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nothing to lose title

act.49

<side-SHINO>

 食事の後、無事俺のカードで支払いを終えた後、今日は週末だから千春の仕事場でお泊まりしてもいいなと思いつつ、そちらの方に歩き初めて千春がついてこないことに気がついた。
「?」
 俺が振り返ると、レストランの入口の前で立ったままの千春がいた。
「どうした?」
 俺がそう訊くと、千春は少し微笑みを浮かべた。でもなんだかちょっと複雑そうな笑顔で。
 俺が再び千春のもとまで戻ると、千春は珍しく歯切れが悪く、
「あの・・・もしシノさんがいいって言ってくれたら・・・一緒に行きたいお店があるんですけど・・」
 と言う。
「一緒に? 飲み屋さん?」
 食事を終えたタイミングで言ってくるんだから、所謂『二次会』ってやつなんだろう。
「やっぱりさっきの店で飲み足りなかったんじゃないか?」
 俺がそう訊くと、千春は今度ははっきりとした苦笑を浮かべた。
「そういうんじゃないです。なんか・・・今日なら、行けそうな気がしたから」
 千春がそう言ったので、俺はきょとんとした。
  ── む。なんか事情あり、か?
「一人で行きにくい店なのか? 初めて行く店?」
「初めてじゃないんですけどね。むしろ・・・思い出がいろいろある店で。ちょっとしばらく行けずじまいになっていて・・・。でも宿題を残してるんですよね、その店に」
 千春は努めて軽くそう言っていたが、多分もっと深い事情がありそうだった。
 俺と一緒なら行けそうっていうのなら、躊躇うことはない。
「いいよ、行こう。どこ?」
「南青山です。 ── タクシー、捕まえましょう」
 千春はそう言いながら、通りに向かって手を挙げたのだった。

 
 スタイリッシュな外観の店が多い南青山の中で、そのショットバーは無骨な作りの老舗店といった風情だった。
 千春が昔よく通っていたというには、少々渋い店だなぁと俺は思った。
 ほら、俺はてっきり、また付き合い始める前に行ったみたいな騒がしいクラブを思い浮かべていたから、拍子抜けした。
 まぁ、南青山であんなクラブはないか。
 落ち着いている雰囲気のお店のようで、俺は内心ほっとした。
 だが、入口の艶やかな木の扉の前で固まった切り、千春は動かなくなってしまった。
「 ── 千春?」
 顔を覗き込むと、何だか凄く思いつめた顔をしていて、ドアノブにかけた手は少し震えていた。
「大丈夫か?」
「え? あ? はい」
 千春が微笑む。
 でも、笑顔が強ばっている。
  ── これ、全然大丈夫じゃないだろ。
「気分が悪いんなら、無理しない方がいいんじゃないか?」
 あまりに辛そうだったから、俺は思わずそう言った。
 千春はハハハと乾いた笑い声を上げると、首を横に振った。
「 ── 僕もまさかここまでトラウマになっているとは思ってなくて。情けないですね」
 トラウマ・・・なのか。
 俺はチラリと店のドアに再び目をやった。
 千春がそんな思いを抱く店があるだなんて、意外だった。
 でも、俺と一緒にならと来たのであれば、千春は今晩、トラウマを乗り越えようとしているってことで。
 千春が、俺を頼りにしてくれているんだと感じることができて、俺はジーンと感動してしまった。
 金銭的なことだけじゃなく、心も対等に支え合えるっていうのが俺の理想だったから。
 俺は、店のドアノブを硬く握りしめている千春の手にそっと手を添えた。
「シノさん」
 千春が俺を見る。俺はニッと笑って、「一緒なら、大丈夫」と千春の手越しにドアノブを捻った。
 千春もやっと表情を柔らかくして、共にドアを引いた。
 こじんまりとした店だった。
 飴色に光る一枚板のカウンターに、小さなボックス席が三つ。
 店主と思しきバーテンダーと若いバーテンダーがもう一人。
 店内は薄暗く落ち着いていて、珍しくBGMの類いは流れていない。
 カウンターの奥の席にカップルが一組と、ボックス席2つは年配の会社役員と思しき団体客で埋まっていた。
 うわー、物凄く大人な空間。
 居酒屋一辺倒の俺に取っては、こういう店あまり慣れてないから、ちょっと緊張する。
「いらっしゃいませ」
 二人の身体が店の中に入った途端、カウンターから声をかけられた。
 反射的にそちらに目をやると、年配のバーテンさんが驚いたような表情を浮かべ、千春を見ていた。
 一方千春はと言うと、少し照れくさそうに肩をすくめ、「またご無沙汰してしまいました」と返事をした。
 バーテンさんは驚いた顔がすぐに笑顔に変わり、再度千春に「いらっしゃいませ」と声をかけてくれた。
「カウンター、いいですか?」
「ええ。どうぞ」
 千春は、入口に近い端の席に腰をかけたので、俺はその隣に腰を降ろした。
 直ぐに冷たいおしぼりを手渡してくれる。
 火照った手に気持ちいい。
 千春が、バーテンさんを紹介してくれた。
「溝渕さん、こちら僕の友人の篠田さん。 ── シノさん、こちらオーナーの溝渕さん。僕がやんちゃしてた頃から、何かとお世話になったんです」
「お世話なんてそんな。私は何もしてないよ。ただ傍観していただけで」
「ただ見ていただけじゃないでしょ。見守っていてくれていたんですよね」
「へぇ、そうなんだ」
 俺が千春と溝渕さんを見比べると、溝渕さんは手際よくチャーム(おつまみ)の準備をしながら、苦笑いを浮かべた。
「成澤君からそう言われてたら、生きた心地がしないよ」
 へぇ、溝渕さん、千春のことを成澤君って呼んでる。
 千春の知り合いは、千春のことをペンネームで呼ぶ人の方が多いから、珍しい。
 ということは、それだけ親しいか、千春が作家デビューする前からの知り合い・・・ということだ。
「シノさん、溝渕さんはね。僕にお酒を出してくれたのは、これまでたった一回しかないんですよ」
「え?!」
 俺は心底驚いた。
 溝渕さんがハハハと笑う。
「それはだって、彼がまだ未成年だったからですよ」
 そんなに前からこんな店に来てたのか・・・。
 俺はまた別の意味で驚いて、千春と溝渕さんを見比べた。
 千春はニヤニヤしながら、
「あの頃、僕の身の回りでそんな風に僕を叱ってくれたのは溝渕さんだけでしたよ。他の店では、浴びるほど酒を飲んでましたからね、僕は」
 と言うと溝渕さんはテレ臭そうに「何にいたしましょうか?」と尋ねて来た。
 要するに、この話題はもう終わりということだ。
 千春は、ニヤニヤしながらも、大人しく溝渕さんの意図を受け取ったようだ。
「あ、僕はマッカランにしてください。年代は若めの方がいいかな」
「畏まりました」
「シノさんは、何にする?」
「えっ」
 俺は突然そう振られ、慌てて溝渕さんの背後にある棚に目をやった。
 蒸留酒からリキュール類まで理路整然と並べられ、美しくライティングされている。
 どの瓶のラベルもきちんと前を向いていて、気持ちがいい。
  ── あぁ・・・お酒が幸せそうだ・・・
「何か、気になる瓶がおありですか?」
 俺は随分長い間、棚を見つめていたらしい。
「あ、いや、お酒が幸せそうだと思って・・・・」
 思わずそう口走って、俺は顔を真っ赤にした。
 不意をつかれたとはいえ、お酒が幸せそうだなんて、頭がオカシイ人間じゃないかって思われたんじゃなかろうか。
 現に溝渕さんは拍子抜けしたような表情を浮かべている。
 横で千春もフフフと笑った。
「ああ、そう言えば葵さんがそんなことを言ったっけ。ホテルの部屋で、ミニボトルがキレイに並べられてるのを見て、シノさんがそんなことを言ったって」
「え? あ、ああ・・・」
 俺は、あの日のことを思い出して、益々顔が赤くなった。
 だってあの日は、俺が初めて千春を『そういう意味で』意識した日だ。
 そういう意味でっていうとかなり抽象的だが、はっきりいうには恥ずかし過ぎて、俺には無理だ。
「ああ・・・、そういうことか」
 ふといきなり目の前で、溝渕さんがそう呟いた。
「え?」
 俺と千春が同時に声をあげる。
 溝渕さんは、フフフとさっきの千春のように微笑みながら、
「成澤君を今の成澤君に変えたのは、篠田さんなんですね」
  ── ギクッ! な、ななな、なんでわかったんだ?! さっき俺が考えてたことが見えちゃったとか?! いやいやいや。そんな訳ないって、超能力者じゃあるまいし。そうだ、雑誌! 溝渕さん、きっとあの写真週刊誌、見てたんだよ、きっと・・・!!
 なんてことを物凄い勢いで考えながら目を白黒させていると、溝渕さんは恐縮した表情を浮かべた。
「いや、悪かったかな。困らせるつもりで言った訳ではなかったんだが・・・。大変失礼いたしました」
「大丈夫ですよ、溝渕さん。多分、溝渕さんの思ってることとは別のことで、この人は今グルグルしてるだけだと思いますから」
 千春が、お得意の冷めた口調でそう返す。
 俺は千春を見やった。
  ── グルグルって・・・! 本当のことだけど、酷くないか!
「溝渕さん、シノさんにはさっぱり目のカクテルを出してください。一日のアルコール摂取の許容量、間近のはずだから」
  ── う~ん、これまた当たってることだけど、これでは益々俺がダメ人間のようじゃないか・・・!!
 溝渕さんが、ふいに声を出して笑い始めた。
 それは珍しいことなのか、常連と思しき他のお客さんも「マスター、珍しいね。声出して笑ってるだなんて。そんなにおもしろいことあったの」と声をかけてきた。
 溝渕さんは、お客さんに「お騒がせして申し訳ありませんでした」と頭を下げつつも、朗らかな微笑みは絶やさなかった。
「篠田さん、あなたはどうやら素晴らしい人のようだ」
「え? 俺が、ですか?」
 俺は自分を指差して、思わず聞き返した。
 だって、俺がこの店に来てからしていることは、顔を真っ赤にしたり目をキョロキョロさせたり、棚を見てぼんやりふぬけた笑みを浮かべただけだ。
 それでどうして溝渕さんがそういう発想に辿り着くのかが、わからない!
 でもすっかり俺は置き去りで、千春がさり気なくカウンターの上の俺の右手に手を添えるとこう言った。
「そうなんです。この人は、僕にはもったいないぐらいの素晴らしい人なんです」


 結局、溝渕さんは俺にジン・リッキーを出してくれた。
 爽やかな口当たりででも少しライムの甘みを感じる美味いカクテルだった。
 俺はと言えば、まさか千春が外で俺達の関係がはっきりわかるような発言をしたことにまたもや驚いて、すっかり拍子抜けしてしまったようになってしまった。
 千春といえば、写真週刊誌で騒ぎになる前から・・・いやなった後も、外で俺達の関係がバレてしまうことをかなる警戒していた。それは俺に迷惑がかかるからって千春が思っているからに他ならないのだが、そんな千春が溝渕さんには素直にそんなことをほのめかしたので、本当に驚いた。
 でも・・・。溝渕さんと朗らかに話してる千春の横顔を見ていたら、なんかお酒の瓶達に負けず劣らず千春の幸せそうだったんで、ま、いっかなって思えて来て。
 俺は素直に、ジン・リッキーを味わうことにした。
 その夜は、お客さんの数もそこそこで、時間許す限り溝渕さんは俺達と話をしてくれた。
 俺が加寿宮の社員であることを知ると、溝渕さんは驚きながらも「加寿宮社長によろしくお伝えください」と言った。
 なんでも、溝渕さんが店を立ち上げる前にうちの社長と面識があったようで、溝渕さんは「その節はお世話になってね」と言っていた。
「本来なら、加寿宮さんから仕入れなければならないところだけれど、洋酒のほとんどは僕が海外で少量を直接買い付けてきているので・・・・」
 溝渕さんは申し訳なさそうにそう言った。
 確かに道理で、棚の中には酒類の卸をしている俺でも見たことのないラベルの蒸留酒が並んでいる。
 時には、ラベルすらないお酒も旅先で買ってくるとのことで、本物志向の常連さんが多くついていることが頷ける。
 気づけば、三時間まるまるあっという間に過ぎていて、閉店時間を少し過ぎていた。
 他のお客さんは全て帰ってしまって、雇われのバーテンさんがせわしなくグラスを洗っていた。
「すみません。こんなに遅くまで居座ってしまって」
 俺がそう言うと、溝渕さんは「いいえ、こちらも楽しませていただきましたから」と答えてくれた。
 そして帰る段階になって席から立ち上がった時、千春がフッと小さく息を吐いてから口を開いた。
「本当はね、溝渕さん。今日は謝るつもりで来てたんだ。前回のこと・・・」
 千春がそこまで言ったところで、溝渕さんは手のひらを前に突き出して、千春にみなまで言わせなかった。
「そんなことはとっくにわかっていましたよ。そんなことを言うのは、野暮ってものです」
「溝渕さん・・・」
「またこうして来てくれただけで、それだけでいいんですよ」
 千春は少し唇を噛み締めて、二、三回小さく頷いた。
「・・・ありがとう、溝渕さん。僕はこうして今度こそ真っ当に生きてるから、心配しないで」
「はい。もう心配はしません。またのお越しをお待ちしております」
 なんか事情はよくわからなかったけど。
 でも何だか感動的なやり取りだった。
 そして、これだけは分かったことがある。
 すっきりした顔つきで店を後にした千春は、今日また何か大きなハードルを乗り越えたんだ。

 

here comes the sun act.49 end.

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編集後記

先週はお休みしてすみませんでした(汗)。
風邪をひいてしまいました。なんてことはない風邪のくせに、発熱してしまって、久々に会社を病欠してしまったぞ~い。
最初は季節外れのインフルエンザかいな・・・とも思ったのですが、ただの風邪でした(大汗)。

今週はといえば、またあまりストーリー的には進まないお話だったんですが、シノさんが仕事の難関を乗り越えたのと同じように千春にも乗り越えてほしいという思いがありましたので、溝渕さんのバーに行ってもらいました。
溝渕さんのバーは、他の話にもほぼレギュラーの勢いでよく出てくるお店なのですが、ヒヤマイの前作オルラブでは、千春が元彼と遭遇したお店でもあります。
千春が捨て台詞を吐いて出て行った後、店の中はおそらく修羅場になった訳で、それを思うと、溝渕さん、大変だったろうなぁ・・・(遠い目)。
思えば溝渕さんは、『nothing~』で羽柴君が真一の病のことを知って男泣きした時も側にいてくれました・・・。
溝渕さんって、イレギュラー・エーオーの生き字引ってやつだよね!

来週は、馬力があれば、大人シーンになるかもな・・・。
だってシノさん、問題解決後、久々にゆっくりできる週末だもんな・・・。

ではでは、また来週・・・。

[国沢]

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