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この手を離さない title

act.42

 その日は結局、ショーンの生まれ故郷の町から帰ってきた後、滝川は近所の文房具屋で大きいサイズのメモパッドと鉛筆を買ってきて、スタジオの前室で猛然と絵コンテを描き始めた。
 ロケハンで頭の中にどのような画像をどれだけ撮ればいいか、そんな細かいことまでもう既に浮かんできているようだった。絵コンテを描く手は淀みなく、消しゴムで書き損じを消すこともなく、ひたすら無言で描いている。
 夜の7時を過ぎても、床にべったり座り込み、ローテーブルに掻きつくようにして一切姿勢を変えず描き続けている滝川の様子を見て、理沙は心配げな顔をし、ショーンは面白いものでも見るかのような表情を浮かべた。
「 ── あのー、晩御飯の手配はどうしたらいいかしら……」
 理沙が小声でそう訊いてきたので、定光は「それはこちらでなんとかします。理沙さんはもう休んでください」と返事をした。
 こういう状態の滝川はテコでも動かないし、食事はおろかトイレにも行かないことを定光は経験上知っているので、鉛筆が止まるまでは周囲の人間ができることはなにもない。
 定光は滝川の様子を見て、今晩中に絵コンテが完成すると判断した。理沙にはそのことを告げ、明日の朝には今後の具体的な打ち合わせができるだろうと話した。
 理沙はそれをいいニュースと捉えたらしい。
「仕事が早いのは何よりだわ。絵コンテがある方がどんなカメラマンに声をかければいいか目星がつけやすいし、交渉もしやすい。この状況を一先ずエレナに報告してくるわね」
 理沙はそう言って、前室を出て行った。
 そしてショーンは滝川に触発されたのか、スタジオにこもって恋人に贈るための曲を一人で収録し始める。
 ということで、定光だけがぽつんと手が空いてしまった。
 夕食を買ってくるとスタジオに籠る前のショーンに提案したみたが、恋人が9時頃に帰宅するから、それからでよければ理沙も含めて皆で一緒にディナーをと言われ、今定光がすべきことはなくなってしまった。
 とはいえ、何も手土産も持たずにショーンの恋人が作るディナーにお呼ばれするのも気が引ける。
 定光は、一応滝川に「ちょっと外に出てくる」と声をかけた。
 案の定、絵コンテづくりに没頭している滝川からの反応は皆無だった。


 ショーンのスタジオビルから出て周囲を見回すと、既に陽が落ちていて空は深い紫色だった。
 とはいえ、街はまだまだ眠ることなく、いたるところから車のエンジン音や足早な人々の足音が響いていた。
 日本と同じような夕方から夕刻に移るトワイライトタイムだったが、やはり空気感はまるで違っていた。"空気の匂いが違う"とでも言うのだろうか。
 こちらも梅雨時期があるのかどうかわからなかったが、空気は僅かに湿り気を帯びているようだった。NYと違って南部の方に位置しているC市は、大分温暖な気候のようだ。むしろ夏前だというのに肌に触れる空気は生暖かい。
 ショーンの性格が大らかで伸び伸びしているのは、この気候の中で育ってきたお陰かもしれない。
 定光は大きく深呼吸をして、今一度周囲を見回した。
 理沙が言うに、治安の悪い北の方には行かないようにと言われている。
 定光は一先ず通りを渡って、南の方に足を向けた。
 通りの街路樹は青々としていて、オフホワイトやベージュを基調とした歩道を美しく彩っている。理沙はショーンのスタジオ周辺は治安が不安定だとは言っていたが、今のところそんな風には思えない。
 定光とすれ違う人々は、家路を急ぐごく普通の人々だったし、身なりも穏やかな人ばかりで危機感は感じない。
 そんな風に思うところが、日本人特有の日和見主義なのかもしれないが。
 少し歩くと、街路樹の合間から運河が見えてきた。
 定光から見て右側の方向だ。道路を渡ったものの、こちら側には運河沿いの遊歩道しかないようだ。
 少しばかり運河沿いの心地よい景色を見つめた後、定光は再び通りの反対側に目をやった。
 C市の街中は、少しNYと似ている。
 アメリカによくあるような大型スーパーがあるというより、小さな個人経営のお店がアパートメントビルと混在してあるといった風情だ。C市が栄え始めたのは近年のことらしいが、街並みは古くからの歴史深い建物が数多く残っているようだ。
 定光は再び通りを渡り、幾つかの店を覗き込んだ。
 ただで夕食をお呼ばれするわけには行かないので、テーブルワインでも手に入れられればと思っていた。
 覗いた店の中には、デリカテッセンや日用雑貨を扱ったところはあったが、リカーまで置いているところはなかった。
  ── これは本格的にリカーショップを探さないとダメかなぁ……。
 定光はため息をつきながら、不安気に周囲を見回した。
 行き当たりばったりで出て来たのは些か無謀だったかな、と後悔し始めた頃、店の奥にワインらしきものを置いている店を発見した。
 ホッと胸を撫で下ろして、中に入る。
 店は鰻の寝床のように奥に細長いお店で、店の入口付近にはチーズやベーコン、幾つかのデリが並んだ大きなショーケースがあり、仕事帰りと思しき年配で細身のキャリアウーマンが店主と会話を交わしながら、注文を伝えていた。
 頭が些か禿げ上がりでっぷりとした体躯の店主は、笑顔で会話を交わしながらも、機敏な動きで注文された品を紙に包んでいく。
 その和やかな雰囲気に内心ホッとしながらも、定光は店の奥に進んだ。
 途中店主がチラリと定光の方を見たので、定光は奥のワイン陳列棚を指差し、「May I?」
と聞くと、店主は軽く頷いて、「どうぞ」という仕草をした。
 店主と話をしていた女性客が振り返って定光を見る。
 彼女は背が高く、定光と殆ど変わらない背丈だったが、定光を見ると彼女は下から上まで定光のことを見つめた。
 定光は一瞬何かマズかったかな、とドキリとしたのだが、彼女は再び定光の顔を見つめると、「Hi」と笑顔で挨拶をしてきた。定光はホッと胸を撫で下ろし返事を返すと、何か話しかけられる前に、そそくさと店の奥に移動した。
 簡単な会話なら聞き取れるが、自分が話すとなるとまだまだ言葉や文法が咄嗟には浮かんでこない。
 定光はワイン棚の前まで来たが、内心は背中越しに先ほどの女性客と店主のやり取りに神経を向けた。
 なんとなく自分の容姿について言われているような気がしたが、距離が遠く定かではなかった。ワハハと二人の笑い声が聞こえてきて、定光は内心再びドキリとした。
 別にバカにされているわけではないのだろうが、若干疎外感を感じてしまい、定光は軽く自己嫌悪に陥る。
 滝川のお陰で多少なりとも英語は聞き取れるようになってきたとはいえ、異邦人感は拭えない。定光が仕事で海外に出る度によく感じる"宙ぶらりん感"だ。
 それは日本に居ても時折感じる感覚で、自分が混血だからこそのものなのだろうとよく思う。
 日本人でもなく外国人でもない、という不安定な感覚。
 定光はどちらかと言えばネガティヴな方向に物事を考えがちな傾向がある。時折自分を襲ってくるこの不安定感がその大元の原因ではないかと思うが、定光はボルダリングやジョギングなどで身体を動かすことによって、それを解消してきた。
 考えてみれば、ここしばらく身体を動かせていない。
 特に海外出張に出てからは、スポーツジムにもクライミングジムにも行けず、海外でジョギングに出る暇も勇気もなかった。
 ── そういえば、滝川とのセックスも間が空いている。
 昨夜、久しぶりにそのような雰囲気になりかけたが、定光の方がその雰囲気を台無しにしてしまった。
 定光はフゥーと大きくため息をついて、額を拳でコンコンと叩いた。
 自分が滝川を雁字搦めにしている罪悪感と不安定な自分を滝川に繋ぎ止めて欲しいという欲求が綯い交ぜになって、自分のことが嫌になる。
  ── アイツは今頃まだ真面目に仕事してるのに、俺ときたら……。
 益々ネガティヴなスパイラルに落ちようとしかけていた時、「ワイン、お悩みですか?」と日本語で話しかけられた。
 定光はハッとして顔を上げた。
 左隣に、随分背の高いスーツ姿の男性が立っていた。
 定光は更に視線を上げ、男の顔を確認すると、明らかにアジア系の顔つきをしていた。先ほどの日本語の発音から察するに、間違いなく日本人だ。
 しかしそれにしても、重厚で色気のある雰囲気の男だ。日本人男性としては珍しいタイプだろう。
 漆黒のスーツが逞しい体躯によく似合っている。キレイに整えられた髪には随分白いものが混じっていたが、前髪部分に固まってあるので、品がいい。
 顔に僅かに浮かんだ微笑みも、悠然としていて落ち着きがある。一見すると相手を呑んでしまう雰囲気だが、目尻の皺が優しげな印象なので定光は身体の強張りを解いた。
「大分悩んでおられるようだが、この店のワインはテーブルワインとしてはどれも秀逸ですよ。カリフォルニアワインもありますから、お土産にしても良さそうですし。ご旅行ですか?」
 男はそう続ける。
 定光は慌てて答えた。
「いえ! あの……仕事で……」
「ああ、ビジネスでしたか。それは失礼しました」
「あ、いえ……。でもなぜ僕が日本人だとわかったんですか?」
 定光はそう訊いた。
 自分が日本人とも外国人とも判別し辛い外見をしていることは重々わかっている。
 男性は定光のその問いに、笑顔を深くした。益々目尻の皺が大きくなる。
「あなたが日本語で呟いていたからですよ」
「えっ!」
 定光は自分が何かを呟いていた覚えはなく、思わず声を上げた。
「お、俺、何か呟いてました?」
「ええ」
「な、なんて……」
「俺って、ダメだな」
 男性にそう言われ、定光は顔がカッカと熱くなるのを感じた。
「す、すみません」
「別に謝る必要はないと思いますよ。人間誰だってワイン陳列棚の前で己の優柔不断さを思い知らされることは多々あります」
 彼はそう言ってコミカルな笑顔を浮かべると、ウィンクをした。
 定光も思わずつられて笑顔を浮かべる。
 おそらく彼は、定光がそんなことで思い悩んでいるのではないことはわかっているのだろう。だが、敢えてそこに触れずにウィットに富んだ受け答えをしてくれることが定光に取ってはありがたかった。
「励ましてくれて、ありがとうございます。定光と言います」
 定光が右手を差し出すと、男性は再びニコッと笑い、「初めまして、羽柴です」と答えながら、定光の手を握り返してくれた。大きくて温かい手だ。
「羽柴さんもお仕事でこちらに?」
 定光がそう訊くと、「ええ」と羽柴は頷いた。
「とは言っても出張じゃないんです」
「あ、こちらにお住まいなんですね」
「ええ。定光さんはご出張ですよね?」
「え、ええ。なんで……」
「この店は私の馴染みの店で。店主のジョナサンが君のことを"初めて見る顔だ"と話していたから」
「え? 僕のことを?」
 定光が店の入口に目をやると、店主があの女性客を見送っているところだった。
 そんな定光に羽柴が耳打ちをする。
「常連客のマギーが君の素性をジョナサンから聞き出そうと躍起になっていたんだよ。彼女最近、恋人と別れてるから」
 そう言われて、定光は目を丸くした。
「えっ! でもさっきの女性って……」
 明らかに50代と思しき女性だった。定光とは20も離れている計算になる。
 羽柴は気の抜けたため息を吐くと、「こちらの女性は、恋愛に関しては逞しくできてるからね」と呟いた。
 それは何となくわかる気がして、定光はああ、と頷いた。
「ところで、ワインはどのような目的で買うの? よければ選ぶのを手伝うよ」
「本当ですか? 助かります。今夜仕事相手がお宅での食事に呼んでくれて、手ぶらでは気がひけるからワインを手土産にできたら、と思って」
 定光がそう言うと、羽柴は顎に手を当てて、「フム」と口をへの字にした。
「どこかで聞いた話だな」
「?」
「いや、実は今夜うちもそんな状況で。もっともうちは迎える側なんだが」
「あ、そうなんですか?」
「ああ。夕方急にパートナーから電話がかかってきてね。だから今日は早めに仕事を切り上げることにしたんだ」
「なんだか大変そうですね……」
 定光がそう言うと、羽柴は両肩を竦めた。
「いや、ここのところ仕事でこんを詰め過ぎてるから、息抜きできて丁度いい。案外あいつも、それを狙ってるのかもしれん……」
 うーんと唸っている羽柴を定光はキョトンと見つめた。その視線に羽柴が気づく。
「ああ、これは失敬。私のことより、君のワイン選びの方が重要だね。ディナーのメニューは訊いているの?」
 定光は首を横に振った。
「そうか」
 羽柴は「ええと」と呟きながら、棚の上の方の赤ワインを手に取った。
「それならこれがいいよ。軽めの赤ワインだから、どんな料理にも合う。ベストマッチとは言い難いが、邪魔もしない。そんな風に言うと一見ネガティヴに聞こえるかもしれないけど、肉でも白身の魚でも大丈夫だから、すこぶる優秀だ。価格も相手に失礼にならない程度の価格帯だしね」
 確かに、羽柴から受け取ったワインボトルは光にかざすと美しく透き通ったワイン色で、キラキラと輝いていた。ボトルラベルもモダンなもので如何にも若い銘柄の爽やかな佇まいのワインといった風情である。
「これにします。いや、助かりました」
「いやいや、これくらいどうってことないよ」
 羽柴は、定光が支払いを済ませる時にも手伝ってくれた。
 店主と軽快に会話を交わし、定光の分の精算を済ませた後、彼はワインの他にもう一つ紙袋を定光に手渡してくれた。
「え、これなんですか?」
「チーズのオイル漬け。チーズをチリスパイスや数種類のハーブと一緒にオリーブオイルで漬け込んだものだよ。とても美味いんだ。これは、私からの奢り」
「え! そんな悪いです! 初めて会ったばかりなのに」
「遠慮するのは日本人の悪い癖だ。気にしないで。美味しいものは皆で分かち合わないと。きっとお呼ばれした先でも喜ばれると思うよ」
 羽柴はそう言うと、自分の精算を終えて、さっさと店を出て行ったのだった。

 

この手を離さない act.42 end.

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編集後記


おひさしぶりでぇ〜す!!

羽柴耕造、元気にやっております(笑)。

それにしても、昔描いたイラスト貼るのも久しぶりやわ(汗)。
昔はギャラリーと称して手描きイラストを掲載していましたが、今ではすっかり引っ越しさせるのが面倒くさくなっていて、いまだギャラリー復活の兆しはなく(大汗)。
小説の連載が終わったら頑張るかな・・・(遠い目)。

まぁ、今ではすっかりイラストなんぞ描かなくなりました。
一度ペンタブ熱が盛り上がって買ったけど、使いこななせなくて3日で放り出したwww
スキャナ使うのが面倒くさいんですわ・・・(脂汗)。
それに描かなくなって久しいので、きっともう描けなくなってると思う。

さてさて。
久しぶりの羽柴耕造氏の登場です。
思えばこの方、サイト開設当初から出てきているキャラクターなんで、一番芸歴(?)が長い。
作者の私が年をとるように、彼もまたすっかり年を取りました。

なにせ白髪が生えてる!!

まさか国沢も、以前登場したキャラクターを白髪姿になるまで書くことになろうとは思ってもみませんでした。
てか、よくぞ飽きっぽい私が、ここまでサイト運営を続けられたことよ・・(脂汗)。
それもこれも、サイトにお越しくださる皆様のお陰です。

まぁね。
「老い」もまた人生ですよ。
それに触れるっていうのも、いい機会かもしれませんね。
しかし、BLサイトで「老い」について取り上げてるところって、どれくらいあるんだろう???www
でも羽柴さんは、素敵に老いているようで、国沢も安心しました。

それではまた。

2017.2.25.

[国沢]

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