act.96
次の朝。
滝川が目覚めると、カーテンが開けられた窓の外は、久し振りの雲ひとつない青空だった。
サイドボードの上の時計に目をやると既に9時を回っており、当然定光はベッドの上にいなかった。
── 転職かぁー…………。
滝川は、気だるくため息をつく。
昨日村上に抱きつかれながら言われたその二文字が、何となく重く滝川の脳味噌にぶら下がっていた。
確かに定光が、半日の休みを活用して、何かの勉強を始めているのは明らかだった。
定光が勉強を始めること自体は、なんら不思議でもなんでもないのだが、その内容を滝川に言おうとしないところがいつもの定光らしくなかった。
思い返せば、元々今のプロダクションマネージャーの仕事も無理矢理やらされている仕事だし、グラフィックデザイナー一本でやっていきたいなら、今の会社にいる………つまりは滝川が同じ会社にいる限り、不可能な話になってくる。
── ひょっとして………会社辞めて独立しようと考えて、る?
滝川はそう思いながら、再度大きなため息をついて、ごろりと身体を横に寝転ばせた。
窓から差し込む光が鬱陶しかった。
しかし、こと恋愛については、これ以上にないくらい安定している。
何より定光が自分たちの関係を周囲に隠さなくなったし、昨夜も久しぶりに熱いセックスをして、互いの気持ちを共有し合った。
相変わらず定光は「愛している」の一言を滝川には言ってこないが………それは意図的に言ってないというより、単に言い忘れているといった感じだ……、その言葉がなくても、定光が自分にベタ惚れなのは、昨夜の定光の感じっぷりを思い返せば、明らか………定光は、感情が伴わないと“感じられない”タイプの男だ。
── ベタ惚れ………。
滝川が、ぐふふと不気味に笑ったその時、寝室のドアが開いて、洗濯カゴを手にした定光が入ってきた。
「ああ、目が覚めたのか。今日は久しぶりに凄くいい天気だぞ」
このところ、冬場だというのに変な天気で、ずっと雨だったり曇りだったりと、スッキリしない天気が続いていたのだ。
こんな風にカラリと晴れた日は、定光の機嫌がすこぶるいいから、滝川もこの天気は好きだ。
定光は、滝川以上に皮膚感覚が鋭くて、自分の感じるフィーリングに気分がとても左右される。
だから悪い天気が続くと……というよりお日様が当たらないと、定光の滝川に対する扱いが手荒くなってくるのだ。
でもそんなことを口に出すと、全力で否定されてただの言い争いに発展するのは目に見えているので、滝川はあえてそこは指摘せずにいる。
これでも滝川なりに、定光には気を使っているのだ。
定光は窓を大きく開けて、ベランダに洗濯物を干していきながら、「今日は気持ちのいい天気だから、あとで公園まで散歩でも行くか?」などと訊いてくる。
滝川は生返事を返しながら、身体の向きを変えて、定光が洗濯物を干す光景をぼんやりと眺めた。
村上からは、「ミツさんの真意を是非とも確認してくださいっ!」と必死の形相で頼まれている。
彼女がいる村上が定光に対して恋愛感情を抱いているとは思えないが、ヤツの定光に対する熱量は、それがどんな意味合いのものでも、片想いのそれに匹敵するように思える。
定光は、会社のどの社員からも好かれているが、その中でも村上の定光に対するこだわりようは、はっきり言ってウザいほどだ。
── 何だろう………。身近に会えるアイドル………的な?
「…………………。村上、うぜぇ〜〜〜」
滝川が思わずそう愚痴るのを定光が聞きつける。
「村上が何だって?」
洗濯物を干し終えた定光が、寝室の中に戻って来ながら、そう訊いてくる。
滝川は口を尖らせて、「何でもねぇ。こっちの話」と答えた。
定光の口から村上の名前が出てくるだけで腹立たしい。
洗濯カゴを片隅に置いて、今度は掃除機をかけ始めた定光を眺めながら、滝川はこう呟いた。
「あのさぁ、お前さぁ、て、転職とかって、考えてんの?」
だがあいにく、掃除機をかけている定光には、よく聞こえなかったようだ。
「は? 何?」
定光が掃除機を止める。
「何だって?」
そうやって改めてきちんと面と向かわれると、何だか言いにくい。
滝川は、明後日の方を見ながら、再度「転職、すんの?」と訊いた。
定光は、一瞬顔を顰めた後、アッハッハと笑って、最後にまた激しく顔を顰めた。
「はぁ? 何の話だ、それ」
「いや、俺は何も言ってねぇぜ………。でも村上とか、村上とか、村上とかが、ミツは資格を取って、転職する気なんじゃないかって………」
定光が呆れたように、ため息をつく。
「ようは村上だけがそんなこと言ってるんだな」
滝川は口を尖らせたまま、定光を見つめる。
定光は腰に両手を当てると、今度は定光が明後日の方向を見ながら、「アイツ、不用意に社内で有る事無い事喋り出しそうで怖いな……」と呟いている。
「で、それって、“有る事”なわけ? それとも“無い事”なわけ?」
滝川が上目遣いで尋ねると、定光は「あるわけないだろ、転職なんて」と答えた。
滝川は内心ホッとしながら、「じゃぁお前、何を勉強してんだよ」と訊いた。
「必死こいて隠してるだろ、俺に」
滝川がそう続けると、定光は明らかにギクリとした表情を浮かべた。
その反応を見る限り、やはり何か後ろめたいことがあるのか。
定光のその反応が、別の意味で滝川を不安にさせた。
滝川はベッドの上に起き上がると、「まさかお前、浮気とか、浮気とか、浮気とかぁ〜〜〜?」と叫ぶ。
定光は一気に呆れた顔つきをして、「はぁ? そんな訳ないだろ」と首を傾ける。
「昨夜、あんなにアンアン言ってたくせに、別の男のことを考えていやがったのかぁ?!」
「いい加減にしろ」
定光が枕元まで近づいて来て枕を手に取ると、滝川の顔にそれをぶつけて来た。
その勢いでベッドに倒れた滝川の顔に枕がグリグリと押し付けられる。
「うぐっ! うぐうぐ〜〜〜」
さすがに息が苦しくなって、滝川は定光の腕をタップする。
「ああ、悪い」
定光が枕を外す。
滝川はゼイゼイと肩で息をしながら、「ミツさん、マジ俺、死んじゃうとこ……」と呟く。
滝川は内心、“あの事件”と似たような状況になってもフラッシュバックを起こさない自分に気がついた。
この3週間で定光なしの“修行”を行ってきたことが、精神的耐性に結びついているのか。
一方、定光も定光で何かを考えていたのか、滝川の頭上で滝川から視線を外し、しばらくその場で座ったまま動かなかった。
「 ── ミツ?」
滝川が声をかけると、定光は少し困ったような苦笑いを浮かべて、滝川を見た。
「まだお前に話すのは早いと思ってたんだが……」
「何を?」
定光はニッコリと笑うと、滝川の腕を叩いてこう言った。
「とにかく、ブランチを食べてからでないと話は始まらん。さぁ、起きた起きた」
結局、定光が遅い朝食を準備してそれを2人で食べ終わるまで、滝川の謎はそのまま放置された。
滝川の目前の定光は、普段と同じ様子ではあったが、何となく緊張しているのがピリリと伝わってきた。
どこか滝川に“本当のこと”を告白する前の覚悟を決めるのに、食事の時間を費やしているように思えた。
先程の反応からして、“転職”でもないし、“浮気”でもない。
滝川には、その他に思い当たることがなくて、脳味噌ばかりがグルグルとした。
軽い気持ちで突っついたことが、意外に“大きな箱”の鍵を開けてしまったような気がして、滝川の心臓もドキドキしてきた。
── まさか、浮気とかそういう軽いものじゃなくて、本気で別れたいとかって言い出すんじゃねぇだろうな……………
定光から伝わってくる緊張は、それぐらいの重たい“ネタ”が潜んでいるように思えた。
「新、出かける準備をしろ」
まだベッドから起きたままの格好だった滝川に、定光はそう言う。
「ちゃんとヒゲも剃るんだぞ」
それを聞いて、滝川は顔を顰める。
「は? それって、誰かに会いに行くってことか?」
反射的に滝川がそう訊き返すと、定光は苦笑いを浮かべながら、「相変わらず察しがいいな」と言う。
休みの日なのにヒゲを剃れということは、“きちんとした身なりになる必要がある”ということだ。
「おい、誰に会いに行こうってんだ?」
まさか定光が“新たに真剣なお付き合いを始めたい”と思っている相手にでも会わせるつもりなのかと、滝川は声を荒げたが、定光は「いいから早く準備しろって」と滝川の背中を押して、滝川を洗面所に押し込めた。
滝川はしぶしぶヒゲを剃って、服を着替えた。
とにかく、今は不本意でも、定光の言う通りにしないと謎は解けない。
それでも最後の抵抗と言わんばかりに、オジーのTシャツの上に革ジャンを引っ掛けて行くと、どこかに電話をかけていた定光は、電話を切りながらも呆れた表情を浮かべた。
だが定光は、オジーのシャツを着替えてこい、とは言わなかった。
ということは、“目上の保守的な考え方を持つ、権威あるおじさん、もしくはおばさん”ではない、ということか。
── 全然わっかんねぇ。
さすがの滝川も、これから定光が滝川を連れて行こうとしている先が想像つかない。
滝川を一体誰と引き合せようというのか。
エニグマの関係者か、とも思ったが、それも全く現実味がなかった。
ショーンにしろエレナにしろ理沙にしろ、そこまで隠す必要がない。
家を出て、首を傾げながらも滝川は駅に向かって歩き出そうとしたが、そこを定光に呼び止められた。
「ああ、そっちじゃないって」
「は?」
滝川は振り返る。
定光は、駅とは逆方向のマンションの駐車場の方に身体を向けていた。
「今日は電車使わないから」
「あ?」
「電車じゃ行きにくいところなんだ」
滝川が怪訝そうに定光の後をついて行くと、定光は緊張した顔つきで駐車場に置いてある滝川のバイクの上にかけられたカバーを外した。
「本当は練習してからにしたかったけど………」
定光はそう言って、バイクに跨る。
「は?」
茫然とした顔つきでその場に突っ立っている滝川を前に、ヘルメットを被った定光は鍵をバイクに差し込んで、エンジンをかけた。
「ほら、早く乗れよ」
定光はそう言って、もうひとつのヘルメットを滝川に向かって放り投げてきた。
滝川はヘルメットを受け損ねながらも、なおも定光を見つめ、呟いた。
「お前………バイク、乗れるの?」
定光は、ヘルメット越しとはいえ、明らかにテレながら、「免許取ってから公道で乗るのは初めてだから、下手でも文句言うなよ」と返してくる。
滝川はヘルメットを拾って、バイクのバックシートに座りながら、問いかけた。
「お前、勉強してたのって………バイクの免許取るためだったのか」
「せっかくバイクがあるんだし、勿体ないだろ? それに俺がバイクに乗れるようになれば、電車使わなくってもよくなるんだし」
定光はテレ隠しなのか、ぶっきらぼうにそう答える。
滝川は目を見開きながら、ほうと息を吐いた。
心がほっこりと暖かくなる。
── やっぱり、ミツはミツなんだな。
滝川はそう思った。
滝川がぎゅっと定光のジャケットの背中を握ると、定光は「早くメット被れって。先方さん、待ってるから」と言った。
「先方さん?」
「いいから、早く」
滝川がヘルメットを被り、定光の腰に腕を回すと、定光はバイクをゆっくりと走らせ始めた。
この手を離さない act.96 end.
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編集後記
いつも誤字脱字のご通報ありがとうございますー。
ホント助かってます。
先週も書きたてホヤホヤだったせいか、たっくさん誤字脱字があって、お恥ずかしい限り・・・。
今週も書きたてホヤホヤなので、不安です(笑)。
みなさん、よろしくお願い致しますw
さて、雨、凄いですね。
皆さんがお住いの地域は、大丈夫でしょうか?
場所によっては、大きな被害が出ているようで、心配です。
私の住んでいる地域も、ご多分にもれず物凄い雨量が計測されたのですが、幸い昔から水害えお数多く経験してきた地域で、崩れるところは大概崩れてたり、水害に対する行政のノウハウも蓄積されている土地柄なのか、物凄い累計雨量の割に、街が水で浸かる・・・なんていう自体には至っていません。
うちの近所にある大きな川も濁った水が物凄い早さで流れては行くものの、水量は落ち着いています。
今回の豪雨も、上流のダム従事者の方々が大分活躍していただいたんだなぁと思っております。
ダム職人さん、ありがとう・・・。
異常気象の影響なのか、私が子どもの時分と比べると、夏の雨の降り方が本当に変わりました。
昔は「台風銀座」とまで言われていた地域ですが、現在は台風がまともに上陸することも少なくなって、むしろ台風の進路が北に寄ったイメージです。
確実に平均気温が上昇しているんでしょうね。
昨夜は、関東の方で地震もあったようですし、NHKさん、まともに番組が流せず、大変そうでした。
(でもなぜだか国沢、NHKの災害放送のアナウンサーリレーを見るのは好き)
皆様、くれぐれもご安全に。
ではまた。
2018.7.8.
[国沢]
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