつも、散らかったものを片付け、窓を開けて掃除機をかけた後、ベッドのシーツも新しいものに取り替えた。観葉植物もしばらく手入れを怠っていたせいで萎びたものもあり、慌てて水をあげた。
 洗濯機が止まると、寝室のベランダに出て洗濯物を干す。
 今日は雲ひとつない青空で、風も優しく心地いい。
 陽は燦々と照っていたが、季節はもう秋へと移ろっていたので、肌に感じる暖かさは柔らかだった。
 定光は、ベランダの手摺りに寄りかかって、大きく息を吸い込んだ。
 ベランダから見える風景は、近隣のマンションやビルの合間に近所の公園の樹々が垣間見えるだけのお世辞にもいい風景とはいえないものだったが、眺めているとほっとして落ち着く。滝川と並んで、何度も見た風景だ。
 家の外では余程身体に力が入っていたのか、今更ながら全身脱力感に包まれる。自分が思っていたより、身体は疲れていた。
 それに滝川に噛まれた左手も、鈍く痛む。忘れた頃に、といったような感じだ。
 意外に弱ってる自分に、定光はがっかりした。
 元来、体力だけには自信があったから。
 由井に「お前も新もどちらも大事だ」と言われた言葉が身に染みた。
  ── 明日、久保内さんに仕事のことを言いに行こう……
 一度引き受けた仕事をギブアップすることは何とも苦々しい思いだったが、由井が告げたことに今の定光では反論ができない。
 定光は、ノートに電話をして、アポイントが取れるかどうか確かめた。
 あいにく久保内は社外に出ていたが、久保内の部下 ── というより久保内の秘書だ ── が彼の予定を把握しており、何度かのやり取りの後、明日の午後に時間を取ってもらえるようになった。
 元々久保内はパトリック社が……というより滝川が次回のシングル曲の仕事を続けることに難色を示していたので、定光が「仕事を返上する」と言えば、「それ見たことか」という顔をされるだろう。なんとも言いづらいことであるが、仕事を引き受けているのは自分なので、仕方がない。
 滝川のリハビリ再開は明日の午後ということだったので、滝川を病院に送り届けてからノートに向かうことにした。
 ふと、マンションの下に聞き慣れた車のエンジン音が聞こえたので視線を下ろすと、パトリック社のロゴマークが入った車が見えた。
「帰ってきた」
 定光はベランダから離れ、玄関に向かった。
 しばらくすると、チャイムが鳴る。
 ドアを開けると、無表情で棒立ちの滝川とたくさんの荷物を抱えた村上が立っていた。
「 ── おかえり」
 定光が笑顔を浮かべて、ドアを大きく開くと、滝川は「うん」と頷いて、部屋の中に入ってきた。
 無精ヒゲ面だが、顔色はいい。
 村上も続いて部屋の中に入って来ようとすると、滝川は振り返りもせずに「お前は入ってくんな」と言う。
 定光は、思わず村上の顔を見上げた。
 村上は、カエルがひしゃげたような表情を浮かべている。
  ── 新のやつ、通常運転だな。
 「ひどいー」と声を上げる村上から荷物を受け取り、「ごめんな」と村上に謝って、ドアを閉めた。
 荷物を一旦玄関先に置くと、定光は二階のリビングダイニングに向かった。
 滝川は、リビングのソファーにダラリと座り、火のついてないタバコを咥えてぼうっとしていた。
 定光は、予め仕掛けていたコーヒーメーカーからコーヒーを注ぐと、滝川の前に置いた。そして滝川の隣に座る。
 滝川はそれでもまだぼうっとした表情で、タバコを咥えていたが、「気分はどうだ?」と定光が訊くと、「悪くない」とタバコをプラプラさせながら答えた。
 定光がチラリと滝川の身体越しに右手を見ると、真新しい包帯が手に巻かれている。
「手は痛くないか?」
 定光がそう訊くと、逆に滝川から「そっちは?」と訊き返された。
「俺?」
「左手。それに昨日、熱出たって」
 定光はため息をついた。
 どうやら熱が出たことを村上が喋ってしまったらしい。
「熱はもう下がったよ。そうでなけりゃ、掃除も洗濯もしてないし」
「手は?」
 自分が傷つけてしまったのが気になるのか、執拗に訊いてくる。
 定光は少しだけ手をかざすと、「こう上に動かした時に少し痛むけど、後は大丈夫。ちょっと重い感じはあるけどね」と答えた。そこで初めて、滝川が定光の方を見てくる。
 定光は、滝川の瞳を見た。
 瞳にいつものような力はないが、安定剤を打たれた時の朦朧とした感じはない。
「お昼、何食べたい?」
 どこかの店屋物をリクエストされると思って、定光が腰のポケットからスマホを取り出し、そう声をかけると、滝川はやっとコーヒーを啜りながら、「ナポリタン。お前が作ったヤツ」と答えた。
 定光は、少し顔を顰めた。
「俺が作ったヤツでいいの?」
「そ」
 ナポリタンは過去何度か作ったことがあるが、滝川が嬉しがって食べていた記憶はない。確かに所詮素人が作った“なんちゃってナポリタン”だから仕方がないが、それだけに意外だった。
 定光は、キッチンに行って食材を確認する。
 ピーマンや玉ねぎはある。
 しかし出汁がわりに入れる白ワインと仕上げに絡ませるピザチーズが切れていた。あと、挽き肉もない。
 ベーコンはあったのでそれだけで作ってもいいのだが、滝川が言っている“定光が作るなんちゃってナポリタン”は、挽き肉を香ばしく炒めて作るのが常だったので、今日ばかりはその通りに作ってやりたかった。
「食材足りないからスーパーに買いに行ってくる」
 定光がダイニングテーブルの上にあった財布を腰のポケットに突っ込むと、滝川がグビグビと凄い勢いでコーヒーを飲み干し、「俺も行く」とソファーから立ち上がったのだった。
 
 
 滝川が日々の買い出しに着いてくるのは、よくあることだった。
 だが、入院生活が予想外に長かったので、久々のことだ。
 不足している食材のほか、足りないものをあれこれ買い物カゴに入れていると、それを後ろからきょとんとした顔つきで覗き込む。
 なんだかショーンを連れて買い物に来た時のことを思い出し、定光は内心プッと吹き出した。買い物カゴを覗き込む滝川の顔は、その時のショーンにそっくりだったからだ。
 今だに少しびっこを引いて歩く滝川を、すれ違う買い物客がチラリと振り返りざま見ていく。
 背が高い上にヒゲ面で、おまけに右手にはガッチリと包帯を巻かれている様は、およそ普通とは言えない。それに加え、隣に立つ定光だって左手に包帯を巻いているし、目立つ顔つきに肩下まで長く伸びた髪と、自分もおよそ普通とは言えない風貌だ。
 定光は、努めて他人の視線に気づかないふりをして、買い物を続けた。
 滝川は、切れかけていたタバコをカートン買いできてご満悦の様子だ。
 スーパーを出て、二人でゆっくりと歩いて帰った。
 滝川は前のように早く歩くことができないため仕方がなかったのだが、それが逆にこんな日は心地よかった。
 陽はぽかぽかと暖かく、気持ちのいい風もそよいでいる。
 中途半端な時間のせいか行き交う車も少なく、並木がサワサワと揺れる音を楽しみながら歩いた。
「今日は風が気持ちいいな」
 定光が思わずそう言うと、滝川も素直に「ああ」と返事を返してきた。
 しかし一気に家まで帰るには滝川には少し負担だったのか、徐々に歩みが遅くなっていったので、定光は滝川に声をかけた。
「公園で休んで行こう」
 定光が指差した公園は、公園というにはかなり小さい、遊具もないような公園だ。ベンチと水飲み場があるだけだ。
 定光が滝川をベンチに座らせると、少し離れた向かいのベンチでハンチング帽を被った上品なお年寄りの男性が鳩に餌をやっているのが見えた。お年寄りは、別段こちらを気にする様子もない。
 定光は滝川の右側に座って、買い物袋を自分の右側に置いた。
「一気に長い距離を歩いたから、疲れたろ?」
 定光がそう訊くと、滝川は「別に」答えていたが、額には薄っすらと汗を掻いているし、呼吸も荒い。
 定光はふいに胸が苦しくなって、こう切り出した。
「もう、急がなくていいからな。これからはゆっくりでいいから」
「あ?」
 滝川がポカンと口を開けて、定光を見てくる。定光は、「リハビリ」と付け加えた。
「無理して、コンを詰める必要はないから。リハビリの先生と電話で話したけど、お前かなり頑張ってたそうじゃないか、この1ヶ月の間」
「そうでもねぇよ」
 口を尖らせる滝川に、定光は、「いいや、先生も“やらせ過ぎた”と謝ってたよ」と告げた。そして続ける。
「俺もお前に謝らなきゃ」
 滝川が怪訝そうに定光を見た。
「謝るって、何を?」
「俺もお前を追い詰め過ぎた。リハビリのこと随分“頑張れよ”って連発したし、お前の気持ちや状態を聞きもしないで、“お前ならできる”とまるで脅迫するみたいに言った。それも何度も。相当プレッシャーかけてたよな、俺」
 定光は唇を噛み締め、一拍置くと、「ごめんな」と謝った。思わず涙が出そうになったが、何とか堪える。
「明日からは、マイペースでゆっくりやっていこう。リハビリの先生にもその方がいいって言ってくれてるし」
 そう言う定光を、滝川は不思議そうな顔つきで見つめてきた。
「そんなに悠長にやってたら、ショーンの次のシングル曲出せねぇじゃねぇか」
 定光は驚いて、滝川をマジマジと見つめる。
 そんな定光を前にして、滝川は「俺が作るPVじゃねぇとヤダって、あの人ゴネてんだって?」と続けた。
「知ってたのか……」
 定光は伝えていなかったので、おおよそ村上からでも聞き出したんだろう。
「来月には上げねぇと、アルバムの売り上げにも響くだろうが」
 普段滝川は、あまりそういうスケジュールやマーケティングの話はしないのだが、その実、頭の中では全体のことをよく理解している。ひょっとしたら、定光やノートの一般社員以上に。
 今回のシングル曲が実質上アルバム発売直前の前哨戦で、この動きによって全世界の販売店が仕入数や販売店舗展開など、どれだけの規模で行うのかを決定するだけに非常に重要だと言えた。
 昔と違って今は手軽に誰でも映像が見られる環境なだけに、PVの出来が売り上げを左右すると言っても過言ではない。
 滝川は、そのことも充分わかっている。
 定光からかけられるプレッシャーと同時に、そちらからのプレッシャーも感じていたに違いない。
 私生活はちゃらんぽらんだが、仕事に関しては誰よりもきっちりしている男だ。
 定光は、本当に申し訳なく思って、再度「本当にごめんな」と謝った。
「シングル曲の仕事は、ノートに返上することにしたんだ。俺の仕事も含めて。明日の午後、久保内さんに言いに行く」
 滝川が眉間にシワを寄せる。
 滝川が「俺のせいで……」と言いかけた上から、定光は「俺が、そう決めたんだ」と強く言った。
「お前のせいなんかじゃない。俺もこんな気持ちのまま、いい仕事なんてできやしないし。返ってショーンに迷惑をかけるだけだから」
 滝川は納得をしたのか、それ以上何も言わなかった。
 定光は「由井さんが、仕事の成功よりもお前や俺の身体の方が大事だと言ってくれたんだ」と告げた。
 滝川は意外そうな表情を浮かべ、定光を見てくる。
 由井は日頃からクールな印象で、滝川ともさほど親しくはしていないので、そんな風に思われていると考えてもいなかったのだろう。
 定光は少し微笑んで「俺も、仕事の成功よりお前が大切だ」と言った。
 そして定光は、風に揺れる樹々に目をやると、「でもここのところの俺は、お前を大切にする仕方を間違えてた。完全に」と呟いた。
 涙が溢れないように上に視線をやったつもりだったが、結局はぽろぽろと涙が溢れた。
「俺は……俺はお前の母親に負けたくないって、強く思い込んでしまったんだ。お前との生活を奪われたくない。早く普通の生活に戻って、お前の母さんがしたことなんて、なんてことはなかったんだって言ってやりたかった。アンタは新を手に入れたつもりになって笑って死んだけど、お生憎様、ざまぁみろって、早くそう言いたかった。 ── 俺、自分のことしか考えてなかったよ。自分が負けたくないから、自分が早く落ち着きたいから、そのためにお前を追い立てていた。お前の気持ちを置き去りにして……」
 定光は洟を啜りながら、恐る恐る滝川を見る。
 滝川は少し驚いたような顔つきをして、定光の言うことを聞いていた。
 定光は顔を歪ませると、「俺って、ヒドイやつだろ?」と吐き出すように言った。
 その後は、嗚咽が押さえられなくなって、両手で顔を覆って泣いた。
 きっと向かいの老人も驚いて定光のことを見ていることだろう。
「ごめん、新……。許せないかもしれないけど……許してほしい……」
 そう言って泣く定光に、滝川は「許すも何も」と言った。
 定光が顔を上げて滝川を見ると、滝川は意外にも微笑みを浮かべていた。
「お前もそんなこと考えたりするんだな。ほっとした。お前もやっぱ、人間だったんだ」
「 ── え?」
 定光が鼻をグスッと鳴らしながら訊き返すと、滝川は空を見上げて、「腹黒いこと考えてるの、俺だけだって思ってたからさ」と言った。
「ババアにザマァと思ったのなんて、目が覚めてから何万回も思ってっからな、既に。それに比べてお前ときたら、いつも神様みたいなんだもん」
「神様って……」
「神様と付き合わなきゃならない俗人は、これでなかなか大変なのよ」
 滝川がコミカルな表情を浮かべて、両肩を竦める。
 定光はそれを見て思わず、吹き出した。目にいっぱい涙を溜めたまま、笑う。
 それを見た滝川は、左手で定光の涙を拭った。
「笑ってろよ、ミツ。そうやってずっと笑ってろ。バカみたいに」
 定光は顔を顰めると、「バカみたいは余計だ」とグチた。
 そして二人で見つめ合い、同時に吹き出す。
 定光は、滝川の動かない右手をひっくり返して手のひらを上向けさせると、それに自分の左手をのせた。
「まだいろいろと問題は残ってるけど、きっと乗り越えていける。二人一緒なら」
 そう言う定光に、滝川はふざけた口調で「健やかなる時も病める時も、てか?」と返してきた。
「差し詰め、向かいのベンチのジイさんが牧師みたいなもんだな」
 戯けた表情の滝川を定光はじっと真顔で見つめると、ギュッと滝川の手を握って、こう告げた。
「ああ、そうさ。誓うよ。健やかなる時も病める時も、喜びも悲しみも、共に分かち合い慈しむことを」
 そして定光は、滝川にキスをした。
「お、おい!」
 まさか人目があるところで定光からキスをされるとは思っていなかったのだろう。滝川は焦った声で「おっさんが呆気に取られてっぞ!」と言った。
 しかし定光は動じることなく、こう返したのだった。
 「誓いの言葉の後は、キスをするものだろ?」と。

 

この手を離さない act.85 end.

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編集後記


今週の「おてて」は、なんだか感慨深い回となりました。
ちょっと結婚式みたいな(涙)。

実はこのシーン、書いている直前まで全然見えていなくて・・・というより思いついてなくて、という方がわかりやすいかと思いますが、85話を書き始めた時は、そんな展開になるとは思っていませんでした。

ところが、スーパーから帰るシーンで、ミツさんが「公園に寄っていこう」と言い出した時から、急にムクムクとそのシーンが浮かんで来て、慌てて書いたのを思い出します。

ミツさん、本当に新に謝りたかったんだなぁと。

でもこれだけ心根が正しい人が側にいると、「俗人」である方からしたら、ちょっとツライんですよね。
「他人の悪口を考えてる自分は、なんて残念な人間なんだろう」って。
国沢も、どちらかといえばまだ人間的に修行中の身ですから(笑)、今回ばかりは、新の気持ちの方がよくわかります。
今回、ミツさんがその胸の内を吐露したことで、新も「同じ人間として」ミツさんと一緒に生きていこうと腹がくくれたんじゃななぁ。
だって、いつもの「俺のせいでミツが汚れるなら、俺は身を引く」っていう論法がこの時は一切浮かんでこなかったもの。

・・・・・・。

なんだか、自分の書いた話を編集後記で解説するのってどうなの?って、我ながら思うんですが(脂汗)。

でもいつも高いところから場面を眺めて、それを書き写しているってイメージで話を書いてるので、自分がキャラクター達を動かしている、という感覚はあまりないです。

ああ、この二人には早く幸せになってほしい。

さてさて。
本来なら、映画「ホビット」フィーバーについて、今週もその萌ポイントを書こうと思っていたんですが、この後、古巣の海外ドラマ「アウトランダー」の感想をブログに書く予定にしているため、今週ホビット・・・てーか、眉毛王の話はお休みwww

でも一応、眉毛王の素敵なお写真だけは貼っておこうかな♥



今週も安定の
眉毛だわ〜〜〜♥


ではまた。

2018.1.28.

[国沢]

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