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この手を離さない title

act.12

 定光と滝川が仮眠室に着く頃には、瀬奈が冷やした濡れタオルを持ってきてくれていた。
「後は俺がする」
 滝川がそう言うと、瀬奈は「お願いします」とタオルを滝川に手渡して、出て行った。
 定光はその様子を見ながら、簡易ベッドにうつ伏せになって横たわった。
「左頬も冷やすの忘れんな」
 滝川がアイシングを持っていた定光の手を取り、頬に当てさせる。
「……あ、新……ベルトが痛い」
 定光がそう言うと、滝川は察してくれたのか、定光の腰に手を回して、ベルトを引き抜いてくれた。
 そして背中全体に冷えたタオルを被せてくれる。
 定光は、その冷たさにぶるりと身体を震わせた。
「冷たい!」
 定光が思わず悲鳴を上げると、「我慢しろ」と即座に言われた。
「打撲は内出血が落ち着くまではなるだけ冷やした方がいいんだ。腫れが引いたら、温めてやるから」
 少し離れたところにあるシングルソファーに滝川は腰掛けながら、そう言った。
「温めるって、どうやって?」
 定光が思わずそう質問すると、一度はタバコを咥えた滝川がぼろりとそれを落とした。
「温めてるって、つ、つまり、タオルの上からこう、背中を擦ったりしてだなぁー……」
 滝川がタバコを拾いもせず、背中を擦るジェスチャーをする。
「お前、何赤くなってんの?」
「赤くなんかなってねぇわ。お前、殴られて目までおかしくなったんじゃねぇの」
 滝川がそう口を尖らせながら、ようやくタバコを拾う。
 定光は、しばらくぼんやりと滝川がタバコを吹かす様子を見つめた。
 ふとポツリ、滝川が「すまなかったな」と謝る。
 定光は瞬きをした。
「なんでお前が謝るんだよ?」
「まぁ……一応俺の身内がしたことだからな」
 滝川はそう言って、フゥーと煙を吐き出す。
「……やっぱり、あの人、新のお母さんなんだ」
「ん?」
「いや、あんまり似てないからさ。それに若いし」
 滝川はソファーの背に凭れ掛かり、またタバコをゆっくりと吹かした。
「あのババア、ああ見えて五十五だぜ」
「マジかよ」
「ああ。永遠のお嬢様だからな、あのキチガイ」
「そんなこと言うなよ……。一応母親だろ」
 滝川は身を丸めるように右腕を身体に巻き付けると、身を小さくして、タバコを吸った。
 まるで自分を落ち着かせるためにそうしているように見えた。
 そうして数回タバコを吸った後、滝川は灰皿にそれを押し付けながら、乱暴に煙を吐き出した。
「確かに俺はアイツの腹から出てきたけど。俺の童貞奪ったのも、あのキチガイババアだぜ。そんなヤツ、母親って言えるか?」
「え……?」
 定光は思わず身体を起こした。
「おい、まだ寝てろよ」
 滝川が顔を顰める。
 定光はベッドの上に座り込むと、滝川を見つめた。
「お前、さっき言ったこと、マジか?」
「冗談でそんなこと言うか」
「つまりそれって……」
 滝川はガリガリと頭を掻くと、「世の中には、少年に対する性的虐待もあるんですわ。父親からでなく、母親からっていう信じがたいケースが」と言った。
「……そうか……」
 定光がそう返事をすると、滝川が新しいタバコを咥えつつ、フッと笑う。
「意外にあっさり信じるね」
「俺を信じろって、お前が言ったんじゃないか」
 滝川は一瞬タバコに火をつける動作を止め、定光を見た。
 定光は、滝川に手を伸ばす。
「何だよ?」
「手を繋ぎたい」
 滝川はパチパチと瞬きをすると、タバコをサイドテーブルに置き、ソファーを動かして、手が届く位置まで移動した。
 滝川が手を差し出したので、定光はその手をそっと握った。
 互いに力は込めなかったが、それでも互いの手の温かさは伝わった。
「お前が随分若い頃に単身渡米したのって、お母さんから逃れるためか」
 定光がそう訊くと、滝川はベッドの縁に身体を前向きに凭れかけさせて、「そう」と答えた。
「俺の実家、意外に金持ちなのさ」
「うん。そんな気はする」
「親父とあのクソババアは見合い結婚で、もろ政略結婚だった訳。ババアは嫌々結婚させられたって、いつも話してた」
「うん」
「それでもそのうち息子が生まれた訳よ。跡取り息子がよ。──ところがその息子が、親父にもババアにもどっちにも似てない訳。不思議なことに」
 滝川がヘッと笑い声を上げる。
「母親は確実にあのババアであることは間違いないわな。今時、実家のお屋敷で産婆呼んで捻り出したんだから。となると、問題は父親な訳」
「……うん」
「一人息子が大きくなってくるにつれて、息子はどんどん似てこなくなる。一方母親は、そんな息子のことをウットリとした目で見つめてる。親父だって薄々、一人息子が自分の血を引いてないことに勘づくわな」
「で、結局……」
「俺は、クソババアの初恋相手の子供だったって訳。見合い結婚が決まって完全にパニクったババアが、自分の家の運転手に夜這いをかけたんだ。まるで金田一耕助が出てくるサスペンスドラマみてぇなシナリオだろ?」
 定光は、握った手に少し力を込めた。
 滝川も握り返してくる。
「当然夫婦仲は最悪。親父もとっとと別れりゃいいのに、メンツとババアの実家の資産に目が眩んで、別れられない。ババアが俺に手を出してたことも、親父は知ってたよ。だから俺は親父を脅して、アメリカに行く金を奪ったんだ。家のメンツを汚したくなかったら、金を出せってね。親父はふたつ返事で金を出したよ。いい厄介払いができると思ったんだろ? 向こうへの高校の編入届けも、住む場所や生活費も、一切合切親父の秘書が手配してくれたわ。それ以来、実家と俺は絶縁状態だったって訳」
「そうだったんだ……。でもそのクソババアは、追いかけてこなかったのか?」
 定光がクソババアと滝川の母親のことを呼ぶと、滝川はさも可笑しそうにケタケタと笑った。
「あのババア、筋金入りの箱入り娘なんだわ。セックスの仕方はいっちょ前に知ってるくせに、ATMで金を引き出すこともできない。そんなヤツが、アメリカ行きの航空券、自分で買えると思うか?」
「まず無理だな」
「だろ? アイツの周りのヤツらは残らず俺とババアの関係を知ってたから、手を貸すヤツは誰もいなかった。ババアの実家も含めて」
 定光は滝川をジッと見つめて、自然と湧いてきた疑問を口に出した。
「 ── なぁ、新。お前、なんで日本に帰ってきたんだ? 就職だって、望めば向こうでできてたろうに。向こうにいた方が、安全だったんじゃないのか?」
 滝川が顔を上げ、定光を見つめてくる。
 しばらくの沈黙の後、滝川は口を開いた。
「山岸さんにパトリック社に来ないかって誘われた時、ちょっと興味があったことがあって、それを確かめたら帰るつもりでいたんだ。だから、荷物も夏服しか鞄に詰め込んでこなかったし。まさか日本の冬があそこまで寒かっただなんて、すっかり忘れちまってた」
 定光は、初めて忘年会で会った時の滝川を思い出して、プッと吹き出した。
 滝川がその定光の笑顔を見て、誘われるように笑う。
「あの忘年会で、俺、帰れなくなっちまったんだよなぁ」
 滝川はそう呟く。
「なんで?」
 定光は訊き返した。
 滝川は、こてんと頭を伏せると、額を定光の手の上に乗っけて、「日本のビールと飯が、まぁ美味かったのよ。アメリカの飯はマズくてマズくて……」と答えた。
 定光はアメリカ出張の折に食べたダイナーのパスタを思い出した。
「確かに、アメリカの食事はマズイもんなぁ。スパゲティも、スパゲティというよりは、ケチャップヌードルって感じで……」
「だろ?」
 定光は、顔を伏せたままそう答える滝川の、ボサボサに乱れた髪を上から見下ろし、何気なく空いた手で整えた。
 滝川が顔を横に向けて、ため息をつく。
「でももうあのババアに居場所がバレちまったからなぁ……」
「帰るのか? アメリカに」
 思わず定光は、反射的にそう訊いた。
 そう訊かずにはおれなかった。
 モヤモヤとしたものが胸の中に渦巻いて、言い知れぬ不安感を感じた。
 滝川は再び顔を伏せると、結局その問いには答えなかった。

 

この手を離さない act.12 end.

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編集後記


今週はいよいよ、国沢が新のオカンをなぜ『悪人』呼ばわりしたかの理由が判明いたしました。
web上にたとえ創作物とはいえ『キチガイ』という強い言葉をのっけていいのかどうか迷いましたが、新の母親に対する強い気持ちを表すのに他にいい言葉が浮かばなかったんで、あえてそのままにしました。

今回のこの設定は、非常に由々しき問題というか、こういったケースを扱うのは「触覚」以来なんですけども、今回のケースは「触覚」の時よりディープな気がします。
というのも、「触覚」の時は、歪んだ愛情の受け手である櫻井姉がそのことを受領してなおかつ、むしろそれを望んでいたわけですが、今回は明らかに受け手が嫌がっているわけで、更にそれが大きなトラウマになっている訳です。
新の女遊びの根底にはおそらく『女性嫌悪症』からくる復讐心みたいなものがあるか、もしくは女性から迫られた場合にイヤと拒絶すると過去の恐怖体験が蘇ってくる・・・のどちらかがあると思うんですよね。
いずれそれは、彼自身の口から語られることになると思うのですが、心の傷の根は相当に深い。 本人は至って平気そうに振る舞ってますが。

新の幼少期の辛さは如何ばかりか・・・。

国沢は小説を書き出す前に、いつも主要キャラクターの子供の頃の設定まで考えて書くことが多いのですが、今回の滝川新に関しては相当抑圧された幼少期を送っているという設定になっています。
「オルラブ」の千春の場合は、『育児放棄気味の両親』という設定で、それもなかなかひどい設定でしたが、新の場合はその上をいく酷さ。

本編中ではあまり触れられませんが、設定上では、小学校や中学校の頃、母親がモンスターペアレント化して学校に乗り込み、それが学校中に広がって新が友達から孤立したり、母親がご機嫌ナナメだと家の外に出してもらえなかったり(むろん学校にも行かせてもらえない)、仲良くなった召使が男女問わず片っ端からクビになっていったり・・・となかなかの粘着エピソードが目白押し。
それでも新は頑張って自力でその世界から抜け出したわけですから、元々気骨がある子であることは確か。
そんな新でも、自力で全てのメンタル的な問題を解決するのは難しいわけで。
だからこその問題行動なんだと思います。

それを思うと、ミツさんって凄いホワイトナイトだと思う。

彼はまっとうな愛情をたっぷり注がれて育ってますから、『歪みがない』んですよね。
あまりにも人がいいんで、小さな不幸がちまちまと押し寄せてきてますが(笑)、それでも彼は歪むことがないし、濁ることもない。
今回も、新と手をつなぐというこの物語のキーワード的な行為をさり気なく行っていますが、定光慶という人は自然とそういうことが嫌味なくできてしまう人。
だからこそ、彼の周りには人が集まってくるし、「ミツさんのためなら」と助けてくれる人もいっぱいいる。
だからきっと、新にとってミツさんは、太陽のような存在なんだと思います。
ミツさん本人はそのことに全然気づいていないけどね。

本来なら、あまりキャラクターのバックボーンを欄外で作者が語るというのは、手の内を見せるようでよろしくないことなのかもしれませんが、国沢としては「作者」というよりは「観察者」という印象の方が強いので、思わず長々と熱く語ってしまいました。

早くミツさんから心の手も繋いでもらえる日が来るといいね。


ではまた〜。

2016.7.23.

[国沢]

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