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nothing to lose title

act.64

<side-CHIHARU>

 「小説書くのを辞めるって、本当か?」
 コートを着たままのシノさんは、開口一番にそう言った。
 僕は内心、ドキリとする。
 だってシノさんの声の色は、本気で怒っていたから。
 というか、なんでシノさんがそのことを知ってるんだ?
 僕が作家を辞める話をしたのはついこの夕方の頃。
 そこにいたのは、岡崎さんと流潮社の運転手2人だけ。
  ── てことは。
 僕はシノさんから手を離した。
「・・・誰からそのことを聞いたの? 岡崎さん?」
 シノさんが振り返る。
 その顔つきを見る限り、僕の言ったことは正解のようだ。
 僕は岡崎さんに対して、一気に不信感が沸き上がった。
 まさかこんなにすぐ、しかもよりにもよってシノさんに話してしまうなんて。
「ちょっと酷いな、岡崎さん・・・」
 僕は思わず苦笑を浮かべる。
 それをまたシノさんに責められた。
「岡崎さんは千春のことを心配して、会社まで来てくれたんだ」
「え? 彼女、直接シノさんに会ってまで話したんですか?」
 それには驚いた。
 だからシノさんの帰りがここまで遅くなったのだ。
「それだけ、真剣に悩んでいるってことだ。岡崎さんは、千春の才能を凄く評価している証拠だよ。だから・・・」
「シノさんに泣きついたって訳?」
 僕はハッと短い息を吐いた。
「僕にとっては卑怯な手だと感じますね。だって、僕に取って唯一の泣き所だもの」
「千春・・・」
 僕は両肩を竦めた。
「岡崎さんがどれだけ僕を評価してくれているのか知りませんけど。それは過去の僕に対する評価ですよ。この世の中を斜に構えてみていた小生意気な若造だった僕をね」
 僕はシノさんの視線を避けるように、ダイニングに向かった。
 シノさんが後を追いかけてくる。
 いつもの席に座る僕の前に、シノさんはコートを着たまま座った。
 僕は側のボットから急須にお湯を注ぐと、自分の湯のみを取ってお茶を煎れた。
 目だけでシノさんを見ると、シノさんは首を横に振る。その目は真摯な光をたたえていた。痛い程、真っ直ぐな。
 僕は熱いお茶を口に含むと、ごくりのと飲み干して大きく息を吐き出した。
「僕がもう前の僕とは違うってことは、シノさんが一番知っているじゃないですか。そうでしょ?」
 シノさんは頷く。
「作家ていうのは、本来なら『書かねばならぬ』という強い思いがないといい作品は書けないものなんです。 ── まぁ、そんな言葉を昔は茶化していた僕が言うべきことではないですがね。でも、僕が文壇にデビューした時に書いたものは、少なくとも僕に取っては書かねば・・・僕の心は生きてはいけなかった。吹越さんとのことを消化するために必要だった。でも、今の僕には『書かねばならぬ』ものが見いだせないんです。それよりは、あなたとの生活に全力を注ぎたい。 ── そう思うことは罪ですか?」
 またもシノさんは首を横に振った。
 ふいにシノさんも湯のみを掴むと、自分でお茶を煎れて飲もうとした。
 けれど猫舌のシノさんは、口元まで湯のみを持って行って熱い湯気を感じると、バツの悪そうな顔つきをして湯のみを置いた。
 その仕草を見ていて、こんな状況の中でも「可愛いなぁ」と思ってしまう。
 不器用で、でも真っ直ぐな目をした、愛しい人。
「罪なんかじゃない。今俺が仕事を頑張れてるのも、千春が支えてくれてるお陰だから」
「じゃぁ・・・」
 でもシノさんは首を横に振った。
「それでも、ダメだって俺は思うんだ。千春は書くことを辞めちゃダメだって。例え、千春が忙しくなって俺のために裂いてくれる時間が少なくなっても、それでもいいって俺は思うんだ」
 シノさんにそう言われ、僕は言い知れぬ黒い感情が腹の底から沸き上がってきた。
 絶対に言いたくない・・・でも思わず考えなしに口をついて出た言葉。
「お金ですか? 僕が書いた方がお金が入ってくるからですか?」
 そう言った直後に、僕はすぐに嫌な気分になった。 ── 自分自身に。
 シノさんがそんな人じゃないってことを一番知っているのは自分なのに、なんて酷いことを口にしてしまったのか。
 やはり僕は、魂の底から腐っている。
 そう痛感して、僕はシノさんから視線を外すと、右手の親指の爪を噛んだ。
 鼻の奥がツンとなったけれど、ここで泣く訳にはいかない。それこそ、最低だ。
 またあの「消えてしまいたい衝動」が襲ってくる。
 その不安定に身体が浮くような感覚を覚えた時、僕の右手をシノさんがそっと握った。
  ──ハッとする。
 地上に引っぱり戻されたような感覚。
「ごめん、千春。そんなこと言わせてしまうなんて、ごめん」
「シノさん・・・? なんでシノさんが謝るんですか? 酷いこと言ったの、僕でしょ?」
 ああダメだ。僕の声はもう湿ってる。
 シノさんはまた首を横に振る。
 シノさんは立ち上がると僕の身体を引き寄せ、抱きしめた。
「そう言わせたのは俺だ。千春にそう思われたって仕方ない。現に俺の稼ぎなんてたかが知れてるから」
 僕はシノさんから身体を離し、シノさんの両肩を掴んだ。
「僕は、そんなこと思ってない! シノさんの稼いできたお金は何より尊いって僕は思ってます。だからそんなこと言わないで・・・」
「千春・・・」
 僕はシノさんの肩を掴んだまま、俯いた。
 ボタボタと涙が床に落ちる。
 ああなんて僕は、こんなに涙もろくなったのか。
「もう嫌だ・・・。こんな言い合い、したくない。したくない!」
 僕の声は酷くヒステリックなものだった。
 付き合う前、シノさんを押し倒して傷つけようとした時のような。
 このまま前の僕に戻ってしまうような恐怖感があった。
 だが。
 逃げようとする僕の身体をシノさんが更に強く抱きしめた。
 まるで子どもを危険から守る父親のような抱きしめ方で。
「大丈夫だよ、千春・・・。大丈夫・・・」
 優しく頭の後ろを撫でられ、僕は膝を折った。シノさんも両膝をつく。
 僕の完全に上がった呼吸が次第に落ち着いてくる。
 シノさんの長い腕、温かい懐。そこにいるだけで安心できる・・・。
 そして僕の中の嵐が去った。
「落ち着いた?」
 シノさんにそう訊かれ、僕は小さく頷く。
 シノさんは僕の額に優しくキスを落とすと、「これでお互い、金のことは問題にしてないってことがわかってよかった」と僕に言い聞かせるように言った。「そうだよな?」と確かめられて、僕はウンと頷く。
「俺は千春のことが好きだ。大好きだ。千春だって、俺のこと好きだろ? 好きでいてくれてるだろ?」
 囁くように言われ、また僕は頷いた。
「だからこそ俺は、千春に言うんだ。千春が考えていることと違うことだとわかっていても、それでも千春が好きでいてくれる自信があるから、俺は言う。千春に書くことを辞めてほしくないって」
  ── ああ・・・と僕の全身から力が抜けた。
 こういう時に考えることじゃないかもしれないけれど、やっぱりシノさんは人の心を動かすことにかけては、天下一品なんだ。というか、最強なんだ。
 あんなに捻くれていた僕を改心させたのも、柿谷酒造が昔からの伝統を覆して新しい酒を生み出したことも、スーパーとの取引問題でシノさんの会社の皆がシノさんと同じような行動を起こしたのも、シノさんが『そういう人』だからなんだ。
「だから約束してほしい。俺を理由にして作家を辞めるだなんて言わないでくれ」
 シノさんにそう言われ、僕は頼りなく顔を歪めた。
「でもシノさん・・・、本当に僕・・・シノさんいると幸せ過ぎて、何にも見えないんだよ? そんな僕に一体何が書けるというのか・・・」
 シノさんに両肩を強く捕まれる。 
「幸せだからこそ、見えるものがきっとある。今まで気づいていなかったことが大切に思えてくることがきっとある。岡崎さんはそれを期待しているんだ。俺も、期待してる。無理して書きたいことを探す必要はないけど、探すことを諦めないでほしい。 ── 俺も、幸せな千春が書く世界を読んでみたいんだ」
 シノさんにそうまで言われ、僕が拒めるものか。
 僕が頷くのを見ると、シノさんはにっこり笑って、僕の頭をポンポンと叩いた。
 なんだか、子ども扱いされてるみたいでしゃくに障るじゃないか。  
 僕はスンと鼻を鳴らし、口を尖らせた。
「もう。ご飯すっかり冷めちゃったじゃないか」
 シノさんの笑顔が、そのままで凍り付く。
「え? あ! ごめん!!」
 突然シノさんは、いつもの天然ボケキャラ全開の表情になってテーブルの上を仰ぎ見た。
「一応温め直すけど。エビマヨが堅くなってても文句言わないでくださいよ」
 僕が口を尖らせたまま立ち上がると、シノさんはすっかり青ざめた表情で、「ごめん! ホンットにごめん!!」と平謝りしている。
 僕はブスッとした顔つきでシノさんを振り返ると、「ま、お茶は丁度飲み頃になっていいんじゃないですか」と言ってやったのだった。

 

here comes the sun act.64 end.

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編集後記

少ししか書けなくてすみません(汗)。
年賀状の作成に、甥っ子の襲来といろいろある中での更新でございます。

まぁそのぉ・・・なんというかかんというか。
結局のところ、アマアマで砂糖ザリザリっていうことですわ(笑)。
ケンカなのか、ケンカじゃないのか(笑)。
書いていて、こっちが恥ずかしくなってきました。
だってこうなっちゃうんだもの。

ということで、一応仲直りして(?)本年終了でございます。

今年一年、お世話になりました。
来年、皆様に取りまして幸多い一年になりますように。
よいお年を!

[国沢]

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