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この手を離さない title

act.88

 再びアメリカに旅立つ定光を、滝川と村上が空港で見送ってくれた。
「今度はすぐに帰ってくるから」
 搭乗チェックインを済ませて、滝川達が待つベンチに戻ってきた定光は、村上から定光の荷物を受け取りながら、そう言った。
 サングラスをかけた滝川はベンチに座ったまま、火のついてないタバコを咥えて、それをプラプラさせている。
 定光は、横目でそんな滝川を見た後、村上に視線を移した。
「村上、あとよろしくな」
 定光がそう言うと、村上はしっかりと頷いて、「任せてください」と答えた。
 村上は、定光が海外に出ている間、定光の家に泊まってくれることになっていた。
 昔の村上なら、滝川と二人きりで長時間過ごすことに恐れをなして嫌がっただろうが、今回は二つ返事で引き受けてくれた。
 滝川が若干機嫌が悪いのは、定光と離れ離れになるためではなく、村上があの部屋で寝泊まりして、なおかつ自分の面倒を見る状況が嫌なようだ。だがそれでも、滝川は不平を言わなかった。言えば定光が本気で困るとわかっているからだろう。
 定光は滝川の前にしゃがんで、「じゃ、行ってくる」と告げた。
 滝川はそっぽを向いたままだ。
 定光は、ベンチの下にだらりと垂れた滝川の右手を、両手で包み込むように掴んだ。
 右手はもう包帯が取れていたが、手のひらの火傷の跡は残ってしまった。
 だが、少しだけ指は曲げられるようになってきていた。全く動かせる気配がなかった頃からすると、随分な進歩だ。
 今も滝川は右手に定光の体温を感じると、顔はそっぽを向いたままでも、指を僅かならが曲げた。
 握力はまるでなかったが、それでも気持ちは充分伝わる。
 定光はゆっくりと微笑んだ後、「会社であまりワガママ言うんじゃねぇぞ」と言った。
 滝川が顔を派手に顰めて、定光を見る。
「もっと可愛げのあることを言えねぇのかよ」
 定光は、ハッハッハッと声を出して笑った。
「じゃ、もう行くな」
 搭乗開始のアナウンスを聞きながら、定光は立ち上がった。
 両腕を高く上げて全力でバイバイと腕を振る村上とベンチに座ったままの滝川を見つめながら、定光は手を振って搭乗口へと向かったのだった。
 
 
 ニューヨークに到着すると、なんと驚くことにエレナ・ラクロワ自らが定光を迎えに来ていた。
「エレナ!」
 定光が心底驚いて駆け寄ると、エレナは御付きの者に定光の荷物を運ぶように指示を出した後、「早くあなたの顔が見たくて」と言って、その華奢な両手で定光の両頬を包んだ。
 “氷の女帝”という異名を持つエレナは名の通り手もひんやりとしていたが、そのハートは意外にも人情深い。
 一度彼女の懐に入った人間に対して彼女が見せる気遣いは、相手をとても安心させた。
 理沙が他の会社から引き抜きの誘いを多数受けても断り続けているのは、エレナの元で働き続けたいと思っているからだと、彼女は言っていた。
 エレナは上品な微笑みを浮かべると、「元気そうでよかった」と言った。
 定光も笑顔を浮かべる。
「ショーンが手を打ってくれたお陰で、随分気持ちが楽になったんです。僕も新も」
 車に向かって歩きながら定光がそう答えると、エレナは珍しく声を出して笑った。
「あの子にはいつも驚かされるけど、直情的に動いた割に、今回はとてもいいアイデアを考えついたわ。あの子も一生懸命だったのよ」
 定光は頷いた。
 黒塗りの車に乗ると、エレナは「ところで、そちらの“坊や”はどう?」と訊いてきた。
「まだ右半身に麻痺が残っていますが、精神的にはだいぶ落ち着きました」
「そう。それは本当によかったわ。身体が多少不自由でも心さえ健やかなら、大丈夫」
 エレナの言ったことは本当にその通りだと思って、定光は深く頷いた。
 エレナはそんな定光を見つめる。
「あなたも英語が本当に上手になった」
「新にしごかれたんですよ」
 定光は苦笑いする。
「アイツ、リハビリ以外はすることがないからって、俺の英語力を鍛えることに楽しみを見出してしまって」
 エレナがまた声を出して笑う。
 それは珍しいことなのか、運転手がバックミラーで様子を伺ってきた。
「あなた達の話はいつ聞いても楽しいわ。 ── それにしても、髪の毛が伸びたわね」
 背中まで伸びた定光の髪をエレナは覗き込む。
「あ、ああ……。切るタイミングを逸してしまって」
「ゴムを解いてみてもいい?」
「ええ。かなり鬱陶しいことになりますけど」
 定光が自分で髪ゴムを取ると、エレナが乱れた髪を整えた。
 緩くウェーブのかかった毛束が、鳶色から深い茶色まで様々な表情を見せながら広がる。
「あなたの髪色は不思議ね」
「ええ、よく言われます。色ムラが激しくて………」
「天然の色なの?」
「ええ、そうです」
 エレナは「そうなの。それは珍しい」と目を見張った。
「美しいわ」
 エレナはそう呟きながら、しばらく定光の髪を眺めていたが、ふいに運転手にこう告げた。
「ホテルに向かうのはやめて、会社に戻りなさい」
「はい」
 定光が怪訝そうにエレナを見ると、エレナはにっこりと微笑んだ。
 その微笑みは、さっきまでとは打って変わって、目は笑っていなかった。
「やはりあなたは我が社のカメラに収めるべき人材よ。ショーン達と合流する前に会社のスタジオで写真を撮って行きなさい」
「え、ええとそれは………」
 定光が目を白黒させながら口籠ると、「イヤとは言わせない」とぴしゃりと言われた。
「私は如何なるものでも美しいものは記録されるべきだと考えているの。あなたは、それに値する」
「そ、そう言ってもらえるのは光栄ですが、ヌ、ヌードはさすがに……」
 以前エレナに言われたことを思い出して、定光は口籠る。
「それはあなたの恋人に敬意を評して許してあげる」
 エレナは笑った。
 やっぱりその目は、ちっとも笑っていなかった。
 結局。
 上半身はやはり脱がされて、撮影されてしまった。
 エレナはエニグマ社内に自分が納得するカメラマンがいないことに気がつくと、電話一本で著名なファッションフォトグラファーを呼びつけてしまった。
 Tシャツを脱ぐと、腹部に新がつけたキスマークがいくつか残っていて定光は悲鳴を上げたが、エレナはそれもまた「美しい」と言い切って、それごと撮影してしまった。
 エレナが撮影した写真をどうするかは知る由も無いが、撮影を終えたエレナはかなりの上機嫌で、エニグマの社員が不気味がるほどだった。
 その日の夜にニューヨークに到着したショーンは、その顛末を定光から聞いて、腹を抱えて大笑いしたのだった。
 
 
 後半の撮影旅行は、とても順調に進んだ。
 今回はカメラマンがシンシアだけで、全てのロケ地の撮影を彼女が担当してくれたので、天候さえ整えば撮影はスムーズに済んだ。つまりはサラがむずかる前に撮影を終えることができた、ということだ。
 前準備を丁寧に整えた事もさることながら、撮影チームの一体感がいい影響を与えていた。
 撮影スタッフは、滝川と村上が欠けている以外は全て前回と同じメンバーで、全員が滝川の身に起こったことをとても心配していた。
 皆が“アラタのために”と思って仕事をしてくれていることを定光は肌で感じて、本当にありがたく思った。
 そして今回目を見張ったのは、あのノートの久保内が撮影旅行に参加したことだ。
 どうやらショーンに口説き落とされたらしい。
 最初は彼らしい感情の読めない表情を浮かべていたが、何日か経ち、撮影スタッフの熱意のこもった現場の様子に触れていくにつれ、次第に撮影の手伝いをするようになった。最終的には、スタッフの飲み物の買い出し、なんていう以前は村上が行なっていた下っ端仕事も、「自分が一番手空きだから」と積極的に動いてくれた。
 海外での撮影の最終日、夕食後にスタッフ全員で和やかにお喋りを楽しんでいる時に判明したことだが、久保内は学生時代ラグビーをしていたらしく、体育会系を彷彿とさせる熱い現場に昔の血潮が刺激されたらしい。彼はこの撮影スタッフがいかに素晴らしいかを熱弁して、感動したと繰り返していた。
 それは彼が少し深酒をしていたせいもあるのだろうが、それでも本心には間違いない。
 ショーンは定光と視線を合わせると、にっこりと笑った。
「これでもう、彼も僕らのファミリーの一員だね」
 ショーンは嬉しそうにそう言ったのだった。
 
 
 撮影旅行の後半は、日本での撮影だった。
 ショーンは約束通りダイビングの免許を既に取得してくれていて、海中の撮影だけは日本人の海中専門のカメラマンにお願いした。
 いつもの古風な衣装を身につけ、海中の郵便ポストの隣でエアータンクもつけずの撮影は過酷だったが、ショーンはなんとかやり切ってくれた。
「ミツが仕事に関してはサディストだってこと、すっかり忘れてた」
 撮影終了後、海中から上がったショーンが胸を喘がせながらそう言うと、全員が爆笑した。
 こうして長きに渡る撮影旅行は幕を閉じた。
 定光は、ショーンや他の撮影スタッフと共に、東京に戻ったのだった。
 
 
 ショーンや撮影スタッフが定光の会社を見てみたいし、滝川に会って帰りたいと言ったので、定光は東京に戻ったその足で会社に寄った。
 メンバーを引き連れ、ぞろぞろと定光のデスクがあるオフィスに上がったが、不思議と誰もいなかった。
「おかしいなぁ……。ショーン達を連れて会社に来ることを前もって連絡してたのに……」
 定光は英語でそう呟きながら、自分のデスクに一先ず荷物を置いた。
 そこにメモ用紙が置かれていることに気がつく。
「何?」
 定光の背中越し、ショーンがメモ用紙を覗き込んで来る。
 少し日本語がわかるショーンといえども、書いている文字までは読めない。
 そこには、“撮影スタジオで待ってます”と村上の汚い字で書いてあった。
「なんだろう?」
 定光は怪訝そうに首を傾げながら、その場にいた全員でスタジオに降りた。
 分厚い扉を開けると、「お帰りなさーい!」とパトリック社の全社員が揃って出迎えてくれた。
 定光は一瞬呆気に取られ、直ぐに苦笑いを浮かべた。
「皆、大袈裟だよ。ただ撮影から帰ってきただけだ」
 そう言う定光を島崎希が「まぁまぁ」と両手を引きつつ、社員の輪の中に連れて行く。
 ショーンも撮影スタッフも、何事かと面白そうに社員達の輪の中に混じって行った。
 輪の真ん中には椅子が置かれてあり、定光はそこに座らされる。
「え? ホントに何?」
 周囲をキョロキョロと見回す定光の前に、マイクを持った村上が歩み出る。
「えー、皆さん! 本日はお日柄もよく、こうして無事に全撮影を終え、ミツさんが帰社致しましたー。皆、拍手ー」
 周囲は拍手をしたが、定光は村上の髪を指差して吹き出した。
「お前、何? そのアフロヘア」
「では宴もたけなわですので、ここでメインイベントといきたいと思います!」
 なぜか巨大なアフロヘア姿になっている村上は定光のセリフを完全にスルーして、先を進める。
「イベント?」
 定光が顔を顰めると、人垣を割って出てきたのは滝川だった。
 有吉瀬奈に付き添われて出てきた滝川の手には髪をカットするハサミがあった。しかも右手に、だ。
「 ── 新、お前………」
 定光は目を見開いた。
 滝川は定光の目の前でハサミをチョキチョキと動かして見せた。
 多少ぎこちないが、明らかに右手が以前より驚異的に動いているのがわかった。
「俺が、お前の髪の毛を切るの」
 滝川がそう言う。
 隣に立つ瀬奈が「新さん、すっごく練習したんですよ」ともう涙ぐみながらそう言い添えた。
 定光は微笑みながら、村上を見る。
「村上、お前、そのアフロ、取ってみろ」
 村上がギクッと身体を震わせると、「い、いやぁ、ミツさん、それはすべてが終わった後に………」と明後日の方を見ながら呟く。
 しかし後ろから村上に近づいたショーンが、それをひょいと取ってしまった。
 案の定、虎刈り状態でところどころ傷もつれになっている村上の頭が出てきた。
 やはり予想通り、練習台になっていたらしい。
「み、見ないで〜」
 村上は頭を隠しながら、人垣の向こうに消えて行った。
 ドッと一瞬その場が湧いたが、同時に心配そうに定光を眺める者もいた。
 しかし定光は笑顔を浮かべたまま、滝川を見つめる。
「切ってくれ、お前が」
 滝川が定光の背後に回ると同時に、定光は束ねていた髪ゴムを取った。瀬奈が定光の身体にカット用のケープをかけた後、滝川が切りやすいように櫛で髪を梳かして、ブロックごとに取り分け、ピンで留める。
 皆が固唾を飲んで見守る中、背後で滝川がごく小さく深呼吸をするのがわかった。
 定光は目を閉じる。
 どんなことになろうが、滝川に身を任せようと決めた。
 定光が海外に出た後、滝川なりに自分で目標を決めてリハビリに励んだに違いない。
 辿々しいものの、滝川は右手でしっかりとハサミを握り、定光の髪を切っていった。
 髪が軽くなるにつれ、定光の心も軽くなっていく。
 これは他人から見るとたわい無いことなのかもしれないが、二人にとってはとても大切な一幕となる出来事だと言えた。
 なぜなら、定光の髪が切り落とされるのと共に、ガスのように暗くまとわりついていた滝川の母親の呪縛から自然に解き放たれたような感覚を覚えたからだ。
 ジャキジャキと小気味のいい音が、しんと静まり返ったスタジオに響き渡る。
「 ── もう、これが限界」
 滝川がドッと疲れた声を上げた。
「これ以上やると、ミツの肌を傷つけそう」
「大丈夫ですよ、あとは私が整えますから。でももう殆どいけてますけどね。新さん、何をやっても上手」
 瀬奈はそう言いながら滝川からハサミを受け取ったが、確かに希が持つ鏡に映る定光の姿は、すっかりさっぱりとした以前の定光の姿だった。
 瀬奈が言ったことはお世辞でもなんでもない。
 滝川は不器用ながらも上手に定光の髪を切っていた。
「俺とあまりにも扱いが違う〜」
 アフロヘアを被った村上が身をよじらせる。
 皆が一斉に笑った。
 その間に定光は、滝川の手を取って、自分の目の前に連れて来る。
「 ── ミツさん、もう立ち上がっていいですよ」
 定光から服を覆っていたケープを取り去った瀬奈が耳打ちをした。
「ありがとう」
 定光はそう言って、立ち上がり、改めて滝川の右手を取る。
 その右手は、ギュッと力を込めて、定光の左手を握り返してきた。
「 ── 新……!」
 定光は堪え切れない涙を瞳に浮かべながら、滝川を抱き締めた。
 滝川が、定光の身体に身を委ねながら、心底安らかな微笑みを浮かべる。
 自然と拍手が沸き起こった。その拍手は永遠に続くようだった。

 

この手を離さない act.88 end.

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編集後記


なんだかすっかり春めいてきた陽気になってきましたねぇ〜。
どうも、国沢です。
花粉症の方は、厳しい季節がやってきましたね・・・。国沢は、実は花粉症全然ないので、あれなんですけど(汗)。

国沢はといえば、すっかりオリンピック三昧の日々を過ごしていました。
おかげで執筆活動がピタリと止まり・・・。

なんだかやっぱり好きなんですよね、オリンピック。
元々テレビでのスポーツ観戦が好きなんですが、オリンピックは一度にいろんな競技が楽しめる点と、いつもはテレビで放送されないようなマイナー競技でも日本選手が出ていれば放送してくれるところがいいところ。

前々回当たりから注目されはじめたカーリングも、今回の女子チームの活躍でたっぷり楽しむことができて本当に満喫しちゃいました。

そろそろ執筆活動も再開しないといけないんですけど、9日からパラリンピック始まるからなぁ〜・・・。
(↑ダメ人間)

ではまた。

2018.3.4.

[国沢]

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