act.53
<side-CHIHARU>
それからしばらくは、穏やかな日々が続いた。
穏やかとはいっても、シノさんは新しく担当になった仕事 ── それは僕が人脈を使って始まったものだけど・・・で忙しく、残業をして帰ってくることも多かった。
シノさんの担当した雑誌『キャラバン』の日本酒連載記事も好調のようで、岡崎さんから聞き及ぶ『キャラバン』の編集長もシノさんの誠実な仕事ぶりと、小さいながらも毎回写真付きで登場するシノさんの人気が上がってきて、そのせいかどうかはわからないが、発行部数が少しづつ伸びてきているらしい。
『キャラバン』はどちらかといえばオジサマ嗜好の雑誌だったから、正直僕もその反応は意外だった。しかしキャラバン編集部にはシノさん宛のファンレターも届いているらしい。シノさんの様子を見ると、それはまだシノさんには渡されてないようだけど。
岡崎さんは、「こんなことなら、うちの雑誌でやってもらうんだった」と口を尖らせていた。ま、でも流潮社には、中高年をターゲットにした雑誌なんて廃刊になってるから、それは成立しない話だけど。
僕は内心、密かなシノさん人気にチリリとした嫉妬心を覚えつつ、努めてそれは出さないまま、シノさんの為にご飯を作った。
長い地方公演を終えて戻ってきた葵さんには、「相変わらず甲斐甲斐しく奥様してるのねぇ」と言われたけれど、今僕がシノさんにしてあげられることはこれぐらいだから、全然苦にはならない。
先日会った葵さんには、僕がとうとう思いを成し遂げたことについて、すぐに見抜かれた。
呼び出されたカフェで顔を見るなり、「ちょっと! ついに・・・」ってニヤリと笑われた。
女とは怖い生き物だ。
どこで何を見てそう言い当てるのかはわからないが、葵さんは僕が返答する前に「そうかそうか。よかったわね」と断定した上で、話を始めた。
僕、そんなに顔、普段からニヤケてるのかな?!
だとしたら大問題なんだけれど、そのことを訊くと葵さんは、「誰にでもわかる訳じゃないわよ。ただ、顔色すごくいいし、ちょっとまた雰囲気変わってたから」と言われた。
う~ん、僕は以前、そんなに顔色悪かったのか・・・。
実はあの夜以来から葵さんに会うまで、既に僕は幾度かシノさんと抱く側のセックスができていた訳で、その点で少し以前のタチに拘っていた頃の自分に戻ったのではないかと思った。葵さんの指摘した『雰囲気』というのは、そういうことなのかも・・・。
しかしそのことを訊くと、葵さんは「あら、自分のことになるとわからないモノなのね。そういうことじゃないわよ」と言われた。
「じゃ、どういうこと?」
気になって僕は訊いたが、葵さんはニヤニヤするだけで、「人に言われて理解するようじゃ、ダメなんじゃない?」と言われて、最後まではぐらかされた。
── う~ん、つくづく女とは怖い生き物だ・・・。
その日、取り立てて小説を書くこともしていない暇な僕は、一人で物件巡りをすることにした。
シノさんと一緒に住む家探しである。
シノさんは休みを返上して働いたりしていたので時間がなく、物件のことについては全て僕に任せるとのことだった。
これっていわゆる結婚式の準備を花嫁に全て任せるってパターンでケンカの種にもなるんだろうけど、シノさんの忙しさは知っていたし、僕は何せ男だから「なんでも一緒じゃなきゃダメ」っていうつもりはなかった。そこら辺はやっぱり僕は冷めてるのかな。
新築のマンションから一軒家、売地までいろいろ見たけど、やはりシノさんの家の周辺がやはりいいなぁと思ってしまう。
けれど、シノさんの住んでいる地区は古い住宅が多く、空き家は少ない。
空いているのは中古マンションの部屋がほとんどで、その中でセキュリティーがしっかりしているマンションということになると、自ずと物件はしぼられていった。
不動産屋に紹介されたのは、シノさんのマンションから数ブロックだけ離れた15階建ての中古マンションの一室だった。
古いマンションにありがちな細かく部屋が区切られている間取りで、お世辞にも住みやすそうには思えない。
角部屋っていうのはいいんだけど、小部屋が多くて部屋が見渡せない分イメージ暗いよね・・・。
「もちろん、ご購入いただく前には、ある程度リフォームさせていただきます」
「リフォームって、壁紙とかフローリングの張り替えとかですか?」
僕はトイレを覗き込みながら訊いた。
「ええ、そうです。お望みなら水回りのものもお取り替えは可能ですよ。でもまだ使えますしねぇ・・・」
どうやら不動産屋のオジさんは、僕が何者か知らないらしい。
若いくせにマンションを購入するとは、随分背伸びしたものだと思っているような節があった。
まぁ、金がある若造はそもそもまず中古マンションを買うって発想にはならないだろうしね。
オジさんに取って僕は、摩訶不思議な客なんだろう。
「失礼ですけど、今日はお仕事は・・・」
そう訊かれたんで、僕はオジさんを見た。
オジさんは、探るように僕を見ている。
きっと「こいつ、ローン組める仕事してるのかな・・・?」とは思っているんだろう。フリーターにおいそれとローンは組ませられないものね。
僕は少し意地悪い気分になった。
値踏みしている彼の態度にちょっと引っかかってしまった。
日頃、シノさんのような人と触れ合っていると、人をはなから自分の色眼鏡で見ながら態度を変える人に接すると、何だか嫌な気分になる。少し前シノさんが経験したスーパーチェーン店でのトラブルの顛末を聞いたから、余計にそう思うのかもしれない。
「今日は仕事は入ってないんですよ。割と時間に融通が利く職業でして」
「はぁ・・・」
オジさんの目が、「それで?」と訊いている。
僕はニコッと笑うと、わざとはぐらかすように「つまりは、自営業なんです。個人事業所ってヤツですね」と答えた。
「個人事業所。それはまた大変ですなぁ・・・。何かのデザイナーさんとかですかね?」
「デザインはしてないですね・・・」
「違う。・・・まさか建築士とか何かの設計士とかをされてるってことは・・・」
「ないですね」
「ですねよぇ・・・。じゃぁ、個人でされてるお仕事っていうのは・・・」
「ライターですね。文章書いて、お金貰ってます」
僕は、気にない返事を返しながら、風呂場のドアを開けた。
う~ん・・・、狭い。
これじゃシノさんのアパートの風呂場と大差ないじゃないか。
これでは、二人で仲良くお風呂場でエッチ・・・なんてことは夢のまた夢になってしまう。
「あ、コピーライターさんですか! なるほど!」
コピーライターじゃなくて小説家だけど・・・。ま、いっか。
「今の出版業界はなかなか厳しいってお話を、うちの担当の出版社もよく言ってますよ。大変ですねぇ・・・。なんでしたら、この階より下の階にも空いてるお部屋はありますから、遠慮なく言ってくださいね。それに、管理人がいないマンションなら、もっとリーズナブルですよ」
僕は振り返った。
オジさんは親切心で言ってくれたらしい。ニコニコ笑っている。
僕ってそんなに貧乏そうに見えるのか、はたまた信頼性にかけるのか。
場所はいいけど、間取りと担当がなぁ・・・。
僕はそんなことを思いながら、ベランダに面している掃出し窓を開けた。
東側の角部屋なので、東から北面にかけてベランダが繋がっている。
本当は南側にベランダが続くんだろうが、このマンションは周囲に接する道路の関係かマンションの入口と廊下部分が南側に面していて、このような造りになっているらしい。
東側は近くに建つ大きなビルで視界が阻まれていたので、何となく北側のベランダに回って、思わず僕は息を吐いた。
「へぇ・・・」
眼下には、古いが比較的大きな家の庭が広がっており、大きな木が何本も生い茂っていた。
最上階だったので、遠くには隅田川が見える。
その手前には小学校。川の向こうには聖路加国際病院の大きなビルが2つ。
マンションの入口からは見えなかった風景だ。マンションの裏がこうなっているとは気づかなかった。
僕が以前住んでいた部屋は三階でしかも南向きの部屋だったから、こんな風景は見えなかった。
ふぅん・・・これはいいね・・・。
ベランダに出る。
何だか不意に祖母のことを思い出した。
思えば今見える世界の中で僕は祖母に育てられたんだ。
「いい風景でしょう? だからここは、北側にリビングが面しているくせに高いんですよ。オーナーさんも結構強気なおバァちゃんだから、金銭的な交渉はなかなか応じてもらえませんしねぇ。風景に拘らなかったら、もっと買いやすい南向きの物件、いくつもありますよ」
この人、本当にマンション売る気あるのかな(苦笑)。
僕はベランダから周囲を見回した。
ん? ひょっとして隣の部屋も空いてるのかな?
「何なら、もっとオススメの物件、紹介しましょうか?」
「あの、隣も空いてるんですか?」
「はい?」
「隣、なんか人が住んでる気配がないですけど」
振り返って隣を指で指し示すと、オジさんは「ああ」と頷いた。
「ええ、空いてますよ。確かに隣の部屋の方が少しお安いです。角部屋じゃないんでね」
「では、お隣とこの部屋、一気に購入してひとつの部屋に繋げて、全体的にリノベーションすることは可能ですか?」
僕がそう言うと、オジさんはしばらく口をパクパクさせ、苦笑いを浮かべた。
「いや、それは買ってもらえば可能だと思いますけど・・・。二部屋買うからって、値段は下がりませんよ・・・。ローン組むにしても、かなりの金額に・・・」
「ローンは組みません」
「へ?」
「現金で買います。 ── 一括で」
その一言でオジさんは、余計なことを何も言わなくなった。
「千春、そんなこと担当さんに言ったのか?」
シノさんは味噌汁を吹き出しかけながら、そう言った。
「担当さん、きょとんとしてたんじゃないの?」
シノさんは笑いながらそう続ける。苦笑いだ。
既に僕は食べ終わっていたので、食器をまとめた後にテーブルの上に頬杖をついて、溜め息をついた。
「確かにきょとんとしてたけど。もっときょとんとしてたのは、事務所に帰ってから担当者を替えてほしいって言った時」
「えぇ~?! そんなことも言ったのか?」
「うん。だって、人を見た目で判断するのが許せなくて・・・」
「千春、容赦ないな」
シノさんが再び味噌汁を啜りながらそう言う。僕はプッと口を尖らせた。
「ある時から、人を己の愚かな物差しだけで判断する人は全て、僕の敵になったんですよ」
僕が目を瞑りながらそう言うと、不意にシノさんの動きが止まった。
「?」
僕がシノさんの気配が動かなくなったことを不審に思って視線を戻すと、シノさんが笑顔とも泣き顔とも取れるような複雑な表情を浮かべ、僕をじっと見つめていた。
僕の視線がシノさんに戻ったことに彼は気がつく。しかしシノさんは、それ以上何も言わず、ただ無言でうんうんと小さく頷いたのだった。
シノさん・・・、好きだよ、こんなにも。
僕は小さく微笑んで、シノさんの手を握った。
シノさんも握り返してくれる。
もう少しでキスを・・・というところで、シノさんのスマホが鳴った。
「あ、柿谷の奥さんからだ」
── う~ん、惜しい・・・。
「あ、はい。篠田です。ご無沙汰してます。川島のヤツはどうですか? ちゃんと仕事、できてますかね・・・」
電話に出た途端、仕事モードの顔つきになる。
ま、そういうシノさんも好きだけどさ。
そう思っていたら、突如シノさんが立ち上がった。
「え?! 倉庫に在庫してた薫風が全部なくなってる・・・?!!」
シノさんの顔色が一気に青ざめたのだった。
here comes the sun act.53 end.
NEXT | NOVEL MENU | webclap |
編集後記
今週こんな終わり方をしていてなんですが(大汗)。
次週、休日出勤確実なので、お休み確定です(滝汗)。
申し訳ございません!!
季節は一気に夏めいちゃって、早くも国沢バテ気味です・・・。
セミがうるさいのなんの・・・。
最近セミって、夜遅くまで鳴いてません? 11時頃とか余裕で。
子どもの頃から思ってました。
セミって唐揚げにしてもおいしくないのかな~って。
今思えば、変な子どもでした。
[国沢]
小説等についての感想は、本編最後にあるWEB拍手ボタンからもどうぞ!