irregular a.o.ロゴ

この手を離さない title

act.65

 翌朝。
 寝室に朝陽が差し込んでも、滝川は眠り続けた。
 対称的に定光は、結局一睡もできなかった。
 滝川はまるで全てをリセットするかのように、一度も起きることなく、あの奇行すら見せなかった。
 定光はベッドの縁に座り込み、滝川の寝姿を見つめながら、由井に電話をかけた。
「 ── 由井さん? 出勤前にすみません。あの……」
 定光が言い出す前に、由井の方から『新か』と切り出された。
「 ── はい。メンタルコンディションを完全に壊してしまいました」
 少し間があって、『お前は大丈夫なのか?』と訊かれた。
「俺ですか? ……大丈夫です」
 また少し間があって、『そんな風な声には聞こえないけれど』と言われた。
 定光は鼻先を指で摘むと、「本当に大丈夫です」と答えた。
「明日から海外での撮影に入るので、それまでに起き上がれるぐらいまでには回復させないと……」
『できるのか?』
「やります。状況を考えても、撮影スケジュールはずらせない」
 多忙なエニグマスタッフやシンシア・ウォレスの都合、そしてショーン本人全てのスケジュールをなんとか調整して組んだ予定だ。これを逃したら、いつまた日程を組めるかわからない。
 今回は欧州からアフリカ、中央アジアにかけて撮影して周る長丁場だ。
 滝川は、ショーンの次のシングルカット曲のPV画像を撮る必要があり、更にはシンシアの娘のお守りをするという極めて重要な役目を果たさなければならない。滝川を日本に置いていく選択肢はない。
「なので、ひょっとしたら今日、そちらに出社できないかもしれませんが……」
 定光が言葉を濁すと、由井は即座に『そんなこと気にするな。お前に関しては、出勤扱いにするよう社長と総務に言っておくよ』と言ってきた。
「いや、由井さん。さすがにそれは……。欠勤扱いで構いません」
 しかし由井は譲らなかった。
『新のメンタルを戻すことは、社運がかかった立派な仕事だよ。しかも、お前にしかできない。こっちのことは心配するな。元々、そんなに重要な仕事はない。全て村上で処理できる仕事だ』
「すみません……」
 くれぐれもお前が潰れない程度にやれよ、と由井は最後にそう言って、電話は切れた。
 定光はベッドの上にスマホを置くと、窓に向かって陽に当たり、深呼吸した。
 まだ目がしょぼついていたので両頬をパンパンと叩き、背伸びをした。
「とにかく、何か食べよう」
 定光はウンと頷いて、キッチンに向かったのだった。


 滝川が目を覚ました時に、側で起きていようと思っていた定光だったが。
 寝不足の上に朝食を食べた満腹感が仇になったようで、気づけば滝川の隣で眠りこけていたようだ。
 定光がふいに目を覚ますと、隣で膝を抱えて座った滝川が、ぼんやりと定光の方を見ていた。
「 ── あ……。新、起きてたのか……」
 定光は目を擦りながら周囲を見回し、時計を見るともう既にお昼を過ぎていることに気づくと、思わず苦笑いしながら、ベッドに突っ伏した。
 顔を横に向けて滝川の様子を伺うと、定光が笑っている理由がよくわからないのか、ただ単に寝起きの低血圧でそうなっているのか、滝川は黙って不思議そうに定光を眺めていた。
 定光は身体を起こし、寝乱れた髪を手櫛で整えると、「お前が起きた時に"おはよう、気分はどうだ?"って声をかけようと思ってたのに、俺が爆睡してたんじゃな……」と呟いた。
 滝川は、完全に明るくなった寝室をぐるりと見回し、しばらく瞬きを繰り返す。
「気分はどうだ?」
 改めて定光が声をかけると、滝川は宙を見つめたまま、「あれ? 俺……。夢?」と掠れた声で呟いた。
 そしてまた定光に目をやると、定光の左頬がまだ少し赤く腫れていることに気づいて、「夢じゃなかったか」と残念そうな声を上げた。
 深酒のせいで腫れぼったくなっている二重の瞼が、重そうに瞬きを繰り返す。
 よく眠ったのが功を奏したのか、比較的落ち着いている様子の滝川に、定光は内心ホッとした。だが、表面的に大丈夫でも、滝川の場合は内面がどうなっているのかわからないから、気は緩められないが……。
 寝ぼけ眼の滝川に、「 ── 痛むか?」と訊かれ、定光は両肩を竦めた。そして「少しだけ。でももうすぐ治ると思うよ」と正直に答えた。
「怒ってねぇのか?」
 定光の頬に触れようとして指を引っ込めた滝川が、喉に引っかかるような声でそう言う。
 定光は「怒ってるよ」とすぐさま答えた。
「昨夜、電車が来る寸前に踏切を無理やり渡ったことだけは」
 定光はそう続ける。
「どれだけ俺が肝を冷やしたと思ってる。 ── 俺、人生で初めて、腰を抜かしたんだぞ」
「腰?」
「そう。まさしくヘナヘナってやつだよ。ヘナヘナとしか言いようがない。日本語はよくしたもんだ」
 そう言って定光が笑うと、釣られたのか滝川も少し微笑んだ。
 やがて定光は真顔に戻ると、こう続けた。
「でも、その前のことは俺の方が悪かった。殴られて当然だ」
 そういう定光に、滝川は苦虫を噛むように顔を顰めた。
「殴られて当然だなんて言うなよ。 ── 俺を許すな」
 心底嫌そうにそう言う滝川に、定光は滝川の右手を握った。
「うん、そうだね。人を殴ることは悪いことだ。 ── でも俺も悪かった。お前に隠し事をしていたのは事実だから」
 滝川が上目遣いに定光を見つめてくる。
 その顔つきを見て、定光は眉間に少しシワを寄せた。
「かといって浮気はしてねぇからな」
 今度は滝川が肩を竦めた。
 定光は滝川の手を握る己の手に力を込めると、「でもこの隠し事を話すのは、結構勇気がいるんだ」と告げた。
「正直、今でも話すべきか迷ってる。話すと、きっとお前が傷つくから」
「 ── 俺? 俺に関わることなのか?」
 定光はウンと頷いた。
「嫌なら答えなくていいけど……。昨夜俺を叩いてびっくりしてたの、俺よりむしろお前だったろ? ひょっとして……お母さんのこと、考えたんじゃないか?」
 滝川が視線を逸らした。
 それが答えだった。
 定光は滝川の頬に左手をそっと添えると、自分の方に向かせて優しくキスをした。
 滝川が驚いたような顔つきをして、定光を見る。
 定光は顔を寄せたまま、「お前はお前。お母さんとは違うよ」と言った。
 滝川の瞳にすっと涙の幕が下りたように見えた。
「そりゃ、影響が全くないとは言えないと思うけど、だからって一緒なわけない。第一お前は、俺を叩いて後悔してるじゃん。だろ?」
 滝川は唇を噛み締める。
 定光は身体を起こすと、ふぅっと深呼吸をする。
「俺が話していなかったことは、お前の過去に関することだ。どうする? 聞くか?」
 滝川はしばらく定光を見つめていたが、やがてこくりと頷いた。
 定光は、夜中に滝川が夢遊病患者のように起き上がって、母から逃れようとドアに鍵をかける仕草を繰り返していることを告げた。
 黙って聞いていた滝川はやはりショックだったようで、盛んに視線を泳がせたが、定光が改めて滝川の両手を握ると、定光を見た。
「話してくれ、新。お前が今何を考えているのか。どんなことでもいい。どんな汚い言葉でも、俺は聴けるよ。俺には、それだけしかできないから。お前がどんなことを言ったって、俺はお前の傍にいる。信じてほしい」
 滝川は、自分の手を掴む定光の手を見下ろした。
 滝川の手がやんわりと握り返してくる。
 そして滝川は、口を開き始めた。
「 ── ババアとヤってることが悪いことだとわかってから、俺は風呂場に隠れたんだ。そこだけ内側から鍵がかけられる場所だったから」
 滝川はそう話し始める。
「夜になって使用人が寝静まった頃、ババアが来る前に風呂場に篭った。内側から鍵をかけて、空っぽのバスタブの中で息を潜めていた。だけどババアも執念深くてよ。明け方頃になって、うたた寝をしてた俺の耳に、ドアをガンガン何かで殴っている音が聞こえてきたんだ。そりゃぁもうホラーだよ。窓からは明け方の薄明かりが差し込んできていたけど、子どもの俺からしたら、相当怖かった。ババアは男の使用人に命じて、ついに風呂場のドアを叩き壊した。大きなハンマーでな」
 定光は、ゴクリと生唾を飲み込む。
 想像するだけで、まだ子どもだった滝川の感じた恐怖は如何ばかりだったかと思う。
 定光は、滝川の手を握る力を強くしながら、「それで? どうなったんだ?」と恐る恐る尋ねる。
 滝川は宙を見上げながら、「へっ」と笑うと「折檻小屋に閉じ込められたのさ。おもしれぇだろ?」と答えた。
 内心、定光は「全然面白くない」と思ったが、滝川を見上げるだけで何も答えなかった。
「一晩中風呂場に閉じこもってたのにさ、今度は別の部屋に閉じ込められたんだぜ」
 滝川はそう言ってまた笑ったが、定光が笑っていないことを知ると小さく肩を竦めた。
「先生には、一人の時も頑張って勉強を続けろって言われてたけど、それから一週間は部屋に閉じ込められたままで、なんもできなかったなぁ・・・。それが悔しくてたまらなかったってことを一番覚えてるわ」
「そうなんだ・・・」
「勉強を続けることは、ババアに対しての唯一の抵抗みたいなものだったからな。お陰で留学しようって知恵もついたから、かえってよかったのかもな」
 定光は唇を噛み締めた。
 そんなの、かえってもなにも、ちっともよくないことじゃないか。
 滝川の母親がまともでありさえすれば。そして父親が息子のことを少しでも気にかけていたのなら。そもそも一週間も監禁されるだなんてことはなかったはずだ。
 定光は、目頭がカッと熱くなるのを感じた。
 どうも夕べから涙腺が緩い。
 滝川にも、「泣くなよ」と突っ込まれる。
 しかし今定光が浮かべた涙は、昨夜のものとは違い、怒りの感情からくるものだった。
 定光は過去、これほど体の底からふつふつと湧いてくるような怒りを他人に感じたことはない。
 しかしかといって、滝川の母親に対して、なにかができるとも思えない。
 むしろ、接触しない方が滝川のためになるにきまっている。
 定光は、「ごめん」といって少し苦笑いしながら、指の先で目尻の涙を拭った。
 そして滝川を見上げると、「キスして」と呟いた。

 

この手を離さない act.65 end.

NEXT NOVEL MENU webclap

編集後記


秋になったというのに、日中はまだまだあっついわ〜。
どうも、南国在住の国沢です。
相変わらず「おてて」はストックがなくなって、毎週書いてはアプするという危険水域に到達してます(大汗)。
やべぇ、二次創作の方も筆が止まってる・・・。

やっぱ2つの話を同時に更新するのは無謀すぎたwwwww

「おてて」はというと、また新の過去のエピソードが出てきて、マジ怖いかあちゃんだよ、と書いてる本人が呟いてます。
子どもは親を選べないからねぇ・・・。

やっぱ、当サイトでも滅多にいない「純粋悪人キャラ」ですね、新のママは。
多分、彼女なりにそうなってしまったそれなりの理由があるんでしょうが、国沢的にはあまり掘り下げたくないって思うほど、悪人臭がする。
珍しいです、うちのサイトでは。
うちのサイトは、悪役でもそれなりの悲哀が感じられたり、愛嬌があったりしますから。
ママ、どう収拾つけるつもりだろ?
全然見通したってないけどもwww
それはキャラのみぞ知るってところです。
それではまた。

2017.9.3.

[国沢]

NEXT NOVEL MENU webclap

小説等についての感想は、本編最後にあるWEB拍手ボタンからもどうぞ!

Copyright © 2002-2019 Syusei Kunisawa, All Rights Reserved.