最近、篠田さんが変わった。

　いや、ホントのところ、篠田さんが変わったのは、今に始まったことじゃない。
　去年の今頃、篠田さんは大変身を遂げた。
　それまでは、寝癖のついたボサボサ頭に、身体にあっていないブカブカのジャケットを着て出社していた。
　篠田さんは学生時代バレーボールをやっていただけに身長が高いから、きっと安売りの既製品スーツだとどうしても身体回りが余ってしまうようだった。むろん、スラックスもワイシャツもすべてどこか大きくて不格好。いわゆる、『冴えない男』の典型。
　しかも篠田さんは営業職のくせに凄く人見知りをする人で、彼が本当は優しくて頑張り屋さんで人がいいことは、ごく一部の女子社員しか知らなかった。
　男子社員の間では、課長や部長も含め絶対的に信頼されていたから、男の人の間ではそんなに人見知りしていないのかもしれない。ようは、女に奥手のウブな男の子。・・・30オーバーだけど。
「もっと積極的に女子社員と話せばいいのに・・・」
　篠田さんと同じ課に配属され、篠田さんがどういう人かわかった私としては、ずっとそう思ってた。
　私は篠田さんのこと、『素敵な人』だって思ってたから。
　 ── でも生憎と私は結婚したばかりで、法医学をやってる少し変わり者の旦那を捨ててまで篠田さんの元にダッシュする気はさらさらなかったので、早くいい人が見つかればなぁといつも思っていた。
　ところが。
　ある日篠田さんのルックスが、劇的に変化した。
　本当に、オーバーでもなんでもなく、『劇的』に。
　余りに変わり過ぎて、朝出勤した時に受付の水城ちゃんが篠田さんってわからなかったらしい。
　その日の昼休み、水城ちゃんがわざわざ私のところまでご飯を食べにやってきて、「私、マヌケにも篠田さんに『どちら様ですか？！』って声をかけちゃいました！」って興奮気味に話していた。
　あか抜けたヘアースタイルに身体にフィットしたスーツ、美しいシルエットの靴。
　ビジネス鞄は相変わらずのダサさだったけど、篠田さんが筋肉質のキレイなプロポーションをしていることを私ですら初めて知った。
　もちろん、女子社員は色めき立った。結構年配の『オネェ様社員』ですら、黄色い声を上げた。
　独身者はもちろんのこと、既婚者や彼氏がいる女子社員まで、給湯室は篠田さんの話題で持ち切りになった。
　中には、仕事をほっぽり出してわざわざ日本酒課まで見に来る人もいて・・・男子社員も混じってたけど・・・、肝心の篠田さん自身が困惑するぐらいだった。
　みにくいアヒルの子とはよく言ったもので、今更ながらに篠田さんのことをべた褒めする女子社員に、内心「今頃気づいたのか」と思うところはあったんだけど、篠田さんが皆から認められるのはいいことのような気がして、あえて私は何も言わなかった。
　ルックスひとつでこんなに評価が変わるんだから、やっぱり見た目って大事なんだなって思う。
　元々内面はステキな人だったから、それにカッコいい容姿が加われば鬼に金棒だよね。
　シングルの女子社員の中には、篠田さんを獲得すべく闘志を燃やす子もいたが、社内では「篠田にやっと彼女ができたらしい」という噂が駆け巡ったので、皆早々に諦めることになった。
　あの時は篠田さん、「彼女なんていない」って言ってたけど・・・。
　今振り返ると、『彼女』はいなくて、『彼氏』がいたんだよねって思う。　　
　その彼氏がまさか、澤清順先生だったなんて。
　篠田さんが、どういう経緯かわからないけど、どうやら澤清順先生と付き合っているようだと私が気づいたのは、昨年のボジョレーヌーボー解禁日。
　篠田さんの知り合いらしき人がデパ地下に試飲に来てくれて、柿谷酒造の薫風が入ったカップを手渡した相手が澤清順先生だった。
　私達同期入社の仲良し四人組の間で澤先生は憧れの作家さんだったから雑誌で写真はたくさん見ていた。だから彼が例え伊達眼鏡をかけて顔を隠していたとしても、近づいて見たら間違えようがなかった。
　その時の私は、完全にパニックになった。
　ほんの数ヶ月前には、「篠田さんも恋愛論を勉強した方がいい」と澤先生のインタビュー記事が載ってる雑誌まであげたのに、その雑誌に載ってる人と知り合いになってること自体驚きだった。それどころか、篠田さんと澤先生の間で交わされる会話の雰囲気とか視線の感じとかで、私は篠田さんを変えたのが他ならぬ澤先生で、しかも二人は付き合ってる・・・とまではいなかいまでも、かなり『いい感じ』のムードを醸し出していたのだ。
　見た目私は完全にフリーズしていたみたいだけど、頭の中はフル回転でいろんなことを瞬時に考えた。
　だってありえないことだらけだったから。
　で、最終的に私が出した結論。
　 ── 二人は、両想いに違いない。
　ってか、きっともうほとんど付き合ってるに違いない。
　いや、それどころか、もう一緒に住んでる・・・？
　だって、その時澤先生がアンケートに書いた住所、篠田さんの住所と同じだったんだよ！
　その日の夜は、仕事終わりに旦那と街で落ち合って食事をしに行ったが、終始私は旦那の話に上の空で文句を言われた。
　だって仕方ないでしょ？！　こんなビッグニュース、そうそうないもの！
　このビックニュースは、仲良し四人組の間だけで秘密にすることにした。
　他の三人も一様に驚いて、その後驚喜してたけど、これが周囲に知れ渡ればそれなりに大変なことになると自覚していたので、この秘密は堅く守ることと、私達で篠田さんを密かにサポートすることを四人で誓った。
　まさか二十歳もとうに過ぎた年齢になって、メンズラブのめくるめく妄想の世界に女四人でデビューすることにになるとは・・・・。
　その頃でも、篠田さんは会社で注目の的だった。
　会社の給湯室では、「今日の篠田さん」という報告の時間が設けられ、同じ課にいる私の情報は、特に重宝がられた。
「あのカッコいいルックスに似合わない素朴な性格とのギャップが最高なのよ！」
「私はあの八重歯がたまんないなぁー。笑うとちょこっと見える感じがカワイイ・・・」
「でも外回りが多いから、滅多に見れないのよね～！　いいなぁ、田中さんは。朝晩は必ず会えるわけでしょぉ」
　悶える女子達に年齢は関係なかった。
　韓流スターにのめり込むオバ様達って丁度こんな感じなのかな。
　その頃からいつしか、「恋人にしたい社員ナンバー1」から「結婚したい社員ナンバー1」になり、「弟（もしくは兄）にした社員ナンバー1」に変化して、最終的には「息子にしたい社員ナンバー1」となった。
　これまたコメントを寄せる女子社員の年齢は関係なく、若い女子社員でも「篠田さん、息子になってくれないかなぁ」と呟く子が複数人いた。
　それっていうのは多分、篠田さんはカッコいいけど色気はないから、恋人にするにはちょっと物足りない。だけど凄く優しくて不器用ながらも真っ直ぐな人柄だから、息子として一生傍で見ていたい・・・・という風に変わっていったんだと思う。
　

　 ── ところが。

　また最近、篠田さんの雰囲気が変わってきたのだ。
　紆余曲折あって、ようやく正式に澤先生とお付き合いを初めてしばらく。
　写真週刊誌の騒動があった後、一ヶ月もした頃からだろうか。
　篠田さんの雰囲気がまたもや変わってきたのだ。
　きっかけは、先月の頭、仲良し四人組の一人・友梨が神妙な顔つきで給湯室にやってきたのだった。
「サト、話があるんだけど」
　給湯室は相変わらず『今日の篠田さん』ネタに話が咲いていたんだけど、友梨の表情の深刻さを感じ取って、私達は二人だけで休憩室に向かった。
　休憩室には総務課の課長が呑気にタバコを吸っていたんだけど、妙に深刻そうな雰囲気の私達に恐れをなしたのか、タバコをお終いまで吸わずにそそくさと出て行った。
「どうしたの？　友梨」
　私が周囲を見回して誰もいないことを確認した後そう切り出すと、友梨は勿体ぶった表情でこう言った。
「・・・私見ちゃったの」
「何を見たのよ」
「階段の踊り場で・・・」
「踊り場で？」
「篠田さんが腰を押さえてる図を」
　友梨が言わんとしていることがわからなくて、私はきょとんとした。
「篠田さんもそれなりの年だし、単なる腰痛じゃないの？」
　うちの営業は、配送の社員とともに重たいビールのケースを運ぶのなんてざらだし、それが原因で腰を痛めてるベテラン営業マンは結構多い。
「うちの営業の職業病でしょ」
　私がそう言うと、友梨はカッと目を見開いた。
「あれば絶対単なる腰痛なんかじゃないわよ！！！」
　突如友梨に怒鳴られて、腹にパンチを入れられた。
　うぐっ。
「なんでそう思うのよ」
　お腹をさすりさすり私がそう訊くと、友梨は「だって、だって・・・」と小さく呟いた後、握りこぶしをギュッと握りしめ、
「溜め息をつくその横顔が、物凄くセクシーだったのよ！！！」
　と叫んだ。
　私はその発言にぎょっとして、慌てて友梨の口を手で被い、周囲を見回した。
　よ、よかった・・・。誰もいない・・・。
「ちょ、ちょっと落ち着きなさいよ・・・」
　友梨の目を見ると、口を被われたままの友梨は目だけで「うんうん」と頷いた。
　私は自動販売機で紅茶を二つ買い、ひとつを友梨に渡して椅子に座った。友梨も隣に腰掛けてくる。
「ああ、こんなことなら、溜め息をついてる篠田さんをスマホで撮っておくんだった」
「あんたそりゃ、怒られるでしょ」
「でも、だって、凄く素敵だったんだもの～～～～～！！」
　友梨は四人の中でも取り分けメンズラブにどっぷり浸かってるようだから、そういうのには敏感なのかもしれない。
　この間久しぶりに家に遊びに行ったら、なんかいっぱい怪しげなマンガが増えてたし。
　結局友梨は、「篠田さんはきっとロストバージンしたに違いない」って断言してたけど、もしそうだとしてそんなに人って雰囲気が変わるものだろうかって、その時は思ってしまった。
　ところがそう言われてから、篠田さんを観察してみると、あながち友梨の言ってたことは間違いではないって思うようになってきた。
　篠田さんの印象は日によって違った。
　いつもと変わらないまるで少年のようなイメージの日もあれば、ある日は伏し目がちの視線や少し気怠い身体の動き方で妙に艶っぽく見える日もある。
　そしてそのうち、いつもと変わらない日でも、表情に華やかな男の色気がそこはかとなく漂わせるようになってきた。
　その頃になると他の女子社員達も感づき始め、「最近の篠田くんの艶っぽいさといったら」とまた篠田ブームが再燃した。
　皆は篠田さんが雑誌『キャラバン』の特集記事に写真付きで出始めた効果だと信じているようだったが、仲良し四人組の間では、もっぱら『篠田ロストバージン説』の方が有力になっていた。
　仕舞いには部長や課長連中の中にも、「最近のシノは何だか男っぷりが上がってきたな」と言い出す始末で、まさに男盛りもいいところ・・・といった風。
　あんまり周囲の人間が篠田さんを持ち上げるので、篠田さんと同期入社の川島さんが最近益々機嫌が悪い。
　篠田さんが雑誌の連載を担当するようになってから、篠田さんがそれまで担当として持っていた地方の造り酒屋廻りを川島さんが代わりに担当するようになっていたから、余計にそうなってしまったのかもしれない。
　篠田さんは、本当に親身になって造り酒屋の面倒をみていたのか、「篠田君でないと話ができない」と言われて帰ってくることもあって、川島さんにとってはストレスの多い日々が続いていた。
　そこは鈍感な篠田さんもわかっているみたいで、川島さんをフォローすべく、遅くまで残ってクレームが来た酒蔵に電話をかけて、相手をなだめるといったこともこのところ重なっていた。
　以前の川島さんは、荒っぽいながらも仕事を疎かにするようなことはなかったのだが、どうやら彼女と別れてから、時折外回りでサボっているような気配もあったので、今一番心配なのは川島さんの動向・・・と課長が言っていた。
　なんか、篠田さんと川島さんって、暗雲が綺麗に分かれたよね・・・。
　写真週刊誌にお金をもらって篠田さんの情報を流したりもしたから、女子社員の間でも川島さんに対する評価が下がってきてるんだよね・・・。

　「はい・・・はい・・・、そこはこちらでもちゃんと確認をしておきますから、ご安心ください。・・・そうですね、来月には暇を見つけて顔を見せに行く事にしますよ。女将のお漬け物ができる時期ですもんね・・・。もちろん、楽しみにしてますよ」
　最後の最後には笑って電話を切ることができるのだから、やっぱり篠田さんは凄いって思う。
「お疲れさまです」
　温かいお茶が入った湯のみを篠田さんの前に差し出すと、篠田さんは私の方を振り返って驚いたような表情を見せた。
「あれ？　田中さん、まだいたの？」
「友梨の会計監査の仕事を手伝ってたら、こんな時間に」
　篠田さんは、壁にかかっている時計を見た。
「もう10時だよ？　ご主人、大丈夫？」
「今日、うちの旦那は当直なんです」
「お医者さんだっけ？」
「医者は医者ですけど、生きた人相手の医者じゃないですね」
「ふぅん・・・。あ、座りなよ」
　篠田さんは隣の川島さんの椅子をひいて、そこを指し示した。
　私もそこに座って、お盆をデスクの上に奥と、自分の分のお茶を口に含んだ。
「あ～・・・。 ── もうすぐ、温かいお茶が美味しくなる季節がやってきますね」
「ホントだな。今でも、こうして淹れてもらったお茶は美味いけどね」
「お上手ですね」
　私がクスクス笑いながら言うと、「え？！　お、お世辞じゃないよ！」と慌てた様子で言った。
　 ── わかってますよ、篠田さんがお世辞を言わない人だってことは。
「篠田さんの方こそ、連日残業じゃないですか。タイムカード見てびっくりしました。大丈夫ですか？」
「ああ、うん・・・、まぁこれくらい・・・」
「でも、成澤さんも心配してるんじゃないですか？　帰りが遅いって」
　私がそう言うと、篠田さんは少し頬を赤らめた。
　 ── ああ・・・、こういう表情が人をムラムラさせちゃうんだろうなぁ・・・。
「千春はちゃんとわかってくれてるから大丈夫だよ」
　幸せそうな笑顔を浮かべて、篠田さんはそう言う。
　きっと二人はうまくいってるんだろう。
　ひょっとしたら雑誌報道の一件があってから、更に絆が深まったのかもしれない。
「また川島さんのフォローですか？」
　私がそう訊くと、篠田さんは表情を曇らせた。
「まぁ・・・、フォローというか何というか。元々俺の担当だしね」
「でも、今月に入って3件目ですよね？　川島さん、ちゃんと酒蔵廻ってるのかな？」
　多分、抜けがあることは篠田さんが一番わかってるはずだ。
　だから篠田さんは、私のつぶやきに答えなかった。
「柿谷は大丈夫ですか？　念のため、確認した方がいいんじゃ・・・」
「柿谷は大丈夫。この前携帯に直接奥さんから電話がかかってきたんだ」
「そうなんですか？　ま、そうですよね。柿谷ほどになると、篠田さんの携帯に直接かけた方が早いですものね。で、なんて？」
「跡取り息子さんがやっと仕事に前向きになってきたと喜んでた。きっと川島がちゃんとやってくれてるんだと思う」
　── へぇ、それは意外。
　ちゃんとするところはちゃんとしてるのか。
「よかったですね」
　私がそう言うと、篠田さんは爽やかな笑顔を浮かべた。
　充実した表情。
　きっと支えてくれてる人がいるから、篠田さんはこんなに頑張れるんだよね。
　スーパーから来たクレームの一件の時も、全力で頑張った篠田さんを支えていたのは澤先生・・・成澤さんだった。
　聞けば、スーパーの掃除を夜遅くまでしていた篠田さんを毎日迎えに来てくれて、毎日具を変えたお手製のおにぎりを作ってくれてたんだって。
　女の私でも、旦那にそうまでしてあげられるかどうか。
　あの一件では、どこからともなく篠田さんが問題のスーパーを終業後ボランティアでバックヤードの手伝いや駐車場の掃除をしていることが噂になって、自然発生的に社員の有志がそれに賛同するようになった。
　皆、篠田さんには言いにくかったから、篠田さんには隠して、社員同士が携帯で連絡を取り合い、その日によって行ける人員と店舗の調整なんかを行って、ボランティアに行った。
　そのお陰で、これまで余り縁の薄かった社員とも交流が始まり、結果的にあのトラブルは会社にとっていい効果をもたらした。
　でも、それもこれも全部、篠田さんと篠田さんを支える成澤さんのお陰なんだよね。
　この人達があの場面でめげずにひたむきに頑張ったから、会社の皆がそれに感動したんだ。
　社内には、篠田さんが同性と付き合うことに抵抗感を示す人もいたけど、それでも篠田さんの頑張りはちゃんと認めてくれている。　
　だから、写真週刊誌で発覚した後、社内に僅かばかりあった否定的な意見も、今ではすっかり収まった。
　私は、何だか思わず自分の頬が弛むのを感じながら、篠田さんに訊いた。
「ちゃんとお世話してもらってるんですか？」
　それを聞いた篠田さんは、テレくさそうに頭を掻いた。
「ああ。残業で遅く帰っても、ちゃんと夕食構えて待っていてくれるんだ。本当にありがたいよ」
　そのテレてる顔も、こうして間近で拝めるのは、同じ課の恩恵なのかもしれないわ。
「はぁ・・・。料理ができて遅くまで帰りを待ってくれてるだなんて、すっごいいい奥さんをお持ちですね。私もほしいくらい」
　私がそう言うと、てっきり篠田さんが笑ってくるかと思いきや、篠田さんは益々顔を赤らめてドギマギしていた。
　 ── 何だろ、この反応。
　私が怪訝そうに篠田さんを見ると、篠田さんは、「うん、そう！　そうなんだ、いい奥さん・・・なんだ」と慌てて答えた。
　なんか私、へんなこと言っちゃったかな？
「この後、友梨と夕食を食べに行こうと思ってたんですけど、篠田さんもどうです？」
　空気を誤摩化すように、私はそう言った。
　篠田さんは、申し訳なさそうに頭を下げた。
「いや・・・、千春がもう夕食を用意してくれてるから・・・」
「 ── そう言うことは、わかってました。わざと言ってみたんです」
　シシシと私が笑うと、「参るな」と言って篠田さんが肩をすくめた。
「篠田さんも、仕事はほどほどにして早くお家に帰ってあげてください。じゃ、お先に失礼します」
「お疲れさま。俺ももう帰ることにするよ」
　デスクの上の後片付けをする篠田さんを置いて、私は会社のエントランスで友梨と落ち合い、遅くまで営業している近くのイタリア料理店に向かった。
　お。珍しく遅い時間なのに、混んでる。
　席についてから注文の料理が出てくるまで時間がかかる間、やけくそな気分でワインを空けた。
　終電が微妙だけど、もうやけっぱちだ。
　結局友梨に、篠田さんのお惚気話を酒のつまみネタにしながら、遅い夕食を食べていたら。
　突然、私の携帯電話がけたたましく鳴った。
　周囲の人の視線を感じる。
「す、すみませ～ん・・・」
　周囲に謝りながら、携帯の画面を見た。
　ウソ。篠田さんからじゃない。
「篠田さんから電話だ」
　私がそう言うと、友梨のテンションが上がった。
「え～～～～！　うらやま～～～～！！　ちょっと、なんてなんて？」
　友梨は嬉しがっていたけど、私はなんか嫌な予感がした。
　だって、こんな時間に携帯を鳴らすような人じゃないから。
「私、忘れ物でもしたかなぁ～」
　なんて軽い口調で言ったのは、不安の裏返し。
　私は中座して店の外に出ると、電話に出た。
「はい、田中です」
『ああ、田中さん、ごめんね・・・』
　篠田さんの焦ってる声。
　ああ、なんかやっぱり悪いことが・・・。
『さっき課長に電話したんだけど、電源が切れてて・・・。手島さんにも繋がらないんだ』
「どうしました？」
『それが・・・。柿谷の酒蔵から、薫風がなくなった』
　それを聞いて、酔いは一気に覚めてしまった。
　薫風が、なくなっったって、どういうこと・・・？？？

　

here comes the sun 田中さんの憂鬱 end.

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